28 どうか、泣かないで
シャルロットは浴室から出るに出られないでいた。何か揉めているような声はする。
然し、頭を洗っている最中で物理的に出られないのだ。
目を開ければシャンプーの泡が入りそうである。外の様子が気にはなるが、洗髪に専念する事にした。
先程ジェイドに強く握られた手首は、多少赤いがもう痛くはない。
シャルロットの怒りも、もうとっくに収まった。
ジェイドが何を怒っているのかは知らないが、何も言われずにあのような扱いをされる筋合いはない。
自分に対して何かしら怒っているというのならその理由を教えて欲しいし、違うというのなら八つ当たりなのだろう。家の者がどうにも嫌いなのは態度を見ていれば分かるから、可能性は無きにしも非ずである。
──最初はシャルロットもそう思ってはいた。
然し人には言い難い事もあるだろうし、憤りなど特に制御の難しい感情だろうと思い直し、自分自身の怒りを鎮めることに成功したのだ。
元々彼は案外怒りっぽい所もあるではないか。
今回、自分に対して少し乱暴な態度を取ったからって、今まではシャルロットの方が無意識とはいえ彼に対して暴力的な対応を取ってしまった事も一度や二度ではないのだから、今更という所もある。
それに、自然公園で力を制御出来なかった時はしっかりと助けてくれた。
それは彼の中ではオリクトに纏わる借りを返しただけに過ぎないのかもしれないけれど、シャルロットの方がジェイドに対しての借りは沢山ある。
間近で魔法を学ばせてくれている事。
初めて会った時に、ヘルハウンド達から助けてくれた事。
ベリオスの派遣員が気付かなかったシャルロットの魔力に、気付いてくれた事。
強引だったけれど、弟子入りを許してくれた事。
一つ一つ、返していけるかが不安だ。
何一つ期待はされていないとは思う。
けれどなるべくなら魔女になるまでの間だけでも、ジェイドの意に添う形で出来る事なら何でも手伝いたい。恩を返したい。
少女は強くそう願っていた。
アイスフォーゲル家の浴室は、普段は大人数で入る事もあるのかもしれない。
大理石で組まれた浴槽はかなり広い。オリクトを組み込まれたそれは、湛えた水量も湯温も申し分ない。
洗い場の広さも相当なものであるが、こんな広さの浴室を独り貸し切り状態で使わせてもらえている事が、少しだけ申し訳なくも思う。
シャンプーには農場で育てた花が使われているのか、心落ち着くようないい香りがふわりと鼻腔を擽る。
しっかりと頭も身体も洗い終わると浴槽に浸かり、湯の温かさを楽しむ。外にジェイドを待たせているので、シャルロットも長々と入浴を楽しむつもりはない。
軽く温まるとすぐに上がり、湯煙の中に年齢と顔立ちに不相応なプロポーションを持つ肢体を晒すのだった。
脱衣場に夫人が用意してくれていたのだろう、「どうぞ使ってね」とメッセージカードの添えられた寝間着を手に取る。
「…………」
恐らく、イザベラの物だろう。
ロング丈のネグリジェは薄紫色。
肌触りの良いそれを一応着てはみたものの、フリルがふんだんにあしらわれた胸元は大きく開いていて、胸の大きなシャルロットだとやけに扇情的な雰囲気を醸し出す。
然も着てみてから気付いたが、右側に大きなスリットが入っていて太股を大胆に晒す羽目となった。
「……よし」
ちょっと恥ずかしいが、郷に入れば郷に従え。サエスの女性はこのような寝間着を身に付けるものなのだろう。
折角用意してもらったものなのだから着なければ失礼な気がして、シャルロットはこのまま浴室を後にする決意をした。
自分の着てきたいつもの服を小脇に抱えてシャルロットは扉を開ける。
「先生、お待たせ致しまし…………、……」
そうっと扉を開けると、すぐ横にジェイドが枯葉の中座り込んで俯いているのが見えた。
シャルロットに声を掛けられ漸く気付いたのか、彼は目元を服の袖で擦った後に顔を上げる。
「……ああ、お帰り。早かったな」
目元が赤い。
シャルロットは疲れ切ったかのように笑うジェイドを見てしまうと、先程の小さな暴力の事に関しても今の枯葉だらけの廊下の現状に対しても、何も言えなくなる。
何も言えない、言わないままで何事もなかったかのように笑う。それは、シャルロットの優しさ。
「いいお湯でございました。先生もお入りになられるのでしたら、私ここで待ってますけれど」
ジェイドはそれを聞いて少し迷う。
先程の会話から察するに、暫くしたらここにルーネとディビッドが戻って来るのだと思う。
その時、ここにシャルロットが──よく見るとこんな派手な客引きのような格好で──佇んでいるとなると、ディビッドはやはり何かしら反応するだろうというのは想像に容易だ。
だからどうした。
もう、良いのではないか。
こんな無価値なシュルクと共にいても、きっと彼女は楽しくない。
魔力はあるのだ。それを使えるようにしてやるのは、きっと自分の仕事じゃないのかも知れない。
ジェイドは自分自身を納得させる為の言い訳を胸の中で沢山生み出して、
「じゃあ、俺も入ってくるよ」
偽物の笑顔を浮かべて、浴室の扉を閉めた。
結局あの後廊下に戻って来たのはルーネとディビッドではなく、幼い弟達であった。
「用があるから掃除を代わって欲しい」と、ルーネから頼まれたのだという。
シャルロットがジェイドを待つ間、彼女の佇む足元を少年達は掃除をしていった。少女は己の露出度の高いネグリジェ姿を少し恥じ頬を染めるが、少年達は慣れているのか全く気にしていない様子であった。
そんな子供達の姿を見てシャルロットは、わざわざ意識して恥じる己をまた恥じたものだ。
用意されていた寝間着姿に着替えて風呂から上がりその話を聞いたジェイドは、恐らく用があるだなんて嘘だなと感じていた。
ルーネに気を使われたのだろう。
それが有難いやら情けないやら。
折角シャルロットとさよならをする決意をしたのに、拍子抜けである。
風呂から上がればシャルロットはもういなくなっていると思っていたものだから、どんな顔をしていいのか分からないままでジェイドは少女を連れて部屋へと戻った。
「お休み」
「……はい、お休みなさい」
ベッドの上で二人、背中合わせ。
ジェイドは椅子で寝ようとしたのだが、だったら自分は床で寝るなどと訳の分からない事を抜かし始めたシャルロットと相談した結果の折半案だ。
シャルロットとしては、師はいつもきちんと寝れていないのだから寝られる時には寝て欲しいという、心配から来る願いだったのだが。
「そうだ、……シャルロット」
「はい?」
目を閉じようとしていた所で声を掛けられ、シャルロットは再び目を開ける。
「……明日にはここを出るから」
師は今、どんな顔をしているのだろう。
きっと彼にとって、今回の帰省はとても辛いものであったのだろう。
何も知らないシャルロットは、ジェイドの母だという者に興味を抱き──師の事をもっと知りたいが為に、イザベラの誘いに乗ってしまった。
そしてそれは、失敗だったのだ。
振り向いて彼の顔を確認する事なんて勿論出来ない。けれど、確認しなくてもどんな表情をしているかくらい何となく分かる。
風呂上がりに見た横顔を思い出す。
そんな顔を、させたかった訳じゃない。
「…………はい」
会話は、それだけ。
それだけで部屋は静まり返る。
ジェイドは言葉の続きを言えないでいた。
「ついてくるかどうかは、君次第だ」……なんて、どの口が偉そうに言えるのだ。自分自身がどうしたいのか、自分が一番良く分からない。
自分の事も分からないのだからシャルロット自身がどうしたいかなんて、もっと分かる筈もない。
けれどジェイドはこれ以上余計な感情を抱かないようにと、自分への失望の気持ちが癒えないままに瞼を閉じる。
普段から睡眠時間は足りていない為、柔らかな毛布に包まれてしまえば微睡むのはあっという間で、馬鹿馬鹿しくなる程に呆気ないものであった。
眠れないのはシャルロットの方だ。
何だか、妙に緊張する。彼の実家だからだろうか。
ベッドを初めて共にしたあの日は、ヘルハウンドから逃げ惑っていた為に流石に体力──今思えば、あれは魔力だったのだろう──がかなり削れていた為に、疲れてしまってすぐに眠りに落ちた。
然し、今日は特に疲れるような事もしていない為に睡魔が訪れないのだ。
そうすると妙に意識してしまう。
隣に眠るジェイドの呼吸音だとか、
体温だとか。
ベッドに流れる、軽く纏められた黒髪だとか。
そんなものを気にしていては、眠れなくなるばかりだ。
シャルロットは視線をほんの僅かに動かして、室内を見渡す事にした。
窓はほんの少しだけ開けられ、心地好い秋の風がレースのカーテンを揺らして室内へと柔らかく吹き込む。
耳に優しい虫の声と木々のさざめき。月明かりが少しだけ射し込む部屋の中、テーブルの上には灯りの消えたランプに二人分の衣類。
ジェイドと出会ってから、彼は毎夜宿に泊まる時にはシャルロットの衣類も纏めて洗濯をしてくれる。
水の魔法で巨大な水球を作りその中に服と宿屋に借りた洗剤を放り込み、渦潮の如き水流の動きを作って洗うという荒業だ。
その後、濯ぎの為に新たに作った水球の中に衣類を移す。そして軽く絞ってから炎と風の魔法で一気に乾かすのだ。
下着類は流石にシャルロット自身が洗うが、普段身に付けている服を洗ってもらえるのは心の底から有難く思う。
ジェイドにとってはついでの事らしいが、彼と出逢う以前の一年間は苦労したものだった。
何せ宿屋で洗濯する事は出来るのだが、一日で乾かなければその翌日はどこにも行けなくなる。食材やもう一日分の宿代などの金を貯め込み、宿屋に一日篭城する気持ちで挑まなければなかなか洗濯など出来なかったのだ。
それが今ではほぼ毎日出来るのだから、やはり師匠は優しく尊敬に値する人物なのだと、シャルロットは心の底からそう思っていた。
魔力の量だけではない。何だかんだ言いながら自分の面倒を見てくれる優しさも、男爵家の生まれでありながら早くに自立しようとする気概も。
一人のシュルクとして尊敬出来る人物だと思うのだ。
そんな事を考えて壁に掛かる時計にふと目をやると、もう深夜の一時になっている。
それでもまだ、眠れない。
自分のしでかした事の罪悪感が、今夜は眠らせてはくれなさそうだ。