27 どうか、笑って
一人、女性が入浴中の浴室の前で扉に向かって立ち尽くし、ボソボソと何かを呟いている成人男性の姿は、それはそれは異様な事であったのだろう。
それを遠巻きに見ていたディビッドが、ドン引きしながらそっとジェイドへと声を掛ける。
「おま、……大丈夫かよ……何してんだそんな所で…………」
「…………」
声を掛けられた途端にピタリと囁くのを止める。急激に静止するその姿が逆に恐怖心を煽ってしまうのだが、そんなものはジェイドの知った事ではない。
今現在しっかりと己を悩ませていた張本人、諸悪の根源がこの場に来るだなんて思ってもいなかった為、ジェイドは咄嗟に逃げ出したい衝動に駆られるが動けないでいた。
だって、そうして何になる。
今この場にディビッドがいる現状で、風呂場のシャルロットを置いて部屋に帰るのか。それこそ何が起こるか分かったものではない。
そこまで考えて、ジェイドはすぐに考えを改めた。
別にこの二人に何かが起こった所で、自分には一切関係ないのでは?
そう、よくよく考えれば何も関係がないのだ。
自分がこの場から消えたとしても、幸福に満ち溢れたカップルが一組出来る可能性はあるかもしれないが、誰かが悲しむ結果になどならない筈なのだ。
だったら。
今、退くべきなのは自分だろう。
そう考えたジェイドは、一歩後退しながらディビッドを見据える。
「ディビッド」
「あ?」
「……シャルロットの事、どう思ってるんですか?」
一応、一応の確認だ。
ディビッドの弟としてではなく、一人の男としてでもなく。
シャルロットの師として、聞いてみたかっただけだ。
一切の好奇心や興味などもなく、ただただ純粋な気持ちでだ。どちらかというと、心配の意味合いが強い質問であるかもしれない。
シャルロットは公爵家の娘ではあるが、このまま成人になる二年後まで家出し続けた末に誰かとさっさと結婚してしまえば、それは駆け落ちも同然となるのだろう。
そういう道も、彼女が望む人生だとしたらアリなのかもしれない。
もし彼がシャルロットの事を大切にしようと言うのなら、いけ好かない奴ではあるが結婚式くらいは顔を出してやろう。
そう思って尋ねてみたのだが。
「何でそんな事聞くんだ?」
何故か質問に質問を返された。
予想外の事にジェイドの瞳が大きく動揺に揺れた。
「何で、って……一応彼女は……弟子ですので……」
「ふーん。ってかさ、そんな質問して来るって事はもしかして聞いてたのか?」
「……それは……その……」
ディビッドは腕を組み、スタスタとジェイドへ近付いてくる。彼もまた背は高い。
ジェイドより数センチ低いのだが、それでも威圧感を持つには充分な身長はある。
いつの間にか距離を詰められたジェイドは、せめて転ばないようにと足元に気を付けながらたじろぐだけだ。
「盗み聞きなんて悪い奴だなァ?」
覗き込んで来る黒紫色の深い色彩に、まるで吸い込まれてしまいそうで。
何故だかすぐには声が出ない。
気付けば背中に硬い物がぶつかる。
壁だ。
壁際まで追い込まれてしまった。
ここで臆してしまえば負ける。
ジェイドは口端を吊り上げて、無理矢理言葉を吐き出しながら見下すように笑った。
どうかこの焦りがバレないようにと、願いながら。
「……それで僕が悪となるのなら、イアンなど重罪ではありませんか」
弟の抵抗を垣間見て、ディビッドは小さく噴き出した。
下からジェイドの瞳を覗き込むのを止めて、背を伸ばしボトムスのポケットに両手を捩じ込む。
「……違いねェな。けどさ、先生って職業は弟子の恋愛ごとや結婚云々にまで首を突っ込むモンなのか?」
「一応、と言ったでしょう。話したくなければ話さなくても良いです」
「んー…………」
ポケットの中に隠されていた右手が再び現れる。その手はそのまま、彼の後頭部へと伸びて。
ディビッドはニヤニヤと笑いながら後頭部を乱雑に掻く。
「違うだろ? 俺が話したいか話したくないかは置いといて、お前は“聞きたい”んじゃないか?」
「それは……、……」
「違くないよな? 嘘吐き。お前は昔っからそうだな。
嘘吐いて、我慢して、誤魔化して。
じゃあ良いです、僕の用件は後回しでも構わない、一番は他の子に譲ります、……ってにこにこしながら嘘を吐く。そうやって母様からのポイントでも稼いできたつもりかよ」
「……」
壁を背にするジェイドの前から、彼は退かない。まるで逃がさないと言わんばかりだ。
「お前のそういういい子ちゃんぶった態度が、昔から嫌いだった」
「それは…………光栄ですね」
強い紫の眼光に射抜かれても、ジェイドは思い出したかのようにすっと冷静さを手に入れては、丁寧に貼り付けたような笑顔で対応する。
この鉄面皮を、どうしてもディビッドは剥がしてやりたくなった。
ディビッドは昔から魔力に乏しかった。
それでも、母であるイザベラに気に入ってもらいたくて出来る事なら何でもやってきたつもりだ。
けれど、イザベラが誰よりもジェイドを気に入っていたのは知っていた。それは珍しい瞳を持つその容姿か、従順さか、それとも魔力量か。
いつか、いつか追い抜いてやろうと思っていた。
追い付きたい訳ではない。並ぶだけでは意味がない。
追い抜いて、遠く後ろの方に弟を見据えて笑ってやりたかった。
なのに、ディビッドの目標だった弟はいつの間にか姿を消してしまったのだ。
九年の歳月を経て帰ってきた弟の連れてきた少女。あの娘を手に入れる事が出来れば、漸く“追い抜ける”のではないだろうか。
見ていれば分かる。彼女は弟の大事な人だ。あんなにも子供の時から他者と距離を作り、壁を作ってきた弟が傍に置く娘だ。ジェイドの心の隙間には、結局家族の誰も入り込む事が出来なかったというのに。シャルロットはいとも簡単に滑り込んだという事なのだろう。只者ではない。
そんな少女を、ジェイドの手の届かぬ所まで連れ去ってしまいたい。
ディビッドの心は今、それだけに囚われているのだ。
だから、冷静な判断力を欠いている。
言ってはいけない事も簡単に口にする。
「でも、……そんないい子ちゃんをやってても女神様には見棄てられるんだな?」
ぴく、とジェイドの眉が僅かに動いたのをディビッドは見逃さない。
弟の根っこの部分は九年前から、子供の時分から何一つ変わってはいない事を知って少し安心するくらいだ。
昔も一度、こんな事を言って泣かせた事があったっけ。
けれど、今は大人だ。
鉄のような仮面を剥がす事は、果たして出来るのだろうか。
「ヘレネにも見棄てられ、母様の“一番”の座も自分勝手に辞退しちまう」
「…………煩い」
ジェイドは俯いて小さく呟く。
ここで止めておけば良いものを、ディビッドは勿論止めるつもりなど毛頭ない。
「シャルロットのお嬢ちゃんだって、弟子ってのはつまるところお前の魔力にしか興味がないって事だろ?」
「……うる、さい」
苦しそうに吐き出される言葉。
握られる拳。
この拳は、一体誰の為に下げられたままなのだろう。
「どうせ、お前はお前自身の嘘で自分の身を滅ぼすんだ。
お前が誰も信用してないから、誰もお前の事を信用する事もな……──ッて!」
「煩いッ!!」
ジェイドの仮面は案外脆く、簡単にヒビ割れて砕け散ったようだ。
顔を上げ、怒りを顕にしたその眼はまるで泣きそうで。
感情の乱れから魔法を発動させてしまったのだろう、空気の流れが先程とは大きく変わっている。バチ、バチと音を立て弾けるのは空気中に充満した雷の魔力。
触れたら火傷してしまいそうな一筋の雷撃が、先程光の速さでディビッドの頬を掠めていったのだ。
「おー……こわ」
熱を持つ頬を撫でながら、ディビッドは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
子供の頃、同じようなやり方で泣かせた時に発動した魔法は水だった。物凄い水圧で押し流されて屋敷から叩き出されるだけで済んだが、今回はよりにもよって雷とは。
下手したら一瞬で殺されてしまいそうな魔力量だ。ほぼ戦闘をする事のないズブの素人だって、それくらい分かる。
それでも、ジェイドを怒らせるのは止められないのだ。この時ばかりは優位に立てたような気がして、楽しくて楽しくて止められない。
恐ろしい筈なのに、笑みが自然と浮かぶのだ。
悪い癖だな、と思いつつ目の前で魔力の流れに髪を靡かせ静かに怒る弟を見つめる。
さて、どうしたものか。
謝れば大怪我くらいで済みそうなものだが、誰が謝ってなどやるものか。
ならばこの場から逃げるが勝ちか……そう考えていたディビッドと、ジェイドの真上から大量の枯葉が落ちてくる。
黄色と紅色に染まった美しい色合いのそれは、忽ち二人が対峙する廊下を埋め尽くした。
視界が隠れ、足元も膝下まで枯葉に埋もれるという事態に驚いたのか、ジェイドの広げていた魔力は毒気を抜かれるかのように消え去ってしまった。
「……何してるの兄様達」
いつからそこにいたのか、ルーネが佇んでいた。彼の爪先には砕けたオリクトの破片が散らばる。
どうやら土のオリクトを使用してこの喧嘩の仲裁に入ったようだった。取り敢えず一命を取り留める事が出来たディビッドは、深い溜息を吐きながら尋ねる。
「ルーネ……お前、いつから見てたんだよ」
「えーと…………“盗み聞きなんて悪い奴だな”辺りからかな」
「結構聞いてたんだな……」
大人になって尚、こんなにも大人気ない喧嘩を吹っ掛けている所を弟に見られるとは。
多少恥じ入る気持ちも沸くものではあるが、ディビッドとしては満足出来る結果だった。ジェイドへと視線をやると、その場にしゃがみ込んでしまい俯いたまま動かない。
ルーネはディビッドに近付いていくと、その腕を掴んで引っ張る。
「箒と塵取りを取りに行こう。
ここ、こんなに散らかしちゃったんだから片付けないと。掻き集めて農場で使う腐葉土の材料にしようよ。ディビッド兄様が始めた喧嘩なんだから片付け、手伝ってよね」
「分かった、分かったよ! やるから引っ張るな!!」
そうして騒がしく二人が去っていった後も、ジェイドは動かなかった。
胸中を満たすのは、不甲斐なさ。
やはりこの家にいると己の無価値さを嫌でも思い知る事になる。魔力がいくらあっても、それは魔力の価値であってジェイド自身の価値ではない。
ディビッドも言っていたではないか。シャルロットだって、ジェイドの魔力に興味があってついてきてくれているのだ。
もし魔力がなかったら。
自分にはイアンのような優しさも、
ディビッドのような器用さも、
ルーネのようなセンスもない。
魔力が失われたら、何も残らない。
そんな者に、きっと少女は微笑まない。