24 揺り籠の中の眠り
温かい紅茶の湯気で綻んだドライフルーツの良い香りに、シャルロットは溜息を吐く。
不可思議な家ではあるがあまり首を突っ込むのもいけないし、何より紅茶の味が美味しいのは本当の事なのだ。まずはこの美味しさを心の底から楽しまないと、流石に失礼な気がする。
一口、二口と口の中に流れる液体の芳香を楽しむ事にした。ふわふわと、暖かな気持ちになる。とても癒される心地だ。
気が付けばシャルロットの身体は、まるで揺り篭の中の赤子のように揺られていた。
いつの間に寝てしまったのだろうか、心地良さに意識がぼんやりとする。
(……?)
いつの、間に、寝て?
そこまで思考が後から追い付いて来ると、シャルロットは目をぱっちりと見開いてその黄緑色の瞳ですぐに状況を確認する。
「おっと! 起きちまったか……おはよう、お嬢さん」
端的に言うと、シャルロットはディビッドの腕に抱かれて運ばれていた。
余りの状況に驚き、慌ててもがくシャルロットを彼は制する。
「まあまあ、何もしやしねェよ!
旅の疲れでも残ってたのかい? 茶を飲みながら寝ちゃったもんでさ、客室までお連れしようとしてた所だったんだ」
「そ、そうでしたか……」
両手で頬を抑えて尚、顔を真っ赤にする少女を見て男は小さく笑う。
「もう一人で歩けるかな? 小さなお姫様。難しいならこのまま運ばせて頂きますが?」
「あっ、……えっと…大丈夫です、歩けます! 降ろして下さ──」
「何してるんですか、ディビッド」
ディビッドとシャルロットのやり取りに、間に割って入る声。シャルロットに当てられた部屋の隣の客室から出てきたジェイドが廊下に立ち塞がり、二人を……主にディビッドを威嚇するようにして立っていた。
ルーネが部屋から去った後に扉を閉めていかなかったものだから、廊下での足音や会話などが丸聞こえだったのだ。
「おやおやこれは、親愛なる弟よ!
ろくに挨拶もなくさっさと部屋に引っ込んじまうなんて兄ちゃんは悲しいぜ?」
「何をしているのかと聞いているんです。質問に答えて頂けませんか」
「見てたけどさ、部屋のドアを開けっ放しにしといて聞いてなかったって言うのか? 何度も説明させるなよ、人遣いが荒い奴だなぁ……
客人のお嬢さんがネンネしちまったから、ベッドに運んでやろうとしていただけさ。何か問題でも?」
やれやれ、とでも言いたげに大仰にディビッドは溜息を吐く。そんな兄の様子を、ジェイドは馬鹿を見るような気持ちで眺めていた。こいつも大層な嘘吐きだな、というのが率直な感想である。
ディビッドは、シャルロットを文字通り姫君のように抱いていたその腕の力を緩めて、脚先からそっと廊下に降ろした。
降ろされた少女はここまで運んで来てくれた彼に軽く頭を下げると、ジェイドの傍へと駆け寄っていく。
その様子を眺めるディビッドはニヤニヤと口元を歪めて笑っていた。
「随分懐かれてるなァ、ジェイド?」
「貴方もまだ家にいたんですね。とっくにいなくなっているものだと思っていましたよ。
頭も足りなければ力もなくて、冒険者にもなれず就職先すらもままならないんですか? お可哀想に……マトモなのはルーネだけですねぇ」
「自分の質問には答えさせておいて、兄貴の質問は無視かい? 随分偉くなったモンだなァ、ええ?」
腕を組んで多少の怒りを顕にする兄を、ジェイドは鼻先であしらう。
「だって答える義理はありませんからね。行きましょうシャルロット。夕食の時間まで僕の部屋で休みなさい。ケダモノは何するか分かったものではありませんから」
チラチラとディビッドへと気遣うような視線を投げ掛けるシャルロットの背中を押して部屋へと戻るジェイドを見て、兄は最後にその背へと声を張り嫌味を投げ掛ける。
「おーおー、随分過保護な事で。
だったらくれぐれも目ェ離すんじゃねえぞ。その子を飢えさせたくも、もてなされてんのに料理無駄にさせて品位を落とさせたくもねェなら、お前も飯の席にくらい顔出せよ」
そうして閉まる扉を見届けた後に、彼もまた背を向け歩き出す。
「……やっぱ駄目だな、あっさり起きちまったよ。あーあ、もう少しだったのに」
懐から得体の知れない紫色の液体の入った小瓶を取り出し眺めては、小さく舌打ちをして歩き出すのだ。
「あ、あの。先生……」
シャルロット・セラフィスは困惑していた。別に休む事なら自分の部屋でも出来るだろうに、何故師の部屋に押し込まれたのか分からないでいるのだ。
理由を聞きたくとも、ジェイドは開けっ放しの窓へと乗り上げ窓枠へ寄り掛かるようにして座り深い秋の空を眺めているものだから、なかなか聞き出せる雰囲気でもない。
気を使い続けるシャルロットを無視するかのように、ジェイドは彼女へ目を合わせる事もなく一方的に言葉を投げ掛ける。
「今夜は俺の部屋で寝てくれ」
「…………へ?」
「別に平気だろう同衾くらい。初日から勝手に一緒のベッドで寝てたくらいなんだから」
確かに初めて会った日、駆け込んだ宿に空きがなかったものだから仕方なく一つのベッドを二人で使いはしたが、然しその申し出をジェイドの方からしてくるとは思わなかった為にシャルロットは面食らう。
「でも……イザベラ様は私のお部屋、用意して下さっていましたが……」
とはいえ空いているだけの客室だ。
使わないなら使わないで汚れる訳でもあるまいし、イザベラも納得はしてくれるだろう。然し、ジェイドが何を危惧しているのか分からないでいる。
分からないでいた答えは、すぐに提示される。
「夜中、傍にいてくれないと……俺はきっと、ここの窓硝子とか叩き割って歩くぞ?」
そうだった。失念していた。
ジェイドは夜中は独りではいられないのだ。複数人も駄目。必ず、誰かと二人きり。
でなければ手持ちのオリクトを。オリクトが無ければ割れ物を、自分の意志とは関係なく壊してしまう夢遊病。
こんな田舎街だと近くに娼館がある訳でもなく、──そもそもまず隣の家まで行くのもなかなかの距離がある──流石に大人になった今では、家族の誰かと寝るのも気恥しいのだろう。シャルロットはそう捉えた。
ジェイドは現在オリクトを持ってはいない。グリフォンを倒して収入は得たというのに、イザベラと会ってからここに来るまでの間はほぼ馬車移動ばかりでオリクトの販売店に寄る事が出来なかったのだ。
自由行動が取れる夜間には、酒場などで女を漁る事は出来てもオリクトの店はとうに閉まっている。
本来ならあの時、自然公園でシャルロットに魔法の使い方を教えてから昼食を摂った後にゆっくりとショップを見て回る予定だったのだが、それがイザベラに馬車に乗せられた事によってなくなってしまったのだから仕方がないと言えば仕方がない。
オリクトを持っていないまま夜が来てしまえば、壊すのは屋敷内の窓硝子や食器類などだろう。子供達も多いこの家で、それは危険すぎる。
ならばジェイドの言葉も納得するというもの。シャルロットは静かに頷いた。
「ああ、でも……夕食までまだ時間はある。
シャルロット、君は結局眠らないのか?」
先程ディビッドの腕の中で眠りこけていたであろう弟子へと、ジェイドは視線を向ける。眠いなら寝ればいいと部屋に連れては来たが、彼女はその兆候を見せないのだ。
少女は師の顔を久方振りに見た気がした。この部屋から外に出ると、彼は敬語で家族に対応する。貴族の仮面を被る。
凍り付いたようなそれではなく、少しだけ皮肉の交じるような穏やかな笑顔を見るのはたった数日の事なのに、何年も見ていなかったような気分にさせる。
その表情が逆光により見え難いからか。いつもより遠く、物悲しく見える。
一応ベッドの上へ座らせてはいるのだがシャルロットはやはり、眠る気がないようだ。
案の定、少女は困ったように眉尻を下げて首を傾げる。
「うーん…申し訳ありませんが、何だか目が冴えてしまいまして。眠くないんですよね……」
「なら、牧場や農場に行ってみようか。オリクトを使って運営しているようならいくつか金貨と交換して貰いたくてな……従業員と会いたい。
流石に一つも持っていないのは、心許なくて仕方がない」
窓枠から室内へと降りたジェイドは伸びをして、椅子へと放られたように掛けられた青い外套を手に取る。
ディビッドに言われた「くれぐれも目を離すな」という言葉に、彼は従おうとしているのだ。
勿論兄に言われたから、だけではない。ジェイドはディビッドに素直に従う程、彼を信用している訳でもない。
然し、かの者の悪癖に置いては九年の歳月をもってしても尚分かっているつもりだ。ケダモノは何をするか分かったものではない、と。
ジェイドの手の中のケープマントは、シャルロットの肩に掛けられた。少女の肩に僅かな重みがのしかかる。
分厚い素材でもないが、薄っぺらい素材でもない。拉致されたあの後に血塗れで帰ってきたジェイドの為に、シャルロットが買い直してきた物だ。
実はこれは色味や素材は前の物とほぼ遜色なかったのだが、丈が膝ほどの長さまであった為にわざわざ購入時に直してもらった代物である。
「……?」
「流石にサイズが大きいな……ちゃんと前の金具留めるんだぞ。財布と飴玉の瓶さえ無くさなければいいさ」
「あの……」
「もう秋だしな。冷えるだろうから……着ていなさい」
胸元で揺れる金色の留め具。それを留めてしまえばケープは風に強く煽られても飛んでいってしまう事はないだろう。
少しだけ外側から自分の身体を包むそれに触れると成程、所々重みをや膨らみを感じる所があり、更に揉むように触れると小さくチャリチャリと音がしたりする。
硬貨が入った皮袋を入れているのだろう。それ以外にも細々とした物が入っているようだが、ジェイドの私物だ。余り詮索する事もいけないと思いシャルロットは大人しく手を下げる。
魔女に憧れるシャルロットにとって、こういったフードのある衣類は“らしさ”が際立ってとても嬉しくなった。
指示された訳ではないが、折角なのでフードを被る事にした。こうすれば形だけでも立派な魔女に見える気がして、少女は幸せそうに笑う。その横顔を見てジェイドもまた、小さく笑うのだった。