23 アイスフォーゲル
客室に入ったジェイドは、綺麗な白いシーツの敷かれたベッドの上に仰向けに寝転がる。
騒がしい王都周辺の街とは違い、本当に静かで目を閉じれば木の葉が擦れる音や小鳥の囀りさえ聞こえてくる、家具の少ない小さな部屋。
時計を見れば午後四時も回っていて、そろそろアフタヌーンティーの時間だとかいう理由で呼ばれそうなものではあるが、そんな誘いに乗る気もない。極力部屋からは出たくないのだ。
普段から睡眠不足のジェイドがうつらうつらとするのも至極当然の事。だから、開けっ放しのドアから人が入って来ても全く気付かなかった。
「相変わらずだね、兄様」
「!?」
驚いて勢い良くベッドから跳ね起きる。
顔を上げれば一人の青年が入口、扉付近の壁に背中を預けて立っていた。
「……ルーネか。ノックくらいしろ」
「あれ? 口調は随分変わったね。そんな喋り方聞いたら、母様が嘆き悲しむんじゃないかなぁ」
「言われなくてもこないだ散々文句を言われたよ。それにあの女は今いないだろ、君まで俺に説教垂れるな」
ジェイドはイザベラに見せる時の表情のように、不機嫌そうに眉を寄せて声を掛けてきた相手を睨み付ける。
ルーネ・アイスフォーゲル。
沢山いる兄弟の内の一人だ。二十一歳という若さだが、彼はここ最近頭角を現した有名人である。
その美的感覚とセンス、美しい言ノ葉の遊び方を用いて綴った詩集を出したのだが、それが飛ぶように売れた天才詩人だ。彼自身は己の才能に溺れる事もなく、逆に余り世間に露出しないよう静かにひたすら詩を綴る毎日。
その名は家を出て長いジェイドの耳にも届く程だった。
明るいブラウンの癖っ毛の髪の下から覗く薄桃色の瞳は、久々に対面するジェイドを眺めて笑う。
「ジェイド兄様、いつからそんなに母様の事が嫌いになったの。昔はあんなにべったりだったのにさ」
「……そうする必要もなくなったからな。もう俺も大人って事だ」
「大人はそんなに意地張ったりしないよ」
くすくす、と小さくルーネは笑う。
その笑い方がイザベラそっくりな事に、ジェイドは苛立ち口元を歪ませる。
このままではいけない、話題を変えようと無理矢理会話のメインをルーネへと持っていく事にした。
「ルーネは何でここにいるんだ。王都で詩集を出す仕事をしてるって聞いたぞ? ……まさか、遂に売れなくなったのか?」
「酷いなぁ兄様ったら……違うよ、こないだまた本を出して一段落したから取材も兼ねて帰ってきたんだ」
ルーネは部屋の中を突っ切って窓の傍へと歩むとレースのカーテンごと窓を大きく開き、気持ちの良い空気を部屋へ運ぶ。
肌の上を滑る風の冷たさは、もう秋風と言っても差し支えない。
「アンダインにはアンダインにしかない、素敵なものがいっぱいあるから。何かインスピレーションが受けれたらなって思ってさ。暫くは休暇のつもりでここにいるよ」
栗色の髪を風に遊ばせて、ルーネは機嫌良さそうに呟く。
ジェイドとしては兄のイアンと一個上のディビッドは最初から信用も信頼もしていない為、凡そ母と同じような対応をしてやる。
然し弟達に対しては大体はどうでもいいという感情しか湧かない為に、上記の三名がその場にいないようなら少しばかり素で対話をする事にした。
どうでもいい、と思われていると知ってか知らずか、それでもルーネは久々の兄との対談を楽しんでいるようだ。
ベッドに寝転がりながらだらしなく話す兄を咎める事もなく、目の前に広がる雄大な自然をその薄桃色の瞳に写し、この部屋に落ちる陽光をその身に浴び味わっていた。
「ごめんなさいね、落ち着かなくて」
「いえ……」
シャルロットは食堂にてイザベラに茶を振る舞われていた。ここまで案内される途中に、自分に当てられた客室や浴室などいくつかの部屋を見させてもらったが、どの部屋も特に一般家庭のそれとは大差ないような、どちらかというと質素で慎ましやかな雰囲気であった。
来た時に馬車が入った入口も、特に派手さもなく囁かな門を通れば広い庭先が広がるのみ。隅の方に小さな花壇や──手作りだろうか、木製のブランコが掛けられた大木があるのみの庭だ。
本当に外観のみがかなり大きく敷地を取っているだけで、そこには豪奢さなどは微塵も感じられなかった。
けれどこの家には子供が多いらしく見える為に、その方がどちらかというと生活しやすいのだろうなとシャルロットは思っていた。屋敷内の廊下も庭先も、子供が数人で走り回るには充分な広さだ。そこに高級な家具や彫刻が飾られては邪魔で仕方ないのだろう。
それに、あれだけの農場を有する家だ。住まいに使える敷地だって十二分にあった結果が、この家の造りなのだろう。
紅みの深い紅茶に入れられるのは林檎を乾燥させたもの。芳醇な香りがそんなに広くはない室内に広がり、シャルロットの胸を満たす。
品の良い柄の敷物に、温かみを感じる木製の長テーブル。
他の子供たちはテーブルと同じ素材の椅子にそれぞれ腰掛けているが、シャルロットに当てられた椅子は客用の一人掛け用のソファである。
客用に相応しく上質なものであり、ふかふかとして少女の身体を優しく受け止めてくれる。ここにいつまでも座っていたいくらいだと思えるし、その気になればこの椅子でうっかり寝てしまいそうだ。
ドライフルーツも、ここアンダインで採れた果物を乾燥させて作ったものらしい。
その茶を淹れてくれたのはジェイドの一つ上の兄と名乗る男性、ディビッド・アイスフォーゲル。
イザベラの教育方針で、家事は家族皆で分担しているというのだ。
故に貴族としては珍しく、小間使いなどは雇わないという。時折近場に住んでいる分家の者が手伝いとして人を寄越してくる日もあるようだが、今日はそのような者もいない。
公爵家より格下であるとはいえ、男爵家の息子に茶を淹れさせるなんて出来ないと思ったシャルロットは慌てて断ろうとしたのだが、「慣れてるから」と言ってさっさと白い陶器のティーカップに茶を注いでしまった。
御者の役割をしていたのもジェイドの兄だと聞いた時には申し訳なさばかりが胸の内に込み上げて来たというのに、この家の者は家名を気にしないとでも言うのだろうか。公爵令嬢に生まれ、家の者に相応しい立ち振る舞いをと教育されてきたシャルロットにとっては有り得ない事である。
尤もシャルロットも実家にいた頃は料理なども嗜んではいたが、女性のそれと男性のそれでは明らかに意味が違ってくる。
いつか嫁ぐであろう女子とは違って、貴族の血が流れる男性が給仕の真似事など許されるのであろうか。
ディビッドはそんなシャルロットの気を知らずに茶菓子を振る舞う。黒い髪を後ろへと撫で付け、切れ長の目は黒紫の瞳を持つ。
そんな彼の指先は長テーブルの上に色とりどりのクッキーやマフィン、スコーンなどの乗ったケーキスタンドを並べていくのだ。子供達皆が作るのだという。
「ディビッド兄様、食べてもいい?」
「まだだっての、待てよ」
「はーい……」
弟に声を掛けられればディビッドはそれを咎める。兄と弟達としては、それは正しく素敵な家族のやり取りがそこにはあった。
けれど、シャルロットは違和感しか感じない。
一つはイザベラがジェイドの一人称までも含む口調を咎めた事。喋り方などについては厳しい家庭なのかと思ったが、イアンやディビッドの口調を聞いている限りではそうではないようだ。
ジェイドだけに厳しくしているのだろうか。それは何故だろう。
更にもう一つ。
気付いてはいけなかった。
けれど、気付かざるを得ない強烈な違和感。
この家の玄関先に降り立った時より、シャルロットは気付いてしまったのだ。
(やっぱりこの家……
────女の子が、いない)
人数だけなら十人は超えるのではないだろうか。和気藹々として賑やかな家庭だ。
けれど、そこに、女児の影が一切ない。
あちらを向いてもこちらを向いても、青年ないし少年ばかり。
その中心にいるのが母であるイザベラ。
特に気になるのはイザベラがジェイドを引っ叩いた、あの時の言葉だ。
『お行儀が悪い子ね。大丈夫よ、お昼ご飯はきちんと食べさせてあげるから。ルエリアを抜けるまで待って頂戴ね。
アンダインはここから遠いもの……数日はかかるわ。ああそうだ、弟も増えたのよ? 皆貴方に会いたがっているわ』
弟が、増えた?
アイスフォーゲル男爵はとうの昔に死去したと、妻であるイザベラ本人の口から聞いている。再婚したという話も聞いてはいない。
子供達の口からも「母様」という単語は聞くが、「父様」という単語も出る事はない。
父親という者が存在しない家で、どうやって子供が増える?
シャルロットだって子供の作り方くらいは学んでいる。粘土を捏ねて作るものでもあるまいし、イザベラ一人だけではどうにもならない筈だ。
いや、然しこの考え方は些か早計かも知れない。
父親のいる雰囲気が出ないのは父親の影が薄すぎる為であり、彼は現在外出しているとして。夫人はとうに再婚したという事をうっかり言い忘れていたとしたら。
それに、更にもう一つ可能性を挙げるとすれば。
ジェイドがこの家を飛び出して行ってから九年の歳月が経っているとも、馬車の旅の途中で聞いた。その時には既に夫人は妊娠していて、ジェイドが出て行った後にアイスフォーゲル男爵は死去。
夫人独りで産んだ子供が成長して、今この場にいるとしたら。
ほら、可笑しい所など何もないではないか。そう思い直せば問題など何一つない筈なのに、シャルロットはこの無理矢理過ぎるこじつけにやはり納得など出来ないでいた。
「再婚なさったんですか?」
「お父様はどちらに?」
「男の子ばかりですね」
──言えない。
どの可能性を取ったとしても、言える筈がない。
少女が首を左右に振り纏まらない思考を切り替えようとする頃にはイザベラからの号令がかかり、紅茶のカップを漸く手に取る事となる。
紅茶を傾ける少女の、金の髪の後頭部。それを、後ろに控えるディビッドが目を細めて見下ろしていた。