22 アンダイン
「シャルロットちゃんもウチに来る? 田舎で何にもないけれど、穏やかでいい所よ」
……なんて、笑顔で尋ねられれば首を横に振れる勇気はシャルロットにはなかった。
まだまだジェイドに教わりたい事も沢山ある。離れる訳にはいかないし、何よりこの仲の悪い家族が──お節介だとは分かっているが、心配で堪らない。
イザベラは少し厳しい所もあるようだが基本的には良い母親だと、傍目から見てシャルロットはそう判断していた。
ジェイドがここまで嫌い、イザベラを突き放す理由が少女にはどうしても分からなかった。
着いた先の店はルエリアの隣町、レヴィアの繁華街にあるレストラン。グレードはそこそこであった。
アイスフォーゲル家はサエス王国から男爵の称号を与えられている。男爵家など、辛うじて貴族を名乗れるレベルの権力しかない。封土も王国内で最南端のド田舎である。
だが、田舎であっても王国が管理しきれない土地をほぼ押し付けられた形となった為に、広さだけは無駄にあった。先代のアイスフォーゲル男爵はその土地を有効活用しようと人を呼び田畑を耕し酪農を始め、やがて広大な農村を作るに至ったのだ。
アイスフォーゲル領アンダイン。慎ましく、緑豊かで長閑な片田舎。最南端とは言えど、サエス国内に位置する為にギリギリヘリオドールの恩恵が得られ、時折作物に優しく雨が降る。そこにジェイドの実家がある。
農耕と酪農、そして観光で収益を得ているそこは、サエス王国の知る人ぞ知る隠れた名所である。
現在は、今は亡きアイスフォーゲル男爵から家名を継ぎイザベラが男爵夫人に就任している。夫の遺産を使い人を雇い、土地や牧場の管理は今や他人に任せ彼女とその家族達は屋敷でひっそりと暮らしているのだ。
そう、故に金ならそこそこ貯め込んでいる。だからこうして久々の休暇と称して観光をしていたのだと、馬車の中でジェイドとイザベラが説明するのをシャルロットは静かに聞いていた。
今は食事も終えて、馬車は更にサエス国内を南下していた。アンダインへと向かう途中にあるであろう、今夜の宿泊先へと向かっている為だ。
旅の間の食事も宿代も、イザベラがもってくれるという。シャルロットは最初こそ敬遠していたがジェイドがさっくりと頷いたので、一緒に好意に甘える事となった。
もうジェイドも腰を据えて落ち着いた様子だ。それでも、窓の外へ視線を向けたまま。極力母親と視線を交じ合わせようとはしない姿をシャルロットは心配する。
先程、食事の為に馬車を降りた際に二、三言御者と言葉を交わしていたのも気掛かりである。気掛かりな事ばかりであるが、今ここで尋ねる訳にもいかない。
ジェイドは変わり映えしない、いつまでも続く美しい水の都の光景を眺めながら先程の、馬車の御者との会話を思い出していた。
馬車を駆っていたのはイアン・アイスフォーゲル。四つ上だった筈だから28歳の自分の兄、らしき男である。いい歳してる癖にまだ家にいたとは驚きだ。
彼は今、家の手伝いとして主に馬番をしているらしい。
馬車に乗る時は気が動転していたのと、彼がハンチングを目深く被っていた為に分からなかったが、赤毛混じりの茶色の髪に穏やかなアンバーの瞳は昔から何一つ変わってはいなかった。
先述、母が嫌いだと申し上げたが訂正しておこう。ジェイドは家族が皆嫌いだ。正直アンダインに火を放とうと思った事も一度か二度ではない程に。
母の真似でもしているのか、ニコニコと笑顔で語り掛けてくるその顔に唾でも吐きかけてやりたくなる。
「さっきはごめんな、お前の言う通りに馬車を停めてやらなくって」なんて、思ってもいないだろう事を謝罪してくる偽善者。それがジェイドの率直な感想である。
そんな事、イアンが思っている筈がない事はジェイドはよく知っていた。
「別に。……気にしてませんよ」
会話はそれ以上する必要はないとばかりに切り上げて、さっさとレストランに入っていく。
四人で囲むテーブルの食事は、味が分からなかった。シャルロットは徐々にイザベラにもイアンにも受け入れられ、打ち解けていけたのは所詮彼女が他人だから。
“アイスフォーゲル”の穢らわしさを知らないからだ。
そこまで考えて、────ジェイドは、少しだけ怖くなった。
自分の実態を知られる事により、彼女に嫌悪されるのではないか。離れて行ってしまうのではないか。
然し、その感情はすぐに霧散する。
何を言っている、シャルロットから離れて行ってくれるなら願ったり叶ったりではないか。お荷物が減り、自由に行動出来るのだ。素晴らしい事ではないか。
そうだ、それは良い事だ。
この馬車に乗り、また、彼女も共に自分の家に向かっている事は何ら問題ではない。
そういった、冷静ではない感情で不安感と酷い焦燥感を真っ向から肯定する。現状を肯定し続ける。
愚か者を乗せた馬車はひた走るだけだ。
三者三様、ろくに会話もしないまま三日が経った。イザベラはこの旅行には御者兼荷物持ちとしてイアンしか連れてきていなかった為に、少しばかり寂しい思いをしたらしい。
同性であるシャルロットとは会話が弾むのか、時折彼女とは会話を楽しんでいたようだ。シャルロットが公爵令嬢と知ってからも、大きく態度を変える事はない。
ジェイドは夜になる前にイザベラが折角取ってくれた宿の部屋を抜け出し、明け方まで帰って来る事はなかった。何度かイアンに飲みに誘われたが総て無視したようだ。
シャルロットがこの三日間で、ジェイドが飴を口にしていない時間を見るのは食事の時間くらいだった。相当イラついているのが空気で分かる。飴をわざわざ歯で噛み砕き、すぐに食べてしまうのだ。
そうして迎えた三日目だ。
もうサエス王都周辺の賑やかな気配は感じない。密室の中にも濃い緑の匂いが広がり、胸いっぱいに満ちるのを感じる。シャルロットは馬車の窓を開ける。
「わぁ……!」
長閑、の一言に尽きる。
どこまでも広がる大地に整然と並ぶのは葡萄の樹。紫色のたわわに実る果実を摘み取り籠に並べるのは、イザベラに雇われた職員だろう。
更に馬車が進めば、遠くからは動物の鳴き声がする。鳴き声から察するに、鶏も牛も羊もいるのかもしれない。シャルロットは余り触れる機会のなかった“ふわもこ”を見るチャンスを感じて、その大きすぎる胸を高鳴らせていた。
「あの葡萄もウチのよ。生食も勿論出来るけれど、ワインが美味しいの。
シャルロットちゃんには後でノンアルコールのをお出ししてあげるわね」
初日こそジェイドへの厳しさに少々驚いたものの、自分に対しては至極穏やかに対応してくれるイザベラにシャルロットはすっかり心を開いていた。
彼女の言葉に嬉しそうに頷く少女の姿は、まるで傍から見れば仲の良い母娘のようである。自分よりも“らしく”見える二人を視界に入れないように、ジェイドは田舎臭い光景をさもつまらなそうに眺めていた。
もうケープマントの懐に忍ばせている、飴の小瓶にキャンディを補充するのは何度目になるだろう。
余りにも飴ばかり食べているジェイドを見兼ねて、旅の途中でイザベラが飴の袋をいくつも買ってくれた。ストレスの原因にそのような行動をされては余計なお世話であると、ジェイドは感じていた。
舗装されていない田舎のあぜ道をガタガタと揺れながら馬車は進み、やがて大きな屋敷の敷地内へと入っていく。
大きさはあるが決して派手ではなく、どこか暖かさを感じる色合いの白い壁が際立つこの建物が、アイスフォーゲル本家らしい。
この地域は前アイスフォーゲル男爵の親族も多く住んでいるようで、家名が同じ家族もいくつか分家として別れて住んでいると、馬車の中でイザベラは説明していた。
当主であった夫を、夫を亡くした自分を。皆が支えてくれたお陰でアンダインはここまで大きくなったのだ、と。
馬車から降りると屋敷の扉が勢い良く開き、小さな子供達が我先にと駆け寄ってくる。
「母様、イアン兄様! お帰りなさい!」
「旅行どうだった!? 楽しかった?」
「ねえねえ、この人達だーれ?」
子供特有の甲高い声の中心で、イザベラは彼らを諭す。
「静かに。……この人はジェイド兄様よ。貴方達の中には逢った事ない子も多いわよね。ほら、ご挨拶なさい」
母の言葉に子供達は顔を見合わせて笑う。
「兄様!?」
「兄様だって!」
「こんにちは、初めまして!」
彼らは十歳になったかどうかくらいの歳の頃だろうか、質素な衣服に身を包み頭を下げる少年達の可愛らしい事。
そんな子供達を一瞥し、ジェイドはイザベラに声を掛けながらさっさと屋敷の中へと向かう。
「客室、使わせて頂きますよ」
「あら、貴方の部屋は出て行った時のまま弄ってないわよ? 掃除もしてあるから使えば──」
「客室で良いです」
それだけ言って振り返る事もなく、ジェイドは屋敷の中へと消える。取り残されたシャルロットは、困惑した表情で屋敷の入口とイザベラの顔を交互に見つめる。
そんな妙な空気を破るのもまた、明るい子供の声だった。
「ねー、このお姉ちゃんはー? だれー?」
お姉ちゃん、とは自分の事だろう。
シャルロットは子供に向き直り、少し屈むと咄嗟に笑顔を浮かべる。姉しかいないシャルロットには、自分よりも随分小さい男の子に「お姉ちゃん」なんて呼ばれるのは嬉しくも、少しばかりこそばゆい。
「シャルロット・セラフィスと言います。どうぞ暫くの間、宜しくお願いしますね」
「おっぱいおっきいー!」
「わー!」
「僕も僕もー!!」
むにゅっ。
シャルロットの笑顔は凍り付いた。
子供の小さな掌がいくつも、自分の胸を揉みしだいてくる。流石ジェイドの弟達と言ったところか。初めて会った翌朝には胸を触らせる事を条件として、弟子入りを許可しようとしていた事を走馬灯のように思い出す。
子供達は滅茶苦茶執拗に、そして無遠慮に触ってくる。
ここは尊敬する師の生家。
そしてこの少年達の母は間近にいるのだ。
怒ってはいけない。怒ってはいけない。怒ってはいけない。
シャルロットが無心にそう、自分に言い聞かせて数秒。事態に気付いたイザベラが少年達を叱りつける。
「こらっ!」
「きゃー! 母様が怒った!」
「逃げろーっ!!」
まるで蜘蛛の子を散らすかのように子供達は屋敷の中へと入っていく。シャルロットは傍らでひたすら謝るイザベラに、苦笑いで対応するしかなかった。