20 男爵夫人
一時はどうなる事かと思ったが、穏やかさを取り戻した公園には遠くに子供の笑い声が響く。
その声を聴きながら、ジェイドは目を伏せる。
「……君の肩を掴んでいた時。足元がひび割れていった時。
僅かに魔力の動きを……俺以外の魔力を強く感じた。それで、…………犯人は君かなと思っただけだ」
次に目を開ける時にはその両の瞳はシャルロットを捉えていた。
彼の双眼の紫陽花と深緑の色彩の中、少女は自分が未だに困惑しているのを見た。
シャルロットは体内に魔力を持ち、それを無意識に身体強化の魔法として使っていると言うのだ。
今まで彼女がやらかした様々な事は総て魔法の起こした事象であり、先程地を割った事だってただただ“その場で踏ん張っただけ”に過ぎない。ジェイドはそう、確信している。
「そうですか……。でも、……これじゃあ魔女にはなれないんです」
シャルロットはぽつりと悲しげな声音で呟く。魔力があるという事は彼女の夢に対しての大きな一歩。前進だ。
けれどそれでは駄目なのだ。身体強化なんて、一番魔女らしくない魔法。魔術師認定試験を受けたって、ベリオスの認定員に察知出来ないような魔力なら無いのも同じ。意味がないとシャルロットは感じた。
そんなシャルロットの悲しみをジェイドは首を傾げて嗤う。
「ベリオスの連中が無能なばかりに君が悲しい想いをするのは、些か理不尽じゃないか? 君の奥底に眠る魔力を察知出来ないのは向こうの落ち度だろ」
「でも……」
でもでも、だって。
シャルロットがウジウジし始めてジェイドは困ったように溜息を吐く。何だってこんなにも彼女は魔女という立場に拘るのか。
やはり、姉であるリーンフェルトが彼女の憧れであり、夢その物だからだろう。
ジェイドは少し考えた。
魔力はあるのに身体強化の魔法しか使えないなんて聞いた事がない。シャルロットに魔力はない、と聞いていたものだからこの師弟関係は未来永劫永遠に終わらないのではないかと絶望しかけてはいたのだが、あるなら話は別だ。
魔法として外に出ない物を出るようにすればいいだけ。光属性なのだから、回復魔法なり攻撃魔法なり、だ。
それは頑張れば何とかなるのではないのだろうか。兎に角、可能性としてはゼロではない事が分かったのだ。
彼女をある程度の光魔法を使えるまでに育ててやり、ベリオスの試験さえ受けさせれば晴れてシャルロットは魔女を名乗れるようにはなるだろう。彼女にはそれだけの素質があるように感じた。
然しそうすると、この珍妙な師弟関係は終わるのか。
ジェイドがその結論に辿り着く頃、シャルロットも同じような事を考えていた。
ちらりとシャルロットへと向けられた視線は、彼女の黄緑色の瞳とぶつかりお互いに一緒に目を逸らす。
「まぁ、……ベリオスに認められるまで、って言うのが約束だからな。それまでは付き合ってやろう」
ジェイドは木製のベンチから立ち上がり、少女の方を見る事なくそう告げる。
「……はい」
耳に入るシャルロットの声は、心なしか元気のないように思えた。まだウジウジしているのだろう。
少女へと振り返る事もなくジェイドは歩き出した。
「魔力使って疲れた……昼食に行くぞ。一応祝いに奢ってやるから……着いておいで」
「えっ!? ……わ、悪いです……!」
「良いから。来ないなら置いていくからな」
シャルロットは慌ててジェイドの背中を追い掛ける。公園を突っ切り出口を出て、二人で通りに立ち尽くす。
ここは公園も近い事があり、余り賑わってはいない。やはり大通りに向かおう。
サエスの郷土料理屋もいいし、シャルロットへの祝いなのだから少し高いケフェイド料理専門店もいい。たまには故郷の味に舌鼓を打ちたい事だろう。
それはディナーへと回して、取り敢えず昼食はあっさりとしたアシュタリア風料理店に入るのも手か。
何処の店へ入ろうかとジェイドは思考を巡らせ──固まった。
然しすぐに、背後に着いてきていたシャルロットの手を取り引っ張って早足で歩き出す。
「へっ!? ど、どうかしましたか先生……」
「シッ! 黙って着いて来い……!!」
ジェイドはしきりに背後をチラチラと気にしながら少し身を屈めて足早にその場を去ろうとし……声を掛けられた。
「ジェイド!? 貴方ジェイドではなくて!?」
柔らかい女性の声に名前を呼ばれれば反射的に身体が跳ね、足を止めてしまいそうになる。鈍くなった足を、それでも無理矢理動かしてジェイドは逃げるように歩みを進める。
それなのにシャルロットが余計な事を言い出すのだ。
「先生! 呼ばれてますよっ」
「気の所為だ、呼ばれてない……ッ!!」
反応してしまえば逆効果だというのに。然も、シャルロットは相手の女性に応対でもしようというのか、ジェイドと繋いだ手を強く引っ張る。
振り解こうにも解けない。強固な力で繋がれている。
何で咄嗟にシャルロットの手を握ってしまったのか、ジェイドは深く後悔した。独りだけでさっさと逃げれば良かったのだ。
シャルロットもこんな時にわざわざ魔力を使うなんて、なかなか魔法の使い所を分かっているではないか。ジェイドはある意味感心したが、事実それどころでもないのだ。これは現実逃避に近しい。
ジェイドに声を掛けた女は馬車に乗っている。彼女は御者に声を掛けると、二人の傍まで馬車を寄せてくるのだった。
「嗚呼、ジェイド……! 久し振り、元気にしていた?」
妙齢の女が馬車から身を乗り出して声を掛けてくる。
もう完全にこの距離だと顔も見られてしまい、相手も自分を「ジェイド・アイスフォーゲル」だと確信してしまっている現状に、ジェイドは観念して足を止めた。
シャルロットは女性を見上げる。薄紫色のドレスを身に纏う、身なりからして貴族だと分かる女性だ。ダークブラウンの髪を緩やかに結い、青紫色の花が閉じ込められた鼈甲のバレッタで纏めている姿は純粋に美しく、そして何だか可愛らしい。全く歳を感じさせないような容姿だ。
師の名前を呼ぶものだから足を止めてはみたものの、彼女と彼は一体どういった関係なのだろう。
もしかしたらオリクトを配って一夜を共にした女性の内の一人なのだろうかと思うと、シャルロットは若干の気まずさを覚えた。それとは別に、古い知り合いなら積もる話もあるだろうし──どっちにしろ、ジェイドの為を思うならそっと離れてしまおうかとも思ったのだが、その前に女性の方から声を掛けてくる。
「貴女は……初めましてね。こんにちわ、ジェイドの…………もしかして彼女さんかしら?」
「いえっ! 私はそんな……!」
「違います」
女性の言葉をシャルロットが慌てて否定しようとするのを遮って、ジェイドがピシャリと言い切る。
その声は冷え切っていた。なのに、女性は動じない。蒼い目を細めて楽しそうに笑う。
「あら、そうなの? こんなに可愛らしいのに……ジェイドったら奥手ねぇ」
ころころと鈴を転がすような笑い声。女が何か言う度にジェイドの、普段困っているような表情を作っている眉尻がピクピクと動くのをシャルロットは気付かない。
そのまま会話を続けてしまう。
「あ、あのっ! 私、シャルロット・セラフィスと申します!
先生の…、ジェイド様の弟子をさせて頂いている者です! 貴女は……先生とはどういったご関係でしょうか?」
彼女のおっとりとした口調から醸し出される余裕と色気に気圧されてか、何となく緊張から声が上擦る。
女性はシャルロットの可愛らしい自己紹介を聞いて、更に笑顔を深くする。
「他人の名前を聞く前にはまず自分から名乗る……きちんと出来るなんて、いい子ね。
私はイザベラ・アイスフォーゲル。ジェイドの母です」
母。……母。母親。
その言葉を噛み砕くように脳内にリフレインさせ意味を理解する頃には、シャルロットは無意識に叫んでいた。
「お、お母様……!?」
ジェイドは馬車の中から仏頂面で外の景色を見ていた。不快な気分で眺める、くるくると変わっていく景色はこんなにも楽しくないものか。
隣ではシャルロットがイザベラと向き合うようにして、楽しげに色々と話し込んでいる。話題は主にジェイドの子供の頃の話だ。
「ジェイドは昔から凄い子だったのよ? 兄弟の誰よりも魔法の扱いが上手でね……」
「流石先生です! 幼少の頃から才知に富んでいらっしゃったんですね……!!」
馬車に乗せられたのはイザベラからの申し出と、シャルロットの言葉に押されて根負けた為だ。
これから昼食だから一緒にどうか、という彼女の言葉を勿論ジェイドは断ろうとした。然し、シャルロットが横槍を入れたのだ。
何が「久々にお母様にお会いしたのですから、ご一緒させて頂きましょうよ」だ。奢ってやるって言ったのに。金が浮くから別にいいけど。
それにしても良くも飽きもせずに人の過去の話をペラペラと喋るものだと、ジェイドは心の底から苛立っていた。苛立つ理由はそれだけではないが。
イザベラの存在が、ジェイドの精神を心底逆撫でするのだ。
「ジェイドは夜になると凄く怖がる子で……」
「もう良いじゃないですか、俺の話は」
嬉々として語り続けるイザベラの言葉を、ジェイドはいよいよ封じる。顔は外へと向けられたままだ。
冷たく遮られてもイザベラは動じず、逆に息子を諌める。
「ジェイド? ……お口が悪いわね? どこで習ってきたのかしら。一人称を改めなさい」
「いつまでも俺は子供じゃないんですよ」
「一人称!」
イザベラが声を張る。
馬車の中がシン、と一気に静まり返り車輪が舗装された道を転がる音しか聞こえなくなった。
その沈黙を破るのは、ジェイドが鼻で笑う声。
「……僕はもう子供ではないんですけどね。母だと言い張りたい貴女を立てて差し上げますよ、バロネス」
バロネス。男爵夫人。
その単語を聞いたシャルロットはジェイドの横顔を注視する。つまりイザベラはアイスフォーゲル男爵夫人と呼ばれるに値する人物なのだろう。
ジェイドも貴族だと言う訳か、ならば納得の魔力量である。ジェイド程の力の持ち主ならば、王族でも可笑しくはないと思っていたくらいだが。
それにしても引っ掛かる所がある。聞いても良いものだろうかとシャルロットは考えあぐねていた。