17 無価値の価値
「ふぅ……」
柔らかい枕をポンポンと軽く掌で叩いてから、そこに頭を乗せる。そうしてシャルロットはもう眠りに就こうとしていた。
アレから一度街中へと戻り、置いてけぼりにしてしまったギルド職員一同に平謝りしてからグリフォンの回収をお願いした。任務を受けたジェイド本人がいない事について少し文句を言われたものの、誰も仕留められなかったグリフォンをこの短時間で堕とした彼は当然のように感心された。
然し、ギルド職員の一人が小さく呟いたのだ。
「まるでどっちが化け物か分かりゃしませんねぇ」
シャルロットはその言葉が聞こえない振りをしたし、職員の彼も何の気もなくただ当然の感想を口にしただけなのだろう。
けれど、それは彼が化け物のような力を持っていても実際化け物ではないからそう言えるのだ。
同じシュルクとして理性が働き対話も出来てしまう対象だからそんなのんびりとした事が言えるのだと、先程シャルロットはボロボロの姉を目の当たりにする事で知ったばかりである。
夜中は孤独のままだと夢遊病に飲まれてしまうと知ったら、彼らのジェイドに対する尊敬は忽ち畏怖の感情に押し流されてしまうのではないだろうか。
本人も意図しない形で、真夜中の彼は破壊に走る。その力がオリクトに振るわれている分にはまだいい。然し、それがシュルクに向かないなどと誰が保証してくれるのか。
そして、それに苦しみ恐怖しているのは誰でもないジェイド本人なのではないだろうか。
シャルロットはギルドに戻ってから、ジェイドの持つ口座に今回の仕事の額が振り込まれるのを確認してから宿に向かうのだった。
仕事を受けたのはジェイドなのだから、本人がその場にいなくとも契約通りに彼の口座に振り込まれるのだ。そうして仕事は完了となる。
シャルロットが一人ならば逆立ちしても稼げないような額が入金された事を示す証明書を彼の代わりに受け取ると、ベリオスの石など要らないような気にもさせられるから不思議である。
ジェイドは本当に遊びに行ってしまったらしく、宿に入る前に少し街中を探してはみたのだがどこにもその姿は見当たらなかった。
今頃酒場か、はたまた娼館か。本人の金で自由な時間を過ごすというのだから、どうこう言うつもりもない。元より少し疲れてしまったのも事実だ。
明日こそ魔法の手ほどきをしてもらおうと思いながら、シャルロットは眠ろうと目を瞑るのだった。
一方その頃ジェイドは、オリクトもろくに持ってない為通常通り金貨を払って娼館の中にいた。
この近辺では最高級の娼館の中で、通常ならば予約待ちの一番人気の娼婦を大枚叩いて買い、現在二人で風呂場の中にいた。
然し類稀なる美貌を持つ女の裸体を見ても何だか心にどんよりと雲が掛かったかのようでテンションも上がらず、心は晴れずにいた。
流石高級娼婦。美しく整った顔立ちに、後ろに纏められた柔らかい色合いの栗色の髪が華やかな印象を見せてとてもよく似合う。
彼女の抜群のプロポーションを持つ身体を求める男は少なくなく、それは売上に顕著に現れて彼女を娼館一──否、この街一の女へとたらしめていた。
丁寧な手付きで椅子に座る客の背中を流すのも彼女の仕事のうちである。
その間、ジェイドの背に刺青として刻まれたグランヘレネの国章を見ても顔色一つ変えずにいたし、それはどうしたのかと問う事すらもしなかった。客のプライベートに深く踏み込まないように教育されているのだろう。
これが男達に拉致された後、宿屋の主人に着替えさせられた時に見られたものだ。
地を天とするかのように、逆さに彫られた十字架。大地を司る女神を信仰する国としては正しい形であるのだろう。
その十字の交差する部分を囲うように古代文字で祈りの言葉が綴られているそれは、通常のグランヘレネの国章とは細部が違っていた。
例えば右上の辺りに十字架を抱くように彫られた、額が青紫の黒い鳥。十字架自体は黒一色だから然程違和感はない筈なのだがそこに配置された鳥は、まるで後から追加されたかのような違和感を見せる。
極めつけは十字架の縦棒の部分。
娼婦は少し前の過去を思い返していた。グランヘレネからの客が持っていた聖書の裏表紙の国章はこのようなデザインだっただろうか、と。彼女は学はないが知識はある。伊達に数え切れない程のシュルク相手に対話をしていない。
「……」
それにしても娼婦が黙っているのを良い事に、ジェイド自身も完全に無愛想な客と化していた。
彼女も仕事中である。接客する者としてのプライドがあるものだから、勿論最初の内は「どこからいらしたの?」だとか「お仕事は終わり?」などと当たり障りのない質問をしていたのだ。
それに対してジェイドの返事はほぼ上の空。背中に何度目かになるか分からないお湯の温かさを感じながら、彼は湯けむりの中で全く別の事を考えていた。
そもそもここ最近色々とあり過ぎるのだ。
久々に不可抗力だったとはいえど、人を殺した事だとか。
自分にとっては癖のようなもので今まで病気などとは思った事は余りないのだが、睡眠がままならなくなりつつある最近の事を考えると病気と認めざるを得なくなってきたオリクトへの反応、だとか。
それが今までは夜だけだったのにも関わらず、昼間にも反応するようになってきた事、とか。
そう言えばグリフォンを倒しに行く前に声を掛けてきた男は何者だったのか、とか。
大体シャルロットも、オリクトの輸送に姉が関わっていた事を何故先に教えてくれなかったのか、だとか。
リーンフェルトはあの後どうなったのやら、だとか。
今まである程度妥協した末に適当に生きてきたジェイドにとってはどの悩みも、一部は逆恨みのような内容のものもあるが最終的には己に帰結してしまい、まるで自分に非があるのだと言われているかのようで耐え難い。
別に誰に言われた訳でもないのだが、彼は自分で自分の首を締めている。ジェイドは“ジェイド・アイスフォーゲル”という一人のシュルクの価値が、ただ一人だけで落ちるのが嫌なのだ。
総ての問題は自分自身にあると、もう一人の自分が詰ってくるような感覚に息すらも詰まりそうである。
「……もう寝る」
「えっ?」
突然立ち上がったジェイドの背を、娼婦の女はキョトンと見つめるしかない。
誰もが羨む程の女を買って、何もしないで寝るというのだ。ジェイドにとって彼女はその程度の価値しかない。
否、彼女を貶めている訳では決してない。逆だ。
“総てのシュルクの価値は同一であって欲しい”のだ。それは自分とて例外ではない。
人はそれぞれ、誰かと比べて抜きん出ていたり劣っていたりしている。
頭の良い者、悪い者。
魔力のある者、ない者。
力のある者、ない者。
運のある者、ない者。
他にも人格、人脈、血筋……様々な要因が人一人を形成している。
絶対に完璧な平等などという物は有り得ないし、平等を望む者は自らが劣っている者だと自白しているに他ならない。
富と権力を持つ者がわざわざ下々の者に合わせてやろう、などという考えは持たないだろう。それは権力者の“ごっこ遊び”に過ぎないのだ。平民の遊びをする貴族がいても、彼らはそのまま平民にはならない。
一部の“持つ者”は偽善が生み出した欺瞞、或いは夢想に囚われるのかもしれない。それはそれで幸福な者なのだろう。地位も金も棄てるだけ棄てて、代わりに心が満たされる。そのような性癖の者の話は脇に置いておこう。
兎に角。──にも関わらず、ジェイドは敢えて平等を望む。
魔力のあるジェイドは常日頃から自信のあるように振舞っては見せるが、それは絶対に自分を裏切る事のない量の魔力があるからだ。今まで魔力切れになった事もほぼない。
逆に言えば自分にはそれくらいしかないのだ。ただでさえ夢遊病というハンデを持ち、ここ最近は更に追加でオリクトを破壊する癖を持ってしまった。
一応他人と寝るという事が解決策にはなっている為、それを差し引いて尚均衡が取れているとさえ本人は思っている。彼の中で溢れ出る魔力と、それを扱う自分は決して100ではない。差し引いて漸く0だ。そして0のままで良いとしている。
見せびらかすような派手な魔法を行使するのはいい。それはプラスだ。魔力や魔法はそういう扱い方をすれば周囲が勝手に相応の価値を算出してくれる。けれど、それを扱う自分自身がマイナスにする。
どうしたって、0がいい。いいや、0でいいのだ。それ以上は望まないから、他人も自分に対してそれ以上を望まないで欲しい。
ベリオスの石を持ち安易に己に付加価値を付けるのも嫌だ。然もそれはやはり己の価値ではなく、己の魔力の価値を示す物なのだから。
何ヶ月も何年も同じ地に留まり、変に有名になるのも嫌だ。
けれど誰にも見てもらえず、晦冥の奥底にてただ一人冷えていくのも嫌だから夜は女と共に過ごす。
生温い停滞の中で揺り籠に揺られて微睡むように、目立つ事もなくただ静かに沼の中に沈むかのように生きていきたいのだ。そうは言ってもここ最近はやたらと目立ちすぎる。
価値が揺らぐという事は彼の胸中すら共に揺らぐ。下がる己の価値と共に本日大金叩いて買った女もとい、世に生きる総てのシュルク達も共に価値を下げて欲しい。だから今夜はただ大人しく眠るのだ。
こうしてジェイドという男の世界は漸く平静を保つ事が出来る。
ギルドの仕事をして金を得る。
ヘルハウンドに襲われる街を見捨てかけて、多数のシュルクに力を望まれる。
オリクトを渡して身体を開いてもらう。
勁烈な力を持ったままそれを易々と人の為に使うのではなく、払える対価がないと言うのならまるで人でなしのように振る舞う。
一つ何かをしてやるにしても、絶対にタダではやらない。プラスにもマイナスにもしてはならない。
シャルロットについては初めて夢遊病に陥っているところを見せて、それに対して意見を貰えたのだから面倒見るくらいは良いかもしれないと思えてきたところではあるのだが。
総てのシュルクが皆自分と同じく0に、だなんて傲慢の極みだ。自分の価値が0より下がるのなら皆も下がれ、だなんて狂言も良いところ。彼自身も分かっている。
それでも彼は我慢ならないのだ。魔力を差し引いた後に残る自分自身の無価値さに耐えられそうにもない。だからそれから背を背ける。
存外臆病な彼は総てから逃れるように、ベッドの上で目を閉じた。