100 手を取り合って
立つのもやっとなジェイドに、マトモに動けないスヴィア。二人の成人男性を支えるように手を伸ばすシャルロット。
普段魔力に満ち溢れているジェイドと、こんなにも酷い怪我を負っていないスヴィアならばこのような地下から脱出するなど造作もない事だが、残念ながら現在の二人はこの場に立てている事が不思議な程に消耗している。
それでもジェイドはやらなければならない。今度こそ、救うと約束したのだ。
「ったく……加減しとけっての……ここまでブッ壊れるとか早々ないんですけどォ」
「それはこっちの台詞だ……人殺しといて良く言う…………」
「お、お二人共喧嘩はしないで下さいね!? しても構いませんが後でにして下さい……!」
双方に殺気はないがぶつくさと文句を言い始めたスヴィアに対し文句を返すジェイドを見て、シャルロットは焦る。
もう言い争っている時間などないのだ。
彼女の焦りを具現したかのように、部屋の一部の天井が入口の方から瓦解してきた。
その辺で狂い、争っていたグランヘレネ兵が数名瓦礫の下敷きとなる。
「オイオイ、ヤベーぞジェイド! 早く助けろ!」
「分かってるよ全く……友人遣いが荒いな」
取り敢えず、余る魔力を掻き集めて脱出用の魔法を放とうと目を瞑る。
脱出するだけならば恐らく簡単だが、その後安全な場所まで移動するとなると相当難易度が跳ね上がる。
さてどうしたものかと悩むのも良いが、まずは脱出する事が先決だと魔法陣を展開した、その時だ。
「ああ君達、ちょっと待ってくれると嬉しいのだが」
ふと、第三者から声を掛けられた。
最早ジェイド達以外には狂人の姿しか見えないこの場所で、マトモに言葉を紡げる者がいた事に驚きを隠せない。
周囲に視線を巡らせれば、その姿は見えた。書類や書籍の積み上がる簡素な机のその脇で、何者かが片手を挙げて緩く振っているのが見えた。
目が合うや否や、彼は困ったように眉尻を下げて気さくに笑い掛けてくる。
「ははは、ご覧の通り腰が抜けてしまってね。脱出するのなら私も連れて行っては貰えないだろうか?」
先程から姿が見えなかった学者風の男だ。この場にいるという事はヘリオドールの調査をしている者なのだろうか。
どうやらジェイドがグランヘレネの兵士を昏倒させていた辺りから、危険を察知して机の影に隠れていたようである。
抜け目のない男だ、とジェイドは感じていた。
「……君はグランヘレネの者だろう? 悪いがこの場にいるグランヘレネの民は、スヴィア以外は置き去りにするつもりだ。自分の力で何とか脱出してくれ」
ジェイドは決意を吐露する。
グランヘレネ皇国において、大人になれた者というのはそもそも儀式を受けなかった者か、運が良く儀式を乗り越え生き長らえているかのどちらかである。
然し、男はどう見てもスヴィアよりも長く生きているような姿をしていた。
儀式を乗り越えたとしても、ここまで歳を重ねられた者がいたという話は今まで聞いた事がない。
ジェイドやスヴィアは子供の頃よりよく聞かされていた。
今まで儀式を受けて三十を超え生きられた者はまずいないが、それは女神様からのお招きによるものであるから嘆く事などない、と。
儀式内容は詳しくは知らずただそれだけを聞かされていた上で、儀式を受ける日を楽しみにしていた。あの頃は子供ながらに、無邪気に狂っていたのだと思う。
更に、儀式を乗り越えたというのなら兵よりも前線に出ている筈なのだ。スヴィアのように。
こんな地下に引き篭もってのんびりと学者か研究者をしている時点で、彼は何の苦しみもなくのうのうと女神信仰に勤しんでいたグランヘレネの民の一人にしか見えない。
数多の屍の積まれた国土の上、水か風、闇の魔力を持たなかったというだけで、ただそれだけで人としての尊厳を持つ事を許され、教皇と共に自分達以外の異端の者を利用し搾取していた者達。
土のヘリオドールを破壊する所を目の前で見せ付けられて、発狂しなかったのは見事と言えるが。
然し、冷たく突き放すジェイドをスヴィアは窘めようとする。
「ジェイド、違うぞ……この人は……」
「私の名前はアウグストと言う。自身は研究者だよ。一応、アル・マナクという組織の総帥などという大層な肩書きも持っているがあまり気にしないでくれたまえ」
思い出しながら喋ろうとするスヴィアの代わりとでも言うように、男──アウグストは自ら名乗る。
「アル・マナクの……」
「オリクトの開発者の方が分かりやすかったかね?」
流石にその名を言われればジェイドとて分かる。世界的にも有名な名だ。
アル・マナク総帥アウグスト・クラトール。元ヘリオドール専門の学者で現オリクトの開発、販売に勤しむ組織のトップ。
それに何より、アル・マナク総帥というのならば────
「お姉ちゃんの……上司さん……」
ボソッとシャルロットが隣で呟いた。
その通り。リーンフェルトだけではない、カインローズの上官でもある。
成程、だからリーンフェルト達はグランヘレネ皇国にいたのだろう。これで合点がいった。
海沿いにいた理由は結局のところ不明であるが、アウグストが今この場にいるのならばまた近いうちに顔を合わせる事になるのかもしれない。
そう考えると、ジェイドの胃は急激に縮むような痛みを覚えた。
キリキリと痛む胃に眉を寄せ耐えていると、アウグストから不意に提案をされた。
「私の命が掛かっているからね。出し惜しみはしない。言い値で取引しようじゃないか」
「…………取引……」
彼がグランヘレネ皇国のシュルクではない事は分かった。助けないという選択を選ぶ理由が潰える。
それに、オリクトの開発者をこの場で死なせてしまうのは世界の損失にもなり得るだろう。
だがジェイドは悪い癖を持っていた。ものの価値を考えてしまうという点だ。
世界的有名組織アル・マナク。恐らく現金での取引を申し出たところで、彼には然したる問題でもないのだろう。
自ら言い値で、などと強気で出てくるくらいだ。国家予算にも匹敵する額を提示したところで、アウグスト自身の価値を考えてしまうと妥当か、もしかして下回るか。
兎に角大した痛手にはならないだろう。
ジェイドもオリクトを利用はしているが、その側面で二年間悩まされ続けていた事を忘れた訳ではない。
破壊したくなくても破壊してしまう事。それは彼の中に少しずつ虚無感や罪悪感を募らせていったのだから。
それに対してアウグストに何か罪があるとは勿論思えないのだけれど、八つ当たりのような提案をしたくなったのだ。
「……言い値と言うのなら、いくつか頼みがある」
「何だろうか?」
「まず、オリクトの開発者と言うのなら今もいくつか持ってるんだろう? 俺はもうかなり魔力を使ってしまったので、脱出するのにも少々不安定だと思う。安定させるのに使いたいので、これは必要経費と思って譲って欲しい。後は、サエス王国とグランヘレネ皇国への復興支援を。マディナムント帝国すら上回るような支援をしてやってくれ。それと…………」
ここからが本題だ、と言わんばかりに未だ机の側にしゃがみこんだままのアウグストをツイ、と見下ろした。
「……君は、リーンフェルトの上司なんだろう? 君の権限なり資金なり何でも良いから使えるものを全部使って、彼女をもう少しお淑やかに……大人しく、優しく、女性らしく! ……………………してやってはくれないだろうか」
「うん? 君はリン君の知り合いか何かかね?」
「そんなところだ」
こんなのんびりと会話している余裕などないのだが、トラウマは案外深かった。
正直、今現在進行形で鳴り止まない地響きが赤子の泣き声か何かのように可愛らしく思えてくる程だ。
凶暴な女性に襲われ意図せずして傷付けなければならなかった、忘れもしないルエリアの街付近での出来事。
そしてつい先日、腕を斬り飛ばされた事。
戦闘民族として生きていくというのなら好きにすればいいと思うが、癇癪を起こして話し合いの余地もなく攻撃してくるのは正直どうかと思う。
目の前にアウグストがいて、隣にはシャルロットがいる状況で今後逢う可能性がゼロであるとは言い切れない。
ならば、彼女自身が多少なりとも変わり適度なコミュニケーションを図れるようになって欲しいと思う事は切実な願いでもあった。
「女性として美しい容姿だと思うのですが、それではいけませんか?」
キョトンとするアウグストを見て、ジェイドは分かってないなと嘆息するしかなかった。
「見た目は整ってるが中身が釣り合ってない。……まあ、彼女を怒らせてしまったのは俺だけれど。怒ったからと言って一方的に攻撃してくるのは魔物でも出来る。アル・マナクの沽券に関わるのでは?」
その言葉をアウグストがどう受け取ったのかは正直分からない。分からないが、どうやら話は纏まるようだ。
「ふむ、分かりました。彼女には花嫁修業をしてもらう、と。それで宜しいかな?」
「花嫁……まあ、嫁に行けるかどうかは置いといてそれで大人しくなるならそれでいいよ。…………それじゃ、条件は飲んでくれるんだよな? 先程挙げた条件総て合わせても君の命はそれ以上の価値がある。大特価の安い買い物だと思って黙って飲んでくれると有難いのだが」
「この程度で命が助かるなら安いものですよ。私はまだまだ研究したいですからね」
交渉は成立。
国家予算を提示しても釣り合わない命の重さを持つ男を救うには、金では解決出来ない条件で釣り合いを図るのが妥当だろう。
その条件に組み込まれてしまったリーンフェルトには、是非とも頑張って頂こう。