10 暁闇の時間
シャルロットが見た光景はとても美しいものだった。
月明かりの中影の落ちる部屋、床はまるで砂浜のようにキラキラと輝いていた。
その床から立ち込めるようにして赤、青、緑、黄、白、紫……色鮮やかな色彩が煙のように立ち込め、空中で混ざり合う。暗い部屋の中に広がる光の粒子はまるで寒い日の夜の星空だ。
その中心にジェイドはいた。寝巻き姿で髪も結ばずに、美しい色彩達に嬉しそうに表情を綻ばせて笑う。
目を凝らしてよく見ていると、床に散りばめられたそれは硝子片だということが分かる。それを素足で踏みつけるジェイドは足跡の形をした血の痕を床につけていた。
にも関わらず、痛がるような素振りは微塵も見せない。ただただ、幸せそうに笑うだけだ。
その硝子片がオリクトである事にシャルロットが気付いたのは、ジェイドの次の行動を見ていたからだ。
手に握り締めたBランクの、緑色に輝く風のオリクト。それを大きく振りかぶり床に叩きつける。
そうすると派手な音を立ててオリクトは無残にも砕け散り、風の魔力が緑色の煙となってふわりと立ち込め空気中に混じり合い、一層美しい霧を作る。
冗談じゃなかった。
シャルロットは全力で止めるべく部屋に押し入る。ジェイドはペタペタと紅い足跡をつけてベッドに歩み寄ると、シーツの上からAランクの青い──水のオリクトを手に持った。
ジェイド自身が、酒屋で目につけた女に配る用に持ち歩いているオリクトだ。ジェイドの物なのだから好きにさせるのが道理なのかもしれないが、貧乏性のシャルロットには許せない事だった。そのオリクトや、オリクトを売った金で一体どれだけの民が助けられるのか。
人の世の為に使うべきオリクトを使って割るなら未だしも、まさか無惨にも魔力を使う事もなくただ叩き割るだなんて。
「先生何してるんですか! やめて下さい……っ!!」
シャルロットは必死に後ろからジェイドを羽交い締めにして止めようとする。全力で締めているのだから、また痛がらせてしまうかもしれないが構わなかった。
シャルロットはそう思って、手を緩めるような事はしなかった。──筈なのに。
「……!?」
簡単に跳ね除けられてベッドの上に突き飛ばされる。ベッドの上からいくつものオリクトが転がっていってしまった。それをジェイドは拾い上げ、一度二度と掌の上で跳ねさせてから思い切り壁に叩きつける。
哀れAのオリクトは木っ端微塵に粉砕され、青い光をふわりと空気中にばら撒くのだ。
「どうして……」
シャルロットの弱々しい声には二種類の意味がある。一つは「何故そんな事をするのか」という事。
もう一つは「何故自分の怪力を跳ね除ける事が出来たのか」という事。
少女は自分の力が相当強い事を知っていた。
成人男性にだって引けを取らない。否、それ以上である自信すらあった。その力はある意味コンプレックスでもあったのだが。
なのに、結果はこれだ。
彼女の言葉に回答は出ない。
少なくとも、今この時間はどれだけ疑問を投げ掛けても一つだって解を示される事はないだろう。
この世に改革を齎した素晴らしき希望の石が叩き割られる悪夢の夜は、朝まで続いた。
「……」
正気に戻ったジェイドは部屋の惨状に唖然とした。
血塗れの足、汚れた床。
オリクトがぶつかり傷付いた壁や床。
ベッドの上で毛布に包まり三角座りで眠るシャルロット。
粉々になり一つとして残ってはいないオリクト達。
それらが窓から射し込む朝日に照らされ、平和と狂気の二面のコントラストを綺麗に分けて映し出していた。寧ろ窓ガラスにオリクトが当たって壊れなかった事が奇跡に等しい。
「…………もうやだ……」
分かってはいた事だから覚悟はしていたが、それにしてもいつもよりも酷すぎる室内の状況に完全にやる気をなくし、深く溜息を吐きながらジェイドはシャルロットの隣にうつ伏せに倒れ込む。
その衝撃でシャルロットは目覚めた。
「はわっ!? お、おはようございます……!!」
「おはようございます……この部屋の状況見てよく眠れたな君は……」
うつ伏せになったままの師を見てシャルロットはまず謝罪を口にした。
「あ、あの! すいません先生、お約束の時間に三十分遅れちゃって……それで、その、怒ってあんな事しちゃったのかと……」
「…………そんな事だけでこんな事するか馬鹿。ああもう足痛い……魔力もかなり減ってるのに……」
ぶつくさと文句を言いながらもジェイドは魔力を足に集中させる。
すると、爪先からとめどなく床に垂れる血液に混じりキラキラと光が床に零れ落ちていく。オリクトの破片だ。
パタッ、パタッ、と一定の間隔で液体が床を叩く音。それはオリクトの破片が身体の中から総てなくなるまで続いた。
「痩せそう…………」
望まぬ出血はジェイドの身体を物理的に軽くしているかのようで、彼の意識もだんだんふわふわとしてきた。
ベッドの柔らかさが気持ちいい。このまま眠ってしまいたいが、今日こそ食事を取らないと不味い気がする。足の傷を回復魔法で塞いでしまうと、ジェイドは何とかベッドの上に座る。
「はー…………」
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫に見えるなら、君の目は両目ともオリクトと偽って売り払った方が良いぞ……」
心配そうに見つめるシャルロットの相手をする事すら今は煩わしい。雑な対応をしていると、シャルロットはそっとベッドから降りた。
「と、兎に角私はこのお部屋を出来る限り片付けますので……先生はお休みになられてて下さいな!」
「そうする……きっと俺、寝てなかったんだろうから」
シャルロットがいなくなりスペースが空いたベッドの上、ジェイドはもぞもぞと毛布の中に包まり横になる。
その背を見届けて、シャルロットは箒などの掃除用具を借りにロビーに向かおうとして──一つ、気付いた。
「……?」
けれど、今眠ろうとしている師にそれを問うのは気が引けてしまった。
どんなに気の良い宿屋の主人でも、あそこまで部屋を汚されたら怒って当たり前だった。
というかオリクトを割ったりシャルロットを突き飛ばしたりと、深夜二時に暴れていた為に左右の部屋からクレームもあったようだ。
ジェイドは更に詫び金を積んで主人や宿屋の関係者に謝罪をした後に、シャルロットを連れて宿を後にした。
一応最後の情けで主人が時間をくれた為に、シャルロットがジェイドの新たな服を買いに走る時間くらいはくれた。
宿屋の寝巻き以外に着る物を失ったジェイドは靴にシャツ、カマーベストに外套など、似たものを買ってくるように指示して少女に金を渡した。
靴に至っては爪先がシャルロットのおんぶにより酷く傷ついていたので、いいタイミングで買い替えになったと思えるくらいだ。
ほぼ同じ物を買ってきてくれたシャルロットに感謝はしているが、彼女にほぼ全身のサイズを知られてしまった事が凡そ腑に落ちないジェイドであった。
そんな二人はギルドで仕事を選びがてら、休憩用のスペースで食事をしていた。
「酷い目にあった……」
「それはこちらの台詞ですよっ」
宿屋の主人にこっ酷く叱られた二人は揃って焦燥しきっていた。こんな日に働くなんて以ての外と言いたい所だが、ジェイドが手持ちのオリクトを総て壊してしまったのだから仕方がない。彼も貯金がない訳ではないのだが、ここ暫く仕事らしい仕事はしてなかったのでオリクトを買い直す為に引き落とすという事もしたくはなかった。
故に仕事を探す事にした。今回はシャルロットもいるので、彼女の勉強も兼ねての仕事だ。
「先生、お怪我は大丈夫なんですか……?」
シャルロットは心配で、もう何度目かになるか分からない質問を投げ掛ける。その度にジェイドは溜息を吐いて回答するのだ。
「もうその質問止めないか……? 大丈夫だ、怪我は完治した。ただそれに使った魔力が多過ぎるから、こうして食事してるんだろ」
そうして水の街ヴェルディのギルド特製フレンチトーストを口に運ぶ。
「まさか昨夜、素足でオリクト踏みまくるなんて思わなかったし……お陰で無駄に魔力使ったし……腹の傷も起きたら治そうと思ったのに寝れなかったから、結局足の傷治すついでに治してしまったし……」
「先生、それなんですけど……そろそろ順を追って説明して頂けませんか? 私、チンプンカンプンで……」
「……」
食べながら愚痴るジェイドの言葉の至る所に学徒は手を挙げて質問する他なかった。昨日、どうしてあんな事が起こったのかシャルロットは未だに聞いてはいなかったのだ。
だからジェイドは一つ一つ順を追って説明する事にした。
シャルロットを騙した二人組に、シャルロットと間違えて拐われてしまった事。
その二人組はヘルハウンドの子供を殺して誘拐の道具としたので、もうヘルハウンドは救いようがない事。
その二人組に暴行を加えられた後に、何とか逃げ出してきた事。
ヘルハウンドの死を聞いたシャルロットは表情を曇らせたが、ジェイドへの暴行を聞いた瞬間に一気に血相を変えた。
「先生に暴行を!? 許せませんね!!」
シャルロットはその話に怒りを顕にし、フォークで思いきりステーキの乗った皿を突き刺した。
皿の上のステーキは風圧で粉微塵に砕け散り、その下の皿もいい音を立てて弾け飛んだ。
「……」
「……」
「……」
「……」
周囲の者達はジェイドとシャルロットのテーブルを戦々恐々とした様子で見つめていたが、一番戦々恐々としたいのは目の前に座っているジェイドだった。皿の破片で誰も怪我していない事が、本当に有難かった。
ジェイドはそっと立ち上がり、カウンターに布巾を借りに行った。
ただ一つ言える事は。
あの二人はシャルロットを誘拐しなくて正解だったということだ。どっちにしろ彼らの計画が上手く行くことがなかったであろう事は、火を見るより明らかである。
シャルロットは怒りに興奮しながらも一人合点がいった。ジェイドは血塗れで街頭に立っていたが、あの血はきっとジェイド本人の物だったのだろう。
手酷い拷問に合いながらも、彼は回復魔法で粗方治してから自分の前に戻ってきたのだ。
そう思うと彼女は目頭が熱くなるのを感じていた。