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暁闇のヘリオドール  作者: 沙華
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1 その男、不遜につき

 右隣に座る女の咥える煙草から立ち上る、視界を霞ませては揺らめく煙。

 その紫煙を指先一つで起こした一陣の風で掻き消しては、周囲の女達から賞賛の声を浴びる。


「すごーいジェイド様ぁ」

「ねぇ、他にはどんな事が出来るの?」


 ここは水の国サエスの王都より外れの街、ヴェルディのとある酒場。馴染みのない一見の客が本日、扉を叩いたのだ。


 きゃあきゃあと耳に触れる甲高い声に、青年は人の良い笑みを浮かべた。

 先程魔力満タンのAランクオリクトを手渡した女はジェイドと呼ばれた男に対し、まるで恋人のようにしなだれかかる。

 周りの女達も彼女がプレゼントされたような石ころが欲しいのだろう。何せAランクのオリクトと言えば貴族が持てるような代物だ。

 だから彼女達はおこぼれ欲しさに甘ったるい声で媚を売る。随分と分かり易い様相だ。


 オリクト。

 ここ二年程前から北のケフェイド大陸にある機関、アル・マナクが開発し世に爆発的に広まった、魔力を蓄積させた石。

 見た目は硝子玉、或いは宝石のよう。

 “火起こし要らずで火を起こせる”との謳い文句で庶民に広まった、高密度のエネルギー体。人々の暮らしはオリクトの出現により、随分と楽になった。

 火のオリクトのお陰で、寒さで凍える者が減った。水のオリクトのお陰で、喉の渇きに喘ぐ者が減ったのだ。


 オリクトは最初こそ空だが、中に魔力を貯めてやる事で使えるようになる。

 火の魔力を貯めたなら火のオリクトに。水の魔力を注いだなら水のオリクトとなる。

 中の魔力を使い切ると割れてしまうが、ランクが高い物であればある程長持ちする。代わりに、高ランクの物である程魔力を注ぐ時間も──それこそ最低ランクのEの物でさえ満たすのに二日はかかる、筈なのだが。


 黒い長髪を右側頭部で結った青年、ジェイドはほぼ一切の時間を要さずに空だった、オリクトの中でも最高ランクであるAランクの物の中身を魔力で満たしてみせた。

 そしてあろう事か、金持ちしか手に出来ないようなそれを隣の席で別の男の接客をしていた娘の着ていた、挑発的にまで大きく開いたワンピースの胸元に差し入れてこう告げたのだ。「今夜は俺と過ごさないか?」、と。


 当然のように彼の座るソファは女に囲まれる事となった。もし、オリクトを手にした彼女のように自分にも興味を示してもらえたなら──そう、一抹の期待を胸に抱いて。

 だから彼女達はジェイドを煽っては持ち上げ、褒め称える。

 彼は彼女達の期待に応えるかのように、焦らすように。先程から魔法で様々な事を起こしてみせた。

 水を喚びそれを凍らせ、水晶のように瞬く小粒な氷を創っては出されたカクテルの中に沈めてもみせたし、フルーツの盛り合わせは風の魔法で切り刻み配置を変えて花のように美しく並べてもみせた。

 最早煙草の煙を風で掻き消した程度でも上がる歓声。彼女達にとってこの時間はどうでもいいのだ。オリクトさえ手に入れば。


 勿論当事者であるジェイドは彼女達が何を欲しているか手に取るように分かっていたから、困ったような穏やかな笑顔の下で人の堕落を胸中にて嗤っていた。自嘲の意味も込めて、だ。

 今夜の分の女との時間は取り付けたのだから、彼はもうオリクトを出す気が更々ない。それに気付いてか気付かずか、彼から離れようともせずに囲う女達。

 低俗極まりない泥のような空気と女達の化粧品や香水の香り、それに更に混じる甘い酒の匂いの中でジェイドは実に、実に。気分が良かった。


 オリクトの出現により人々の価値観が変わった。オリクトさえあれば何とでもなる事が増えた。

 便利になった世の中では度々こうして、人々の欲が浮き彫りに見える。石ころ一つで経済も人も動くのだ。

 ジェイドは自分自身の欲の為に、夜な夜な大衆酒場にて気に入った女に声を掛ける。その都度こうして、金よりは軽いし持ち運び易いからとオリクトを手渡すのだが、自分の為とはいえ毎度“こう”なる。

 分かり易い欲は彼にとっての「安価な取り引き」を成立させる。彼は人の欲と己を嗤いこそすれどそれら総てを嫌う事はなく、寧ろ愛した。


 さて、この不遜な笑みの青年。

 名をジェイド・アイスフォーゲルという。特徴的なのはその目元。困ったような眉に三白眼。

 瞳の色は上半分が紫陽花にも似た紫、下半分が抜けるような緑という特異な瞳をしていた。

 頭の右側で結われた髪を揺らしながらソファの上で脚を組み換え、テーブルの上に山盛りに積まれた菓子やフルーツに手を伸ばす。周りの女達が彼のテーブルに勝手に運ぶのだ。

 食べる手は止まらない。高カロリーな菓子ばかりをメインに延々と食べているような食欲の持ち主にも関わらず、身体は同身長の男性と比べれば幾分か細身かも知れない風体をしていた。


 周りの男達はさもつまらなそうに遠巻きからジェイドを眺めていたが、相手はオリクト一つをすぐさま満タンに出来るような魔力の持ち主。

 揉めればまず勝ち目はない事は彼らはよく理解していた。

 ジェイドは周囲の羨望や嫉妬、欲望などの汚れきった視線に臆する事もなく酒を煽る。 カルヴァドスをライムとグレナデンシロップで割った、赤い色が鮮やかなジャック・ローズ。

 甘くフルーティで飲み易いそれを、もう数えるのも馬鹿らしくなる程に何杯も飲んでいる。


 飲み易いからこそカクテルは何杯も飲んでしまうものだが、酔い潰すにはうってつけのそれを次々と作るのはやはり周りの女達だ。

 先程から酒の運ばれるペースが早い。そろそろオリクトをいつまで経っても取り出さないジェイドに、痺れを切らしてきたのかもしれない。

 酔い潰して身ぐるみでも剥ぐつもりか。そんな思考の持ち主達だから、国からほぼ追いやられるような形でこの街に住み着いたのだろう。

 ここは水の都周辺の街の中でも特にガラの悪い者達が集まる。

 国の保護下にあるのは表面上の話。実際にはこの地域は見放されてるにも同義だったが、本人達にとっては居心地が良いのだろう。賭博も売春も平気で横行するような街だ。


「大変だ! 街に魔物の群れが……!!」


 そんな場所に魔物の群れが向かっていても、国から真っ先に派遣されるような兵士は一人もいない。

 酒場に転がり込むように入ってきた男の声に、店内がどよめく。数人が外に出ると遠く、森の方からこちらへ向かってくる黒い影。恐ろしい量の魔物の波が右往左往と蛇のように迫ってきていた。

 周囲の家屋からは既に避難を始めている住民の姿も見える。街の外周に位置するこの酒場はすぐに魔物達に押し潰され、餌食になるだろう。

 こうした知らせがあるならば避難は容易い。避難だけならば。然しこの街の住民達は街を失えば行く所などないのだ。

 暗がりで生きてきた者達は、陽の当たる場所へは行けない。


 頭髪の乏しい酒場の主人が顔面蒼白になりながらジェイドのテーブルに向かう。


「おいアンタ! さっきから見てたが相当強い魔術師なんだろう!? この街を助け──」

「報酬は?」


 ──しん。

 店内がジェイドの言葉に静まり返った。主人に目もくれずに言い放った当の本人はその店内の重苦しい雰囲気を鼻で笑い、続ける。


「俺はこの街の住民じゃないからな。助ける道理はない。そうだろう?」

「けどアンタ……金もオリクトも魔力も持ってるんだろう!? これ以上何を望むって言うんだ!!」

「持つ者が持たざる者を無償で助けろだなんて、虫が良すぎる話だと思わないか?」


 グラスを傾け中の紅い液体を舌で転がしながら、ジェイドは遂に酒場の主人へと視線を向ける。

 不可思議な瞳の色に見つめられ、主人は言葉に詰まる。


「それに“持たざる者”じゃないだろう君達は。……なあ?」


 その瞳を今度は隣に座る女へと向ける。オリクトを渡した女だ。

 彼女は先程までの態度とはうって変わって、彼の瞳に射貫かれさっと視線を逸らす。

 そう、彼らは持たざる者なんかではない。持っているのだ。Aランクの火のオリクトを。


 オリクトは魔力の塊。

 Aランクのオリクトを毎日の調理など、家事程度の作業に使うなら何年でももつだろう。然し、一瞬で爆発的にエネルギーを放出させたなら?

 それこそ中には大量の魔力が詰められたAランク。魔物の群れなど跡形もなく吹き飛ばす事が可能だろう。

 然し、彼女はそんな事で折角手にしたオリクトを消費したくなんかない。オリクトは中の魔力を使い切れば割れて粉々になってしまうのだ。


 周りの者達も、“分かっている”から彼女に真っ先に声を掛ける事はしなかった。

 使えば使ったっきり返って来ない宝物より、無尽蔵に魔力を捻り出せる者が対応してくれた方がいい。この場にいる者は全員そのように考えていた。ジェイド以外の全員が。


「……ま、いいか。それは君にプレゼントしたのだから好きに使うといい」


 そんな、自分達の街を護る為にすら立ち上がろうとはしない女の背に対してジェイドは至極穏やかに笑いながら、グラスを置いて立ち上がる。

 彼女が振り向く事はなかった。


「さて、と」


 ジェイドは酒場の主人へと向き直ってはゆっくりと歩く。座っている時には目立たないが、長身であるが故に厭に威圧的だ。


「“報酬”は頂いた。その分は働いて来よう。酔い覚ましにもなるだろうしな」


 すれ違いざまに彼は、主人の耳元へそう告げる。勿論この場にいる誰もが何も彼に対価らしい対価を払ってはいない為疑問に思い、そして焦る。

 本当に魔物と戦ってくれるのか。このままどこかへフラリといなくなってしまうのではないかと。

 何一つ物品や金銭を払う事をせずに取り付けられた口約束の、何と不安定で恐ろしい事か。

 この街の住民達は最早祈るしかない。神でも何でもない、一人の男に対して。


「俺達は何も払っちゃいないが……」

「そう思っているのは君達だけだ。帰ってきたらまた美味い酒でも作ってくれ、マスター」


 本当に退治してくれるのか──そんな確認は遮られる。何もしていないのに、既に対価は支払われているというのか。いつ、何を、どうやって。

 勿論そんな細かい確認は出来る筈もなかった。彼は、させなかった。


 ジェイドの尾のように揺れる長い黒髪が風に遊び、酒場の扉から出て行く。


 綺麗な紅い月の夜の事だった。


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