62 校長室2
お待たせしました。
(あれ?)
一瞬俺は、自分の目を疑った。
小夜子さんの言葉を受けた瞬間、結衣の子供のように怯んだ表情がスッと消えて、初めて会ったときのような大人びた表情に変わっていった。
落ち着き払った様子で左手は俺の手を握ったまま背筋を伸ばし、居住まいを正す。
目の前の教師たちをその大きな瞳で真っ直ぐに見据えて、結衣は小さな唇をゆっくりと綻ばせながら、いつも以上に涼しげな声で言葉を紡いだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は裕一さんと結婚したいです。
裕一さんは私が欲しいものを、全部用意してくれました。
私は高校生活を続けたいです。唯先輩がいて、友達も作って、勉強したり図書委員の仕事をしたり、中学の時にはできなかった部活動をしたり、当たり前のことがしたいです。
私はお母さんや妹に無理をかけたくありません。そして、安心してほしいです。
私は裕一さんと一緒にいたいです。優しくて、時々厳しくて、でも甘えさせてくれて、大きくて温かくて、お父さんみたいで一緒にいてすごく安心できるんです。それから、しっかりしているようで、たまに無理してしまうから、目が放せなくて、お世話のし甲斐があって毎日がとても楽しいんです。
そんな裕一さんのために、私ができることを精一杯したいです。
だから先生……、私は裕一さんと結婚したいです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いーんじゃないですか、吉井先生?」
結衣が一通り述べたところで、堅苦しい空気に満ちていた室内には場違いな間延びした声が響いた。
声のしたほうを見ると、それまで黙っていた芝崎先生が両手で口元を隠しながら大欠伸をしていた。続いて首を左右にゴキゴキと音を立てて傾けながら、眠たそうに両目と鼻の間を右手の人差し指と中指で押さえた。
よく見ると、芝崎先生の目の下には寝不足によるものと思われる隈が見受けられた。
そういえば今、この学校はテスト週間だった。吉井先生の目元も似たような感じだ。
彼は今度は大きく伸びをした後、ふぅっと短く息をついてから、吉井先生を見て言った。
「二人がご両家公認で婚約したのは明らかですし、肝心の私たちの生徒である須藤さん本人の意志は今、確認できました。法的問題も、倫理的……否、この場合、道義的(?)な問題もクリアです。こうして学校にまで報告に来られるなど、通すべき筋は通してますし、これ以上の問答は必要ないでしょう。と、言うより……学校側で問答したところで、どうなるって言うんですか? 不純異性交遊とかならいざ知らず、結婚するって言ってる男女に干渉する権利は学校にはないでしょう?」
「いや、まぁ、確かにそうなんだけどさ……」
唸るような声を出しながら、吉井先生はしばらく俺と結衣の方を見て、何かを諦めたようにソファの背凭れに体重を預けた。
自然に背広の胸元に手を入れて、ハッと気づいて気まずそうにその手を背広から抜く姿は、どうしようもなく行き詰った自分のために一息入れたくて、無意識のうちに煙草に手が伸びたようだった。
結局、吉井先生は大きくため息を一つついて、腕組みしながら疲れたように口を開いた。
「いや、まぁ……芝崎先生の言うとおりだよ。でもな……俺、この子の担任なんだよ。親御さんにとって宝物である大事な子供を預かって、その進路について本人の意思を尊重しつつも責任もって指導する身なんだよ。それがだよ……いきなり「結婚します」だろ? いろいろな事情で行き詰った生徒なんて今まで何人か見てきたけどさ、こんな進路選択する生徒は初めてだからさ……担任として責任もって何て指導すりゃ良いか見当がつかんのさ。漠然とした不安だらけでな、この子に「お前の好きにしろ」って簡単には言えないんだよ。ここで何も言えずに須藤にこの先何かあったとき、俺はデッカイ後悔に苛まれそうで敵わんのさ。……ああ、否、別に俺に止める権利はないけどな」
吉井先生の言う“漠然とした不安”とは、もしかして俺が信用されてないということだろうか? もしくは俺との結婚という選択肢を選んだ結衣の判断力だろうか?
どちらにせよ、どうすれば彼から信用を得られるだろうか?
否、別に、彼の言うように、彼がどうしようが俺と結衣の婚約を破棄させたり、結婚を妨害することはできない。そんな権利はない。今、彼が苦悩しているのは、教育者としての矜持に関わる問題だ。
だが今回学校を訪れた目的は、学校側から婚姻に至るまでの交際について容認してもらい、無用なトラブルを予防するための協力を得ることだ。
今、この場で結衣の進路について学校側として一番責任を負っている……否、“感じている”のは、彼なのだ。
だから彼の不安を取り除く必要がある。でなければ、交渉は先に進まない。
だが、はっきり言って、この場で吉井先生を心から安心させられる自信はない。それは彼だけでなく、今のところ何も言ってこない白石校長や、放任(?)の姿勢を見せている芝崎先生にしても、内心どう感じているのかはわからない。この場で俺が、小夜子さんが、結衣が、何を言ったとしても、結衣の決断を“納得”させ安心させるのは不可能に近いと思う。
少なくとも吉井先生にとって今日この場に持ち込まれた事態は、彼の思慮の範疇を超えたものだ。どう説明したところで、納得なんか出来るわけがない。不安を取り除くなんて不可能だ。
だから“理解”だけしてもらうことにする。『不安を取り除く』のではなく、『不安要素が無いことを理解』してもらう。少々強引ではあるが、理で詰める。彼はもちろんのこと、白石校長や芝崎先生が思いつく限りの不安を吐露してもらい、それを片っ端から論破(?)する。法律、将来性、学業、生活……何を聞かれても答えられるように、言葉だけでなく事によっては必要な事をすぐ実行に移せるように、ここに来る前から……覚悟を決めたあの日から、結衣と結婚することを決めた日から、俺はずっと考えて準備してきた。
相手に安心や納得なんて無理なことは望まない。そんな交渉能力を俺は持ち合わせていない。少々後味が悪くなるかも知れないが、目の前の教師3人から「好きにしなさい」という旨の言質を強引にでも得て、話をさらに先に進める。
それでも彼らの心の底にある不安を無視できるわけないが、その不安の解消は今後、俺と結衣の結婚生活という結果を示して……円満な家庭を築いて見せて、勝ち取るしかないだろう。
そのためにも、ここで停滞しているようではいけない。進展させるんだ。
(さてと……ここからが正念場、かな? どう切り出そうか?)
どうすれば、その“漠然とした不安”を取り除けますか?
どうすれば、先生は結衣さんの意思を尊重して、好きにさせてあげられますか?
どうすれば…………?
「あの……、どうす「じゃあね!」……!?」
少しばかり焦って言葉も決まらぬうちに出していた俺の声に、ノンビリとした声が割り込んできた。
「じゃあね! 担任の吉井先生に代わって、校長の私が“教員としての責任”を持って言いましょう」
ノンビリとして、だけど力強い声音だった。
声の主は、白石校長だった。
その場の全員の視線が、彼に向いた。
白石校長は目を細めてニッコリと穏やかな笑みを見せたかと思えば、今度は結衣を真っ直ぐに見据えて一つ咳払いをすると、その表情は真剣なものになった。
「須藤 結衣さん……貴女が望むようになさい。そして、妻としての責任を自覚し、彼と支え合い、貴女が望む『当たり前』を守りながら、立派な家庭を築くのですよ」
次話更新の時期は未定です。
とりあえず、白石校長のターンになるかな?
次話で校長室を終えて、春までにあと2話くらい書けたらいいなぁ。




