58 後輩指導
超お久しぶりです。
今回はイチャラブも結婚観も恋愛要素も皆無です。
“魔窟”と呼ばれる祐一の職場と業務内容の一部をちょっとご紹介します。
最後のところで、後輩助手・榊女史の視点も入ります。
この作品、一般的に“幕間”とか“番外編”に分類されるところまで区別しないので、どうなんかな? とか最近感じてきたのですが……まぁ、このレイアウトでこのまま続けていきたいと思います。
「先輩、昨日は大丈夫だったんですか?」
研究者たちが出勤する前の実験室で、一緒に作業していた榊女史は俺を見て心配そうに尋ねてきた。
「ああ、えっと……とりあえずダメージは軽微ってとこかな」
俺はそう答えつつも、胃もたれのするお腹に手を当てていた。
榊女史が洗った試験管や薬匙、計量容器を蒸留水ですすいで専用の乾燥機に入れていく様子を監督しながら、俺は今日使用する実験用のムカデが複数入ったケージに菜箸を突っ込んで一匹一匹を丁寧に実験用のガラス容器に移していく。
乾燥機のスイッチを入れた榊女史がそのガラス容器一つ一つに紙テープのラベルを張り、俺がそれに必要事項を記入していく。
「先輩、菜箸じゃなくて厚手の手袋で掴んじゃ駄目なんですか? 私、ラペリング(ロープ降下)用の厚手の手袋もってますけど?」
「何でそんなの持ってんのさ? そんなんで掴んだら、固体にストレスかかるから駄目だよ。箸使うにしたって掴むんじゃなくて、こう……軽く引っ掛けて掬いあげるようにするんだけどね」
「先輩。ラベルに書いてある“B”と“W”ってどういう意味なんですか?」
「Bってのはブリードと言って、業者から実験用に買ってる飼育種。Wってのはワイルドって言って、夏に俺たちが公園とか山行って捕獲した野生種で、ケージの中を下から見たらわかるだろうけど腹部の色が微妙に違うだろ。あと、Wのケージには捕獲場所が記入してあるだろ?」
「区別する必要あるんですか?」
「固体ごとに実験結果が違ったり偏りが出たとき、サンプルのレギュレーションの違いがワリと影響している場合が多いからね。事後考察のために必要なことなんだよ。本当なら産地や飼育環境、与えてきた餌、体重や体調とかでもっと区分する必要があるんだけど、まぁ今日の実験ではそこまでやらないよ。はい、記入終わったやつから測っといて。計量機の校正はガラス瓶に合わせてあるから」
説明しながらラベルに記入の終わったガラス瓶を手渡すと、榊女史はそれを計量機に乗せて個体1つ1つの重さを量り、メモしていく。
俺の所属する研究所の朝は決まって助手か若手の研究者がまず出勤し、こうして研究室ごとに実験準備から始まる。
特にガラス容器の準備には時間が必要で、容器に少しでも不純物が付着してμ単位で計量結果にズレが出てもいけないとのことで、使用する前には必ず洗浄し、不純物のない蒸留水ですすぎ、布巾で拭かずに乾燥機で最低でも30分は乾燥させて水分を飛ばして使用することになっている。器材によってはアルコール殺菌や熱湯消毒をする物もある。
薬品を用意したり、今日みたいに危険性をもった実験用の固体を容器に移し替えたり、研究所内の受け持ち区域を掃除したり、助手の朝はほかの研究員たちよりどうしても早くなる。
そして、俺の所属する研究室の場合は給茶器がないので、日によっては冷茶にする分を予め大鍋で煮出したり、給湯器に湯を補充したり……といった作業もあったりする。
そんな助手の朝の仕事に、数日前に研究所に来たばかりの榊女史はまだ慣れていない。
有能ではあるが、質問を受けるたびに彼女はやはり新人なんだと感じるし、手間がかかってるだけに見える業務のチマチマした部分についての理解がないのだと思い知らされる。
それも仕方がない。パソコンを扱う以外は、研究職そのものがもともと彼女の専門外の業種なのだから。
ありがたいことに、彼女は飼育庫内の飼育ケージで蠢く大量の害虫(ゴキブリ、ムカデ、アブラムシ、セアカゴケグモ、蚊、ノミ、ダニ、ヒル……)を見ても悲鳴をあげないだけの胆力があるので助かっている。この前はゴキブリの餌やりを教えたのだが、眉一つ動かさずに淡々とやっていた。聡子だったら卒倒しただろう。
(そういや、アイツ(失踪した後輩)に教えたときもこんな感じだったなぁ……)
あの後輩は3ヵ月はかかったけど、彼女が助手として一人前になるのは一体いつになるだろうか? そのときにはもう本社のホトボリも冷めて復帰するんかな?
「白瀬君、今日は何か用事があるのかね? 最近、休みがちじゃないか?」
主任や他の研究員たちが出勤し、研究室で朝のミーティングが終わってすぐのことだった。
学者の先生と実験棟に向かう研究者たちを見送っていると、主任がふと問うてきた。
今日は結衣の学校に彼女との婚約について報告をするため、午後からの休みを一昨日から申請していたのだが……未成年者との結婚に向けたデリケートな事情をそうやすやすと話すわけにはいかない。
「実は実家の都合で、どうしても外せない用事がありまして……」
とっさにそんな言葉が口をついて出たのだが、主任は怪訝そうな目でこちらを見ている。
「まぁ、君にもプライベートがあるし、このところ所長付とかもやってて大変だったろうし、休むなとは言わんよ。ただな、新人の榊はまだ助手として半人前ともいえないんだから、教育係の君があんまり軽々しく休まれるとな……つまりその、榊にとって大事な時期なのに監督をできる者が君しかいないわけでだな、また昨日みたいなことが起きたらお前のみならず俺たちまで困るわけで……」
(つまり、新人の尻拭い役が頻繁に不在すると困るわけね。つーか俺だって、軽々しく休んでるつもりはサラサラねーよ。一昨年の年末のクソ忙しい時期に新婚旅行計画してた鈴木に同じこと言わなかったくせに……ああ、そうか。いつも予定に空きがあって、突発的な事態でも振り回せる独り身が急に休みがちになって業務が回らないんだな)
「どうしても、今日の午後は駄目なのか?」
「どうしても駄目なんです」
「!?」
何かを押し切ろうとするような主任の言葉に即答すると、彼は面食らったような顔で言葉を失っている。
この反応から察するに、どうやら俺が午後に休むと困るような突発的な仕事が舞い込んだようだ。もしくは、誰かにさせるつもりが出来ずに代理を立てたい事態が起きたようだ。
結衣と婚約する前の俺だったら時間にも余裕があったし、家庭に縛られないただの独身だった俺なら、ため息の1つでもついて余裕で引き受けていたが……今日はそんな余裕ありません。
例の後輩の一件以来、プライベート(冠婚葬祭を除く)で急に仕事を抜けたり交換する奴には容赦なく指導したりと基本は仕事(職責)優先に物事を考えている俺だが、体調不良であるなら仕方ないし、予め正規の手続きを踏んで得た休暇や早退の予定は自他共に仕事の予定と同列に捉えている。
今回の午後の半休はまさしくそれであるので、急に仕事を振られて断ったところで俺は日頃の言動に何ら後ろめたさもないつもりだ。
休暇の申請はすでに所長まで通っているので、俺の許可なく主任が一方的にそれを取り下げることはできない。
(とはいえ……どう落としどころを見つけたもんかな?)
何とか俺の休暇申請を取り消したい主任の圧力ある変化球と、好い加減駄目だと察しろという俺の変化球による回りくどい押収がしばらく続くが、やがて頑なな俺の態度に何かを察したのだろう。一つ息をついたかと思えば、おもむろに口を開いたのだった。
「わかった。午前中でいいから、岡崎さんのところに行ってくれないか?」
▼ ▼ ▼ ▼
岡崎家は研究所に協力している農家の一つで、そこの主人は定年した元社員だ。定年後に畑を始めたのをキッカケに、新製品のモニターとしても協力してくれたり、野菜をお裾分けしてくれたりと研究所とは公私ともにお世話になっている。
呼び出しの内容を主任に聞くと、岡崎家から蜂の巣の引き取りを頼まれたそうだ。
大小3つある巣のうちの一つを“生け捕り”したらしく、研究用の標本として提供してくださるそうだ。
ついでなので、新製品の使用状況や感想、作物の状態等も見て、必要なサンプルの回収……さらには現地の農協にも顔を出してこいとのことだった。
「みんな酷いです。先輩の休暇申請とっくに通ってるのに、急な仕事できたら先輩に押し付けようとするんですね」
「仕方ないよ。みんなの中じゃ、独身で家庭に縛られない、予定狂わせても機嫌を損ねる恋人もいない“無茶振り要員”だからね、俺は。ああ、次の信号を左ね……てか、運転上手いね」
研究所の年代物の軽トラのハンドルを握る榊女史が時々勢いよくアクセルを踏むのを、俺はハラハラしながら見ていた。
周囲は田畑で人も車の通りも少ない道だけど、気づけば20キロオーバーで走ってるのだから怖い。……帰りは俺が運転しようかな?
「ああ、はい。イベントでよく友人の“ジープ”とか運転してますから。車はやっぱりマニュアルに限りますね」
そして発言から滲み出るミリオタ臭。MT車と知って運転したがったのはそのせいか……?
今は白衣を脱いでいるから、その姿は某中東国家で働く武装警備員みたいだ。こんな格好で外回りさせて大丈夫かと心配になったが、まぁ畑に入ったり畦道歩いたりするならスーツを着てる俺よりは寧ろ適当かもしれない。
本当はこの手の用事なら1人で向かっても良かったのだが、榊女史が研究所に来てから今日まで職場に缶詰めにしがちだったのと、今後のことを考えて農家のような外部の協力者に挨拶くらいはさせた方が良いだろうと思い、息抜きと外回りでの後輩指導くらいのつもりで連れ出したのだ。
表情も口調も昨日と変わらず覇気無しで事務的だが、昨日の失敗でさらに元気がない気もしてたしね。
(まぁ、楽しそうで息抜きになってるみたいだから何よりだけど……この運転はちょっと恐いな)
「へー……でも、もうちょっとスピード落とそうか」
「ああ、そうですね。古いからエンジンの負担が……」
「そういう問題じゃねえええぇぇ!!」
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「はい。じゃあ、確かに受け取りました。ありがとうございました」
「もう帰るのかい? 惜しいねぇ。昼に来てくれたら巣盤の解体終わって、お土産に“蜂の子飯”持たせてあげたのに」
(おい、主任……俺を午後に送りたがったのって、“それ”が目的か?)
上司にとって俺のプライベートは高級食品に比べればどうでも良いようだ。
「いえ、もうこれだけいただければ十分ですので。それと、農協の方にも顔ださないといけないので」
軽トラの荷台には蜂の巣入りの木箱がブンブンと羽音をたてながら転がっている。他にもお裾分けされたダンボール3箱分の野菜が乗っている。農協に寄れば、そこでもアレやコレやと貰いそうだな。あとで研究所のみんなで分けよう。
岡崎家では蜂の巣を貰う他に、畑の作物の写真を撮らせてもらったり、サンプルとして土や雑草を回収したり、開発した製品の具合を尋ねたりしているうちに随分と長い時間を過ごしてしまっていた。
この時間だと農協に寄って研究所に戻れば……午前いっぱいギリギリだな。
ここからは俺が運転したいところだったのだが、研究所に調整するため携帯電話を使用する必要があるため仕方なく助手席に座る。
「もしもし、鈴木? サンプルの回収したんだけどさ、飼育ケージの3号を用意しといてくれないか。うん……いや、それがさ、キイロスズメバチなんだけど思ったより大きくて、用意してもらった5号に入らんからさ。飼育庫のスペースもそれ用に空けといて。正午までには帰るから……うん、よろしく」
「助手の仕事って、なかなか奥深いですね」
調整を終えて通話を切ると、ハンドルを握る榊女史がふと呟いた。
ふと運転席の方を見ると、彼女はどことなく不安そうな硬い表情をしていて、車の速度も往路とは比べ物にならないくらいに大人しい。
「私もいつかアレ、主任のお使いで独りでやるんですよね」
(ああ、しまった。そういうことか……これはちょっと失敗だったな)
「やんないよ」
「?」
「奥深いって言ってるけど、本来なら挨拶して蜂の巣とお土産でも受け取って終わりだからね」
「??」
「サンプル回収や写真撮影、聞き込みは助手の仕事じゃないんだよ。本来なら学者か研究者の仕事で、俺らはせいぜい付き添って書記役か資材準備と荷物運びしかしないはずなんだよね」
「???」
「要するに今日、榊が見た俺の仕事の半分以上が本来なら助手のやる仕事じゃないんだよ」
「先輩それ……どういう意味ですか?」
「それなりの専門教育受けたか、よほどの経験積まない限り、主任や学者先生に頼まれて“本社から出向してるだけの会社員”がやることじゃないんだよ」
「え? でも先輩は……?」
「言ってなかったっけ? 俺、大学の専攻は農業で、とくに農薬運用専門の研究室いたから、こういうの慣れてんだよね。違うっつってんのに、本社の同期だけじゃなくて、同じ研究所の研究者にまで研究者扱いされたこともあるよ」
榊女史が感じた不安はもっともなものだ。本社でデスクワークや営業の交渉ばかりやってた人間にしてみれば研究部門に飛ばされて数日で、いきなり農家に赴いてガラスケースに土やら雑草を回収したりするのは何をしてるのかわからないし、写真撮影も何を撮っているのか傍目には理解できないし、聞き取りだって何をどう聞いたら良いかわからないだろう。その結果を総合的に判断するのは研究者たちなのだから、本来なら助手がやらずに研究者が直接現地に赴いてやるべきことなのだ。
「大丈夫。主任も専属の加藤先生だってその辺はわかってるし、俺も榊に出来ない事や自信のないことはさせないから、自分の出来ることと自信あることを頑張りなさい。もちろん、日ごろから仕事に関する知識について勉強してくれて、いつか出来るようになってくれるならありがたいけどさ」
俺がそう言うと安心したように榊女史の表情から硬さが消えていく。
「了解しました」
不安が解消されたお陰か榊女史のアクセルを踏む足の力が強くなって、爆走する軽トラの中で俺がこのフォローを後悔したのは言うまでもない。
▼ ▼ ▼ ▼
「じゃあ、すいません。お先に失礼します」
通勤用の鞄とお裾分けされた野菜が大量に入ったリュックを持って研究室を出たのは、昼休みの半ばくらいだった。
外回りで少し汗もかいたし、蜂用防護服で蒸れたし、帰ったらシャワー浴びないと……とか考えながら研究所の玄関に向かっていると、玄関口に昼休み中の榊女史と後輩助手の一人を見つけた。あいつは……夏に俺が泣かした稲葉だな。
なにやら稲葉の奴が榊女子に頼み込んでいるみたいで、彼女は普段の面倒くさそうな顔をさらにウンザリさせながら彼の話を聞いているようだ。
向こうは俺に気づいていないようだ。
「2人とも、なんかあったのか?」
「先輩!?」
「ああ、先輩。ちょうど良かったです」
俺の声を聴いた瞬間、稲葉はギョッとした様子で目を見開き、榊女史はメモ帳を片手に表情を変えることなくこちらを見た。
ちらりと見えたメモ用紙には、稲葉から聞いたらしい業務(?)の内容がツラツラと記載されている。
「先輩。稲葉先輩が来週後半の当直を代わってほしいって言うんですけど、第1薬品庫の帳簿って……」
「あ゛?」
……
…………
………………
「お前な……土壇場で変更調整だと? あれか? 結婚式? 葬式? それとも、嫁の出産近かったか? 裁判員で出頭命令でも出てんのか? 当直の勤務予定を新人と交代したいなんて、よっぽどの理由があるんだろうな?」
「え、ええっと……」
「俺が毎月、仕事の合間を見て皆から予定聞いて、各主任からも研究室ごとの予定聞いて回って、各部署に差し障りないように慎重に計算しながら作って、皆に再確認して、所長の決済貰って完成した当番表の予定を、よくもまぁ軽々しく代われるもんだな。どんな予定があって仕事の交換してるのか、ぜひ教えてくれ」
俺たち助手の仕事には通常の業務とは別で、当番制の当直、所長付、本社連絡員といった終業後も拘束される仕事がある。そして、その当番制仕事のシフト表を作っているのが、助手の中でも最年長の俺なのである。
「あの、その……急遽、嫁とその友人夫婦とバーベキューに……」
「なんだ、そりゃ!? そういう時は、その日は仕事で職場に泊まるから無理です、って言って断るのが筋だろうが!!」
「で、ですが、先輩……交代しちゃいけないなんて規則にもないですし、いつ誰がやっても変わらな……」
「あの当番表はな、お前のところの専属の香川先生にも配られてんだよ! 先生からお前がその日にいると思い込んで電話が来たら、お前以外に対応できんのか!? もうすぐ秋季の学術発表会だってあんだぞ!? そんな問い合わせに、新人が対応できると思ってんのか!?」
この研究所に勤めている学者は大学で講義を持ちながらこの研究所を行き来してるので、研究所にいないときにこちらに残した資料や研究結果の問い合わせだったりが来て、当直の助手が知らぬ間に代わっていてトラブルを起こしたことが過去に何度かあったのだ。そのため、一度定めた当番表のシフトはよほどの事情がない限り交代しないのが暗黙のルールだったのだが……みんな気づいたらプライベートで無茶苦茶に交代するので心底腹が立っている。
仕事の交換は個人の都合に対して非常に融通の利くものだが、組織の突発的事態に対して時にトラブルを引き起こす。あの後輩の事件も、こうした綻びが一因だったりした。
「プライベート中心に仕事してんじゃねえ! 仕事中心にプライベート送れ!!」
「先輩だっていきなり今日、半休とってるじゃ……」
「お前みたいにコソコソせず、然るべく手続きとってやってんだよ! 当番仕事(外せない仕事)のない日を選んで休んでんだよ! 一緒にすんな!」
俺はチラリと榊女史の様子を窺った。表情にまったく変化がなく、胸当てのポーチから脱落防止用のスパイラルコードで繋がれた携帯電話を入れたり出したりしながら、ちょっと暇そうだった。
「とにかく稲葉、その交代は認められん。ましてや、榊にやらせるとかアホか。教育係の俺だって、まだ当直仕事を教えてないんだからな……何かあってトラブったら誰が落とし前をつけるんだ? 前にも言ったが、仕事舐めるな」
「……はい。すいません」
稲葉は俺たちに頭を下げると、肩を落として歩き去ってしまった。また、ブツクサと俺のことを悪く言ってたりするのかな?
「さてと……榊、聞いての通りだ」
俺は今度は榊女史に向き直ると、彼女は弄っていた携帯電話をポーチにしまい居住まいを正した。
「当番制の仕事はな、簡単に交換して良いものじゃない。あと、稲葉にはああ言ったけど、どうしても外せない突発的な個人の用事……冠婚葬祭とかかな? そういうのの場合は、遠慮なく俺に調整してくれ。せめて同じ研究室なら、なんとかフォローできるしな」
「了解しました」
「あのさ……敬礼はいらない」
榊女史の挙がった手を下げさせると、俺は研究所の玄関を抜けて少し小走りでバス停に向かう。
ああ……思ったより時間を食ったな。早く帰ろう。
◆ ◆ ◆ ◆
白瀬 裕一と言えば、本社の宣伝部ではよく聞く名前だった。
今では行方不明になってしまった宣伝部の先輩社員の左遷先の先輩助手で、その先輩社員が起こした今年度明けの失踪事件の不始末を1人で片づけた……というのが最初の話題だった。
情報漏洩事案は各部署で起きていたらしいのだが、その中でも最も迅速に落ち着けたのが白瀬先輩だったらしい。
そこからその先輩社員つながりで、さらに白瀬先輩についての話題が宣伝部に浸透してきた。
ダメ社員で左遷させられ、そのうち退職するだろうと部長が思っていた先輩社員を一人前の研究室助手として育て上げたこと。研究部門では農業薬品以外の分野の上司にまで名前が知れ渡っていること。社長の学友の大学教授の推薦で入社したこと。……なんというか、変わった経歴の持ち主だった。
どういう人物なのか叔父に尋ねると、どうしようもなく頭が堅くて真面目で、仕事が出来る奴じゃなくて仕事をヤル奴だな……と言っていた。
本社の連絡員とか所長付とかで本社に来ているのをたまに見たのだけど、どこにでもいるような冴えない男性社員にしか見えなかった……のだけど、先輩に関する噂が独り歩きしていたのか皆からは注目されていた。本人は鈍感なようで、まったくそれに気づいていなかった。
将来有望な独身研究員……と勝手に噂が立ち、合コンに呼ぼうと画策する女子社員たちがいたようだが、一緒に魔窟の独身者まで呼ぶ羽目になりそうだとの懸念から公にアプローチがかけられることはなかった。仕方なく白瀬先輩の同僚に仲介を頼んでも、仕事の方が忙しくて無理らしかった。そこで、たまに本社に来たところで接触を試みようとした女もいたようだが、夏に本社で化粧品部門の女王と仲良さげにしてたのを目撃して躊躇したそうだ。
さて、そんななかで最近……というより、前々から部長のセクハラに悩んでいた同じ部署の先輩から相談を受けてて、ある日その様子を偶然目撃して正義感に駆られて部長を投げ飛ばし転がして、手首足首の関節も外して、一方的にブチノメしたのを切っ掛けに私はこの魔窟に左遷された。
私はまだ平気だけど、魔窟と呼ばれるだけあって…………凄い。実験用のゴキブリに餌やりするとか、普通に人生を歩んでいたらまずやらない仕事だと思う。普通なら辞めたくなると思う。
そして、噂の白瀬先輩と仕事をすることになってまだ数日しか経っていないが、価値観がどことなく古くて、潔癖で、なにより面白い人だと思う。
俺は何処にでもいる冴えない男で、手順さえ踏めば俺に出来ることは誰にでも出来る……と言う劣等感の塊で、だけどそれが上手く作用して努力や苦労や場数を踏んだタイプのようだ。
『言われた通りのことを
誰にでも出来る方法で
時間をかけてやる 』
たまに口癖のように言うこの言葉には、何となく深いものを感じた。だから“仕事をヤル奴”なのか、と。
あの部長は『言われなくても、臨機応変に柔軟な対応を、迅速にやれ』と言っていたが、無理な話だ。臨機応変にやれという言葉は、いざというときに失敗を責任転嫁し、成功は自分の手柄に出来る便利な言葉だと思う。
白瀬先輩はこうやれと具体的に言って、その指示に責任を持つところがあの部長と違う。
そして、本人の自己評価は低いものの、私は白瀬先輩は凄いと思う。
パソコン仕事は苦手でも手書きの帳簿管理は得意だし、知識が豊富で助手以上の仕事をしているのもそうだし、責任感や仕事に対する熱意が強くて、なにより公私の区別とメリハリがしっかりしている。
でも先輩はそれが出来て当たり前って思ってるから……ついていくのがやっとで、少し疲れる。でも、面白いし尊敬できる。
厳しいように見えて、随分と大らかなところもある。私の私服や言動に対して若干引いてるものの、仕事に差し障りがない限り特に問題視しないようだ。
本社のホトボリが覚めたら、そっちに復帰するつもりだったけど……ここで好きな格好をしながら、このまま助手を続けるのも悪くないかもしれない。私のパソコンの腕を高く買ってくれているし、会社のOBに農家や農協、さらには大学関係者だったりと、本社ではできなかった人脈まで広がってきている。
有意義な職場と白瀬先輩には感謝だ。
それにしても、叔父の探り……あれ、何があったのかな?
それから白瀬先輩の婚約者のこと…………何でああも頑なに隠すんだろう?




