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44 朝

 一夜明けて……。結衣さん、ますます本領発揮です。

 結局、朝になるまで俺は眠れなかった。


 原因は丸一日惰眠を貪ったせいでもあるのだが、それ以上に美少女に添い寝されて顔にその吐息がかかる状況って、どうよ? 寝れないっつーの。

 ベッドの上でどうにかして須藤女史の腕や足から逃れようとしてみたのだが、こちらが少しでも動くたびに拘束が強くなってきた。

 俺が動けば動くほど彼女の手足に力が入り、柔らかな身体が密着してくる。

 あれか? もしかして彼女、抱き枕や猫とか抱いて寝るタイプ?

 逃げよう離れようと試行錯誤を繰り返すうちにベッドの左端の壁に完全に追い込まれてしまい、そこまできて俺は抵抗することをあきらめたのだった。

 とりあえず、顔だけ壁に向けてこれ以上彼女を見ないようにすることにした。俺には目を閉じて、ただ時間が過ぎるのを待つことしかできない。


「ふぅ……」

「!!?」


 カーテンから差し込む光が強いのを感じて、朝になったんだな……とか考えていると、小さな手が俺の顎に触れた。細い指先が俺の鼻の下をなぞったりして、少し伸びた髭がザリザリと音を立てる。

「おはようございます、裕一さん」

 挨拶とともにクスクスと可笑しそうに小さく笑う須藤女史の気配を感じて、ああ……やっと起きてくれたんだ、と安堵する。

 とりあえず俺はこのどうしようもなく手遅れな状況を打開するべく、寝たふりをすることにした。

 彼女がベッドから下りたら、しばらくして目が覚めたふりをしよう。そうして、彼女が添い寝していたことを知らないふりをして、俺の身には何も起きていなかった……そういうことにしよう。

(我ながら無理があり過ぎだろ……)

 証拠写真は撮られているし、彼女が添い寝しましたと証言したらアウトだ。

 だけど……何もなかったことにしたい。


(てゆうか、さっきから何やってんの?)


 顔は壁の方を向いたままで、寝たふりをしているために簡単に目を開けるわけにもいかず、彼女の様子を全く見ることができない。

 とりあえず、ベッドから伝わる振動と声のする距離から彼女が起き上ったことだけはわかる。

 そして彼女のしっとりとした白い手は起きてからず~と俺の顎と鼻の下に触れているのだ。まるで俺の髭の感触を確かめているかのように……。


「ふぅ……クスッ」


 しばらくそうしながら小さく笑っていた須藤女史だったが、やがてベッドから降りたようだ。

 何かゴソゴソと音がしたかと思えば、スルスルと布の擦れる音がした。……着替えか?

(大丈夫。俺の顔は完全に壁に向いている。目が開いていても見えることはない)

 足音が台所の方向に向かうのを感じて、念のためもう5分ほど(体感時間で全くアテにならんけど)寝たふりを続けてから、俺はゆっくりと身体を起こした。

 思いっきり顔を横に向けていたので、首が寝違えたような感じがした。


「おはようございます、裕一さん」

「うっ……お、おはよう」


(眩しい)

 寝起きを演じながら声のした方を見ると、長い髪を後ろに無造作に纏めた制服にエプロン姿の須藤女史が笑顔で台所に立っている。

「朝御飯、すぐにできますからね」

「あ、えっと……うん」

 その笑顔は反則です。眩しくて見ていられません。メガネのないぼんやりした視界でも、直視できません。

 俺は何一つ言葉を発することができず、逃げるように仕事部屋のカギを開けて駆け込んだ。

 時計を確認すると、まだ6時にもなっていない。出勤にはまだ早すぎる。

(どうしたもんかなぁ?)

 とりあえず仕事があるのは確かだし、早いけど着替えよう……って、着替えは生活スペースのクローゼットの中だ。そういえば、俺のメガネどこ行った?

“コンコンコン”

「?」

 一度戻ろうとドアノブに手をかけたとき、ノックの音が聞こえた。

 内開きのドアを開ければ、畳まれたYシャツとスラックスを持った須藤女史が立っていた。

「着替えです」

「あ、ありがとう……ッ!?」

 着替えを受け取って手がふさがったところで、彼女の手が俺の顔に伸びて……探していたメガネがかけられた。ようやくクリアになった視界で見た彼女は、背景にお花畑が見えるくらいのパッとした明るい笑顔で満足そうに微笑んでいる。

(破壊力……強すぎる)

 直視できずに顔がみるみるうちに熱を帯びていき、呼吸が止まり、俺は顔をそらして仕事部屋に戻るだけで精いっぱいだった。


(落ち着け、俺!)


 着替えを終えて仕事部屋を出れば、トーストの焼ける良い匂いがした。

 しかし、台所のオーブントースターは動いておらず、見たこともない調理器具を持った須藤女史がコンロの前に立っていただけだった。

「……なにそれ?」

 須藤女史がコンロの火にかけているのは、四角形の小さなフライパンを2つ重ねたようなもので、なんとなくだがその中でトーストが焼かれているような気がした。

 予想は的中して、重なった2つのフライパンが開かれ、綺麗に焼き目のついた二枚重ねのトーストがまな板の上に落ちた。

「ホットサンドメーカーです。手軽にホットサンドが作れる優れものです」

 そう言いながら須藤女史が2枚重ねのトーストを包丁で切ると、トーストの間にはポテトサラダらしきものが挟まれていた。胡椒の利いたジャガイモとマヨネーズの匂いが食欲をそそる。

「え? それ……どこから出したの?」

「下の戸棚です。裕一さんのお婆さんに教わったポテトサラダを使ったら美味しくなると思って、ここに通い始めてすぐに持ってきました」

(え? じゃあ、ずっと前からソレって俺の台所にあったの? いやいやいやいや、そういえばその包丁も、俺のじゃないし!!?)

 須藤女史が俺の部屋に通い始めたのは盆明けすぐだ。そのころから俺は多忙を極めて自炊がまともにできなくて、調理器具が増えていることに気がついていなかったわけだ。

 まさかと思い戸棚を開けてよく観察すると、所々に見覚えのない調理器具や調味料が点在している。

 つまり俺の自宅の台所は、ずっと前から目の前の少女に占領されていたというわけだ。

(いや……ちょっと待て!)

「ば……婆ちゃんに習った?」

 身体が、声が震えてしまう。俺の予想がもし、正しかったら……。


「はい。裕一さんのお婆さんから、裕一さんのお袋の味のレシピは全て教わりました♪」

 マジで?

「裕一さんのお母様からも、裕一さんをよろしくと頼まれています」

 母さん、何で!?

「先日、お父様にもご挨拶に伺いました」

 ぎゃああああああっ!

「唯先輩が掛け合ってくださって、文香さんと聡子さんは今日の夕方こちらにいらっしゃるそうです」

 やめてー!!

「あとは正志さんですけど……」

 これも全て、妹の仕業なのか? なんてことを……。


「裕一さん?」


 気がつくと俺は、2枚目を焼き始めた須藤女史を見上げていた。あまりのダメージとショックに、膝から崩れ落ちてしまったようだ。

 須藤女史はそんな俺を見ながら不思議そうな表情で小首を傾げていたが、やがてニッコリと笑ったかと思えば、メガネの奥の大きな瞳が爛爛と輝き始めた気がした。

「今度、私のお母さんにも会ってくださいね?」

 その笑顔には直視できないほどの眩しさはなかったものの、暗がりに輝く燭台の灯りのような、どこか見る者を魅了するような妖しさがあった。


(何で? どうして? これって……やばい? 落ち着け……いったいどこまで、手を回されている? 唯はどこまで手を回している? あれ? そういえば唯は……?)


「そういえば、妹は?」

 テーブルについてから、俺は今更ながらに妹の姿がないことに気がついた。

 須藤女史もいるのだから、てっきり泊まったものだと思っていたのだが……全く姿がない。

「唯先輩は裕一さんがお休みになられて直ぐに帰りました」

「そうなの?」

 困ったことになった。

 事態を一番よくわかっている妹がいないのでは、俺は状況を把握できない。まさかそこまで計算に入れているのか?

 とにかく落ち着こう。

 俺は目の前のグラスに注がれたアイスコーヒーを一口飲む。不思議と雑味のない、それでいてどこか華やかに香る、コーヒーにはうるさいと自負している俺でさえ納得するような美味さだった。これならホットサンドとの相性もバッチリだ。

「……美味い」

「美味しいですか? 裕一さんは飲み物に、とくにコーヒーにはうるさいって唯先輩から聞いていたので、お母さんに教わった水出しで淹れてみました。お母さん、喫茶店で働いてたんですよ。ホットサンドは朝の限定メニューで大人気だったんですよ」

 よほど俺の反応が良かったのか、須藤女史はテーブルの向かいで嬉しそうにはしゃいでいる。どこか子供っぽい笑顔と仕草に、ちょっと和む。

(なるほど、これは彼女のお袋の味なのか……って、何やってんだよ、俺?)

 完全に彼女のペースに流されて、状況の打開どころか把握さえできないでいる。周囲の環境どころか俺まで、もはや取り返しのつかないレベルまで追い込まれているようだ。


(……え? 何で??)


 洗面を終えてネクタイを締めたとき、俺はあることに気がついた。

 どうして彼女は、今日俺がネクタイを締めることを知っているのだろう?

 まだまだ9月の半ばで、ネクタイを締めて上着を羽織るには暑い時期だ。普通ならノーネクタイのカッターシャツ、ましてや研究所は私服可だからTシャツでも良いくらいだ。それなのにこの日、俺がネクタイを締めるのは本社に出向く用事があるからである。

 俺は上着を羽織りながら、テーブルに置いた手鏡の前で髪を梳いている須藤女史に問うた。

「あのさ……なんで今日、俺が上着とネクタイいるって知ってるの?」

 須藤女史は俺の問いにキョトンと小首を傾げながら櫛を置くと、手鏡を手にとってベッドのすぐ横の壁に掛けたカレンダーに鏡をかざしてみせた。

「ここに書いてありますよ?」


 …………。


 ………………。


 ……………………読めるの!?


 俺は仕事における保全上の都合と僅かな遊び心から、仕事部屋はともかく私生活にかかわるスペースには仕事の書置きはなるべくしないようにしている。

 とはいえ、目に付く場所に予定くらいは書いておかないと忘れがちになるので、ローマ字筆記体を鏡文字の暗号にして壁のカレンダーに大まかな予定をメモしていた。知人には解読できなかったし、筆記体を使用する人間も減っているし、最初は本人でさえ上手く読み書きができなかった代物だ。今となっては鏡がなくても俺には読み書き可能だが……。

 それを彼女は、あっさりと読んでいたなんて……。


 身体がまた、小刻みに震えだす。

 そんな俺に気づくことなく、須藤女史はスラスラとカレンダーのメモを涼しい声で読み上げる。

「honsha kaigi shocho tukisoi hiru kaishoku ……ですよね? お父さんも会食や接待の日はスーツでしたから。あ、ハンカチとティッシュは持ちましたか?」

 言いながら彼女は、クローゼットの小物入れからハンカチとティッシュを取り出して、俺の上着のポケットに入れる。

「!?」

「動かないでくださいね」

 そして、急に彼女の細い指が首筋に触れたかと思うと、ネクタイが外された。


 何で? どうして? どうなってる? 何をされている? どうしてこうなった? 彼女は何故? 俺はいったい? 何これ? おかしい。 変だ。 どこが? 何なの?


 もはや俺の頭の中は混乱していた。

 何が見えているのか、何が聞こえているのか、何を感じているのかさえ分からない。

 目の前の現実に、思考の一切が回らない。


「できました!」

「え?」

 須藤女史の声に、ようやく現実に引き戻される。

 首の圧迫感から視線を落とせば、ネクタイが締めなおされている。彼女がやったのか?

(ネクタイって、自分で結ぶより他人に結ぶ方が難しいはずじゃ……なんで彼女はこんなことが?)

 気がつけば彼女は俺に手鏡を向けながら照れ臭そうに微笑んでいる。

 鏡に映った自分の襟元は、いつもの結び方と少し違って見える。

「昔はお父さんのネクタイを結んでいたんですよ。どうですか? キツくないですか?」

 ちょっと締まり過ぎの気もしたが、気にするほどでもないだろう。



 ああ……これは完全に、俺の負けだ。



 朝から……否、昨夜からずっと、俺は須藤女史のペースに転がされている。

 どんなに足掻いても、太刀打ちできない。

 どうやっても、彼女は逃がしてくれそうにない。

 俺の城(生活)は完全に乗っ取られてしまっている。

 どうして彼女は、ここまでのことが出来るのだ?


「須藤さん、どうしてそこまで……うっ!?」


 やっとのことで絞り出せた声が、いきなりネクタイを引っ張られて止まってしまう。首が一瞬にして締まった。


「結衣って呼んでください」

 不機嫌そうな声がした。

 笑顔のはずなのに、目は全く笑っていない。

「あぐっ……ゆ、ゆい」

「はい♪」

「ぷはっ」

 須藤女史の手がネクタイを放したのを確認して、俺は急いでネクタイを弛めて息をつないだ。

「須と……結衣さん、何でそこまでして、俺と結婚しようとするの?」

“須藤”と言いかけたところで再び手が伸びてきたのを見て、俺は慌てて彼女の名前を呼んだ。そして、気になって仕方がない疑問を、彼女に投げかける。

「さん付け……ですか。まあ、いいです」

 須藤女史……否、結衣は拗ねたようにほんの少しだけ口を尖らせたかと思えば、ため息交じりに肩を落として俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。

「だって、またいなくなったりしたら、嫌ですから。唯先輩の話が本当なら、危なっかしくて見ていられません。だから……」

 いなくなる……って、この子は何を言っているのだろう?

 冷たい光を放つ大きな瞳の中に、俺の姿が映っている。頬がほんのりと染まり、小さな唇がゆっくりとほころんでいく様子に、俺はついつい見とれてしまう。

 清涼感のあるすっきりとした声が、俺の鼓膜を震わせる。






「あなたと結婚するので、私にあなたのお世話をさせてください」

 結衣さん、髭フェチ?

 手料理、ネクタイ……憧れのシチュだけど、なんか違う!?

 ネクタイ首締め、いきなりやられるとマジで苦しいです。


 次回もなるだけ早く更新したいけど、できるかな?

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