43 夢
実家の食卓で、俺は父親と二人で酒を呑んでいる。
ああ、これは……就職して最初のお盆かな? 今の研究所に異動する前の記憶か。
就職して何とか続いている俺を見てホッとしていた父親が、急に弱気になってしまった。
年老いて白髪が増え始め、末っ子の唯が高校を卒業するころには退職も間近だ。俺にはまだ数年先と感じても、きっと父親にとってはあと数年だ。その数年が過ぎても、子供はまだ全員成人していない……退職してからも、まだ何かしら頑張らなくてはいけないと思っている。
特に唯が大学を卒業するまでは気が抜けない。
あのさ、俺は長男なんだよ……ちょっとくらい頼ってくれても良いんじゃないの?
「じゃあ、唯の学費は俺が出すよ。だから父さんは無理しなくていいよ」
唯の学費どころか、そっから先は俺が一家を頑張って支えるさ。
お見送りまでしっかりするから、少しずつ肩の荷は降ろしていこうぜ。
しかし、弱気になったのはその夜だけで、翌朝には昨夜の事がウソみたいに元気になっていた。深酒するとネガティブになるタイプらしい。
まあ、そもそも俺の父親は堅実なタイプで責任感は人一倍強いし倹約家だから、5人兄弟を抱えるイレギュラー以外の人生設計はしっかりしていて、どうとでもなったようだが。
「お兄ちゃん?」
遠慮がちな声だった。
振り向けばそこには、少し癖っ毛のある髪を肩まで伸ばした、小麦色の肌の少女が立っている。
あれ? 唯……か?
そういえば、まだこのときは髪は長かったな。ようやく肩を覆い始めた頃か。この頃は確か、小学6年生だったな。
何かの芸能人だかアイドルだかに憧れて、黒髪ロングの清楚な美人キャラを目指してたっけ? 無理無理……、そんな水着のあとが残るくらい日焼けしちゃって、休み前は男子とサッカーとか野球とかやってたヤンチャ娘がそう簡単に変われるかよ。
ああ……これはお盆が終わって、職場に戻る前の記憶か。
俺が玄関で靴を履いていたときに、妹はオズオズとした様子で俺のシャツの背中を掴んでいた。
このときの唯は、今みたいに懐いてなかったな。
まぁ、昔からあんまり遊んでやった覚えもないし、母親から子守でも頼まれない限り俺は自分のことばっかりしてたっけ? とはいえ、別に俺は妹が嫌いなわけではなかったし、兄としては妹を大切に扱うべきだとは思っていたから、それなりに優しく接していたつもりだ。
対して妹は俺のことを好いてはいなかった。流行に疎く話が合わない、ファッションセンスがなくてダサいから無難にスーツを着ていて、娯楽にはほとんど関心がなくて、真面目にただただ平凡に生きることだけを求めて、頭が固くて頑固者で融通が利かない要領の悪いつまらない残念男子を、恥ずかしい兄貴だと感じていたようだ。
近づくと露骨に面倒くさそうな顔をしていたし、友達と遊んでいるところに現れようものなら追い出されたね。
妹に限らず女の子ってさ、比べる相手が悪いよ……芸能人やスポーツ選手、若手起業家……そんな奴らと比べんなっつーの。
え? クラスの人気者? ……ほうほうなるほど、臨機応変で当意即妙、機転が早くて何でもそつなくこなして器用だね。会話が上手いね。頭良いね。運動神経良いね。流行を先取り。一か八かで連戦連勝の勝負運。出来もしない皆の都合の良い理想を語って、成功がなくても努力が絵になる、ルール違反の悪役が様になる、どうしようもなく駄目なくせに憎めない容姿ときたか。ウソも方便、ルール違反を隠すのもテクニック、要領良く楽して大成功。人気者ってのは、どいつもこいつも大した才能だ……恐れ入ったね。
だ・か・ら、俺と比べんな。彼らの才能を、俺は一つも持っちゃいないよ。彼らの才能に、何一つ近づけやしねえよ。……俺は俺なんだから、わかってる?
俺にできるのはせいぜい、言われたとおりのことを、誰にでも出来る方法で、時間をかけてやる……だけさ。
で、そんな恥ずかしい兄貴に珍しく何の用だい、唯?
振り向いたとき、妹はモジモジしながら恥ずかしそうに俯いている。
俺、何かしたっけ? まさかズボンのチャック開いてるとか、そんなの?
なんとなく不安になったとき、妹の口がゆっくりと開いた。
「お兄ちゃんって、カッコ良かったんだね」
いやいや、急になに言ってるの? 俺なんかがカッコ良いなんて評価されるなら、世界中の大半がカッコ良いってことになっちゃうよ。
実は妹の理想が低かったなんて、お兄ちゃん不安だよ。
「ううん。お兄ちゃんは立派な大人だよ。どうして皆、気がつかないんだろうね? どうして私、気がつかなかったんだろうね?」
立派な大人ねぇ。過大評価じゃないかい? 俺に出来ることなんて、誰でもやろうと思えば出来ることだよ……嫌になるくらい手間かかってるけど。
残念男子を褒めたって何も出な……ああ、そういえば。
俺は鞄から小さな包みを取り出して、妹に渡した。
中身は紺色の地味な髪ゴムだった。ゴールデンウィークに帰省した際、母親の家事を手伝っている妹の後姿を見ていたとき、長くなり始めた髪がちょっと不便そうに見えたので、家だけでなく学校でも使えるほうがいいと思って勝手に選んだそれはあまりに地味すぎてセンスが悪いような気がして、かと思えば妹もヘアピンを上手いこと利用して対策してるし、余計なお世話だと思って渡していなかったものだった。
「褒めてくれて、ありがとう。でも、残念男子を褒めたって、こんなもんしか出ないよ」
呆けたような顔で受け取った妹の頭を撫でながらそう言って、俺は家を出た。
秋になってようやく今の研究所で勤めることが決まって実家に戻ったときから、妹は徐々に変わっていった。
「ぁの……ぉにぃちゃん?」
「ぉ兄ちゃん……宿題教えて?」
「お兄ちゃん♪」
最初は勉強を教えて欲しい、とか言って恐る恐る近づいてくるだけだったのに、気がつくと仕事が終わって家に帰れば、あの髪ゴムで纏めたポニーテールを揺らしながら頻繁に抱きつくようになっていた。
春休みに入ると俺と一緒に出掛けたがり、人目も気にせず甘えるようになって、今みたいにすっかり懐いてしまった。
妹が中学生になった時、進学祝に欲しいものがないかと聞けば、髪ゴムが欲しいと言った。
言われたとおりに買ったそれは前に渡したものと同じで、紺色の地味なやつだった。
家に帰るとそれまでつけてた髪ゴムをはずして、新しいのをつけて、同じポニーテールにしてしまう。
外されたほうは捨てられはしなかったけど、変わり映えしない妹を見てつい、
「もったいないなぁ……2本とも使ってみたら?」
とこぼすと、妹はハッとしたように髪をいじり始めた。
鏡の前で睨めっこし始めて、髪型を変えるたびに「これどう?」「似合ってる?」「見て見て、三つ編み♪」「一つと二つにまとめるの、どっちが可愛いのかな?」「長いのと短いの、どっちがいい?」「肩にかかるのと背中に流れるの、どっちが良いかな?」「ストレートより巻いた方が良い?」といった具合で、小一時間も悩んだりはしゃいだりする妹に付き合わされた。
だんだんと疲れてきた俺はどうでもよくなってきて、妹が耳の下くらいの高さで髪を2つ結びのお下げにしたとき、
「それで良いんじゃない? 似合ってるよ」
と言えば、パッと花が咲いたように明るい笑顔になって、それ以来妹の髪型は変わらなかった。
「早く結婚しなさい」「誰かいい人いないの?」
就職して2年目の冬だったろうか? 従姉の結婚式を機に急に両親が騒ぎ始めた。
このとき俺は24歳になったばかりで、早すぎやしないかと思ったものだった。
従姉も俺のように研究者の端くれ……否、たかだが雑用の俺と違って立派な大学の準教授だったが、30過ぎても研究一筋で独身だった。一日中を研究室に篭り、休日は科学雑誌を読み漁り、日常に出会いの場など殆どなく、そもそも学生時代から浮いた話のひとつもない人だった。恋愛にも結婚にも興味がなかったが、叔母の血の滲むような努力と交渉の結果、ようやく見合いまでこじつけて、結婚したらしい。それから2年後に、やっと初孫が出来たって、叔母は泣いて喜んでいた。
そんな従姉と俺が、両親には同じように見えていたようだ。
学生時代には一時期だけ恋人がいたものの、それ以来は就職してからもまったく浮いた話がなく、従姉と同じ研究職で、魔窟と名高い職場に出会いなど欠片もなく、青春や友情を犠牲にして就職したくらい付き合いが悪かったから合コンにも誘われない、自分から出会いを探しに行く気もない、そんな俺を心配していたらしい。
両親には悪いが、俺の人生設計に『結婚』の二文字は盛り込まれていない。ちょっとした事件があって、俺は同世代の女子に辟易していたからだ。
ウンザリして4年目の春に独り暮らしを始めたら、中学3年生になった唯が月に1~2回のペースで俺のアパートに通うようになった。魔窟の女王陛下にこき使われまくって大変な時期だったから、自宅に通って家事をしてくれる妹の存在はありがたいものがあった。
「二ヒヒ……私もここに住んで良いかな? 私がお兄ちゃんのお嫁さんになってあげるよ。結婚式はいつにする?」
何を馬鹿なこと言ってんだよ。つーか、いい加減兄離れしなよ。こんな兄貴に構ってないで、そろそろ彼氏の一人くらい作りなよ。
「そうだよね……無理だよね。だって私、妹だもんね」
あれ? これ、いつの会話だっけ? 夏に入る、少し前だったかな?
シュンと肩を落とした妹だったが、しばらくすると急に不自然なくらい元気になって、よくわからないが今にも泣きだしそうな顔で笑いながら、俺に問いかけてきた。
「ねえ、お兄ちゃんのお嫁さんになるのは、どんな女の子なのかな?」
いねぇよ、そんな物好き。てゆうか、俺の人生に嫁はお断り。
「じゃあ、お兄ちゃんはどんな女の子と結婚したいの?」
いや、だからね……う~ん、そういや考えたこともないな。
男の夢はやっぱり、若くて、美人で、家庭的で……ははは、残念男子にゃ勿体無いな。
そんな女が、俺なんかを好きになんかなってくれねぇよな。
「ふ~ん…………わかったよ」
唯?
妹は夏休みに入ったある日を境に、髪をバッサリと短く切ってしまった。
可愛かったのに、勿体無い。陸上の大会も近かったし、早く走るためにもそうしたのかな?
『あなたと結婚するので、私を高校卒業させてください』
……はい?
涼しげな声が聞こえた気がして、振り向いたらそこはあの日の図書室で……、向かいに座っている妹が懇願するように頭を下げていて、テーブルの上に2本のお下げをこぼしている。
否、違う。
目の前の妹がゆっくりと顔を上げる。
否、違う。彼女は唯じゃなくて…………須藤女史!? だけど彼女も、結衣だ。
突然背後から、誰かに抱きしめられる。
『お兄ちゃんにはお嫁さんが必要だよ。だからね……』
右の耳元で囁くその声は、妹か!? ……身体が、動かない?
目の前の須藤女史が、細い腕を伸ばしてくる。
白く細くて綺麗な両の指が、ひんやりと俺の頬を包む。
黒くて大きな冷たい光を放つ瞳が、吸い込まれそうに錯覚して目が離せない俺を、真っ直ぐに捉えている。
気がつけば彼女の顔は近づいていて、花びらのように小さな唇がゆっくりと開く。
2つの声が、同時に聞こえた。
『私と結婚しよう、お兄ちゃん♪』
『私と結婚してください、裕一さん』
◇ ◇ ◇ ◇
(……なんて夢だよ)
いったい俺は、どのくらい寝ていたのだろうか? あの後、2人は俺を寝かせて、どのような行動をとったのだろう?
「え~と……?」
とりあえず状況を把握するべく起き上がろうとした俺だったのだが、身体を縛る柔らかくて暖かい何かと、その重さに阻まれた。
そこまでガッチリとした拘束でもなければ起き上がれないほどの重量でもないが、起き抜けのボンヤリとした意識と気だるさで、それから逃れるのは困難に感じた。
それは右側から俺の身体に絡まり、俺の右腕と右足に絡みつき、俺が少し動いたくらいでは解放してくれない。
とにかく俺は、メガネのないボンヤリとした視界と、深夜の暗い部屋の中に差し込むカーテンの隙間からの薄明かりだけで、なんとか現状を把握しようとする。
俺はベッドの左半分に寝ていて、右側にはタオルケットが膨らんでいる。
「なんてこった……」
自由の利く左手でタオルケットを捲った俺は、額を手で押さえてそれ以上の言葉を失った。
そこには心地良さそうに寝息をたてる須藤女史がいて、俺の右腕は彼女の白く細い両の腕にガッチリと捕らえられ、柔らかくしっとりした白い頬が俺の肩に添えられている。足に絡まる感触も、ほぼ間違いなく彼女のものだろう。
天使のように愛らしい寝顔についつい見とれてしまいながら、俺は心の中で独り敗北感に打ちひしがれた。
ふと気がつくと枕元には俺の携帯電話が置いてあり、サブ画面がメールの着信を知らせる点滅をしている。差出人は見たこともないアドレスだったが、多分妹のものだろう。
メールを開いた俺は、そこに添えられた写真に絶望した。
お…………終わった。
それは一時間前に撮られたもので、俺とその横で気持ちよさそうに添い寝している須藤女史の姿が写されたものだった。メッセージにはただ一言、『ちゃんと責任とってあげてね』だ。
(ああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ヤバいよ、こんな写真!)
未成年者と添い寝なんて……この事実を世間に何と弁明すれば良いのだろう? そうした行為がなくても、この写真一枚であらぬ疑いの果てに確実に責任を問われるぞ。
気が付くと携帯電話を持つ手が震えていて、その振動に反応したのか俺の右腕右足に絡みついた須藤女史の拘束にほんの少しだけ力が入った気がした。彼女はそのまま、俺の頬に吐息がかかるほどに顔を寄せてくる。
「っぅ……!?」
彼女の柔らかさと体温をさらに意識してしまい、果物のように甘い彼女の匂いが俺の鼻腔をくすぐり、耳に吐息がかかった気がして甘く痺れるようなくすぐったさに頭がクラクラし始めて、心臓がこれまでにないほどの早鐘を打つ。
穏やかな寝息に混じって、風鈴のように涼しげな……どこか嬉しそうな彼女の声が聞こえた。
「……なさい……ぅさん。ずっと一緒に……ぅね。もぅ…………ぃでね」
◆ ◆ ◆ ◆
「お帰りなさい、お父さん。ずっと一緒にいようね。もう、どこにも行かないでね」
未成年者と添い寝って、大問題ですよね?