34 多忙なる夏
妹・唯の謀略など露知らずに、兄・裕一は忙しい日々を過ごす。
唯は誤解していると思う。
俺は毎日、忙しいわけじゃない。
倒れたときは、たまたま仕事が多かっただけで、しかもそれは俺のミスによるものだ。
心配かけてすまないな……だけど嫁の心配まではされたくねえぞ。
年度明けの一件以来、俺は他人にも厳しくしていくことに決めた。
おかげで仕事を押し付けられることも減って、まあ、それなりに無理のない毎日を送っているつもりだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「白瀬君や、この前の集計データのグラフ化終わってる?」
「ああ、はい。できてますよ」
「先輩! 急遽2研(第2研究室)で有機リン農薬使って実験するんで、薬品庫の開放お願いします!」
「何出すのかちゃんと種類を教えてくれ……て、これか。わかったから、ゴム手袋用意しといて」
「白瀬、農家さんへの協力依頼、どのくらい進んでる?」
「概ね6割です。急ぎますか?」
「先輩、実験棟の周りの草刈ですが……」
「金曜にやるか? 何人動ける?」
「大変です! 第3飼育庫の雀蜂のケージから大量に……!」
「落ち着け! 稲葉は殺虫剤ありったけもってこい! 後は防護服用意して、ほかのケージを第2に移すぞ!」
「これで見積もり立てたいんだけど、どうかな?」
「ああ、大丈夫じゃないですか? これとこれ、後回しにされそうですけど……」
無理なく一つ一つこなしていく、いつもの職場の業務……。
「9月の職場研修で開放する施設だけど……?」
「それ4研に当たってください。」
「お茶ちょうだい」
「緑茶、ほうじ茶、ウーロン茶、紅茶とありますけど、どれですか?」
ドサドサドサドサ……
「これ全部、表にしておいて。でもって、これとこれをグラフにして……本社でのプレゼンに使いたいから、そのつもりで」
「えーと、期限は……、ええっ! 明後日まで!!」
無理なく一つ一つ……
「第3実験室の撹拌機の修理申請だけどさ……」
「3研からこれだけ借りたいんだけど……」
「白瀬、本社から問い合わせなんだが、アレどうなってる?」
「白瀬君や。見積もりのこことここだけ修正したいけど、まだ間に合う?」
無理なく……
「白瀬!」
「白瀬先輩!」
「白瀬君」
「白瀬君や」
無……
ぷちり
“リミットカット”
「白瀬、ちょっと休憩しろよ」
「ああ、あとこの数字を折れ線グラフにして、本社に電話確認して、薬草園の水替えして、薬品庫の定時点検したら、16時の納品受けまで休みます」
「今、休め! 昼飯食え! 当直明けなんだから、仮眠しろ! 時計を見ろ!」
「えっ? あ、あれっ!? 所長!!? 時間時間……もう14時ですか。薬品庫の点検を……」
「5研の林にやらせるから、まず飯を食え!」
(いかん、もっていかれていた。いつも無意識に始まるんだよなぁ)
とはいえ、俺の所属する第1研究室に助手は俺一人しかいない。年度明けてすぐにもう1人が失踪してしまって、所長が本社の人事部に調整してくれているようだが、本社には魔窟に好んで来る社員も割ける人員もいないようだ。
給湯室のテーブルでいつものようにふりかけランチを取りながら、俺はぼんやりと考える。ランチといっても、正午はすでに2時間前だ。
実家から持ち帰った惣菜は、今日のお昼でなくなる。最後は魚の生姜煮だ。
(どこでもらったものだか知らないけど、婆ちゃんの味そっくりで本当に美味かったなぁ……。実家は嫌だけど、婆ちゃんの家にはまた顔出すかな? 味噌汁食いてぇ)
マグカップの中のインスタントの味噌汁をすすりながら、ちょっと懐かしく、寂しい気持ちになる。
そんなに食べたいなら自分で作ってみようかと思って祖母の家を訪ねたら、嫁に教えるから作ってもらいなさい、と一蹴された。どうやら俺の色恋事情については祖母は母親の味方らしい。
(まあ、不器用な俺が教えてもらったところで、作れるとは思えんけどさ……)
食器を片付けて給湯室を出て、元の第1研究室に戻る途中で別の研究室の後輩助手2人とすれ違う。なにやら嫁の愚痴で盛り上がっている様子に、やっぱ結婚はろくなもんじゃないな、とため息が漏れる。
愚痴の原因は夫婦の価値観の違いだったり、家計によるものだったり、子供の進路についてだったり……なんで結婚する前にじっくり話し合ってないのだろうか?
そんなに愚痴が漏れるくらいなら、何で結婚したの? と聞けば、まあそれなりに事情は話してくれるが、要するに雰囲気に流されたり、デキちゃったり、世間体気にしたり、同期も次々結婚しちまったしそろそろ俺も……とか、全く考えなしの自業自得だ。
いろいろと必死になって、交際中は少女マンガの王子様演じて結婚したら化けの皮剥げて嫁の機嫌損ねたり、その逆パターンだったり……、お互い無理せずやれる範囲を弁えろよ。浅はかで完全に自業自得だよな。
仮に気に入らないところが後から出たとしても、それを文句も愚痴も言わずに受け入れるもんじゃないのか?
多少の妥協も後悔も諦めもトラブルも、折り込み済みのリスクじゃねえか。それでも良いから結婚したんだろ?
「うるせえな! 結婚してねえくせに!」
「うるせえよ。結婚しちまったくせに」
プロポーズする前に、お前には2つの選択肢があっただろうが?
結婚する、結婚しない……お前はこの2択をよく考えて選ぶことができたはずだ。何を焦ってたのか知らんが、冷静になる機会はあったはずだろうに……お前は結婚しないという選択肢を選ぶことが“出来た”のに、あえて結婚することを選んだ。
出来ることをやらなかった、お前が悪いだろ。
(なーんてね……言っても納得してくれねえよな)
誰だったかな? 結婚とは宝くじのようなもので、外れても破り捨てることが出来ない……だっけ?
そういや、こんな言葉もあったっけ? 男はみんなギャンブラーである。でなきゃ結婚なんて大博打をするわけがない……ははは、あいつらギャンブルに負けてディーラーに愚痴ってる奴と同レベルだな。
真面目、堅実、質素をモットーに生きてる俺はギャンブルなんて根っから拒絶してるから、結婚なんて一生無理な行動だろうな。
彼らの勇気だけは称えよう。でもその結果には俺は決して同情すまい。
『私と結婚してください』
俺はふとここで、須藤女史を思い出した。
(彼女に選択の余地はなかったのか?)
俺は彼女に頭を冷やせと言ったが、結局のところ彼女が納得するような解決策は思いつかなかった。
間違ったことはしていないはずだが、しこりが残る。俺個人の正義感(?)を満たして、自己満足で逃げてしまったようなものだからだ。
名刺を渡しておいたが、あれから1週間以上もたつのに連絡はない。彼女の連絡先は知らないから、こちらから接触することもできない。
(もう一度、唯に電話するか)
しかし、唯は電話しても応じてくれない。着信拒否はされていないようだが、無視されている。知らぬ間にメールのアドレスは変えられていて、俺は留守電に「須藤さんのことで少し話がしたい。いつでも良いから、連絡をくれ」とメッセージを残すだけで精一杯だ。
これを機に、唯は兄離れしていくのかな? それはそれで結構なんだが、その前に須藤女史の問題をなんとかしないといけない気がする。
(やれやれ……懐かれてたぶんだけ、ここまで嫌われるのはキツいなぁ……って、所長?)
研究室の扉の前で、所長が血相を変えて俺の前まで駆け寄ってきた。
「所長、なにかあったんですか?」
「すまん、白瀬! 緊急事態だ! 今度、奢る! 大至急、これの修正手伝ってくれ!!」
ぷつり
“リミットカット”
◇ ◇ ◇ ◇
(何をどう間違えれば、こんな事になるんだ?)
所長室の隅にある机に自分のノートパソコンを持ち込み、今週中に本社に提出するという研究所の再来月分の見積書の計算ミスを一つ一つ訂正しながら、俺は今日何度目になるかわからないため息をついた。
所長によると、俺が昼食を終えたあたりでミスに気づいたらしいのだが、どうしてこんなミスが起きたのかは全く分からないそうだ。
訂正必要箇所がランダムに点在し、計算ミスではなくパソコンのバグではないかと首を傾げるような状態だ。
各研究室や他の部署から記録をかき集め、正解率5~6割の規則性のない百マス計算の答え合わせをするように、地道な点検と訂正をしていく。
こんな気の遠くなるような作業を、既に四時間、所長と2人でやっている。
何人か他の助手にも頼もうかと思ったが、あいにく終業時間後も融通のきく奴が、独り身の俺くらいしかいなかった。
「すまん、白瀬。こんど特上寿司おごってやるから!」
必死に懇願する所長の熱意に負けて、さらにこの人は情報漏洩事件でも色々フォローしてもらった恩人でもあったので、
「貧乏舌なんで“並”で良いですから」
などと冗談混じりに引き受けたのだった。
チリチリと針で頭をつつかれているような感じがして、額に手を当てるとほんのりと熱を感じた気がして、俺は鞄からピルケースを取り出して中の頭痛薬を口に含み、机の隅に置いたペットボトルの水で流し込む。効き目が出るまで、30分くらいかかるだろう。
ふと所長の方を見ると、所長もちょうどこちらの様子を見ていたようで目があった。
「どんな感じだ?」
心配そうな目で問いかけてくる所長に、俺は努めて明るい声で答えた。
「まずまず、ですかね。2人で二徹もすれば終わりそうですけど、明日他の助手にも頼みますか?」
「いや……まだ、時間はあるから、そこまでせんで良いぞ。それに、徹夜できるほど俺は若くないんでな」
所長は言いながら室内の時計を見やり、
「今日はもう帰れ。当直明けなのに無理させてすまんな。明日も頼めるか?」
と不安そうな目をして聞くので、俺は苦笑混じりに了承した。
「良いですよ。お寿司と一緒に、鰹のタタキもつけてくださいね」
「ああ。土佐出身の友人がやってる店だから、とびきり美味いの食わせてやるよ」
「では、また明日」
俺がノートパソコンを閉じて、帰り支度を始めた時、所長はあわてた様子で携帯電話を取り出した。
所長は小さな画面を食い入るように見ていて、その顔がみるみるうちに引きつっていくように見えて、
「所長?」
気づけば俺は彼の机まで赴き、彼の顔と携帯電話の画面を覗き込んでいた。
携帯電話の画面には、バスケットボールのユニフォームを着た小学生くらいの女の子がジャンプシュートをしている写真が写っている。
そう言えば所長には、ちょうどこのくらいの娘がいたはずだ。
「娘さんですか?」
「ああ、そうだ」
俺が問いかけると、所長は不自然なくらい目を見開いたまま答える。
「元気があって可愛らしいですね」
(それにしても……変なアングルだな)
カメラの性能なのか画質は良いし、手ブレもないが、どういう撮り方をしたのかカメラの角度がおかしい。ちょっとばかし斜めだ。
どこか凛々しい表情と迸る汗がなかなかカッコいい感じだが、ジャンプしたときにノースリーブのユニフォームの上着が体から浮いてかつ捲れ上がり、へそが見えてさらにその上も覗けそうな、つい目を細めたくなるような、ちょっと際どい一枚だ。
ついこんな分析をしてしまったが、俺は断じてロリコンではない。
所長は娘を溺愛していた気もするが、こんな写真を持ち歩いてニヤつくような人ではない。
よく見ると携帯電話の画面はメール受信のようで、これは送られてきたもののようだ。所長の知り合いの父兄が、ベストショットを送ってくれたのだろうか?
「所長も無理しないで早く帰らないと、娘さんが心配しますよ」
「そうだな……俺も、もう帰るか」
急なトラブルで参っているのか、所長はどこか思い詰めているような表情で携帯電話を閉じて、椅子から立ち上がる。
そして、俺が所長室から出ようとしたときだった。
「なあ、白瀬……本当に最近、お前の周りで変わったことはないのか?」
また、あの質問をされた。
「別に何もないですよ。」
強いて言えば須藤女史の一件と兄妹喧嘩だが、所長が気にするようなことじゃないだろう。
「そうか。まあ、なんだ……近づく女には気を付けろよ」
「ははは……こんな残念男子に近づく女なんていたら、怪しすぎて全力で逃げますって。それじゃ、お疲れ様でした」
後輩の一件もあって、同じようにモテない俺の心の隙間を心配してるのなら、まず心配はないと言い切れる。危うし(怪しいもの)に近寄らず、は俺の堅実な人生の基本だ。
俺は苦笑しながら所長室を去ったのだった。
▼ ▼ ▼ ▼
自宅に帰った時には21時を過ぎていた。
買い物にも寄らず、ただ早くベッドで横になりたくて、自宅の扉の前で鍵を開けながら、ふと気がついた。
(晩飯、どうしよう?)
当直で半週も自宅には戻らないので、冷蔵庫の中身が傷んでも嫌なのでほぼ空にしておいた。冷凍庫に食パンを凍らせておいたことくらいしか、覚えていない。
賞味期間の近い食パンでも冷凍してしまえば長持ちするし、食べるときは普通にトースターで焼くだけで普通のパンと変わらない。安くて手軽だが、これは朝食向けだ。
(戸棚にカップ麺があったはずだし、もうそれで済ませるか)
そんなことを考えながら扉を開けたそのとき、暗い部屋の中から食欲をそそる懐かしい匂いがした。
なんだろう? と思いながら、部屋の照明のブレーカーを上げると、明るくなった台所のコンロの上に鍋がのっていることに気がついた。
あの匂いは、この鍋から来ているようだ。蓋には小さなメモがテープで貼られている。
『お仕事お疲れ様
温めて食べてね
ごめんなさい 』
メモには唯の字で、そう書かれていた。
ようやく機嫌を直してくれたのかな?
鍋の中身は夏野菜が具沢山な味噌汁だった。母親が作る赤味噌のと違って、祖母が使うような白味噌なのが涙が出るほど懐かしい。
炊飯器を見ると、一時間前から保温がされている。
ふと気がついて足元を見ると、大きなダンボールに色々な野菜が入っていて、貼られている札から祖母が送ってくれたものだとわかった。受け取りは唯がしてくれたのか? 冷蔵庫を開けてみると、当直の前にはほぼ空っぽだった冷蔵庫に卵や牛乳が買い揃えられていて、冷茶まで作られている。
(何はともあれ、助かった)
当直明けで遅くまで仕事したので、まともに食事を作る気力もなくて、それなのにこんなに懐かしい香りのする食事にありつけるなんて……。しかも買い物の手間がなくなった。
すぐに鍋に火をかけて部屋の奥にいくと、さらに異変に気がついた。
ゴミ箱のゴミは全て捨てられていて、部屋は普段やらない所まで掃除がされていて、当直前に僅かにあった洗濯バケツの中身は全て洗濯されている。クローゼットには洗濯しただけで皺の目立つシャツがあったはずだが、キレイにアイロンが当てられて畳まれた状態でクローゼットに収められていた。
(これも唯の仕業か……?)
家事技能は姉妹の中では一番あったはずだが、ここまで出来ただろうか?
「美味い!! けど……、え!? 何で!?」
テーブルにつき、温めた味噌汁を啜った瞬間、俺はあまりの驚きに声をあげた。
若干の違いはあれど、それは久々に食べたいと思っていた懐かしい祖母の味だった。
(唯の奴……、いつの間にこんなの作れるようになったんだ? 婆ちゃんに習ったとか?)
(ありがとう、唯。お兄ちゃん、これで明日もお仕事頑張れそうだよ。)
その夜は色々と感動してしまって、俺は久々に気持ちの良い眠りにつくことが出来たのだった。
多忙なる夏を送る兄にささやかな癒し。
唯の思惑やいかに……?