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32 職場事情(2)

 恋愛要素も結婚観も、今回は皆無です。

 俺の所属する研究所には、今のところ5つの研究室が存在する。年度によって増えたり減ったりしているが……多くても7つまでだろう。

 各研究室には責任者として研究の方針を決定する主任と、その方針に沿って研究を進める頭脳である学者と、その手足となって研究を進める研究者(主に薬剤師)、そして彼らの研究を円滑に進めるために雑務をこなす助手がいる。

 研究室助手の数は、だいたいどこの研究所の研究室を見ても2人くらいだ。

 朝は少し早い段階で出勤して清掃や研究機資材の準備をし、実験の際には実験記録を集計したりグラフを作ったり、終了後は清掃をしたり、今後の研究のための場所や機資材を本社や他の研究室に調整したり、見積書を作成したり、お茶を淹れたり、薬品の員数を管理したり……と研究そのものには深く関わることがない地味な作業ばかりだ。

 仕方がない。助手なんてものは、誰にでも出来る仕事をするために本社から出向しているただのサラリーマンだ。

 ただし、知識はあったほうが良かった。



 君は今時、珍しいタイプだね。真面目というか、堅物というか、手順どおりで機転が利かない、不器用で理想に能力が追いつかなくて自分の時間を犠牲にすることでカバーしている。疲れやすいだろ?

 ああ、すまん。別に非難してるわけじゃない。寧ろ僕からしてみれば、魅力的だと言いたいんだよ。

 僕がここで講義を持ってる他に、製薬会社で働いていることは知ってるかな?

 本社が採用して送ってくる連中はね、見た目が良くて口は上手いし、いろいろ機転が利いて要領が良くて、短時間で効率よく仕事を終わらせることを考えてくれるんだけど……すくなくとも僕の研究室にそういう奴は要らないんだよね。技術職じゃない本社から送られる助手は、どうもそれを理解してくれない。

 あと、実験に携わらなくても、ある程度知識は持ってて欲しいなぁ。会話力とか社交性とか見た目とか機転の良さとか、もうどうでもいいから、きちんと知識があって言われたとおりに誰にでも出来る手順で時間をかけて欲しいわけさ。

 君のレポート良かったよ。所々に突っ込みどころもあったけど、ちゃーんと教授の指示通りの手順で調査して、地道に当たり前のことを時間をかけて書いた、だけど君個人の答えが出された君だけのレポートだ。

 君のそういう姿勢が、うちの研究室の助手として欲しい。

 え? 薬学は専門外? 別に構わんよ。

 とりあえず、有機化学の知識はあるよね? 君に実験なんかさせないつもりだから、僕の指定する講義と実習の単位さえとってくれて、基礎知識と実験機材の扱いだけ覚えてくれるなら、なんとかなるよ。

 もう就活なんて茶番、しなくていいから僕の兼務してる会社の研究室に助手としてこない。頑張ったら農薬扱っている部署に推薦するよ。君、農薬の扱いは詳しいみたいだし、適材適所じゃない?

 あんなリクルートスーツ着て綺麗に着飾ってる『自分はできますよー!演技大会』の大賞よりは、4年間フルで学業やってる奴のほうがよっぽど役に立つよ。

 どうかな? 悪い話じゃないと思うけど?



 三田教授が何を言いたいのか、最初はよくわからなかった。

 とりあえず、教授が俺を必要としてくれているのだと感じて、同時に人付き合いや会話力に自信がなくて面接で落とされる自信満々だった俺は、彼の誘いに二つ返事で乗った。

 授業を増やしすぎて大学生活最後の1年はまったく楽しい思い出がなく、課題や試験や卒論で多忙になり、リミットカットでぶっ倒れたこともあったが、どうにか卒業して就職した。

 そしてなんとなくだが、就職して1ヶ月くらいで三田教授の言いたいことがわかった。

 全員がそうだとは言わないが、同僚の殆どが、何でこの会社に就職したんだろう? という奴らばかりだった。

 法学部がなんでここにいんの? こいつ、保育士と教員免許持ってるけど? ここが第一志望でしたとか、嘘だろ?

 たしかに出来る。器用だ。速い。会話も上手い。人付き合いも上手だ。……でも、なんか違うぞ?

 ああ、そうか。彼らの殆どは学んだこと関係なしに、なりふり構わず就職して……やってることは遣っ付け仕事なんだ。

 研究室助手になると、すべての仕事が効率よりも手順優先の地道なものになる。そこには持ち前の器用さも、速さも、会話力も、社交性も、あまり役立つものではない。ただ言われたとおりに、誰にでも出来ることを、淡々とやっていくだけ……機転を利かせる余地もない、気の遠くなる単純作業の連続が非常に多い。それでいて、自分の所属する研究室が今なにをしているのか、専門知識がないと理解できない。

 ある程度知識がなければ、それが危険だと言われてもどう危険なのかわからず、気づけば手順と管理を怠り、余った時間でプライベートに現を抜かし、ある日突然事故が起きる。

 いい加減、三田教授もウンザリしたのだろう。かといって、ちゃんとした薬剤師を助手に呼んだ場合、実験に参加できずにプライドが傷ついて長続きしない。コストもかかる。かと言って、本社からくる助手は、知識がないから自然にいい加減になる。

 手順どおりの単純作業に対して忍耐力のある、それでいてある程度の知識があって仕事の意味を理解できる人間……そう考えたとき、偶然、言われたとおりのことを、誰にでも出来る方法で、時間をかけてやる俺に、三田教授の目が留まったのだろう。


 俺は地味な作業でも、手順どおりに妥協はしない。時間がかかっても構わない。

 何故なら、その手順の意味が理解できるからだ。

 理解できなかったとしても、その手順が生まれる背景には必ず理由が存在しているのだ。それを知らずに、勝手に要領よく進めていいわけがない。

 その過程でプライベートが犠牲になっても、仕方がない。

 俺のプライベート以上に社会や組織にとって大事なことを、俺はやっているのだ。そして十分な給料と休息時間ももらっている。文句なんか一つもない。


『そういうのをな、社畜って言うんだぞ。』


 同僚の一人がそんなことを言ったが、知ったことじゃない。

 報酬を得て、生活をするというのは、そういうことだ。


『何のために生きてるの?』


 そういや、考えたこともねえな。そういうお前は、どうなんだ?


『幸せになりたいね。会社なんかどうでもいいから、きちんと青春して、遊んで、恋愛して、結婚して、子供出来て、家庭持って……』


 そうしなよ。お前は優秀で器用なんだから、仕事もプライベートも両立出来るだろうよ。

 だけど、全員が出来るわけじゃないことだけは、理解してくれ。

 そして、出来ないことをやることがどれだけ危険か、理解してくれ。

 その上で凡才が立てるべき優先順位を、客観的視点を持って理解してくれ。


 個人の幸福な暮らしなんて、二の次なんだよ。


『そうかもしれないが、他人はそんなふうに思ってないぜ』



 ◇ ◇ ◇ ◇



「仕事に縛り付けて皆を不幸にするのが、俺の仕事です」


 俺ははっきりと所長にそう言って、さらに続けた。

「そうしていれば、あんな事は起こらなかった」

「いや、待て! おかしい! あれは君のせいではない! 騙されてたあいつが悪い!」

「俺も一緒に騙されてたようなもんです! 幸福そうなあいつを見て喜んで、浮かれてしまって、それがあいつのためだと思って……きちんとあいつを指導してこなかった俺のせいで、情報が漏れたんです」


 去年までの俺は、まだ余裕があった。他人に対して、甘さがあった。

 恋人がいる、家庭がある、もうすぐ結婚する、妻の出産が近い……そういう理由を持ち込まれれば、多少の仕事の甘さも仕方がないと考えていた。

 急に仕事を交換したり、代わりに残業や雑用をしたり、ちょっとしたミスならこちらで帳尻を合わせたり、他人の事情には多少のことなら融通していた。

 恋人も友人も家庭も、そうした人間関係の中での役割は、職場の仕事と同じくらいに大切な社会活動の一環なのだろうと感じていた。両立できないなら、ちょっとしたことくらいなら手伝おう、力になろう……そう思っていた。

 その結果が、個人の怠慢につながっていると気づかず、それが思わぬ形で大きな災厄となってしまった。

 年度明けに起きた情報漏えい事案は、その一つの形であった。


 3年くらい前に俺と同じ研究室に来たその後輩は、俺のように自分に自信のない奴だった。

 容姿は中の下、頭はそこそこ、会話が苦手、要領が悪くて不器用……しかしやる気だけは人一倍ある真面目な奴で、忍耐力もまた人一倍強かった。

 本社で宣伝業務に携わっていたのだが、成績が悪くて使い物にならないと言われて、助手として左遷されてきたらしい。

 この研究所は、会社では魔窟と呼ばれている。山に囲まれた周囲には田圃しかない場所で、助手は一日中研究員のための身辺整理などの地味な作業と、害虫や毒虫を扱う汚い作業、用途も危険性もわからない薬品を管理し、言われるままにパソコンで数字の集計、敷地内の草刈や清掃、残業や当直……研究者ならともかく助手なんて、よほど特殊な使命感でもない限り遣り甲斐なんか感じないだろう。

 病気を治療したり、体の調子を良くしたり、命を救ったり、製薬会社で作っているものはそういう薬が多い中で、ただこの研究所だけが生き物を効率的に殺すための薬物を研究している。学者たちは何かしら興味や使命感を持って嬉々としてその研究をしているのだが、対象が人間ではないとはいえ殺戮の片棒を担ぐのはあまり気持ちのいい仕事ではない。

 まあ、今の俺はそれなりに自分の役割の重要性を理解しているので、もう慣れた。

 話を戻そう。

 その後輩は、一から十まで教えないと出来ないような奴で、前の部署では上司が苛立っていろいろ大変だったらしい。

 だが俺は、こいつに一切苛立つことなんかなかった。俺が一から十までちゃんと教えれば、きちんとこなしてくれるのだ。質問がいちいち多いが、いい仕事をするための熱心な姿勢だ。

 一般の感覚はよくわからんが、少なくとも俺は好印象を持っていた。

 不器用同士、夜遅くまで残業することも多かった。お互い全く浮いた話がないので、当直にもよく付けられた。俺たち残念コンビだな、なんて言いながら研究室ではよく笑った。

 ある日、そんな後輩に彼女ができたと言うのだから驚いた。久々の彼女で、俺のことを好いてくれる女の子なんて俺の人生にあとはもういないだろう、後輩はそう言って危ういくらい彼女に夢中だった。お相手の女性は外国人だった。

 研究室でのろける彼の姿は研究員たちから顰蹙を買ったが、俺は聞いていて楽しかった。後輩の幸せを自分のことのように喜んだもんだ。

 彼女とデート、彼女と食事、彼女と旅行……プライベートが忙しくなった後輩に代わって、よく仕事を交換した。ちょっとした仕事の失敗や甘さなら、俺がカバーした。その代わり彼には、目一杯ノロケを、俺には一生ないだろう夢物語を聞かせてもらった。

 状況が一変したのは、年度末の仕事が増え、三田教授の研究発表会の手伝いを頼まれたりと多忙な時期だった。

 さすがに後輩の面倒を見ている余裕はなくなり、俺の後輩への仕事のチェックが甘くなった。プライベート優先になって仕事が疎かになり、失敗が目立つようになったが、事故に至らない分には目を瞑った。

 そんな後輩に、研究データの管理を任せていた。薬品よりは安全だと思っていた。

 そしてある日、彼は研究データとともに失踪した。

 後で判明したことだが、彼が交際していた女性はいわゆる産業スパイの類で、後輩は騙されていたことを知った。

 そして彼は今、行方知れずだ。

 近づく女に気をつけろ、が合言葉になった。

 あとはまあ、残された俺が事態の収拾に追われた。どこまでの情報が漏れているのか、なくなったデータのバックアップはあるのか、そうした事情はお構いなしで学者は研究を続けるので助手の業務もこなし、本社と研究所を行き来して不眠不休も珍しくなくなり、リミットカット、オーバーヒート、燃料切れときて、ぶっ倒れたところで唯に助けられた。

 倒れる瞬間、胸が痛かった。三田教授と医薬品を研究していた時に解剖生理学について概ねの理解があったので、これは心臓にきてるな、死ぬのかな……なんて思いながら意識が飛んだ。

 胸だけじゃない。胃はキリキリと痛み、頭は頭痛薬が効かないくらいに脳を直接ガリガリと引っかかれるように痛くて、指先の感覚がなくて、喉はガラガラに乾いて、瞳孔が散大しているのか景色が明るすぎて、脇腹の痛みは肺だろうか、空腹で足取りが覚束無い…………なんでこうなった?

『お兄ちゃんのばかああああああ!!』

 ああ、ほんと、俺は大馬鹿野郎だ。

 なんでこうなった? 俺が先輩として甘かった。後輩が道を踏み外していくのを幸せと勘違いして、自分以外の人間も大きなものを失いかけた。後輩が甘えを見せたとき、注意するべきだった。怠慢になれば、叱るべきだった。仕事の重要性を自分だけ理解して、徹底しなかった。管理してなかった。強制してなかった。たとえ後輩が不幸になるとしても、鬼になるべきだった。

 みんながそう感じているからそれが正しい……それが間違いだと、美徳に価値があることが幻想だと、何が美しくて幸せかではなく何が正しいのか考え、法律に規則に良識に従って自分を律しておきながら、俺は他人を律することを一切してこなかった。真面目にやってるだけの自分に酔っていた。

 不幸中の幸いというか、会社への被害は少なかった。いくらか無理はあったものの、日頃から後輩の仕事をカバーしていた俺には後輩の仕事の尻拭いくらいはなんとかできたが……それでも研究室の存続にかかわるくらい危ないところだった。


 もうあんな事故は起こさない。小さな人間関係を、製薬という人の命や生活を預かる組織より、多数の社員の生活を支えている会社や研究所より優先させることを許さない。

 そうして生まれる不幸の果てに、全ては成り立っていくはずだ。

 だから俺は鬼になると決めた。


「いや、白瀬……その責任感は立派だが、あまり思いつめるもんじゃないぞ。事故なんて起きるときは起きるし、誰にだって失敗はあるし、お前にできることなんて限られてるだろう? 無理するのも無理させるのもやめておけ……嫌われ役はお前の仕事じゃない。あんまり背負い込むとまた倒れるぞ。俺もう、お前の妹には怒られたくないんだが……」

「その節は妹が大変失礼を致しました」

 所長の言葉に、俺は倒れた日の出来事を思い出す。

 休んでいいぞ、と自宅に帰してくれた所長が夜になって心配になり、功労者に寿司でも食わせてやるよと電話をくれたのだが、唯が勘違いして怒鳴って、電話を切ってしまった。あの時の唯の目は怖かった……笑顔なのに目が笑っていないし、猫なで声が不自然なくらい甘くて、寝ないと殺されるかと思った。

「ご心配なく。俺はいつもどおり、誰にでも出来る方法で時間をかけます。無理をしないようには、努力はします」

 ふと気づくと、握っていた割り箸が折れていた。一瞬とはいえ、感情的になりすぎた。

 短く息をついて気持ちを落ち着けたとき、所長は思い出したかのように俺に問いかけた。


「えーと……白瀬、最近お前の周りで変わったこととか起きてないか?」


 …………は?

 先輩として鬼になれなかったことを後悔し、裕一もまた歪んでいく……。


 所長の質問の意味は?

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