表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/65

31 職場事情

 裕一の職場をちょっと覗いてみよう。


 恋人がいたとして、俺なんかと交際が続くだろうか?

 結婚したとして、仕事と家庭の両立は可能だろうか?


 俺の場合、多分無理だ。


 仕事のことを優先してばかりで、恋人に気を使うことを忘れてしまうのではないか?

 もし恋人を優先したとき、顔色を伺いながら嫌われることに恐怖し、好かれることに現を抜かし、万が一夢中になったりしたら取り返しのつかない堕落をするのではないか?

 俺は家庭というプライベートよりも、仕事を中心に生活をしてしまうだろう。

 もし家庭を優先したとき、俺は自分の役割を忘れて職場で致命的なミスを犯すかもしれない。


 ただ真面目にやるだけで精一杯で不器用で凡才の俺に、両立は無理だ。

 俺は出来ないことはやらない。

 出来ないことをしたいなんて考えない。

 やらなくても良いなら、やらない。

 どうしてもやらなくてはいけないなら避けたりはしないが、誰にでも出来る方法で時間をかけるだけだ。


 恋愛や結婚を学業や仕事と両立するなど、俺には出来ないことで、やらなくても良いことだ。

 俺にそこまでの、甲斐性はない。


 ところで、周りの奴(既婚者や彼女持ち)は、そんな器用な真似が出来ているもんなのだろうか?



 ◇ ◇ ◇ ◇



「じゃあ、あとよろしくお願いします」

 俺とは別の研究室に所属する後輩が帰り支度をする途中で、そう言って俺に一冊のファイルを手渡すが、俺は受け取ってすぐにファイルを開いて当直室を出ようとする彼を引き止めた。

「待て。第1薬品庫の点検記録、これおかしいぞ。この3番と6番、俺が休暇入る前と数が変わってねえ」

 研究所で扱っている薬品の中には、毒物や劇物が数点ある。とくにこの研究所は農薬や殺虫剤の研究をしているために、ひとつ間違えば毒ガスを作れるくらいの材料と設備がある。

 そのため、薬品庫の点検は研究所の当直の欠かすことのできない仕事のはずだったのだが、

「俺がいない間にも終業時間後も2つ研究室が稼動してたことになってるぞ。お前、ちゃんと薬品庫開けて数点検したか? どうなってるのか説明しろ」

俺の追及に後輩は気まずそうな顔をして目をそらす。

「今から薬品庫行くぞ。あと、開放記録洗い直す。でもって、この日誌と点検記録書き直せ。終わるまで帰るなよ」

「えーっ!? ちょっ……俺今日、嫁と娘が……」

「知るか! 点検くらいの誰でもできることをサボって、家族サービスはいっちょ前だと!? ふざけんな!」

「いや、あの……ですが、別に危険な薬品じゃないですし、このくらいなら書き直さなくても、数だけ確認して白瀬先輩が現在数書き込めば帳尻が……」

「薬品庫の開放記録と照合して合ってなかったら、大問題なんだよ! 危険な薬品じゃなくても、あそこには科学者がその気になったら大量虐殺可能なだけの毒物もあるんだぞ! 事故が起きないからって、手順無視して書面の帳尻合わせでやって良い仕事じゃねんだよ! お前、ちゃんと当直の仕事してたんだろうな!? 嫁の機嫌取りの電話やメールばっかしてたんじゃねえのか!?」

 後輩の肩が跳ねる。

(おいおい、図星かよ)

 そういえば長いこと独り身で、去年やっと付き合い始めて、どうにか結婚までこぎつけて……とか言ってたよな。当直の仕事は終業時間から深夜まで点検や巡回、清掃、電話応対ばかりで、そのくせたいした手当てもつかないし、女とメールのやり取りなんて頻繁な作業はできないから、サボりたくもなったのかもしれない。それにバレない奴はバレないしな。

「プライベートは確かに大事だがな、俺たちはこの研究所の組織の一員だ。プライベート中心に仕事してないで、仕事中心にプライベート送れ! お前にできないことやれなんて、俺もここの学者も職員も誰一人言ってねえぞ!」

「先輩、勘弁してください。先輩は独身だから良いですけど、家庭持つと色々大変なんです。嫁の機嫌損ねると……」

「知らん! その家庭と仕事を両立出来るから結婚したんじゃねえのか!? できないなら、できないこと始めたお前が悪い!」

「そんなこと結婚する前に分かるわけ……」

「お前も嫁も自分の良いとこしか見せないで、夢ばっか語ってるからそうなるんだよ! 現実的に見積もり立てれば、どんな生活になるか7~8割は気付くだろ!」

「そんなこと言ってたら結婚できな……」

「じゃあ、すんなよ! 薬品庫の毒物が研究所の敷地外に漏れてみろ! お前の家庭の都合のせいで、近隣の自然の生態系に影響及ぼして、周辺の農家十数世帯の生活にも悪影響及ぼす可能性だってあんだぞ! 仕事なめんな!!」

 実際にはそうした事故が起きないように、危険な薬品を扱う実験棟には幾重にも安全策を設けているが、それでも怠慢のような人為的ミスがないことが前提の措置だ。こういうことを少しでも許すと、いずれ事故が起こるだろう。

 俺は後輩を引きずるようにして薬品庫まで連れて行き、後輩が泣きながら研究所を出たころには夕方になっていた。

 きっと後輩は、あの人は頭が硬い、モテないから結婚出来た俺を苛めてる、家庭を持たない人に何がわかる、あんな仕事人間に誰もついてこない……などと呟いているに違いない。


(自業自得だ、ボケ!)


 研究所の今年の盆休み全てを、俺は当直につくことになっていた。

 高価な機材や危険な薬品を保管している研究所は、非常時の対応や警備なども考慮して終業時間以降や休日には当直が泊り込み、必要な点検や清掃といった業務をすることになっている。

 チェックリストに沿ってやる作業ばかりで面倒ではあるが、誰にでも出来る仕事だ。

 独り身でお盆の用事なんて墓参りと親戚回りしかない俺は、長期休暇で家族サービスやプライベートのあれこれを送りたい彼らに代わって、こういうときはよく当直につけられている。

 クリスマスや年末年始の年越しを研究所で過ごすなんか当たり前だし、ゴールデンウィーク期間なんか半分つくのが当たり前の有様だが、その分前倒しで休暇をもらうようにしている。

「うーん……あいつがやらかした他は、今日も平和で異常なしだな」

 夜の定時の見回りを終えて当直室に戻ると、俺は羽織っていた白衣をハンガーにかけてベッドに腰掛けた。

 軽い疲労と達成感が、自然とため息になって漏れる。

 敷地内の定められた見回りのルートを敷地内の各施設の戸締まりや物品の員数、防火点検等をしながら1時間近くかけて回る。平日なら就業時間前後の朝晩の2回の見回りですむが、休日は午前と午後に1回ずつの計4回になり、加えて休日になると当直しかいないために、小規模だが研究用に栽培している薬草の管理や、実験用に飼育している害虫や毒虫の管理までもしなくてはならなくなる。時間は十分あるものの、一人でやるのは骨が折れるものだ。


「もう就職して7年目か……。同期で辞めた奴けっこういるのに、続くもんだな。そういえば三田教授、今年で定年だっけ……」


 俺の勤める製薬会社は、医薬品を主にしつつ、農薬や除草剤、化粧品、サプリメント、最近では健康器具なども扱い始めていて、それぞれの分野の研究所を保有している。

 もともと俺の大学の専攻は農業で、就職したのはそのとき何かの課題で書いた農薬の運用について書いたレポートが何故か薬学部の教授の目に留まり、4年生になる前のある日、

『あのさ……就活なんて茶番、もうしなくていいから、僕が兼務してる会社の研究所に助手としてこない? 頑張ったら農薬扱ってる研究室に推薦するよ』

などという話になり、4年生になった俺は卒業に必要な単位に加えて、追加で必要な講義と実習の単位をとることを条件に就職できてしまった。

 レポートなんて検索サイトの文章そのまま写せばいいじゃない、なんて言っていた当時付き合い始めたばかりの彼女と喧嘩した挙げ句に別れて、学友たちからも面倒くさいと言われて見放され、傷心のまま一人で寂しく祖母の知り合いの農家にインタビューに行って書いたレポートだったのだが、出来上がったころには課題として提出されるそれが百数人分もあるにもかかわらず、点検する教授が一人しかおらず、提出さえすればいい課題だったのだから、この努力は無駄になるんだろうなぁ……と悲観したものだが、まさかそんな大事になっているとは夢にも思わなかった。

 会社に俺を推薦してくれた三田教授は医薬品が専門で、最初の半年は社員寮暮らしをしつつ、俺は殆ど知識もなくて暇を見つけては勉強して四苦八苦したものだが、どうにか辞めることなく耐え抜いた。

 そして現在、毒劇物の取り扱い資格も取得して、教授の推薦により実家にほど近い農業薬品部門の研究所の研究室で助手をしている。

 今思えば恋愛と友情と青春の一部を犠牲にしたようなものだが、それでも真面目にやってて良かったとつくづく思う。

 だが、俺の所属する研究所は、会社で花形の医薬品部門や化粧品部門と違い、魔窟と名高い部署だった。

 何がどう魔窟であるのか、それはそのうち語ることになるだろう。

 そして、そんな魔窟は、今は俺の城と化していたりする。


“チーン♪”


 当直室の隣にある給湯室の中で、電子レンジが小気味の良い音を立てる。給湯機のお湯を、大きめのマグカップと急須に注ぐ。

 さて、遅めの晩飯だ。

 電子レンジからラップに包まれた白飯を取り出し、茶碗に移す。入れ違いに惣菜の入ったタッパーを一つ電子レンジに入れて加熱する。

 湯気を上げるマグカップにはインスタントの味噌汁が、急須からは焙じ茶の良い香りが漂う。

 まもなくして電子レンジが加熱終了を知らせてくれて、俺はそれらを盆に載せて当直室に戻った。

 机の上においた煎餅の金属容器を開けて、

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な♪」

と中身を一つ一つ指差しながら選ぶ。中身は煎餅などでは決してない。

「よし、今日は“明太子風味”にしよう!」

 容器の中に入っているのは、ゆかり、のりたま、牛肉風味、山葵、鮭……ありとあらゆる種類の“ふりかけ”の袋や容器であった。

 研究所には社員食堂のような気の利いたものはなく、職員たちは皆弁当なりインスタント食品なりを持ち込んだり、割引の利く業者に格安で出前を頼むことも可能だが、俺はそういうことはしない。

 定期的に保冷容器に一食分ずつラップした冷凍白飯を持ってきて給湯室や当直室の冷凍庫に保管し、食べるときは暖めてふりかけをかける……お手軽超手抜きで、冷たいくせに食べるときはホカホカ暖かい食生活を送っている。本当は炊飯器を持ち込みたいところだが、所長に具申すると「やめてくれ!」とあきれた顔で一蹴された。良いアイディアだと思ったのだが……。

 さすがに数日泊り込みとなると栄養バランスが気になるので、何かしら惣菜を持ってくるようにしている。今年のお盆は都合がよく、良い物が手に入った。

 ふりかけののったご飯の横にある小さなタッパーをあけると、ホカホカに加熱されたきんぴらごぼうが出てきた。唯や須藤女史と一悶着あったあの日、夕食に出たお惣菜の一つで、自宅に帰る前に母親から持たされたものの一つだ。当直室の冷蔵庫には、そのときに渡された他の惣菜も小分けにして入っている。

『どうせろくに料理もできないんだから、持って帰りなさい。ちゃんと裕一にご飯作ってくれる女の子がいれば……』

(ほっとけ!! 切るだけ、かけるだけ、混ぜるだけ、焼くだけでも出来たら生きていけるんだよ! 電子レンジがあればどうにかなるんだよ!)

 帰り際の母親の言葉を思い出し、来年こそ帰るまい思ったそのときだった。


「お! 今日は美味そうなもの食ってんな」


 ノックもなく当直室のドアが開き、小さな紙袋を持った黄色いポロシャツ姿の40半ばくらいの男が入ってきた。

「所長! お休みなのに、何で!?」

 彼は俺の所属する研究所の所長だ。

「ほれ、差し入れだ。半週も3食ふりかけ飯じゃ、栄養失調で死ぬぞ……と思ったが、惣菜持参か」

 所長はそう言いながら俺に紙袋を手渡し、タッパーに入ったきんぴらごぼうを見てそう言った。

 紙袋の中には、奥さんが作ったものと思われる唐揚げやポテトサラダといったものが入っている。これで夕食に一気に花が咲く。

「ありがとうございます。あ……お茶、飲みますか?」

「いやいや、いいよ。俺はすぐ帰るから」

 席を立とうとした俺を言葉で制して、所長は立てかけてあったパイプ椅子を一つ広げて座った。

「すまんなぁ……お盆はどこも用事があるのに、いつも当直についてもらって」

「別に構いませんよ。きちんと休暇は頂いてますし、これが仕事ですから。それに、独り身は時間の融通が利いて、楽なもんです」

 俺の言葉に、所長はヘニャリと呆れたように表情を崩して苦笑して、

「君も家庭もちなよ。稲葉のやつ、泣いてたぞ」

ため息混じりにそう言った。

 稲葉、というのは俺が今日こっぴどく叱りつけた後輩のことだ。

「仕事もまあ、大事だよ。君の使命感は立派だと思う。だけど、もうちょっと事情を汲んでやってくれないもんかね?」

(あいつ、所長に愚痴ったのか?)

 泣きながら帰路についた後輩の後姿を思い出し、俺は内心腹を立てながらも、努めて落ち着いて口を開いた。

「あれで良いんですよ。立場も実力も弁えず、夢ばっかりで運任せで無謀で、出来ないことを始めたアイツに否があります。事情なんか知ったことじゃありません」

 俺は家庭を理由にして規則や手順に反して、要領よく楽をして、家庭のために時間を作ろうとするタイプの既婚者が嫌いだ。恋人を大事にするあまり、平気で仕事を交換したりサボったり、職責を忘れてしまう奴が大嫌いだ。家族や恋人を大事にする姿勢は美しいのかも知れないし、そういう生活は彩りがあって楽しいのかもしれないが、美徳がすべて正しいなんて考えは……もう一欠片も持ち合わせていない。

 恋愛だの家庭だの、そんな事情なんざ知るもんか! 社会に、組織に求められた大きな役割を無視して、恋愛に現を抜かして、家庭なんて小さな共同体の役割を優先することがそんなに大事なのか?

 俺は今はもういない、同じ研究室で一緒に助手をしていた、俺と同じように不器用で自信のない後輩を思い出す。

 良い奴だった。なのにどこで間違えたのか、何であのときの俺は鬼になれなかったのか……、美徳なんて幻想に惑わされていたことを、みんながそう感じているからそれが正しいと一時でも感じていたことを、今でも後悔している。

「所内で誰かの家庭が崩壊しようが、ろくに恋愛なんか出来なくなって職場が独り身の巣窟になったとしても、全体に悪影響が及ぶよりずっと良い! 所長も思うところはあるでしょうが……」


 仕事中心にプライベート送れ! じゃあ、(結婚なんか)すんなよ! 出来ないこと始めたお前が悪い! 仕事なめんな!


 あの言葉に、嘘はない。

 あの事件以降、俺は迷わず鬼になると決めた。正しいことの強要なら、上司が相手でも引かない。

 だから俺は、決めていることがある。



「仕事に縛り付けて皆を不幸にするのが、俺の仕事です」

 個人よりも組織のために、みんなを不幸にする……?

 裕一は利他的、全体主義な仕事人間?



 しばらくは、裕一の職場事情とそれにともなう結婚観を語りたいと思います。


 そんな裕一を救い癒せるのは、結衣しかいないのかな?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ