29 須藤家の食卓
お待たせいたしました。
裕一が残念男子の悟りを開く一方で、須藤家では……?
「君はまだ子供だ」
私は子供だ。
何も出来ない、小さくて無力な、子供だ。
だから大人にならなくちゃいけない。
「助けが欲しいなら、気にせず頼れ」
勝手なこと言わないでください。お人好し過ぎます。
お母さんに苦労をかけているのに、その苦労を初対面のあなたにかけて助けてなんて……言えません。
私にできることが、あるはずです。
唯先輩の代わりに、私があなたを支えます。
「妹がとんでもないことを吹き込んでしまい、すまなかった。お詫びに……」
逃げないでください。
そんな理由は勝手です!
私は納得いきません!
大切な人に守られてばかりで、助けられてばかりの、何もできない子供のままなんてもう嫌です!
私に出来ることをさせてください。
私は裕一さんと結婚します。
「約束するよ。16歳の誕生日に、私の大切なお兄ちゃんを……素敵な旦那様をプレゼントするね」
唯先輩、お願いします。
◇ ◇ ◇ ◇
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんの何が駄目なんだろ?」
台所で麻衣と肩を並べて夕食で使った食器を洗っていると、麻衣が呟くように言った。
私が裕一さんと結婚することを決めてから、麻衣は積極的に家事をするようになった。
お姉ちゃんが結婚したら私が家のことを全部するのだと言って、夏休みに入ってからは積極的に私から家事を習うようにしている。料理は苦手のようだが努力しているし、洗濯や掃除は得意で、買い物は身軽さを活かしてスイスイと目的の物を手に入れてしまう。
なかなか素質があるので私も教え甲斐があって、最近はこうして麻衣と家事をするのを楽しいと感じるようになった。
麻衣は今日、私が裕一さんと会ったことを知っている。そして、裕一さんが家にいない間に唯先輩の指示でお使いをしていた。
裕一さんが私の求婚を断ったことを、麻衣は唯先輩から聞いたそうだ。
両手を泡だらけにしてスポンジで食器をこすりながら、なにやら不満気な顔で拗ねたように頬を膨らませて、気がつくと私をジッと観察するように見つめていた。
「じーぃぃぃぃ……」
「なに?」
目を細めながら私の頭からつま先まで観察している麻衣に、私が首を傾げながら尋ねると、麻衣はシンクの中の最後の食器を洗い終えて手についた泡を水道で洗い流し、
「納得いかなーい!」
と言って、今度はさっきまで洗っていた食器の水気を布巾で拭き始める。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんの何が不満なの? お姉ちゃん美人だし、お料理上手だし、家事は何でもできるのに……、むぅぅぅ……男の人ってよくわかんない」
「裕一さんはね、私が子供だから結婚できないんですって」
私がそう言うと、麻衣は目をパチパチと瞬かせながら私の方を見た。
「私にはまだ将来があるから、結婚なんかしないで自分の未来を大事にしなさいってことみたい」
裕一さんの言いたいことはわかる。私の申し出は非常識で、唯先輩の提案も非常識で、裕一さんは理性的にそれを断っただけでなく、初対面な私の将来まで考えて答えを出してくれた。
だけど私はもう、甘えてばかりの、守られてばかりの、助けてもらってばかりの子供ではいたくない。
それに、裕一さんは十分に魅力的だ。自分のことを残念男子なんて言って自己評価が低いようだけど、真面目で落ち着いていて、自分の良心や良識といったものにしっかりと従って自律していて、ちゃんとした経済感覚を持ってきちんと自立できていて、どことなく大人の余裕というものがあった。
唯先輩の非常識な提案を自分のことのように謝罪していた姿は、家族思いな誠実で頼もしい大人の対応に見えて……私がまだ小さいかったとき、友達と喧嘩して怪我をさせてしまった私をつれて、友達とその両親に頭を下げていたお父さんにそっくりだった。
唯先輩がお兄さんを好きになるのが、なんとなくわかった気がした。
「納得いかなーい!!」
食器の水気のふき取りを全て終えて、麻衣は叫ぶように言った。
「お姉ちゃんのどこが子供なの!? 私の友達のお姉ちゃんで、お姉ちゃんほどしっかりしたお姉ちゃん見たことないよ! エリちゃんのお姉ちゃんなんか、家事手伝わなくて、勉強もしないでやりたいことばっかりやって、部屋汚くて、一日中鏡の前でお化粧したり髪とか眉毛いじっててばっかりで、いつもビックリするんだよ! なのにイケメンの彼氏がいるとか言って……ぬぅぅぅ、神様のばかあああああ!!」
「ちょっと、麻衣。落ち着きなさい」
暴走し始めた麻衣を抱きしめて、私は小さな背中を撫でながら宥めた。
「大丈夫よ。麻衣の大好きな唯先輩が、全部うまくしてくれるわ。時間はかかるかもしれないけど、今は私たちに出来ることをしましょう」
「ニヒヒィ……そうだね。先輩さんに任せておけば、大丈夫だよね。」
唯先輩の名前を聞いた瞬間、麻衣は急に機嫌をよくして大人しくなり、唯先輩にそっくりな笑い方で目を輝かせた。
お父さんが死んでしまう前から私や麻衣やお母さんを気にかけてくれていた唯先輩を、麻衣は危ういくらいに信頼している。それはもう、崇拝と言ってもいいのかもしれない。
「いーもーんだ。神様なんかいなくたって、お姉ちゃんには先輩さんがついてるんだから」
なんだか自分の将来なんかより、麻衣の将来のほうが心配になってしまう。
「ただいまー」
玄関からお母さんの声が聞こえた。
「おかえりー」
「おかえりなさい、お母さん。今日は早いんだね」
お母さんはどことなく疲れた顔をしていて、だけど私や麻衣に心配をかけてはいけないと思ったのか精一杯に笑いかけてくれた。
「今日はね、仕事が順調で早くあがらせてもらったの。お夕飯、なにかしら?」
時計を確認すると、夜の8時だった。今のお仕事を始めてから、こんなに早く帰ってくるお母さんは珍しい。
もしかするとお母さんは、私が裕一さんと会ったことを心配して早く帰ってきたのかもしれない。唯先輩から、私が裕一さんと会う日をお母さんは聞いていたはずだ。
私と裕一さんの間でどんな答えが出たのか、気になって仕方がないのかもしれない。
麻衣がはしゃいだ様子でパタパタとお母さんに駆け寄ったかと思うと、
「今日は麻衣が作ったんだよー! 見て見て、肉じゃが!」
とお母さんの手を引いて台所まで引っ張る。
「あらあら、上手にできてるじゃない。じゃあ私、先に着替えてくるわね」
お母さんは嬉しそうに麻衣の頭を撫でてそう言うと、自分の部屋に向かう。
「ねえ、お母さん。今日、裕一さんに……唯先輩のお兄さんに会ってきたよ」
私がそう言うと、部屋のドアを開けたばかりのお母さんの動きが止まった。
部屋の入り口を向いたままで、お母さんがどんな顔をしているのかよく見えない。
「そう……なの」
やっとのことで搾り出したかのようなお母さんの声に、私は努めて落ち着いた声で続けた。
「唯先輩の言ってた通り、とても真面目で優しそうで、しっかりして落ち着いた感じの、大人の男性って感じだったよ。ちょっとお父さんに似てた気もする。でもね……私が子供だから結婚できない、だって」
私の言葉に、お母さんは大きなため息をついたように見えた。それが安堵によるものなのか、不安によるものなのか、お母さんの背中しか見えない私にはよくわからない。
「それで……結衣はどうしたいの?」
お母さんが背中を向けたまま私に聞いてくる。
私の答えは、もう決まっている。
「私は裕一さんと結婚して、ちゃんと高校を卒業するよ」
私の言葉に、お母さんはやっと私の方を振り向いた。
どこか寂しそうな顔で微笑みながら、
「そう。結衣のやりたいように頑張りなさい。だけど、無理はしないでね。お母さんは今大変だけど……いつでも頼って良いからね」
そう言って自分の部屋に入ってしまった。
本当はお母さんは、私に頼って欲しいのかもしれない。
遠慮なく我侭を言って欲しいのかもしれない。
もし私がそうすれば、きっと精一杯それに応えようとしてくれるかもしれない。
だけど心のどこかで、いつか無理になることをわかっていて……私が真剣に考えた答えだからこそ、したいようにさせてくれているのかもしれない。
だけどお母さん……お母さんも私を頼って良いんだよ。麻衣だって、頑張ってるよ。
きちんと高校を卒業すること……それが私の将来を真剣に考えてお母さんが出した、最大限の譲歩だった。
私がお嫁に行くまで頑張る……それはお父さんが言っていたことだった。
裕一さん、あなたは私のお母さんとお父さんの気持ちに応えることができます。
そして唯先輩の言うとおり、あなたは結婚相手として十分に魅力的です。
私が子供だと言うのなら、私は精一杯大人になってみせます。
だから、どうかお願いします。
あなたと結婚するので、私を高校卒業させてください。
結衣の決意は揺るがない。
麻衣ちゃん、病んできたなぁ……。