21 待機する妹
結衣が悩んでいるその頃、唯は……?
お兄ちゃん・裕一の残念ライフを少し覗いてみよう。
期末試験期間を、私はお兄ちゃんの部屋で過ごしていた。
お母さんには勉強に集中したいから、家じゃなくてお兄ちゃんの所に行くと言って、お兄ちゃんの部屋に強引に押しかけた。
家にいる就職浪人中のお姉ちゃんと一昨年に大学中退したフリーターのお姉ちゃんでは、勉強のことを聞いても全然役に立たないし、むしろお母さんが留守中の家事を押し付けてくるときもあるから落ち着かない。
お兄ちゃんは勉強ができるタイプだから、お母さんもしっかり教えてもらいなさいと言って送り出してくれた。
「いや、俺に何を教えろと?」
テーブルにノートと教科書を広げる私の後ろで、ベッドの上にアイロン台を置いてワイシャツの皺を伸ばしながら、Tシャツに短パン姿のお兄ちゃんは汗ビッショリで振り向いた。
窓を全開にすればいい風が入ってくる室内だが、それでも暑くなり始めたばかりだ。そんな真昼間に私は扇風機を占領していて、お兄ちゃんはシューシューと蒸気をあげる熱いアイロンを滑らせていた。
「だーかーらー、この部分!」
「わざとか!? それを兄に、男に聞くか!?」
アイロンを止めて、首にかけたタオルで汗を拭いながら、お兄ちゃんは顔を真っ赤にして怒っている。
(あはっ……怒った顔も良いなぁ。……そのタオル、あとで貰っとこ)
私がお兄ちゃんに見せているのは、保健体育の教科書だ。内容は……別に言わなくていいよね。
「つーか、そんな教科、教科書の文章覚えるだけなんだから聞くなよ!! 年頃の女の子なんだから、ちったー慎めよ!!」
「あれー? お兄ちゃん、なに考えてるの? やらし……べぎゃぶっ!」
からかって楽しんでいた私の額に、お兄ちゃんのチョップが炸裂する。
(あはは……これはかなり痛い)
冗談がきつ過ぎたようで、お兄ちゃんは冷静さを失って力の加減を間違えている。
ここ数日、お兄ちゃんが無理をしている様子はなく、夕方には帰ってくるのを見て、私はホッとしていた。そんなお兄ちゃんの部屋で、私は夕食を作ったり洗濯したりしつつ、部屋の中に○○○がないかチェックしたり、テスト勉強をして過ごしていた。
お兄ちゃんはこの日、お休みをもらったらしく、朝から仕事部屋を掃除したり、洗濯やアイロンといった家事をしながら、お昼に帰ってきた私の勉強を見てくれていた。
家事くらい私がやるよ、と言うと、
「お前何しに来たんだ? テスト勉強だろ! 受験生がなにやってんだよ!?」
と、怒っているような呆れているような顔で言っていた。
部屋の掃除を終えて、シャワークリーンのスーツを浴室のシャワーですすいで、洗濯物も干して、靴磨きまでして、終わったかと思えば買い物に行って、帰ってきたらワイシャツがとっくに乾いていたのでアイロンがけして……。
せっかくのお休みなんだし、もうちょっとグータラしてもいいんじゃないの? と思うところだが、お兄ちゃん曰く、
「余裕のあるときに、余裕のないときの準備をする」
「徹底した自己完結と自己管理による生活基盤の確立こそが、仕事の充実と成果につながる」
らしい。
(だったら早いとこ部屋の冷房、修理しなよ。なんでそこだけ面倒くさがるのかな?)
部屋の本棚には『独り身ライフの条件』なんてタイトルの本があり、お兄ちゃんの言葉はその受け売りらしい。
荒削りの家事で何もかも自分でやって、家計簿までつけて自己管理をしながら、「嫁がおらずとも身一つならば、半人前に家事ができれば解決」なんて口ずさみながら、『5分でできる肴、15分でできるご馳走』なんてタイトルの本を読みながら、夕食のメニューを考えている。
そうかと思えば『老後の健康と楽しみ』なんてタイトルの本を見ながら、なにやら指折り数えている姿に、残念オーラがメラメラ沸き立っていて見えて、お兄ちゃんがなかなか結婚できないことに悩んでいたお母さんに同情してしまう。
ああ……もう本気で一生独身を決意してるんだね、お兄ちゃん。
自立し過ぎてモテないタイプ……じゃなくて堅物過ぎてモテないからここまで自立せざる得なかったんだろうなぁ。
早めに落とし所を見つけて、幸せ戦線から戦略的撤退……お兄ちゃんの硫黄島はきっと老後なんだね。現実的に綿密な計画を練ってる所が痛々しいけど凄い。
将来設計が規格外過ぎて生命保険の勧誘がビビって逃げるとか言ってたっけ?
だけど、お兄ちゃん。老後なんか迎える前に、お兄ちゃんは確実に壊れてしまうと思うよ。
そこまで考えて、私はユッチのことを思い出す。
お兄ちゃんのお嫁さんにと思って、これまでずっと守ってきた、私が見つけた最高の女の子を……。
(ユッチ……答え、まだでないの? 嫌なら嫌で良いんだよ。お兄ちゃんのお嫁さんになってくれなくても、ユッチはずっと私にとって大事な後輩だからね)
もし、ユッチの答えがノーだったら……
お兄ちゃんが、このまま無意識に無理してしまうことを止められないなら、その時は……
いっそ私がお兄ちゃんを壊してあげる。
◇ ◇ ◇ ◇
期末試験が終わって、ようやく憂鬱な時間も過ぎ去ってホッとした頃に、状況は動いた。
「終わったー!」
(あとはテストの結果を待って、夏休みだー! 夏休みもめいっぱいお兄ちゃんを連れまわすぞー!)
ホームルームも終わって、いろいろなことを期待しながらグーッと伸びをしていると、教室の出入り口からクラスメイトの声がした。
「ゆーいー! お客さんだよー!」
「ふえ?」
振り向くとそこには、ユッチの姿があった。クラスの男子がざわついている……ユッチを変な目で見ないでよ!
1年生のユッチが3年生の教室を訪れるのは初めてだ。いつもは私のほうからユッチの教室に行っているのに。
(これはやっぱり……あれかな?)
ユッチは先輩しかいない廊下で落ち着かない様子でこちらを見ている。
(オドオドしてるユッチも可愛いなぁ)
なんて思いながら、私はカバンを手にしてユッチのもとに歩いた。
しっかりと笑いかけながら、私はユッチに話しかける。
「ユッチ、今日の図書当番は?」
「今日は私の日じゃないんで……その、えっと……」
「じゃあ、一緒に帰ろう。アッキー、私、今日はサボりねー!」
同じ陸上部の友達にサボりの旨を伝え、少し緊張しているユッチの手を引いて私は教室を後にした。
「うそっ! 麻衣ちゃん……聞いてたの?」
ユッチの家の近くの公園で、あの日と同じようにベンチに並んで座って、私はユッチの話を聞いていた。
ユッチを説得しているところを麻衣ちゃんに聞かれていたなんて……。だけど、麻衣ちゃんが私を異常なまでに信頼していること、ユッチをお兄ちゃんと結婚させようという私の目論見に前向きなことは、私にとって嬉しい誤算だった。
(まさか、今もこの瞬間に……)
なんて考えて勢いよく後ろの植木の影を確認したが、どうやら今日は誰もいないようだ。
まあ、今重要なのはそんなことではない。
再びベンチに戻り、私はユッチに問いかけた。
「ユッチ……答えは出たの?」
ユッチはしばらく迷うように俯いていたが、やがて決意の色に染まった大きくて綺麗な瞳で私を真っ直ぐに見つめて、小さな唇を緊張に震わせながら答えた。
「唯先輩……お兄さんに、会わせてください」
お兄ちゃん・裕一のような独身男子は探してみると意外にいます。
裕一本人は大丈夫と思い込んでいるけど、無意識の完璧主義が祟ってたまに倒れてしまい、妹・唯はそれを心配しています。
さてさて……結衣の答えは?