首吊りイチョウの木
あの子が首を吊ってしまった。僕が思いを寄せていたあの子が
噂の首吊りイチョウの木の下で
彼女を発見したのは僕だ
だらりと吊り下がった若い体を吊るす縄
その様子がまるで未成熟の青梨のようで
ひどく、官能的で美しかった
彼女は美味しい梨の実だった
少しやせ過ぎていたが均整の取れた肢体…形の良い丸い乳房
紅玉のようにぷっくりと膨らんだ唇、夜色をしたさらさらな髪
そう、彼女は成熟しきる前の美しい果実だった
「君はなんて美しいんだ。その死の瞬間までも…」
首吊りは最も死体が醜く残る自殺方法だ
彼女が首を括って、すぐに見つけられたのは幸運だった
即死だったのは不幸中の幸いといってもいいだろう
死体を美しいままで世に残せるのだから
醜く顔が膨れ上がる前に僕はすぐに彼女を降ろした
しかし、彼女の体は僅かに温もりを残したまま息をしていない
徐々に温もりを失っていく肉体は、残酷にも死という現実を時間と共に示してゆく
結局、彼女は手遅れだったのだ。だが、どの道同じだったかもしれない
自分はまた間に合わなかったのだろう。収穫祭は遅すぎた
彼女の死体を黄色の葉が集まった薄黄色のベッドに載せた
お姫様抱っこをするのは初めてだ。以外に体が重く、持ち上げるのに梃子摺った
…その原因は知っている。僕は寝かせた彼女の手を組ませてイチョウの葉を指に挟ませた
いわば献花代わりだった。この世に別れを告げた彼女に対しての
僕は彼女に最初で最後の口付けをする
冷たくなった唇から冷たい死のにおいが漂ってくる
僕は彼女の死に顔を見ながら過去を回想した
「ごめんなさい。私、もう付き合っているから」
何故、気付かなかったのか
彼女と僕の家は近かった、幼稚園からの付き合いで小学校までは良く遊んでいた
しかし何時頃からだろう?徐々に疎遠になっていったのは
中学二年までは、たまに一緒に学校に通うこともあった
世間話すらした。しかしそこまでで関係が進展することは無い
僕は本が好きだった。最近のつまらない本ではない
歴史の本とか、科学の本とかとにかく知識を取り込むのが好きだったのだ
知識を披露すると彼女は不思議がって、僕に訊いてくる
その時だけは、僕は彼女の小さな先生だった
しかし、時間というものはひどく残酷なもので
時と共に人の嗜好というものは変わっていくものだ
時間というものをあれ程恨んだことは無い、神の存在すらも
僕はずっと彼女の先生で居たかったのに
しかし…彼女は恋をした
無論、僕になどではない。そんな都合の良い優しい物語は用意されていない
自分は周囲の男子と比べても地味すぎて運動が不得意だった為
周囲名からは、いわゆる勉強はできる「少し暗いガリ勉」として扱われていた
そんな人間に魅力を感じる女子なんているはずも無く
彼女もまた例外ではなかっただけなのだ
中二の夏前、蝉の声が少しづつ五月蝿くなってきた時に
僕は彼女に思いを告げた。僕もまた周囲に影響されていたのだ
彼女は一日後の放課後に、付き合っている人が居るから告白を断る返事をした
相手はサッカー部のエースで、成績も学年トップクラスのスターだった
たった一つの長所だった勉強ですらも太刀打ちできず、僕は引き下がるしかない
彼女の幸せを考えるなら身を引くべきだと思い込んだ
自分の中に芽生え始めた彼女への憎しみと、彼氏への嫉妬は見ない振りをした
僕は彼女のことを忘れるように勤め、身を削るようにして勉強に励んだ
努力が実り、あの男ですら成績では追い抜いたが…彼女は僕に振り向いてくれなかった
「私ね、子供が出来ちゃったみたい」
第一希望の高校に無事進学し、友達も作らず勉強塗れになる日々
信じられるのは自分の学力だけだと、自分で自分を洗脳した
成績で上位になれば、大手企業に就職できる。そうしたら間違いなく幸せになれると信じていた
周りの人間は蹴落とすべき競争相手以外の何者でもない、必死に学力は上がっていった
人間関係など必要無かった。自分以外の人間は信じられない、不要である
ヒトは甘さを持ったときに弱くなる。その弱みを無くしてしまいたかった
何事にも動じない、強い人間になりたかった。いや…なろうとして結局は仮面を被っていただけで
だが、その仮面もいとも簡単に剥がされた。疲れて公園のブランコに座っていたとき、彼女に再会してしまったのだ
僕は平静を装った。少し大人っぽくなった彼女が話しかけてくる
昔のように僕たちは言葉を交わしていた。それは望んでいた時間だ
しかし、一言一言、会話のキャッチボールが繰り返されるたびに憎悪が溜まっていく
何故、今になってここに来たのか?彼氏とやらとよろしくやっていればいいのだろうと胸の内で愚痴る
確かに昔の様に僕達は過ごしたかった。そうしていたかった
しかし、時間の経過と肉体の成長は自意識、所有欲、情欲を増大させていった。だから、昔のようにはいられないのだ
世間話の途中で彼女はいきなり本題を告げた。最初からそれを相談するために来たのだろうか?
子供を身篭っているのだと、彼女は告げた
あの男の子供を…奴の遺伝子を受け継いだ命をその小さな体に宿しているのだと
知っている、承知しているつもりだった。彼女は人並み以上に可愛かった
だからこそ、そのような行為に興味を持ちあまつさえ実行して快楽に耽ってもおかしくは無い
問題は愚かにも彼女が避妊処置を行っていなかったという一点だ
故意か……あるいは知らなかったのか?いや、おそらく前者なのだろう
「私、あの人が好き。堕ろせって言われたけど…この子はあの人との絆なの
お願い…今私がどうすればいいのか分からないけど、私の先生だったあなたなら分かるでしょう?」
彼女の質問が卑怯すぎた。何故、別の男との間の子供の事を僕に相談するのか?
分る筈も無い。そもそも前提が間違っている、どうして僕に聞く?弁護士なり産婦人科なりに相談すれば良い事なのに
もしかしたらこれは彼女なりの策略なのか?内気な僕ならば、自分の行いを正当化してくれると見越して話したのか?
ならば、せめて、せめて…相手には僕を選んでほしかった。想いが叶わないと知っていながら求めてしまう…彼女の愛を
僕の内なる愛が更なる愛を呼び込んで歪み、憎しみに変わって行く前に………
だから、もう遅いのだ。進んでしまった神の時計の針を巻き戻すことは誰にでも出来ない
君に対する僕の気持ちはあまりにも歪な形に変質し、時間も経ちすぎてしまったのだから…
「君の無知が原因だ。僕には関係ないね」
「え…?」
「生憎と僕は勉強で忙しいんだ、別のことなら相談に乗るよ。さよなら…」
僕は彼女を冷たく切り捨てていた。違う、そうじゃない
言った後で別の僕が大声で反論する。何を言っている憎んでいたはずだともう一人の僕が反論する
彼女との関係は終わったのだと。より良い人生を送れば彼女以上の伴侶を手に入れられるのだと、小さな声を大きな憎悪でかき消した
あの女など取るに足らぬ存在であり、自業自得であって見捨てればいいのだと
僕は彼女の不幸を笑っていた。愉悦だった、落ちていく幼馴染を尻目に僕は駆け上がっていく
それで全てが忘れられると根拠無き根拠を信じていた。昔は彼女が泣く所なんて見たくなかったのに
僕は無き縋って来る彼女を振りほどいて、自宅に帰った。それは昔の自分との決別のつもりだった
そして数日後、早朝の散歩に訪れた公園で彼女を発見したのは全くの偶然であり
あの日、僕と彼女は仲違いしたまま今生の別れとなってしまったのだった
『この木、何で首吊りイチョウの木って言われてるか教えて?』
『この木から取れる銀杏ってしってる?』
『ええと、わからないよぉ…教えて』
『秋に花が咲いて実がつくと実が垂れるだろう。イチョウの実は銀杏って呼ばれてるんだけど
銀杏って丸っこいよね。だから実を首に見立ててそう呼んでるんだよ』
『えええっ!なんだか怖いな…』
(本当は昔の校長先生が自殺した話なんか教えたくなくって、吐いた嘘なんだけどな…)
ついさっき思い出した、僕でさえ忘れていたのに彼女がこの話を覚えていて、首を吊ったのだとしたら皮肉にしか思えなかった
彼女に言った話は嘘だったのに、この木で命を絶つ事を選択したのは僕への当て付けだったのかもしれない
横たわる彼女のお腹に手を触れる
何故そうしたかったのか分からない。無意識の内にあの男の子供が死んでいるのだと確かめたかったのだろう
しかし、彼女のお腹は動いた。足で母の腹を蹴っているのだろう
生命の強さに驚く。だが、僕に関係無い事だ。そう思って立ち去ろうと背を向けた
風が吹いた。秋の風が僕の髪を揺らす、背後を振り返る
相変わらず彼女はそこに横たわっていた。僕が腕を胸の上に組ませイチョウの葉を持たせた体が
再び立ち去ろうとすると、再度風が吹いた。彼女の手からイチョウの葉が抜けて僕の方に飛んでくる
反射的にそれを掴んだ。どこからとも無く声が聞こえてくるような気がした
『…お願い、この子を助けて』
わけの判らない衝動に突き動かされ上着から携帯を弄る、それを取り出すと迷いのない手つきでボタンを押す
そして最寄の病院に手早に連絡を入れ、僕は携帯を閉じた。二、三分もすれば救急車が駆けつけるだろう
お腹の子が助かるかどうかは分からない。だが、大丈夫だろうとは直感した…気分は複雑では有ったが
僕はもう一度彼女の方へ歩み寄った。朝日に照らされた彼女の死に顔は気のせいか、穏やかに微笑んでいるように映る
ありがとう。と、口元に浮かんだ笑みは僕にお礼を告げているようだった
最初の内は詩に似た文章で執筆していたのですが…
この小説のヒロインは最悪ですね。今まで私が書いてきた女キャラの中でもダントツに性格が悪いかもしれません
せめて、主人公を選んでいたら…まぁ、そうなると彼が幸せになる代わりに話の方が成り立たなくなるので展開の為に不幸になってもらいました
学生の頃に失恋した子と再会した時の気持ちは意外とこんなものかもしれません
さて、次はいよいよお待ちかねした連載を掲載する予定です
短いので多分今年中に完結します。ご安心ください、それでは