13
キュンメルがジャックとともに邸宅に着いていたころウェルコート男爵邸宅に、一匹ネズミが忍び込んだ。
「まったく、暗いし寒いし狭いし最悪だね」
ポケットをまさぐる手を止め、ケホ、と小さくその黒い影の持ち主、アウラは咳き込んだ。
「埃が・・・!ハウスダストが!!」
わなわなと震え、埃が収まるのを待ち、<ふうと肩をすくめた。
すると、少し離れた所に暗闇の中、灯に反射してきらりと光るものを眼が捕らえた。
手にしていた小ランプを近づけ、伏しながら前進をすると蝶の形を縁取った銀のプレートが宙吊りにぶさらげられていた。
「(玲もお疲れ様なことだねぇ)」
ふ、と軽く笑って近くの煉瓦を軽くアウラは手で叩くが何の異質も見あたらない。ふむ、と手を口元に持って行き思案する。
試しにと銀のプレートの下を軽く叩くと、軽いコンコンという異音がそこからした。
これは煉瓦ではなく、木の板だ。
ランプをさらに近づけその部分を照らすと、そこだけ埃がかぶっていなかった。やはりな。と納得しながら指を木の板に、はわせていくと凹み部分に指が吸い込まれる。
板に耳を当てて、周囲の音をかき集めるが、静寂がひっそりと佇んでいただけだった。
「(誰もいない・・・ね)」
人気がないことを確かめたアウラは指に力をいれた。するとゆっくりと木の板が静かに持ち上がり、隙間から暗闇に光りが差し込んでくる。
「(よっと)」
しゅ、と天井裏から飛び降りたが、床に敷いてある絨毯がアウラの音を吸い込んだ。
さて、と・・・。
ポケットからおもむろに白い箱を取り出し、何度も空へと放りあげながら大時計の前に無造作に置いてあるものに視線を向けた。
まるで深い、そう、深淵のような深い青。
広渡る空ではなく海の底に抱かれた輝く青。
「お目覚めのようですね、姫」
アウラは、漆蒼のアクアマリンの前で静かに膝をつき、頭を垂れた。
「しかし、もうお眠りの時間ですよ。時期に夜明けがきます。」
手袋越しに白い箱から例の贋作を取り出し、本物の横へと置き、そっと本物のアクアマリンを恭しく手に取り暗黒へと翳した。
*********
クレインは、ぽたぽたと自分の髪から流れ落ちてくる水滴を鬱陶しく思いながらも、バスローブ姿でシャワールームを出ると、悠々自適にソファーに寝転がっているアウラに眼を瞬かせた。
だが諦めたように肩をすくめ、椅子にかけておいたタオルで髪まとわる水を拭った。
「鍵はかけておいた筈だが?」
「そうだったねぇ」
「・・・ピッキングの技術を変な所で使うな」
使用済みのタオルをアウラの顔の上に落とそうとすると見事狙い通りに命中してアウラは奇声をあげた。
横目でそんな様子を捉えた後、クレインは自身の肩より少し長い髪を高いところで一つにくくった。
「さすがにこうも長くなると鬱陶しいな」
「そろそろイョ君に切ってもらったらどうだい?」
「俺もそう思うが・・・。それより今日は何のようだ?」
クレインは、はずしておいた眼鏡をかけ、チェストの上に置いてあった小さな硝子細工の蓋を開けた。
「支部から何か情報はきたかい?」
「そう大したことはないな・・・」
「へ~。あ、これ渡しておくよ。今回の用事はこれなんだよね」
チョコを囓っているクレインの手の上に小さな箱をぽとりと落とすと、訝しげに顔を見られた。
「何だこれは?」
「眠れる姫の本物」
「案外あっさり手に入ったな」
「ウェルコート卿が執着してないみたいでねぇ」
「かわりにマフィアがご執着ということか」
自分には関係ないとでも言うように、さらりと言ったクレインにそのせいで仕事が大幅に増えてしまったアウラは思わずポーチに入っていたレモンをクレインの顔面に投げつけた。
*********
「ジャック・ザ・リッパーの方に移動ですか?」
確認するように言われたことを再度自分で口にだす。ここはスコットランド・ヤード。
フィンは自分のディスクの横に立つミックを見上げた。
「大衆にはまだ伝えてないが昨日ジャック・ザ・リッパーの生き証人が入院先で殺された」
「そんな!?誰も警備についていなかったのですか?」
「いいや・・・。ついていたんだが、警備員を交換する時を狙われたらしい」
「目撃者は?」
フィンの質問に対して、ミックは肩をすくめることにより返答をした。
「つまりは、また振り出しに戻ったってことですね」
フィンはディスクにおいていたコップに手を伸ばし、口をつけ、ゆっくりと思考を巡らせた。
自分がPhantom thiefの事件から身をひき、ジャック・ザ・リッパーの事件の任につくと言うことはアウラ達の補佐、要は確実な情報集めが出来なくなるということに繋がる。
「ジャック・ザ・リッパーもホワイトホールを中心に殺しをやるなんざ、タフな野郎だ」
当時、スコットランドヤードはホワイトホールの端にあった。
ホワイトホールの近くには、テムズ川や、ウォータールー橋、セント・ジェイムジズ・パークさらには、近衛騎兵連隊舎まであったという。
余談であるが、セント・ジェイムジズ・パークは自然に溢れたところであり、昔から王侯貴族たちが休日によく訪れていたが、市民の娯楽場となってしまった為に、喧噪を嫌がり
少し離れたケンジントン・パークに出かけて行ったという話が残っている。
夜になると、セント・ジェイムジズ・パークは鍵をかけられ出入りを禁じられるのである。
「セヴン・ダイヤルズで起こったことならそんなに目くじらたてないでも済んだだろうにな」
「ミック警部補」
咎めるようにフィンが名を呼ぶとミックは苦笑いを浮かべた後にぺろりと舌を見せた。
セブン・ダイヤルズとは、当初、大英帝国内でも、もっとも貧しく、もっとも治安が悪いと言われていた。
なのでミックが先ほどのように言ったことにも少しぐらいなら合点がつけよう。
「まあ、とりあえずフィンはジャック・ザ・リッパーの方に移動しろってことだ」
「分かりました・・・。自分がいないからって警備の方を怠らないで下さいね。それよりも、宝石の方はまだウェルコート卿が?」
「ん?ああ。堂々と応接室かどっかに飾ってるらしいぞ」
応接室、ですか。
フィンは、それを記憶に強く残す為に、心の中でもう一度繰り返し呟いた。とはいえこの情報はすでにもう不要となってしまっていたのだが。