11※
血の表現があります。
あんなに広がっていた青空が、もうすでに暗黒に呑み込まれていた。
ジャックと無理矢理交わされた約束を果たす為に屋敷に戻ったキュンメルは、アウラとの僅かな逢瀬を思いだし、によによとだらしなさそうに笑ったが、すぐに引き締めた。
理由を問わずとも明確だ。向かい側からジャックとトムが姿を現したからである。
開けはなった窓から入る風が紅蓮のカーテンをゆらした。
燭台の灯火がゆらりとゆらめく――
「行くぞ」
――コーサノストラ
それはマフィアに所属している者がマフィアという言葉の代わりに使うもの。己の前に立つマフィア、いや、コーサノストラの名誉ある男に、小さく頭を垂れた。
******
イーストエンドから離れた区画にあった病院の前にキュンメルは来ていた。街灯から零れる柔らかな光が足下を仄かに照らした。
突如吹いた風に包まれてぶるりと身体を竦ませると、白い吐息がふわりと空気に溶けて消えていった。
ロンドンの春の気温はだいたい5度~10度である。
「病院で待ち合わせとはジャックの嗜好に疑問を持つっすよ俺」
病院の階段を上がり扉に手をかけるが、施錠してあるようで開かない。
口をへの字にしてジャックを振り返った。
「開いてないっすよ」
「誰がそこから入るだなんて言った」
「・・・・。いや、確かに言ってないっすけど」
「ハッ!少しは頭を使え凡暗が」
ジャックは外套を翻しながら病院の裏側へと足を進めて行った。
鼻でせせら笑われ、置いてきぼりにされたキュンメルはひくりと口の端を引き攣らせ八つ当たりをするように大きな音をたてながら階段を下りていった。
ジャックの後を追う為に病院の角を曲がると、向かい側から来た人とすれ違う。
ようやく裏側まで回ると、裏口の扉から微かに漏れ出す光にキュンメルの影が揺らめいた。
手袋越しにもハッキリと分かる冷たさを感じながらも、扉を引き開けると病院独自の臭いが鼻を擽る―――
――――・・・はずだった。
突如走った痛みに身体をくの字にしてぶつかってきた人を涙を浮かべながら睨み付けようと顔をあげると先に進んでいた筈のジャックがいた。
肩をきらしている自分の上司に何事かと口を開けた瞬間怒声を浴びせかけられ、思わず眼を見開く。
「誰かとすれ違わなかったか!?」
「え、いや?・・・・・あ」
キュンメルはジャックを追いかけた先で一人とすれ違ったことを思い出した。
だが、それが一体何だというのだ。
「そういえば、さっきそこですれ違ったっすけど?」
キュンメルが後ろを指さすとジャックはそちらに視線を向けながら大きく舌打ちをして横を風のようにすり抜けて行く。
「追いかけるぞ!!」
「はあ!?一体何があったんすか?」
疾走するジャックに反射神経宜しく弾かれたように振り返って足を並べた。
煉瓦を蹴る靴音と外套がバサバサと音を立てる音がロンドンの夜に響く。
病院前の大通りに出て左右を顧みるが彼ら二人は人影を見つけることができなかった。
キュンメルは頬をかきながら先ほどからの質問をもう一度投げかけるとジャックは機嫌が悪そうに身を翻し、病院にもう一度足を踏み入れた。
壁にかけられた篝火を頼りにしながら足を踏み出すと廊下や階段が小さく悲鳴をあげる。
2階に続く階段の途中でふとキュンメルは足を止めた。気のせいかと思ったが、やはり気のせいではない。
微かに鼻をつく鉄の香り――
ジャックは口元に歪んだ笑みを浮かべ異変に気がついたキュンメルを見下ろした。アンダーボスがああいう風に笑ってるときはろくなことがないんすよね。
うげ、とした顔をしながらキュンメルが心の中で呟き進めたくない足を叱咤して動かした。
二階の一番奥にある部屋の前で歩みを止めると風に流れて漂う嗅ぎなれた臭いがさらに鼻をつく。嫌な予感に常人ならば尻込みして近づくことすら拒絶するが躊躇もなくジャックが扉をあけ、中の光景を見たキュンメルは眉をしかめざるを得なかった。
赤く染まったシーツから出ている腕から指先を伝って、
未だに滴り落ちる血で、地にあった血溜りが飛沫をあげながら広がっていく。
キュンメルにとって血など日常茶飯事だがあまりに濃厚な血の臭いに思わず鼻と口を手で覆ってから血の臭いが充満する部屋に足を踏み入れた。
―締め切った窓に眼を向けると、血飛沫がそこにも散っている。
血溜りを踏まないように発生源の枕元に立ち、ジャックに視線を送ってからじわりと血を吸い重くなっているシーツに手を伸ばし、捲った。
「・・・ッ!!」
シーツを握る手から力が抜け、べしゃりと音を立てて地に落ちた。
ベットにいたのは眼を見開いて絶命していた女であった。
死体などは見慣れたが、この女のそれは今まで見た中でも奇異である。
切り裂かれた服から覗く、いくつもの刺し穴から、どぷりと血が溢れ出た。
ここまでなら殺人事件の中でもあり得ることだがこの女の下半身が切り開かれているのだ。
次々と溢れ出る血を、切り取られたことによってうまれた窪みが受け止めて血が水面のように揺れた。
「その女がエマ・エリザベス・スミス。オレはコイツに用事があった」
扉にもたれ掛かっていたジャックがいつの間にかキュンメルの横に並んで淡々と話し出した。
「ホワイトチャペルやテムズ川周辺で売春婦を狙うイカレた切り裂き野郎が女を殺しまくって臓器を盗ってんのは知ってんだろ?切り裂きに殺られかけたが、生き延びた女がコイツだ」
「・・・結局、死んじまってるっすけどね」
キュンメルは落ちたシーツを拾い上げてエマを隠すようにかけてから神妙に返答をした。
まるで皮肉のように感じられる言葉だが、ジャックは取り立てて反応すら見せなかった。
「この女が生きようが死にまいがオレには関係ないが、オレに会う前に殺されるたあ間が悪い女だ」
「どういうことっすか。寧ろジャックは一体何の用事があったんすか」
「この女が切り裂きについて証言した」
「?」
「自分は三人のギャングに襲われたってな」
ここでついにキュンメルは悟った。
そう、つまりは。
「ジャック・ザ・リッパーが俺たちコーサ・ノストラの中にいるかもしれないってことっすか」
「断定は出来ないが、な」
ったく、オレの力が及ぶこの病院にわざわざ移転させたっつうのによ。
腕を組みながら悪態を吐くジャックにキュンメルは軽く疑問が沸いた。
「ジャック・ザ・リッパーが俺たちコーサ・ノストラ中にいるかもしれないのは分かったっすけど、わざわざジャックが出る必要があるんすか?」
「掟の遵守の為、それは確かにある。だがオレが最も許せねえのは、」
「許せねえのは?」
ふん、と胸を張りながら言い切ったジャックは身を翻す。
「切り裂き野郎とオレの名が被ってるってことだ!!」
予想だにしてなかった返答に思わずきょとんとしたキュンメルはシーツの膨らみと遠くなるジャックを交互に見てから声を出した。
「この女どうするんすか?」
「オレにはもう関係の無い女だ」
踵を翻したジャックの後を追うために扉の方に小走りに近づき、最後にもう一度だけ鮮紅色に彩られた部屋を振り返った。
******
手袋に染みついた血を拭い取ろうとするようにキュンメルは何度も指をこすりあわせる。
布に染み付いた血を洗い流す難しさをキュンメルはその身体をもって経験しているが、血に良い思いを持っていないのは確かである。
血というものはどうにかして拭い去ろうとしても忘れることは許さないと断罪の声をあげているかのようにこびりついてとれないものだ。
昔から血というものは不老不死を連想させる鍵であった。
例を出すとすると、昔、とある国の后が美しさを保つ為に、村の若い娘達を浚い、拷問にかけ、滴り落ちる血を飲み、その身体を食したという話さえ残っている。
さらに歴史的な絵画にも見られるように、
広場などでのギロチンによる死刑などの周囲になぜ人々が集まるのか考えたことはあるだろうか。
それは、死刑を行う際にでる血を求める為である。
死刑執行人はその死刑囚の血を集めては、民衆に売り、民衆はこぞってその血を買い求めた。そこでもっとも高値で売買されたのは処女の血であった。
血を毛嫌いするのは現在では普通であるが、19世紀ではそのような思想はまだ発達していなかった。
―この手袋はもうおしまいだ。
キュンメルは頭の端でそう考えに辿り着いた。
「この後どうするんすかー?ジャック・ザ・リッパーらしき奴も見失ったっすし」
「ハッ、オレが何の対策もしてないと思ってんのか凡暗」
「・・・俺、まだ帰れないんすね・・・」
睡眠を欲していた本能も、さっきの惨状を見て神経がびんびんに興奮している。キュンメルは軽く口を尖らせて手袋を外套のポケットにしまいこんだ。
「ジャック・ザ・リッパーはヤード達がどうにかするんじゃないかと俺は思うんすけどね」
「切り裂きがもしもオレ達の中にいた場合、制裁を下すのは奴ら犬の役目じゃねえ。オレ達の役目だ」
一端区切り、人差し指を空へと向けた。
「それよりもキュンメルちゃんよ。空を見てろ」
ジャックがそういうとキュンメルは指の先にある夜空へと視線を向けた。
「ある意味信頼はできないが頼りになる奴からの合図がくる筈だ」
おもむろにジャックはニヤリと不敵に笑った。