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煉瓦造りの螺旋階段をおりる靴の音が響いている。ふと下を見ると、所々削れて表面の赤色が剥げ、茶色が顔を覗かせていた。
暗闇の空間でゆらりと燭台の灯火が大きくゆれる。
キュンメルは燭台を持ち直してからさらに階段を下りていくと、仄かな灯火が自分が進んでいる方向から迫ってくるのに気がついた。
気にせずに下りていこうとしたが、キュンメルは足を止めた。
そう、すれ違おうとしていたのはフィンだったのだ。
フィンもキュンメルに気がつき、こんにちは、と声をかけた。
キュンメルも挨拶を返そうとするが、あることに気がつき嬉々としてフィンに詰め寄った。キュンメルの口元はにやりとでもいうように弧を描いている。
「悪いけどコレを師匠に至急渡してくれないっすか!?俺じつは用事があって師匠の所に行けないんす!・・・あれ、というかもともと俺、師匠に潜伏場所を教えてもらってねぇええ!!!」
ガッテム!と天を仰いだかと思うと肩を大きく落としてしょぼん、と一瞬暗い影を背負ったキュンメルだったがハッとしてつうわけで頼むっす!と、目を白黒させてるフィンに手紙を押しつけ爽やかに螺旋階段を戻って行った。
一人残されたフィンは皺だらけの手紙を見てからキュンメルが登って行った方に視線を向け、そっと苦笑いを零し、内ポケットの中に手紙を仕舞い込んだ。
ピアスを光に翳すと乱反射がおこり床に渦巻き模様や菱形が描かれる。
「これがマルコーニの無線通信機システムを使ってクレインさんの部下が作ったやつですか。こんなに小さいのに凄いなぁ・・・」
玲はしげしげとピアスを眺めた。
グリエルモ・マルコーニ。
18世紀後半から19世紀前半で無線研究を行い、特許を取得したイタリアの研究家である。だがロシアのアレクサンドル・ポポフの方が一足先に無線研究を完成させたとも言われている。
ピアスを手の上で転がしながら玲は心の中で首を擡げた欲望と戦った。
「(分解したい・・・!)」
「分解するなよ」
玲はまるで心の中を覗き込まれたが如きクレインからの返事に思わずびくんと肩を跳ねらせ、気まずげにピアスをいそいそと耳にあてがった。
「アウラからレイは好奇心が強いと聞いてな」
「べっ、べつに分解したいとかそんなことないですよ!!」
玲はクレインから視線をそらし宙にさまよわせ、自分自身が墓穴を掘ったということに気がつかない。書類を確認しているクレインが小さく笑ったのに気がついた玲は恥ずかしさから赤くに染まっているだろう顔を隠すように俯いた。
クレインは、ほのぼのとした空気に頬を緩めた。
・・・なぜこのように平和なのか・・・・。
真顔でクレインは考えると、ある事実に気がついた。
「(アウラが居ないからだ!!)」
ぴしゃんと雷にうたれたように衝撃を受けた。このとき初めてクレインは気がついたのだ。
自身の胃をストレスから守る絶対の方法を。
「どうかしたんですかクレインさん?」
「い、いや。色んな意味で衝撃を受けただけだ」
よく解らず首を傾ける玲にクレインは歯切れ悪く気にしないでくれ、と言った。
「そういえば、そろそろ私も準備をする時間ですね」
「そうだな。行ってくるか?」
「はい。いってきます!」
見送りをしようと椅子から立ち上がり扉に視線を向けるがそこに玲の姿はない。
あれ?と不思議に思ったクレインは部屋を見回すと、玲がちょうど窓の桟に足をかけていた所だった。
ちなみにここは三階である。
白目を剥き、ふらりと倒れそうになったクレインは椅子に手をかけ転ぶことだけは免れた。
「そんな危ない所から出て行くんじゃない!!扉から行け!!」
クレインは扉の方向を指でさしながら叫ぶ。
「え?でもこっちの方が時間を短縮できますよ?」
「いや、本当に頼むから扉から行ってくれ」
きょとんとした顔の玲にクレインは胃をおさえながら懇願し、きちんと扉から玲を見送り疲れたように椅子に腰掛け頭を再度抱えた。
「(なんでこうハチャメチャな奴らばかりなんだ・・・!!)」
手を伸ばして硝子の入れ物の中から角砂糖を一つ取り出し、口に放り込んで咀嚼しながら、新聞の一面をそういえば、と一瞥した。
「ジャック・ザ・リッパーの新たな犠牲者が出た、か。・・・この殺人鬼、相当な売春婦嫌いだな」
仮眠という名の惰眠を貪っていたアウラが音に気がつき細く瞳を見開くとイョがアウラの前で手紙をひらひらとさせていた。
すとんと枕もとにイョが座るとベットが少しだけ沈んだのを身体が感じた。
予想以上に渇いている喉を潤そうと腕を伸ばし水差しを掴むと水がたぷんとゆれ、ひんやりとした冷たさが掌に伝わった。そして軽く香りを嗅いでからぺろりと少しだけ舐める。
「毒なんて入ってないわよ」
「・・・・・癖で、ついねぇ」
一瞬言葉に詰まったアウラにイョが眉尻をさげると、肩を軽く竦めてから喉に通した。
そう、癖、なのだ。ずっとずっと昔からの。
少しだけ飲んだ後に、ぽすんと力なく再びベットに転がったアウラに、イョは声をかけようとしたが、口を閉ざした。そんなイョを細目で見ていたアウラは小さく口元を歪ませた。
それで良い。あなたは何も言わなくて、聞かなくて良い。本人の許可なく領域を侵してはならないのだから。
(――決して組織の戒めを忘れるな)
イョは上からアウラを見下ろしながら彼女の顔の上に手紙をおいた。さながらキョンシーのようである。アウラは狼狽えずに吐息で軽く吹き飛ばして、毛布の上に落ちた手紙を手探りで拾い上げた。
真っ白の手紙を翻して宛名を見てみると、そこに書かれていたのは黄色い紡錘形の果実と、それを包み込むような
「あら、熱烈なこと」
イョは口元に手をあててくすりと微笑んだ。
そう、そこに書かれていたのはレモンを包み込むどきついハートだった。
(このセンスのなさはキュンメルか・・・)
心の中でそう呟き身体を解すように伸びをしてから、イョに手渡されたペーパーナイフで封を切った。中に入っている手紙、いやメモは四枚。
アウラがメモに眼を通すことなくその中の一枚を手渡したきたため、きょとんとイョは小首を傾げた。
「どうせくだらないこと書いてるだろうからイョ君にあげるよ~」
「こら、だめでしょう」
「良いよ~」
「・・・もう」
イョがその一枚に視線を走らせる様子をアウラは眺めていたが、段々と見開かれる瞳を訝しんでメモの文面を覗き込んだ。
―――始まりは、
あなたの大事な弟子のキュンメルっす。師匠は元気っすか?俺は師匠がいなくて元気じゃないっすけど、師匠に褒められるように頑張ってるっす!!
師匠も俺がいないからって落ち込まないでくださいっす。俺の心はいつも師匠と一緒なので!
であった。
呆れたように文面を追っていたが進むにつれて次第に眉間に皺が寄っていくのが分かる。
アウラは最後の一文まで読み、他のメモにも視線を滑らせてから、ベットを飛び降り閉められているカーテンを乱暴に開けた。
西の空から見えた柔らかい斜陽に他の三枚がぐしゃりと音を立てた。
「・・・今回のターゲットの持ち主であるウェルコート卿がマフィアに狙われてるってどういうことなの?」
イョは予想外の展開に唖然としながらもゆっくりと声を絞り出した。アウラは西の空に沈んでいく夕日を眺めながら口を開く。
「今回、キュンメルを追加任務の為にマフィアに潜入させたんだよ。潜入は面倒だけど、それ以降は簡単に終わるかと思ってたんだけどねぇ。まあ簡単に言えば、Phantom thiefの獲物とマフィアの獲物が被ったってことかねぇ?」
傍らの燭台の灯火にメモをあてがうと、紙が収縮してから一瞬で燃え上がり崩れ落ちるようにして空気に溶けた。