↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

チェリー

作者: 景雪
掲載日:2011/04/24

別のサイトで「父の背中」という題名で公開していた作品で、小説を書き始めて約1週間、初めて投稿したものです。今回、大幅に手を加えて改訂しました。主人公は私自身で、父が祖父を戦争で亡くしたこと、父と初めて飲んだ際のエピソードは事実に基づいて書いています。

 自宅マンションのベランダからは公園が見える。真ん中に大きな遊具があるので、特に休日の午後には、子どもたちの声が良く聞こえる。公園の縁沿いに植えられた桜は、枝の先の蕾が弾けそうに膨らんでいて、もうそろそろ花を咲かせることを知らせている。本格的な春は近い。

 マッチを擦って、煙草に火をつける。銘柄はチェリー。煙草を覚えてからずっとこれだ。俺は最初の一服を、大きく吸い込んだ。

 子どもが産まれてから、喫煙場所はベランダに限定されている。部屋の中では、妻と子、母が楽しそうに話す声が聞こえる。横目で部屋に目をやった。今日は母が、孫の顔を見にマンションに遊びに来ている。大好きな電車のおもちゃをもらって、息子は高い声を出して飛び跳ねている。妻が息子をたしなめるが、近所迷惑になるくらいはしゃぐ声が、窓を閉めたベランダにいても聞こえてくる。

 再び公園に視線を戻す。立ち上る煙を見つめながら、はるか昔の思い出がよみがえる。

 そういえばちょうど十二年前……無意識に記憶を辿っていた。


    * * *


 一九九九年二月、一浪の後に大学に合格した。

 生まれも育ちも栃木の宇都宮だったが、実家を出て、俺は東京の予備校の寮に一年間住んでいた。合格を知ってすぐ、休日で実家にいた親父に電話で合格した旨告げた。

 親父は、たまたま一人で外出中だったお袋の携帯電話に電話をかけた。わざわざ俺の合格を知らせるためだけに。

 それを聞いて、親父の喜ぶ顔を思い浮かべた。


 進学先は東京の大学に決まった。

 三月、下宿先を探すことになった。

 親父に連れられて大学の近くで部屋を探したが、三月も中旬だったので中々見つからなかった。

 「お父さんが大学に行っていた時は風呂なし便所なしの家賃三千円だったぞ」

 三十年以上前の親父の話は参考にならなかった。

 夕方になり、やっと下宿先が見つかった。東急東横線学芸大学駅の近くだった。アパートは小さく古かったが、部屋は清潔に感じた。大家さんも感じのいい人だった。

 俺と親父は、まだ肌寒い時期に、歩き疲れて汗までかいていた。大学生活の第一歩でこれだけ苦労したので、その先に控えている、様々な困難を予想して、いくらか気持ちが沈んだ。


 都会に慣れていない俺は、駅前の人混みと喧騒に戸惑った。まっすぐ歩くこともできないほど、多くの人が歩いていた。どんな目的があるのか、道行く人は皆早足だ。すれ違う人の足を、靴を見つめながら、期待と、それよりも大きな不安とが入り混じった感情で胸が締め付けられた。


 夕方六時頃になっていたので、夕食を食べて宇都宮に帰ることになった。親父は大酒飲みだ。未成年の息子を連れて、当然のように飲み屋の暖簾をくぐった。

 駅から徒歩五分ほど、商店街の外れの角に、その店はあった。カウンターしかない、古びた飲み屋だが、親父はそんな店が好きだった。客は俺たち二人だけだった。


 春が訪れているはずの三月なのに、夜になるとまだまだ肌寒い。親父はカウンターに座り熱燗を二本頼み、俺についだ。俺も親父につぐ。慣れない酒を時間をかけて無理して飲んだが、親父はお銚子をどんどん空けていった。

 色んな話をした。親父が大学に入る際、両方受かった法学部と経済学部で迷ったこと。上板橋にある、家賃三千円、風呂なし便所なしのぼろアパートで一人暮らしをしていたこと。小さな電気コンロで具なしのインスタントラーメンを作り、そればかり食べていたこと。門限を破って大家に門を閉じられてしまったので、塀を乗り越えて下宿先に潜りこんだこと。当時アメリカの統治下だった沖縄に数か月住んで、バーテンとして働き、親に捜索願を出されたこと……


 その時まで、肩を突き合わせるように親父と話したことがなかった。親父の話は面白かった。俺も期待や不安などを、正直に親父にぶつけた。

 おもむろに、親父がチェリーを取り出し、マッチで火をつけた。実家では、煙草嫌いなお袋に吸うことを許されていないので、いつも外で吸っている。俺にとって、親父が煙草を吸う姿は、新鮮だった。

 「いい煙草吸ってますねえ」

 それまで黙っていた老店主が声をかけた。のりの匂いがしてきそうな純白の割烹着をまとった彼は、歳の割には背筋がしっかりと伸びていて、佇まいには力強ささえ感じた。

 「父が……好きだったみたいです」

 「へえ。お父さんが。私も良く吸いましたよ」

 老店主はそこまで言って一旦言葉を切り、長ネギを刻む手を止めずに続けた。

 「昔、戦時中ですけど、桜って言いましてねえ。英語は敵性語だからって」

 親父ははにかんで、煙を一口吸い込んだ。口の中にたまった煙をもったいなさそうに大きく空気に吐いて、それを見つめるようにゆっくりと言った。

 「私の父は……タラワで死にましてね。私は父に会ったことがないんですよ」

 木製のまな板の上で長ネギが刻まれる、規則的な音が止まった。親父は、伏し目がちに視線を落とす老店主を見つめた。親父が吐いた煙が薄くなった頃、老店主は絞り出すように口を開けた。

 「タラワ……海軍さんですね。私は陸軍ですがね」

 老店主は左の袖をまくった。皮膚を無理矢理絞り込んだような、手術の跡がくっきりと残っていた。

 「ペリリューでやられました」

 親父は目を細めて、しかし視線は決して老店主から離そうとしなかった。

 「昭和二十二年になって、やっとのことで故郷に還ったんですが、女房は、私の弟と再婚していました。私の戦死公報が届いていたんです。洞窟の中でゲリラとなって、二年間も必死に隠れて生き残ったのに」

 親父はチェリーに口を付け、また一服飲み込んだ。煙草を握る指が、小刻みに震えているように映った。

 「これが、戦争なんですよ」

 老店主は彼の腹の前にある、まな板の辺りに視線を落したまま、表情一つ変えずに続けた。

 「サクラサクラってご存知ですか? ペリリューの守備隊が全滅したことを意味する最期の電報です……いや、今日は話しすぎたな」

 老店主はそれだけ言うと、まくっていた袖を戻し、背を向けて刻んだ長ネギを冷蔵庫にしまった。彼のやせた背中は、不思議と大きく、頼もしく映った。俺は視線を吸い寄せられるように、彼の背中を凝視した。

 親父は人差し指と中指ではさんでいた煙草を親指と人差し指に持ち替え、最後の一服を吸った。

 それからしばらくして店を後にするまで、三人とも一言もしゃべらなかった。俺はメニューを端から端まで目で追って、飲み物やつまみの名前を無言でつぶやいた。老店主は仕込みか何かなのだろうか、背中を向けて仕事を続けていた。親父は最後にチェリーを一本吸った。じっと、老店主の働く背中を見つめていた。店内の暗い照明に照らされて光を蓄えたように、親父の目は光沢を帯びているように見えた。心なしかその光沢には、湿っ気が含まれているような気がした。


 店を出ると、親父は五、六合も飲んでいて千鳥足だった。俺は親父の腕を自分の肩に回し、駅までの道を歩いた。小さい頃、とてつもなく大きかった親父の身体は、拍子抜けするほど軽かった。いつのまにか、背も抜いてしまっていることに気づかされた。親父は俺につかまりながら、気分良く鼻歌を歌っていた。酒気で高揚した気分が体温を上げたのか、親父の体温が伝わってくるためか、寒さは感じなかった。


 二〇〇九年、親父は六十五歳で他界した。俺は結婚し、息子も産まれた。息子が二歳になるのを確認するかのように、親父は逝った。

 祖父は市役所の職員だったが、海軍に入って士官となり、南の果ての島で死んだ。親父は一度も会ったことのない祖父の背中を追いかけるように市役所に入庁し、定年までを勤めあげ、部長まで昇進した。役職だけでいえば、親父は祖父を追い越していた。

 小さい頃、親父は車で茨城の海に良く連れて行ってくれた。運転しながら、退屈しのぎに歌を歌うこともあった。さとうきび畑の歌詞の一節、「お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの」を口ずさむ時の、影がかかったような親父の横顔を、俺は忘れることができない。進行方向を見ているはずの親父の眼差しは、車が進むべき方向よりもずっと向こう、目では見えないはるか先に向けられている気がした。

 大学の頃は枠にはまるのが嫌で、公務員になんかなるものかと思った。深い意味も良く考えずに、友人たちとの酒の場で「税金泥棒」などと口にすることもあった。

 しかし大学卒業後に就職した一般企業は辞め、俺は親父と同じ道を歩んだ。他人を押さえつけてまで主張したり、他人を蹴落としてまで前へ出ようとする生き方は、できなかった。俺は今、ケースワーカーとして高齢者支援を担当している。どんなに努力しても、心血を注ぎこんでも、定期昇給以外で給料は増えない。特別ボーナスなんて物もない。だが高齢者が、顔をしわくちゃにしながら笑顔を作ってくれるのを見るのが、何よりのやりがいとなっていた。


   * * *


 息子は最近、俺と同じ格好で歩くようになった。俺の背中を見ながら、手足をばたつかせて一生懸命真似をしようとする。

 チェリーの最後の一服を、親指と人差し指に持ち替えて吸った。口の中にたまった煙を時間をかけて大きく空気に吐いて、それを見つめた。親父が死んでからしばらく、煙草をやめていた。最近また吸い始めて、妻にあからさまに嫌な顔をされながら、一箱を五日はかけて大事に吸っている。

 十五ミリ含まれているタールが目にしみたのだろうか、むずかゆいような不思議な感覚を覚えて手の甲で目頭をぬぐった。

 チェリーのソフトパッケージに描かれている、小さな金色の桜の花を見つめた。堂々と花を咲かせる桜が、すっかり煙のなくなったベランダに、淡く輝いて浮かび上がっているように見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々とした文章で読みやすいです。 [気になる点] 短編なのに、説明が重複している箇所が見受けられました。例えば桜のつぼみがふくらんでいることを書いた後に 「本格的な春は近い」 の文は、不要…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。