副流煙
眠れなかった。
明日は久々の休みの為無理して寝る必要もない。
たまには夜更かしをしよう。
ただ、ダラダラとショート動画を眺めながら布団の中で何度も寝返りを打っていたが、24時になり日付が変わった時ついに飽きてしまった。
ふと、たまにはドライブでもするか。
そう思い車を走らせた。
三十歳。
仕事も大変だけどそれなりに慣れた。
給料もそれなり。
特別、大きな不満があるわけじゃない。
小さな不満はちょちょくあるが...笑
だけど、稀に、こういう夜がある。
理由もなく眠れなくて、理由もなく車を走らせたくなる夜。
俺は適当に上着を羽織り、財布とスマホだけ持って家を出た。
駐車場に停めてある車に乗り込み、エンジンをかける。
静かな夜だった。
住宅街を抜けて、高速道路へ向かう。
しばらく走ると、高速の入口が見えてきた。
ETCレーンへ車を滑り込ませる。
そのときだった。
ふわっと、煙草の匂いがした。
「……あれ?」
懐かしい匂いだった。
煙草。
少し甘くて、焦げたような匂い。
子供の頃、家の中でいつも嗅いでいた匂い。
「……かあさん?」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
ETCのバーが上がる。
その瞬間――
視界が真っ白になった。
*
「……あんた、寝てるの?」
声がした。
聞き覚えのある声。
「……ん?」
目を開ける。
車の中だった。
夜の高速道路。
窓の外を街灯が流れている。
「起きた?」
俺は、ゆっくりと隣を見る。
「…………」
運転席に、かあさんがいた。
「……かあさん?」
「何、その顔」
かあさんは笑った。
いつもの笑い方だった。
少しだけ口角を上げて、呆れたように笑う。
「寝るならちゃんと寝なさいよ」
「いや……」
言葉が出なかった。
だって、かあさんは死んでいる。
俺が十九歳のときだった。
悪性リンパ腫。
入院してからは、ずっと苦しそうだった。
煙草が大好きだったかあさんは、煙草を吸うことすらできなくなった。
「……いつ?」
「何が?」
「いつ、退院したの?」
「何言ってんの?」
かあさんが笑う。
「今日はちょっと遠くまで行くんでしょ?」
「……俺、何歳?」
「何歳って……」
かあさんが俺を見る。
「十六じゃん」
「……十六?」
慌てて自分の手を見る。
小さい。
細い。
皺なんて一つもない。
「……マジかよ」
「何が?」
かあさんは不思議そうに俺を見る。
俺は窓に映った自分の顔を見る。
そこにいたのは、三十歳の俺じゃなかった。
高校生の頃の俺だった。
*
しばらく走っていると、かあさんが煙草を取り出した。
慣れた手つきで一本取り出し、口に咥える。
火をつける。
煙が車内に広がった。
懐かしい匂い。
ずっと嫌いだった匂い。
子供の頃は、窓を開けてくれと何度も頼んだ。
「煙草くせぇ」
「じゃあ窓開けなさい」
「寒い」
「じゃあ我慢しな」
「かあさんがやめればいいじゃん」
「それは無理」
かあさんは笑った。
そんなやり取りをしているうちに、俺も笑っていた。
くだらない会話だった。
でも、それがたまらなく嬉しかった。
「……かあさん」
「ん?」
「元気?」
「何それ」
「いや」
「元気だよ」
かあさんは煙を吐いた。
「ほら、ピンピンしてるでしょ」
「……そっか」
俺は窓の外を見る。
暗い夜の高速道路。
流れていく街の明かり。
昔と何も変わらない。
いや。
変わってしまったのは、俺のほうだった。
*
「そろそろ降りる?」
「うん」
「じゃあ次の出口で降りようか」
「……うん」
高速を降りる。
その先で少しだけ寄り道をして、また高速へ戻ってきた。
理由は分からない。
ただ、かあさんと一緒に車に乗っていた。
それだけだった。
またETCのレーンへ入る。
かあさんは慣れた手つきでハンドルを握っている。
そして、いつものように煙草を取り出した。
一本。
箱から抜く。
口に咥える。
俺は、それを黙って見ていた。
なぜだろう。
この時間は、長くは続かない。
そんなことを、なぜか悟っていた。
理由なんて分からない。
ただ、もうすぐこの時間が終わってしまう。
そんな気がしてならなかった。
言おうか。
やめようか。
何度も迷った。
でも、今言わなかったら、きっと後悔する。
俺は少しだけ息を吸った。
泣きそうになるのを堪えながら、かあさんを見る。
「かあさん」
「ん?」
「もう……」
声が少し震えた。
それでも、俺は続けた。
「もう、気にせずいっぱい吸っていいよ」
かあさんが俺を見る。
「……何それ」
「いいから」
俺は笑った。
たぶん、ちゃんと笑えてはいなかった。
「いっぱい吸っていいよ」
かあさんは少し黙った。
それから――
「……そう?」
そう言って、かあさんは笑った。
「じゃあ、遠慮なく」
煙草に火がつく。
小さな火が、暗い車内を一瞬だけ照らした。
煙がゆっくりと広がっていく。
懐かしい匂い。
昔は嫌いだったはずの匂い。
でも今は――
ずっと嗅いでいたかった。
ETCのバーが上がる。
車が進む。
その瞬間――
*
「……っ」
目が覚めた。
暗い部屋。
自分のベッド。
時計を見る。
午前四時十三分。
「……夢?」
しばらく天井を見つめる。
胸が苦しい。
息がうまくできない。
頬が濡れている。
「……なんで」
手で顔を拭う。
涙だった。
俺は声を出さずに泣いていた。
かあさんが死んでから、何年経ったんだろう。
もう十一年。
十一年も経った。
「……そっか」
ようやく理解した。
眠れなかったんじゃない。
眠っていたんだ。
最初からずっと。
車に乗ったのも。
高速に乗ったのも。
かあさんに会ったのも。
全部、夢だった。
「……夢かよ」
笑おうとした。
でも、笑えなかった。
スマホを手に取る。
画面に表示された日付を見て――
俺は固まった。
かあさんの誕生日だった。
「…………」
しばらく何も考えられなかった。
やがて、俺は布団から出た。
カーテンを開ける。
朝の光が部屋に入ってくる。
今日は休日だ。
俺は顔を洗って、着替える。
そして財布をポケットに入れた。
「……墓参り、行くか」
そういえば、仕事やら何やらで忙しくて、かあさんの墓参りにはしばらく行けていなかった。
最後に行ったのは、いつだっただろう。
もう、ずいぶん前のことのように思える。
玄関を出る前に、ふと煙草の箱が目に入った。
俺も煙草を吸う。
いつも吸っているのは、メンソール。
昔から、そればかりだった。
煙草を一本取り出して、しばらく眺める。
そして、ふと思った。
「……今日は、かあさんの吸ってたやつ買っていくか」
墓前で一本くらい、一緒に吸ってもいいだろう。
たまには、あの匂いを思い出すのも悪くない。
財布と車の鍵を手に取る。
玄関を出る。
今日は、ゆっくり走ろう。
墓参りに行って――
少しだけ、話をしよう。
今度は夢じゃなくて。
かあさんの好きだった煙草を一本、墓前に置いて。
俺も一本、吸いながら。




