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副流煙

作者: PYM
掲載日:2026/09/27

 眠れなかった。


 明日は久々の休みの為無理して寝る必要もない。


 たまには夜更かしをしよう。


 ただ、ダラダラとショート動画を眺めながら布団の中で何度も寝返りを打っていたが、24時になり日付が変わった時ついに飽きてしまった。


 ふと、たまにはドライブでもするか。


 そう思い車を走らせた。


 三十歳。


 仕事も大変だけどそれなりに慣れた。


 給料もそれなり。


 特別、大きな不満があるわけじゃない。

 

 小さな不満はちょちょくあるが...笑


 だけど、稀に、こういう夜がある。


 理由もなく眠れなくて、理由もなく車を走らせたくなる夜。


 俺は適当に上着を羽織り、財布とスマホだけ持って家を出た。


 駐車場に停めてある車に乗り込み、エンジンをかける。


 静かな夜だった。


 住宅街を抜けて、高速道路へ向かう。


 しばらく走ると、高速の入口が見えてきた。


 ETCレーンへ車を滑り込ませる。


 そのときだった。


 ふわっと、煙草の匂いがした。


「……あれ?」


 懐かしい匂いだった。


 煙草。


 少し甘くて、焦げたような匂い。


 子供の頃、家の中でいつも嗅いでいた匂い。


「……かあさん?」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


 ETCのバーが上がる。


 その瞬間――


 視界が真っ白になった。


 *


「……あんた、寝てるの?」


 声がした。


 聞き覚えのある声。


「……ん?」


 目を開ける。


 車の中だった。


 夜の高速道路。


 窓の外を街灯が流れている。


「起きた?」


 俺は、ゆっくりと隣を見る。


「…………」


 運転席に、かあさんがいた。


「……かあさん?」


「何、その顔」


 かあさんは笑った。


 いつもの笑い方だった。


 少しだけ口角を上げて、呆れたように笑う。


「寝るならちゃんと寝なさいよ」


「いや……」


 言葉が出なかった。


 だって、かあさんは死んでいる。


 俺が十九歳のときだった。


 悪性リンパ腫。


 入院してからは、ずっと苦しそうだった。


 煙草が大好きだったかあさんは、煙草を吸うことすらできなくなった。


「……いつ?」


「何が?」


「いつ、退院したの?」


「何言ってんの?」


 かあさんが笑う。


「今日はちょっと遠くまで行くんでしょ?」


「……俺、何歳?」


「何歳って……」


 かあさんが俺を見る。


「十六じゃん」


「……十六?」


 慌てて自分の手を見る。


 小さい。


 細い。


 皺なんて一つもない。


「……マジかよ」


「何が?」


 かあさんは不思議そうに俺を見る。


 俺は窓に映った自分の顔を見る。


 そこにいたのは、三十歳の俺じゃなかった。


 高校生の頃の俺だった。


 *


 しばらく走っていると、かあさんが煙草を取り出した。


 慣れた手つきで一本取り出し、口に咥える。


 火をつける。


 煙が車内に広がった。


 懐かしい匂い。


 ずっと嫌いだった匂い。


 子供の頃は、窓を開けてくれと何度も頼んだ。


「煙草くせぇ」


「じゃあ窓開けなさい」


「寒い」


「じゃあ我慢しな」


「かあさんがやめればいいじゃん」


「それは無理」


 かあさんは笑った。


 そんなやり取りをしているうちに、俺も笑っていた。


 くだらない会話だった。


 でも、それがたまらなく嬉しかった。


「……かあさん」


「ん?」


「元気?」


「何それ」


「いや」


「元気だよ」


 かあさんは煙を吐いた。


「ほら、ピンピンしてるでしょ」


「……そっか」


 俺は窓の外を見る。


 暗い夜の高速道路。


 流れていく街の明かり。


 昔と何も変わらない。


 いや。


 変わってしまったのは、俺のほうだった。


 *


「そろそろ降りる?」


「うん」


「じゃあ次の出口で降りようか」


「……うん」


 高速を降りる。


 その先で少しだけ寄り道をして、また高速へ戻ってきた。


 理由は分からない。


 ただ、かあさんと一緒に車に乗っていた。


 それだけだった。


 またETCのレーンへ入る。


 かあさんは慣れた手つきでハンドルを握っている。


 そして、いつものように煙草を取り出した。


 一本。


 箱から抜く。


 口に咥える。


 俺は、それを黙って見ていた。


 なぜだろう。


 この時間は、長くは続かない。


 そんなことを、なぜか悟っていた。


 理由なんて分からない。


 ただ、もうすぐこの時間が終わってしまう。


 そんな気がしてならなかった。


 言おうか。


 やめようか。


 何度も迷った。


 でも、今言わなかったら、きっと後悔する。


 俺は少しだけ息を吸った。


 泣きそうになるのを堪えながら、かあさんを見る。


「かあさん」


「ん?」


「もう……」


 声が少し震えた。


 それでも、俺は続けた。


「もう、気にせずいっぱい吸っていいよ」


 かあさんが俺を見る。


「……何それ」


「いいから」


 俺は笑った。


 たぶん、ちゃんと笑えてはいなかった。


「いっぱい吸っていいよ」


 かあさんは少し黙った。


 それから――


「……そう?」


 そう言って、かあさんは笑った。


「じゃあ、遠慮なく」


 煙草に火がつく。


 小さな火が、暗い車内を一瞬だけ照らした。


 煙がゆっくりと広がっていく。


 懐かしい匂い。


 昔は嫌いだったはずの匂い。


 でも今は――


 ずっと嗅いでいたかった。


 ETCのバーが上がる。


 車が進む。


 その瞬間――


 *


「……っ」


 目が覚めた。


 暗い部屋。


 自分のベッド。


 時計を見る。


 午前四時十三分。


「……夢?」


 しばらく天井を見つめる。


 胸が苦しい。


 息がうまくできない。


 頬が濡れている。


「……なんで」


 手で顔を拭う。


 涙だった。


 俺は声を出さずに泣いていた。


 かあさんが死んでから、何年経ったんだろう。


 もう十一年。


 十一年も経った。


「……そっか」


 ようやく理解した。


 眠れなかったんじゃない。


 眠っていたんだ。


 最初からずっと。


 車に乗ったのも。


 高速に乗ったのも。


 かあさんに会ったのも。


 全部、夢だった。


「……夢かよ」


 笑おうとした。


 でも、笑えなかった。


 スマホを手に取る。


 画面に表示された日付を見て――


 俺は固まった。


 かあさんの誕生日だった。


「…………」


 しばらく何も考えられなかった。


 やがて、俺は布団から出た。


 カーテンを開ける。


 朝の光が部屋に入ってくる。


 今日は休日だ。


 俺は顔を洗って、着替える。


 そして財布をポケットに入れた。


「……墓参り、行くか」


 そういえば、仕事やら何やらで忙しくて、かあさんの墓参りにはしばらく行けていなかった。


 最後に行ったのは、いつだっただろう。


 もう、ずいぶん前のことのように思える。


 玄関を出る前に、ふと煙草の箱が目に入った。


 俺も煙草を吸う。


 いつも吸っているのは、メンソール。


 昔から、そればかりだった。


 煙草を一本取り出して、しばらく眺める。


 そして、ふと思った。


「……今日は、かあさんの吸ってたやつ買っていくか」


 墓前で一本くらい、一緒に吸ってもいいだろう。


 たまには、あの匂いを思い出すのも悪くない。


 財布と車の鍵を手に取る。


 玄関を出る。


 今日は、ゆっくり走ろう。


 墓参りに行って――


 少しだけ、話をしよう。


 今度は夢じゃなくて。


 かあさんの好きだった煙草を一本、墓前に置いて。


 俺も一本、吸いながら。

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