幼い記憶 1
意思も、想いも、主張も、記憶も、意味も、息遣いさえも。
なにも無かった幼少期。在るのは何も残ってない抜け殻の身体。
それはさながら空蝉のようだった。
私が覚えている一番古い記憶。
それは私が2歳程だったの頃の記憶。
色のないモノクロームのやけに粘土質な記憶。
広いとはいえないまでも狭い訳では無いマンションの一室。
部屋はキッチンとリビングが続く長い部屋。
外は夕暮れ過ぎだろうか、もう暗い。私がいるのは暗い部屋の隅。
玄関へと続く扉と部屋の壁の角で私はただ立っていた。
キッチン側に一つだけ灯りの灯るリビングで二人の男女が言い争いをしている。私の両親だ。
なにを怒鳴り合っているのかはわからない。幼い私はただその様子を眺めている。
不安だったのだろうか?両親を心配していたのだろうか?ただよくわからぬ心のザワつきを覚えている。
男は怒鳴りながら木製のテーブルを叩いている。
女はキーキー喚きながら興奮していたがとうとう女の方が近くにあるものを投げ出した。あちこちに飛び乾いた音を立てながら壁に、床に当たる物の数々。
布巾、花、タオル、皿、菜箸、コップ、洗剤、花瓶、ハサミ・・・普段宙舞うことのないものが行き交う様に私はふと「キレイだな」と場違いな事を思ったのを覚えている。
投げた皿の一つが私の近くで砕ける。
その瞬間私の視界に火花が散り目頭が熱くなる。
一度途切れる記憶。
次に思い出すのは蹲ってじっと耐える私。砕けた破片で目の上を切ったようでポタポタと血が落ちる。色のないはずの記憶の中で紅い血の色だけはなぜか鮮明に色があった。
本当は痛いと泣きたいけど泣けない。泣くと二人が怒るから。
この頃から既に学習していたんだと思う。二人が機嫌よく居ないと私自身が辛い…と。
ぐっと耐えて小さく小さくなる私。
自分ではなにもできない無力な私。
ある程度の言い争いに疲れたのか嫌気がさしたのか、周りは静かになっていた。
男はため息を付きながら無言で女を睨む。
女はそんな男を気にする素振りもなく忙しそうにリビングを行き来し何かを手に持っていた。
そしてふとした拍子に女は私の方を見る。そのままゆっくりこちらへ近づく女。
優しい言葉でもかけてくれるのか?それとも抱きしめてくれるのか?そんな思いが私の心をよぎる 。
そのまま私の前に女は立ち、私に目線を向けた後、すぐ横の扉から玄関へと消えていった。
聞こえる扉の開閉音。しばしの静寂。
男はひとつ舌打ちをしてタバコに火を付ける。何口かタバコを吸った後、煩わしそうな目で私を見て何も言わずそのまま自分の部屋へと消えていく。
また部屋に残される私。静寂と暗闇の残る部屋。どうということは無い日常だった。
自分の都合を押し付けたい父親。
自分の思い通りに生きたい母親。
そんな両親から生まれた、ただ「ナニカ」が欲しいだけの私。
欲の強い両親から生まれた欲の強い私は間違いなく二人の子供だった。