第九章 高校生時代
入学して分かったが造船科は消滅寸前の科だった。いまどき船を作る勉強をするヤツなんかいる訳がない。港のある横須賀だから仕方なく残っているような科。そこにオレと東みたいな出来損ないが集まってる。そういう意味では気楽だ。ガリガリ勉強するヤツなんか存在しないから。
中学校と違って授業中は静かだ。教師に反抗するヤツもいない。じゃ、真面目に勉強? ちがう、ちがう。みんな教科書を机に立てて隠したバイク雑誌を読んでるんだ。休み時間も百パーセントバイクと免許の話。だれがいつ原付免許を取りにゆくかそれが目下の話題。
「ヒロシ、昼は?」と東が声をかけた。
「朝日屋のパン二個とジュースだけ」
「知ってる? 角のガソリンスタンドの裏に潰れそうな大和屋って食堂があって、バアさん一人でやってるんだけどさぁ、あそこ気楽でいいぞ」と東が誘う。
「何がいいのさ?」
「まぁ、行ってみ」
「わかった」
東について行った店は表がガラス戸なだけで、店と言うにはショボすぎる。「大和屋」と字が剥がれ落ちてほとんど読めない看板がある。
「ここ、メチャ安いんだよ。料理は旨くねえけど、ご飯のおかわりオッケーじゃん。でさぁ、二階に休憩室があって、漫画本とエロ雑誌が山積み。当然タバコもOK。そこでみんな『アレ』やってる。
東のジェスチャーは袋からシンナーを吸ってる形。いわゆる『シンナー遊び』だ。
「ホントかよ? で、そのオバちゃん文句言わないの?」
「全然オッケー、『みんな大変だからさぁ、うちでゆっくりしていきな』って優しいんだ」
「こんちわー」と東が威勢良くガラス戸を開けた。
「あっ、いらっしゃい、あら、友達ね。うちは一食注文してくれたら、夕方までゆっくりしていいから。遠慮はいらないよ」
「オバちゃん親子丼」
「じゃぁオレ、たぬきそば」
「あいよ、初めての子には大盛りだよ」
すごく感じがいい、オレたちを歓迎してくれてる。「ここしかねえ」と思った。
初めて登校が楽しいと思った。もちろん授業なんか聞いてねえ。うるさくない先公のときは代返を頼んで抜けだし大和屋へ。下校するとバイトに直行。バイトがない時はバイク屋へ。この流れがいい。
このところオレは大沢モータースに入り浸っている。そこは町外れのだらしない店だが東を始め、同級生と先輩がたむろし、大和屋みたいな気楽さがあった。
バイクを見ているだけでは収まらない。まずは免許。オレは七月生まれだからちょうど夏休みに免許が取れる。バイトを掛け持ちして死ぬほどがんばった。
八月、ついに念願の『中型免許』を取得。
いざ免許が取れてしまうと、町の中にあるバイクというバイクが輝いて見えた。どんなボロバイクでもそれなりの味がある。
「ヒロシ、このバイク、ギヤを直したから、ちょっと乗って調子を見てこい」と大沢社長がオレにバイクを渡す。
「ハイ、見てきます」一日バイク屋にたむろしていると大沢社長から二、三度は声がかかる。
それが嬉しくて頼まれもしないのにバイク屋の掃除を引き受ける。そんな日が続いた。
「ホンダの新車が出たなぁ、『CB400フォア』、こりゃあ凄え」と大沢社長がパンフレットを見せてくれた。
「カッコイイ」それ以上の言葉がない。「この世にこれ以上カッコイイものは存在しない」
パンフレット見るにつけ、よだれがでるくらい惚れ込んだ。
本当によだれが出ていたかもしれない。「ヒロシ、『CB400フォア』欲しいか? よだれが出てるぞ」と大沢社長が上目使いにオレを見た。
「三十九万……買えないよ、バイト代、一年貯めたって無理」オレはため息をついた。
「買える……」大沢社長がニヤっとする。
「買える? どうして……」大沢社長の言う意味が分からない。
「まぁ、ちょっと事務所まで来い」オレを手招きして事務所へ連れ込んだ。
「座れや……」大沢社長はあたりを見回すと口を開いた。
「ここだけの話。……おまえ、掃除とかまじめにやってるじゃんか。うちに来るやつら、バイクが好きなのは確かだけど、いい加減であぶねえ連中さ。おまえは違うな。信用できる」と大沢社長はソファに座ってタバコをふかした。
突然、なんだろうと思ったが大沢社長はオレを気に入ってるみたい。
「おまえん家のこと聞いてるよ。おやじが飲んべえで、ど貧乏なんだろ。バイクを買ってくれるなんてありえねえよな」
「うん、だからバイトしてるけど買えるのは遠い先の話」
「わかった。じゃあ、うちがローン組んでやる」
「えっ、高校生じゃ組めないでしょ」
「だから、うちがローン会社の代わりをしてやるってことさ」
「そんなこと出来るんですか?」
「ああ」
衝撃だった。バイクが買える、『CB400フォア』が。さっき見たパンフレットが頭の中でグルグル回転している。そして本当によだれが出てきた。中学校の弁当事件の時のように呼吸が苦しくなってきた。体のバランスがおかしい。ふらふらする。
「ふふっ、おまえが約束を守ればいいだけの事さ……どうする?」
『どうする』って言われても頭が混乱してまともな思考ができない。もう、なんでもいい。
「お、お願いします」それを言うのがやっとだった。
「よし、決まった」大沢社長はそう言うとオレの肩をポンと叩いて事務所を出た。
翌日、大沢社長に言われるままに『借用書』らしきものに署名をした。「ハンコなんて不要。どうせ未成年だから正式のものじゃねえ」と言われた。
とにかく月二万円を持ってくればいいとのこと。なんとかなる。なんとかするんだ。オレは本気で大沢社長に感謝した。
待ちに待った納車日、学校なんか行くハズがない。朝五時に目が覚めて五時半には大沢モータースの店の前にいた。
店が開くのにまだ三時間以上ある。落ち行かないオレは置いてあったホウキとちりとりを持ってあたりをむやみに掃除した。
「ガラガラガラ」九時、店のシャッターが開く。
「おう、早えぇな、バイクが来るのは十時だぞ」大沢社長がオレに気づいて笑った。
十時。「どーもー」、『CB400フォア』を積んだトラックが到着した。オレは待ちきれずロープをほどくのを手伝う。
「はい、じゃよろしく」トラックが帰って行った。
大沢社長がブレーキの具合とか各部をチェックしている。オレはグルグルとバイクの周りを回る。
「カッコイイ……」やはりよだれが出てきた。黒びかりしたガソリンタンク、四本マフラー、アルミ色の直列四気筒エンジン。――この世の造形物でこれ以上カッコイイのものは存在しない――と改めて思う。
「よし、オッケー、ガソリン入れるぞ」チェックが済んだ大沢社長がオレを呼んだ。
オレは少し震えていた。それを見せないように体に力を入れる。
「よし、いいぞエンジンかけてみ……」オレにバイクのキーが渡された。
ホンダの羽のマークが入ったピカピカのキー、それを差し込前にチラッと大沢社長を見た。社長の顔は逆光で後ろに光の筋が見えた。神様みたいだった。
キーを刺した。回せばエンジンがかかる。この瞬間、「これはオレにとってたぶん人生の最高の瞬間のひとつになるんだろう」って思う。キーを回した。
「キュルキュルキュル、フォンッ」なんていい音。最高。これもこの世で一番いい音。
アクセルを煽る。「フォンッ、フォンッ、フォンッ」
「どうよ、ヒロシ」大沢社長が笑顔で尋ねる。
「最高です。死んでもいい」
「バカ、だめだよ、ホントに初走行で死んだヤツがいるんだから」
「オレはな、この瞬間が好きなんだよ。バイクを買って初めてエンジンをかける。そいつの嬉しそうな顔が好きなんだ」
そういうことか。人が心底嬉しい瞬間の顔って見る方も嬉しいってことか……わかる。
「カシャッ」、ギヤを入れた。「行ってきます」、「フォーッ」すごい加速でバイクは走り出した。オレは初走行で城ヶ島を目指す。
最近のオレの一日は大和屋、バイト、バイク屋だけで終わる。もちろん学校は通過点でしかない。今日も授業をサボッて大和屋でグダグダしていた。
東が入ってきた。なんか目つきが違う。オレが声をかけても反応がない。漫画を読む訳でもなく、一心不乱にシンナーを吸ってる。
「東、明日、伊豆までツーリングに行くぞ、ケツに載せてやるよ、一緒に行かねえか?」
「やだ」返事が返ってきた。なんだ聞こえてたのか、オレは友達のつもりで誘ったのだが断られた。思うにオレがバイクに乗るようになってから東との会話が減った。ヤツは免許もないし、バイクも買えないだろう。家は依然貧乏だし、最近家族でなんかトラブルがあったらしい。何も言わないがオレがうらやましいと思っているに違いない。だがオレとしては「それぞれの家庭の事情だからしょうがねえ」と言うしかないじゃんか。
今日はいつもの酒屋の配達のバイトがある日。荷下ろしをしていると同級生の外山がオレを呼びに来た。
「今、東の家に行ったんだけど、あいつなんか変だぞ、今日はヤツの家族が居ないからオレ、勝手に上がり込んで東の部屋に行ったのさ。ヤツ、壁に向かって座禅してるような格好でオレがいくら呼んでも返事をしない。で、大声で呼んだらビクッとして返事したんだけど「うー・もー・ぞてー」なんて何語だか分からない言葉で唸ってるんだ。アレ、演技じゃねえぞ。オレ、気味悪くなって逃げ出したんだ。
「ふざけてんじゃねえの?」
「いや、絶対おかしい」
「じゃ、見に行こうか」
オレは外山の先に立って東の家に入った。そおっと東の部屋に。
いた。確かに壁に向かってあぐらを組んでじっとしてる。
「宗教かぁ? ……」と思いながらオレは小さく声をかけた。
「東…… 東……、オイ、東……」
返事がない。しかたなく大声で呼んでみる。
「バカ東!、バカ野郎!」と結構大声で呼んだ。
ヤツがビクッと反応した。そしてゆっくり振り向く。
「ウー、ゴー、ギャアー」腹の底から絞り出したような気持ちの悪い声、人間の声じゃあない。
「ゲッ」オレはのけぞった。目尻が上がって引きつってる。顔は真っ青で喉のあたりが段々になってるように見える。「人じゃねえ、エクソシストみたいに何かが憑いてる」あまりのショックに腰が抜けた。
「アワワッ」立てねえ、オレと外山は犬のように四つ足で逃げ出した。転げ落ちそうになりながら階段を下る。酒屋に転がり込んだ。
「ヒロシ、どこ行ってたんだサボッてんじゃねえ、荷物早く下ろせ」と酒屋の遼さんが怒鳴った。
「ちがう、東が、東が何かに取り憑かれた」とオレはやっとそれだけ言うとヘナヘナと床に座り込んだ。
「取り憑かれたぁ? 東が? そんなバカなことあるめえ」遼さんは頭っから信用しない。
「とにかく行って、行って見てよヤバイから」
オレたちがマジだと分かって「本当かよ……」と遼さんは動き出した。三人で東の家に向かう。
部屋に着いた。東は座禅をしたままお辞儀をしたような形でなにかブツブツ言ってる。 遼さんが思いっきり気合いを入れて声をかけた。
「東ィ! 何やってんだおまえ!」
「ウーッ、フーッ、ンギャー」梁さんの大声にエクソシストはいきなり振り向いて唾を飛ばしながら動物のような声をあげた。
「ウオッ……」初めて見る遼さんは思わず後ずさりする。
「これ、薬だ」
「薬?」
「そう、相当強いヤツやっちゃうとこうなる。米軍の留置場でこういうの見た。目、覚まさせねえと」
「パンッ、パン」
遼さんは東に近寄ると思いっきり往復ビンタを食らわせた。
「ウウッ」東は首を振ってやや正常に戻るが「なんでみんな来てるの?」とまだ状況が分からないみたい。
「こいつ最近飯食ってないな。こうなると顔だけすごく痩せるんだよ。だから光の加減で凄い気持ち悪い顔になるんだ」遼さんは薬の害を知っていたようだ。
「こいつ早く病院送りにしないと死ぬぞ本当に」と遼さんは吐き捨てるように言って帰ってしまった。
しばらくして東はバタッと横になるとそのままよだれを垂らしながらいびきをかいて眠り始めた。「たぶんずっと寝てないんだな……」オレは外山と無言で頷きあって部屋を出た。