第二章 本当の別れ
数日後、オヤジがオレたちを呼んだ。
「おまえらここに座れ。話がある」とオヤジが改まった顔で話し出した。
「おかあさんは出てった。たぶん伊勢原の実家に帰ったんだろう。しばらくしたら帰ってくるさ、実家なんてド貧乏だから長く居れるわけがねえからな。……」と、オヤジはあぐらを組んで座り、先を見通したような言い方をする。
「お店続けるの?」オレが聞く前にユキが尋ねた。
「ん、……やる」ユキが尋ねたのが意外だったのか一瞬、間があったがオヤジは「やる」と言った。
「これからそれを説明するんだ、よく聞け」とオレたちを睨む。
「もう他人を雇う余裕はねえからオレがずっと店に立つ。おまえらも料理の仕込みやらご飯炊きを手伝うんだ。学校から帰ったらすぐにだ。……いいな」
もうこの時点ではオレもそのくらいのことはやる覚悟はあった。おふくろの手伝いをしたことがあるのでやりかたは分かる。
「分かったな、じゃあ明日から再開店だ」
おふくろのいない店が始まった。
初日、客は夜までに二人だけ。――店が始まってることをだれも知らないんだ。と気付いたオレは隣近所の店を回った。
「あのう、また焼き鳥やってますから」とキャバレー、ムーンライトへ。
「おにぎり売ってます」とバー、サンライズ。
「お弁当も作ります」とジョージアへ。
近所回りの効果でホステス客は戻ってきた。しかし夜の部、自衛隊員はさっぱりのままだ。
「橘さんよう、約束は一か月じゃなかったか? もう二週間過ぎてるじゃん。待っても月末までだぜ」
名前は知らないがドブイタの人なのは間違いない、同様に借金取りが以前より頻繁に来るようになってきた。それを目撃するとオレも子供ながら暗くなる。
再開店から二か月、学校から帰ると家の中が暗い。
暗い部屋にオヤジが黙って座っていた。
「なんで電気点けないの?」
「電気止まった。店はやめだ」とオヤジが吐き捨てるような言い方でつぶやいた。
「電気止まったって……電気代払ってないの」
「そうだ」とさすがにオヤジもうなだれている。
「明日からおとうさんは仕事に出る。大工の手伝いとか何でもやって金を作る。借金取りが来たら、『おとうさんは外で働いてお金は必ず返しますから』って子供のおまえが言えば『しょうがねえ』って帰るはずだからそうしろ」
予想された事態だったがショックで次に何を聞こうか思い浮かばない。
奥からユキが出てきた。
「おなか空いた」と一言。
それを聞いてオレは自分も空腹なのを思い出した。
「とりあえず金を渡す。これでできるだけ安くて量のあるものを食え。それと電気点かないからローソクを買っとけ。市は水道を止めないし、ガスだけは使えるようにガス代払ってるから温めものは大丈夫」とオヤジは仕方なく千円札を一枚取り出した。
オヤジのアドバイスはある意味適切だ。だが千円を使い果したらどうなるのか、その説明はない。とりあえず家にあった食パンと缶詰で腹を満たした。
翌日から空腹生活が始まった。「ユキ、これから朝食は無し。それで学校で昼の給食を食べた後、友達の残したやつを『食べ物を残しちゃいけません』とか言って、それをもらってできるだけ食うんだ。そうすればうちで、もし夕飯が無くても何とか持つ」と残飯作戦を授ける。
数日で千円は使い果たした。オヤジからの食費はまだ来ない。
「やっぱりおなか空くよぅ」とユキが悲しそうに言う。
「あれ、食える」オレはひらめいた。食器棚に袋に入ったメリケン粉がある。あれをスイトンにできるはずだ。
「ユキ、これ、水でコネてお団子にしてゆでれば食えるぞ」
さっそく二人でスイトンを作り出した。水の量が難しくてなかなか団子にすることができない。しばらくして何とか固形物が出来上がった。
「よーし、ゆでてみよう 固唾を飲んで鍋を見つめる。
「おー、できたみたい」
『スイトン』らしきものが茹で上がった。「……なんてうまそうな匂いなんだ」腹がグウグウ鳴る。
「味は醤油かければなんとかなるはず」とスイトンを箸に刺して食べてみる。
「う・ま・い」オレはその言葉をスイトンと共に飲み込んだ。
オヤジはニ、三日置きに何とかわずかな食費を持ってくるが、それは酒代を引いた残り。
「オレたちの食費より酒が大事か! 」
オヤジに対する軽蔑は日に日に増してくる。それに反比例して体重は減ってゆく。
ある日オレは名案を思い付いた。さっそく実行だ。
「ヤスシ、おまえソフビ人形集めてたよな」
と一級下のヤスシを小学校の校舎の裏に呼び出した。
「オレ、いい物沢山持ってるぜ、買わねえか?」
そう、オレは自分の集めたおもちゃを下級生に売りつけることを思いついたんだ。
「とりあえず、今日。オレん家に来いよ、絶対だぞ。買うんだから最低二千円持ってくるんだ。いいな」
ヤスシは酒屋の息子だから裕福なのは分かってた。
「ヒロシちゃん、小遣い千五百円しかなかった……」と言ってヤスシが入ってきた。
「千五百円? じゃあ一番いい物は売れねえ、三番目ぐらいだな……」
そう言うとオレはおもちゃを並べてランク付けをする。
「ここまでなら千五百円でもいいぞ」
本当はもっと高く売りたかったのだが生活費として当面の金が欲しい。
「よし、これな。箱があるから入れてやるよ。おまえ、スゲエ得したんだ。これ千五百円じゃ絶対買えねえ」といって笑顔でヤスシの肩をポンポンと叩く。
売れた。おもちゃはまだまだたくさん持ってる。これを全部金にしたらニ、三か月の食費にはなる。ユキを呼んだ。
「ユキ、お前も人形売っちゃえ、気の弱そうな子に高く売っちゃえばいいんだ」
そうしてオレたちのおもちゃコレクションはまずまずの金になった。
そんなある日、ドブイタ通りでおふくろを見た。妙に懐かしかった。もう何年も会ってないような気がした-。
おふくろは男連れだった。小ぎれいなドレスを着ている。
すぐ分かった。あいつ、いつも店に来てた自衛隊員だ。おふくろの腰に手を回しニヤニヤしながらこっちに向かって歩いてくる。
なにか言いたかった。でもオレは言葉が出てこない。もちろんおふくろはオレの心情を分かっていただろう。そのおふくろがしたこと。
彼女はオレに向かってウインクをしたんだ。
彼女はもう一度ウインクをした。こんどは少し顔を左右に振りながら。その意味は子供のオレにも分かった。
オレは呆然と二人の後ろ姿を見送る。二人の姿が小さく見えなくなる寸前、オレは我慢できず二人を追って走り出した。
五十メートルほどまで近づくと足を止める。それを何度も繰り返す。二人は臨海公園に沿って歩いている。その先は横須賀駅。
やはりそうだった。オレは駅前のバス停の看板に身を隠し、切符を買っている二人を見つめる。
二人が改札を通った。
「行っちゃった。もう、おふくろには会えないんだ……」オレは観念して目をつぶった。
「ああっ……」小さく叫ぶと振り向いて全力で走り出した。走りながら涙がバタバタと散る。
それから一年、おふくろのいない生活にも慣れた。というか慣れるしかなかったんだ。オヤジからの生活費は依然として細く、お金は全然ない。だけど食べ物には困らなくなった。食堂の手伝いを始めてからだ。駅近くの食堂が皿洗いをやらしてくれた。給料はなく、小遣い程度のお金しかもらえないが、客が食い残した料理はタダで食える。毎日おいしい物がいろいろ。ここは天国だと思った。水仕事だから冬はあかぎれで手がバリバリ。でも気にならない。天国にも冬はあるんだから。
休みの日、オヤジは朝から酒だ。やっぱり外仕事はキツイのだろう。以前のようにオレたちに当たることもなくチビチビ飲んでる。
「なんで、なんでだよう……」かすかにオヤジの小さい独り言が聞こえる。酔いが回ってくるとかならずブツブツ言う。
「帰って来ねえなんて……」
「――おふくろのことか」――オヤジはまさかおふくろがずっと帰ってこないとは思っていなかったんだ。……未練があるのか。
『おふくろ……』オレは違う。オレは横須賀駅で覚悟を決めたんだ。あの日、妹と二人で思い切り泣いた。もう考えないことにしてるんだ。
小学校から帰ってきた。「ただいま。ユキいるか?」
この時刻、ユキは先に帰っているはず。
「…………」返事がない。
「ん……」ユキは部屋の隅にいた。机の向こうで小さくなっていたので見えなかったのだ。 なんかモジモジしてる。目が合ったが横を向いた。
「なんだよ、何か、うっ、……」オレは言葉に詰まった。
机の向こう側に血に染まったパンツが放り出されている。あたりは血だらけ。
「あれかっ……」
これが女の生理ってやつか。オレはユキの気持ちを思うと涙が出てきた。おふくろが居たら、家庭が普通だったら、これって皆でお祝いすることじゃないのか。そう思うとおふくろに対する思いは裏返った。おふくろはオレもユキも『捨てたんだ』オレはいいとしても小学校五年生の女の子がどうなってもいいっていうことか。
「最っ低な母親」
「最っ低な母親」
「最っ低な母親」
オレの脳裏に「最っ低な母親」が繰り返し響き渡る。
「ユキ、タオル絞ってやるから体、拭きなよ。それから銭湯に行ってくれば……」
「うん、……ありがと。お兄ちゃん」
ユキは少し元気になったようだ。
「畳、拭いとくからさ」
「うん」
オヤジの酒量は相変わらず、最低の生活は続く。しかし今週、ドブ板通りは賑やかだった。そう、今日はクリスマスイブ、オレは紙の箱を抱えて歩く。
家に着いた。ユキはもう学校から帰っている。
「ユキ」、オレの声に机に突っ伏していたユキが振り返った。
「ジャーン……」効果音入りで箱をユキの前に突き出した。「カッコイイ兄」は「半テレ」でニヤニヤする。
「これ、ケーキ?」
「ふふっ、そう」
赤い包装紙に白い紐が掛けてある。見た通りのクリスマスケーキだ。
「クリスマスだからって食堂が小遣い余分にくれたから買ってきた。食べよう」そう言うとオレは紐を解いてバリバリと包装紙をむしり取った。お菓子屋で安い方から二番目、五百円のケーキだ。シンプルでイチゴが乗ってるだけ。でも、うまそう。
ユキが包丁を持ってきて言った。「これ、三等分するのね……」
オヤジの分も、とユキは思ったのだろう。オレは即座に断った。
「ユキ、酒飲みって甘い物、苦手なんだ。喜ばねえ……」
「そうか……じゃ、半分っこ」
ユキはケーキを切ると「お茶、入れよう」と言って急須を取りに流し台に向かう。
「メリークリスマス!」とオレは意味のない掛け声で食べ始めた。
「おいしいよぅ……」とユキが笑顔でつぶやく。
「お茶、お茶」オレは急須のお茶をユキの湯飲みに注いであげた。
「合う……お茶とケーキ、会うなぁ」
「ほんと、合う」オレとユキは顔を見合わせた。
お茶とケーキだけのクリスマスもいいもんだ――なんて裕福だったころには思ったこともない。