青空の下、訪れた時
所謂いつものやつを書いてみました。
ご容赦ください。
その日は特別でも何でもない、ごくありふれた日だった。
いつもと変わらない青空の下、少年は自転車を走らせる。爽やかな風が彼の体を撫でていく。
ほどなくして、目的地が視界に小さく入った。いくつかの信号を通り、橋を渡った先。
少年の目的地、そこは書店だった。とはいえ目当ての本があるわけではない。ただ持て余すしかない暇を潰すための作業である。
駐輪場に整然と並ぶ自転車の列にもう一台加える。少年の存在を認めたセンサーが自動ドアを開き、彼を迎え入れる。それが開き切る前に体を中に滑り込ませた少年は、一直線に新刊の並ぶ棚に向かった。
じっくりと吟味するように本を眺める少年の眉に、しわが一筋刻まれる。どうやら視界には少年の琴線に触れるものはないようだ。別の棚に顔を向けると、ポップの添えられた本が目に留まった。色とりどりの文字と簡単な絵のついたポップには、最近映像化したという旨の広告文句が綴られていた。不思議な衝動に駆られて、少年はこの本を買うことにした。
少年の心をつき動かしたのは表紙のデザインか、口にしたくなるような語呂のいいタイトルか、あるいは書店員のポップの効力かは分からない。
本を両手で持ちながらレジへと運ぶ。店員の、誰にでも等しく向けられる笑顔と明るい声が少年に降りかかる。単純な行動を行う機械のように、淡々と支払いを済ませた少年は、店員の声を背に、書店を後にした。
――さあ、早く家に帰ってこれを読もう。
はやる気持ちを抑えながら自転車に跨る。漕ぎ出した自転車の前輪が歩道に出たのと同時に、眩い光が少年の視界を奪った。
*
少年が目を開くと、そこは真っ白な空間だった。少年はその空間を漂っていた。
少年の内で際限なく疑問が湧く。ここはどこだろう。なぜこんな場所にいるのだろう。彼に分かることは、ここが道路ではないこと。買った本も自転車も消えていること。そして、自分は確かにここに存在しているいう至極当たり前のことだけだった。
意識を失う前のことを必死に思い出そうと試みるが、その部分だけ記憶を切り取られたように、何一つ思い出すことができなかった。
「……くそっ」
悪態をつく少年の声は、音として外界に発せられることはなかった。自分の認識と現実との違いに、得体の知れない恐怖を覚えた。先ほど確信した「自分はここに存在している」という確信が揺らぎ始めていた。
急速に自分の存在が消えていく感覚。
この白い世界に、自分の存在が溶けていくような感覚。
口から零れる悲鳴も、やはり聞こえなかった。
本当に自分はここに存在しているのだろうか。
世界が自身で埋め尽くされようとしたその時、声が聞こえた。
「目を覚ましたようね」
少年には聞き覚えのない声だった。だが、その声がきっかけとなって、少年は再び自分の形を取り戻す。声のした方に顔を向けるも、そこには誰もいなかった。気のせいだったのだろうか。しかし、確かに誰かがここにいる。そう、少年は感じた。
「あなたは?」
姿のない声に尋ねた。今度は声を発することができた。自分の声を感じることができたことに安堵して、深く息を吐いた。
しかし、少年の問いかけに答える声は無い。周囲の景色も変わらず白い世界が広がるばかりで、何もない。
退屈な世界だ――少年がそう思った直後、濃霧に覆われたように真っ白だった視界は晴れ、目の前には少年の見覚えのある街並みが広がっていた。
「これで少しは退屈しのぎになるかしら」
背後から聞こえた声に視線を向けると、そこには一人の女性の姿があった。神を象った石像とよく似た姿をしているが、そこに神聖さはなく、性的な魅力を振りまこうとしているようにしか見えなかった。
少年の冷めたような視線は気にも留めず――あるいは気づいていないのか――女性は開かれた服の胸部から豊満な乳房を強調しながら話し出す。
「わたしは……神様よ。とは言っても、あなたが生きていた世界とは別の世界の……だけどね」
その直接的かつ非現実的な自己紹介を聞いた少年は、自身の耳を疑った。その次に、自身の頭を疑った。最後に、現実を疑った。幻覚か夢か、少年にはそのどちらかに思えた。否、そのどちらかだと信じたかった。しかし、神様は少年の考えを否定した。
それじゃあ、と少年が口を開く。彼がその言葉が発し始める前に、神様は答えた。
「ここは無の空間であり、魂だけが存在できる場所なの。要するに、君は死んでしまったというわけ」
不思議と驚きはなかった。だが、家族や友人にもう逢うことができないのだという事実に、少年の胸は酷く傷んだ。
皆は自分の死を嘆いてくれるのだろうか。そう考えると同時に、そんな思いをさせたくなかったという思いが、少年の心に募った。
少年は改めて疑問を抱く。それは自分の死因についてだった。老衰はもってのほかとして、病死や寿命とも考えにくい。交通事故の可能性も断片的な記憶を辿ればありえない。
少年の記憶にうっすらと浮かぶのは、不思議な白い光。不鮮明な光景が少年の内に広がり始めた時、神様は告げる。
「実は……ちょっとした失敗で君に雷を放ってしまったの」
「あなたに殺されたってことですか」
死。それは生きている者に等しく訪れるもの。決して逃れることのできないかもの。運命とも呪いともいえる、終わりの形。
一人の人間、一つの命に終わりをもたらしたにも関わらず、「神様」の反応は薄かった。
神様にとって一人の命など、人間にとっての虫のように些細なものなのだろう。それに、他人の命を顧みないような奴は同じ人間の中にもいる。
だからといって、甘んじて死を受け入れられるほど少年は単純ではなかった。
「生き返る、というか……何とかならないんですか?」
「私も、君を元の世界に生き返らせてあげたいと思ってる。でも、『生き返る』ということ自体が君の世界の摂理に反しているから……。それに――」
言葉を区切ると、神様は手招きをするような仕草をした。それに呼応するように白い空間にぼんやりと何かの影が浮かび上がった。それは徐々に鮮明になり、やがて横たわる人間の姿へと変わった。その体には、のたうつ蛇のような紋様や、大樹が枝を伸ばしているかのような紋様が描き出されていた。
その人間の顔は、少年のものだった。
「これは、一体……」
「これが今の君。本当の君の姿」
その手は、もう何を掴むこともない。
その口は、もう何も発することはできない。
その瞳には、もう何も映ってはいない。
その心臓は、もう生命を通わせることはない。
少年は変わり果てた自分の姿に衝撃を受けながら、しかし目を離せずにいた。
その意識を死体から外したのは、胸に走った痛みだった。咄嗟に胸をさすろうとした左手は震えていた。右手でそれを掴み、強く押さえつける。
「君の肉体はもう使い物にならないわ」
「でも……それじゃあ、僕はどうなる……いえ、あなたは僕をどうするつもりなんですか」
少年の心は小動物のように怯えている。その一方で怒りが湧き上がる。その理由は少年にも分かっていた。目の前にいるのは自分を殺した相手なのだから。
少年は神様に疑惑の眼差しを向ける。殺した相手と対面することの真意を測りかねていたからだ。
少年がそこに至るのを待っていたと言わんばかりに神様は言う。
「あなたには、別の世界で蘇ってもらおうと思うの」
「え?」
それは少年が望む生ではなかった。少年が抱えている喪失や未練はどれも元々生きていた世界に対してであって、大切な人も大切な物も、それらとの思い出も存在しない世界に対する気持ちも、そこで生きることへの望みもなかったからだ。
少年は、神様の誘いに拒絶の意思を示した。
「嫌です。僕は別の世界で生きたいとは思いません。元の世界に戻れないなら、このまま天界にでも地獄にでも送ってください」
「それは――! ……ほら、尋常を超えた力をあげようと思うし、悪い話じゃないと思わない?」
自らの手違いで人を殺し、相手の意思を無視した自己満足な贖罪をしようとする神様に対し、少年の内で濁流のように感情が押し寄せた。
少年の中で震えていた哀れな小動物は、いつの間にか醜悪な獣へと変貌していた。もはや、相手が神かどうかなど、少年にはどうでもよかった。
「あなたのせいで僕は死んだんだ。あなたは僕を殺したんですよ。自分を殺した相手に勝手なことを言われて、『はい、分かりました』なんて聞き入れるはずないし、まして喜ぶわけないでしょう」
少年の言葉の直後、神様は深く頭を下げた。
「これが私の、罪滅ぼしだと思って……お願い、これが私ができる最善の方法なの」
神様の名が嘘のように縮こまっている姿に、少年は怒りが急速に冷めていくのを感じた。荒れていた感情は今では静かな小川に変わっており、理性を突き破ろうとしていた醜悪な獣は消えていた。それと同時に、違和感を覚えていた。もちろん、自身の考えではなく、神様に対するものであった。「手違い」で殺せるような相手に頭を下げて懇願する光景が酷く奇妙だった。何をそこまで恐れているのか、少年には分からなかった。
若干の怪しさを感じながらも「神様」の無様な姿に怒りのやり場を失った少年は、これを受け入れることにした。
「……分かりました。それでいいです」
すると、先程までとは打って変わって、神様の口角が上がり、明るい表情になった。
「ありがとう! 約束通りに超人的といえるほどの力を与えるわ。それから、特別に今世での記憶も残しておくわね」
不自然なまでに上ずった口調と底抜けた笑い声が、少年にはどこか不気味に映った。だが、それ以上に重要なことがあった。
神様の笑い声にかき消されないように少年は言う。
「あなたがずっとおっしゃっている『異世界』ってどんな世界なんです?」
異世界に送られても、そこが生きていけない世界では意味が無い。たとえ違う世界で、大切な存在が無くとも同じような世界で生きたい。少年はそう願った。
少年の言葉を聞いた神様は笑いを中断し、一人で舞い上がっていたことを恥じるように顔を赤くする。そして、姿勢を整え、少年に向き直った。
「そうね……同じような姿の人間が生きている世界だけど、君の生きていた世界とは大きな違いがあるわね」
その一言で少年の期待は淡く打ち砕かれた。だが、自分達にとって当たり前だったから気づかなかっただけで、ここと似た世界というのは少ないのかもしれない。少年はそう考えることにした。それでも、同じ姿をした人間がいる。その事実だけでも、幾分かは救われた気がした。
「君が生まれ変わる世界には、魔法が存在するの」
少年の脳内で、魔法の存在する異世界のイメージが浮かび上がる。角の生えた兎やスライム状の怪物の姿。悪人やら魔物に襲われる少女の姿。仲間から追放された少年と彼が繰り広げる復讐劇。
想像した世界がどれも酷く物騒で独創性の欠片もなかったことに、少年は肩を落とした。
「……他に世界は無いんですか? それに、僕が転生先を選ぶ自由もあると思いますが」
「あいにくだけど、私の世界はそこだけなの。それに、あんな世界は古くから君の世界の人間が夢見ていた世界だと思うけど……君は違うようね」
「ええ。でも、もういいです」
諦めたように、ぶっきらぼうな様子で答えた。その口調を通じて、少しでも「神様」に気持ちが通じればいいと思ったが、「神様」は嬉しそうに笑顔を作るだけだった。発せられた言葉だけに反応して、そこに込められた意味は気にもとめていないようだった。
「ありがとう。それじゃ、あなたに生の喜びが訪れんことを」
自身の生を奪った張本人からの祈り。少年は、奇妙な気持ち悪さを感じていた。そんな少年の心情は露知らず、神様は転生の儀式を始めた。まっすぐに差し出された手のひらから光があふれ、少年を包み込んでいく。
転生も生まれる先が異世界ということも何一つ望んだことではない。しかし、これで自分を殺した憎むべき相手の顔を二度と見ずに済むのなら悪くない。少年はそう思っていた。
ただ、叶うなら、先程想像したような世界とは違っていてほしい。そのことだけを祈りながら、少年は消えた。
1025年後――
目覚めた少年は草木に囲まれながら横たわっていた。風が吹き、木々が揺れ、木の葉の擦れる音が空間を包む。どこからか流れる水の音も聞こえてくる。どうやらここは森の中のようだ。
「……」
体を起こし、木々を見ると、それらは少しだけ大きく感じられた。水の音のする方へ向かってみると、そこには小さな泉があった。手で水をすくい、口に運ぶ。冷たさが口いっぱいに、そして全身に行き渡った。少年は水面を見つめる。透き通った水に、浮かぶ雲が反射している。そして、泉を覗き込む自身の顔。その顔に微かな違和感を覚えた。その顔は見知っている顔よりもどこか幼さを感じさせた。自身の身に起きた変化に一瞬戸惑うが、すぐに落ち着きを取り戻す。――そう、あの時とは違う。今更こんな事では驚かない。どうせこうなるのだと予測できていたことであった。
少年が森の中を歩いていると、つんざくような少女の悲鳴が聞こえた。距離はそう遠くない。直ちに声のした方を察知し、急いで向かう。草木をかき分けながら進むと、少しだけ開けた場所が見えた。そこでは、少女が得体の知れない黒い怪物に襲われていた。
「何だあれ」
その黒い怪物の姿は異様なものだった。熊を思わせるシルエットだが、手の形状は人間に酷似しており、肩からはさらに一対の腕が伸びていた。
少年にとってそれは、未だかつて見たことがない生物だった。それに似た生物も思い当たらない。少年の全身は小さく震えていた。
恐ろしい。
逃げたい。
そんな思いが少年のうちで大きくなっていく。だが、このまま放っておけば遅かれ早かれ少女は殺されてしまう。少年は意を決し、少女を救うために駆け出した。
間に合え、間に合え、間に合え。
早く、早く。
少しずつ怪物の姿が大きくなっていく。そして、あと数歩で怪物に触れるというところで、怪物がゆっくりと少年の方を向いた。近くで見た怪物の姿は遠目に見たものよりも奇怪に映った。先程は見えなかった巨大な口から覗く歯は、人間のそれのようだった。そして、瞳は血のように赤く染まっていた。
少年に気づいた怪物は、抵抗する気配の無い少女よりも少年を先に排除するべきと判断したのか、赤い双眼を向け、舌なめずりをするように口を動かした。
「今のうちに! 急いで!」
声と手の動きで少女に指示を出すと、少女は小さく頷き、そそくさと茂みの中へ入っていった。怪物はそれを追う様子はなく、薄汚い歯を見せながら吼えた。改めて未知の怪物に体が強ばりそうになりながら呼吸と心を整えた。そして――少年は怪物に背を向けて走った。逃げるのではない。怪物を少女からできるだけ遠ざけるためだ。少年が走り出すのと怪物が口を広げたのはほとんど同時だった。怪物は少年の後を正確に追う。木々がへし折れる音と、ガチガチと歯を噛み鳴らす音が少年に近づいてくる。ある程度離れたところで少年は怪物に向き直った。怪物が咆哮をあげながら振り下ろした腕を、すんでのところで躱す。顔のすぐ側で怪物の腕がが空を切る音が聞こえた。
その瞬間に生まれた僅かな隙に、固く握りしめた拳を伸ばした。
「うわぁぁああ!」
拳で怪物を殴りつける。何度も、何度も。生暖かい感触が少年の手を伝う。怪物のものなのか、自分のものなのか分からない赤黒い液体が辺りを染める。
それでも、少年は殴る手を止めない。
殴る。
殴る。
殴り続ける。
殴っているという感覚が無くなるころには、怪物だったものは原型を留めぬ肉塊となっていた。興奮して乱れた荒い呼吸音だけが少年に聞こえていた。だが、徐々に落ち着きを取り戻し、本来この場に満ちていた音が戻ってきた。そして、少女の存在を思い出し、草木をかき分けて森を進んだ。
しばらく森の中をさまよっていると、茂みからガサガサと音が聞こえる。咄嗟に警戒して、息を潜める。そこにいるのはあの怪物の仲間か、それとも――。
出てきたのは先程の少女だった。慌てて茂みに逃げ込んだからか、服のあちこちに葉や木の枝がくっつき、長い髪も乱れている。
「あ……。えっと……助けてくれてありがとう」
「無事でよかった」
ほんの少し目を潤ませながら少女が少年に駆け寄る。広げたその腕が自身の体に触れそうになった寸前で少年はそれを制止し、一歩後ずさった。その様子に、少女は不思議そうに首を傾げた。
少年は、自身が生み出した気まずい雰囲気に、咄嗟に言い訳を考える。
「いや、えっと……その、さっきの怪物の血とか付いてるから……ほら、服とか汚れちゃうだろうし……」
「そんな事気にしないわ。でも、気遣ってくれてるならありがとう」
少女はそう言うと、握手を求めて手を差し出した。しかし、少年はそれにも応じずに「よろしく」とだけ伝えた。
少女は何も言わずにそっと手を戻し、服や髪についた枝や葉を取り払い始めた。微妙にぎこちない空気を埋めるために、先程の怪物について尋ねたが、彼女も初めて見たようで、正体を知ることはできなかった。今まで見たこともない怪物が突然現れたことから、何かが起こっていることは確かだった。
一人で思案する少年を、少女は不思議そうに見つめていた。その視線が少年と交錯すると、少女は小さく微笑んだ。
「あの……森の出口まで案内するわ。こっちよ、着いてきて」
そう言いながら少女が歩みだそうとしているのは少年がやってきた方向――森の奥だった。少年にそのことを指摘されると、少女の顔はほのかに赤く染まった。
「えっと、街に向かうのはこっちだった……みたい」
少女は恥ずかしげに指を指した。
森の外を目指して歩く間、少年は彼女になぜ森にいたのか質問をした。少女は人見知りしない性格なのか、あるいは警戒心が薄いのか、少年が聞いてもいない自身の事を色々と話し出した。幼い頃に母親が病死したこと、それからは一人で暮らしていること。今日は薬草を集めていたところ、森で迷ってしまい、さまよっていたところを突然襲われたのだ、と少女は語った。さらに、あの怪物も数日前まではおらず、危険な森などではなかった、と話した。
少年の中でますます怪物への疑問、あるいは興味が湧いた。
「それじゃあ、私からも質問。あなたこそ、どうして森に? それに、どうして私を助けてくれたの?」
少女は自分ばかりが答えるのは割に合わないと考えたのか、少年に質問を投げかけた。少年の目に映る少女の顔は、沈み始めた太陽に照らされ、強められた陰影で別物のように思えた。
「分からない。気づいたら、あの森にいたんだ。好きでいたわけじゃない。それで歩いてたら悲鳴が聞こえてきて……放っとくわけにもいかないし。だから、特に助けた理由は無いよ」
「そうなの。そういえば、さっき私が森の奥に進みそうだったってどうして分かったの? あんな森の真ん中だったのに」
少年は少しだけ口ごもる。そのことについて話すことは、自分の力のことを知られるのと同義だと思ったからだ。
自分の力について知られたくない。下手なことを言えば少女を不安に思わせるかもしれない。そんな考えが少年の頭をよぎる。しかし、何も答えないというのも不自然である。
逃げ場を探すように二、三度視線を左右に向けた後、少年は口を開く。
「あれは……僕の力の一つっていうか……感じたんだよ」
「力って、魔法のこと? 場所が分かる魔法なんてすごいわ! 私は簡単な魔法しか使えないもの」
そう言って少女は手にした籠を浮かせてみせた。籠はフラフラと中空を舞い、再び少女の元へと戻った。少女が照れくさそうに笑い、釣られて少年からも笑みがこぼれる。自身の力について深入りされなかったことを、少年は幸運に思った。
やがて日は沈み、森には夜の帳がおりる。聞こえるはずの生き物の鳴き声はなく、静寂がこの場を支配していた。張り詰める緊張の中、少女が魔法で照らす光を頼りに闇を進む。次第に開ける視界。その向こうに別の光がぼんやりと浮かぶ。森の出口だ。そう気づいた二人は喜びあった。喜びのあまり触れ合いそうになった手を、少年はすんでのところで逸らせる。
森から見えた光の正体は街の明かりだった。街は華やかに彩られて、見るものに安らぎを与えてくれていた。
「よかった。戻れたわ」
「うん、よかった」
少女の後に続いて、少年は見知らぬ街を歩いた。しばらくして、街の中心部にある建物の前にやってきた。ここが少女の目的地だったようだ。無事に辿り着いたところで、少女と別れてしまおう。そう考えた少年が、さよなら、と言って立ち去ろうとすると、少女は振り返り、小さく手招きをした。
「あなたも一緒に行きましょ」
「え? いや、僕は――」
「いいから、いいから」
半ば押されるようにその建物へと入った。中には、それなりに人が集まっていた。正面には木でできたカウンターがあり、人が立っている。少年は扉の脇で立ち止まり、少女を目で追った。
男性が立っているカウンターに脇目も振らずに向かうと、少女は山のように薬草が入ったかごを置いた。
「こんなものでいいかしら」
「採集依頼の薬草ですね。確認します」
男性はかごを手に取るとカウンターの後ろの箱に入れた。しばらくすると、少女の方を向き直した。
「お疲れ様でした。報酬はあちらでお受け取りください」
少女は隣のカウンターを通り、少年の方へ戻ってきた。手には布製の袋を持っている。その口を少しだけ広げ、中にある白色の石を見せてくれた。この石がここでの通貨というわけだ。
「こんな風にあたしたちは仕事をして生活しているの。あなたも登録しておけば仕事を貰える」
「どうして僕に?」
「あなた、『気づいたら森にいた』って言ったじゃない。このあたりの人じゃなさそうだけど、とりあえずの生活をするにしてもお金がいるでしょ」
でも、と言いかけた少年を、彼女は制止した。自分にも他人にも役に立てるのだから悪いことじゃない、というのが彼女の言い分だった。仕方なく頷くと、彼女は、それでいい、と言うように大きく頷き返した。
「私は魔法が苦手で力も弱い。それでもできる事はある。それに、街の皆のおかげでこんな私でもちゃんと生きていけてる。だから、あなたもきっと大丈夫!」
その後、いくつかの簡単な説明と別れの言葉を言い残して少女は軽やかな足取りで去っていった。一人残された少年は、少女の言葉に従って受付へ向かい、言われた通りに話を進めた。今すぐに登録ができるものだとばかり思っていたが、少女の薦めた職業では試験が後日にあり、それを合格する必要があった。
上手くいくだろうか。少年は不安を覚えた。
建物を出ると、霧のように細かい雨が降っていた。明かりに照らされた街並みに、既に少女の姿は無い。今日はもう帰ろう。少年は一歩を踏み出す。
帰る……。
帰る?
どこへ?
そんな場所なんてないのに。
*
そして迎えた試験当日。会場には何十人もの人が集まっていた。各々が談笑していたり準備体操をしたりしていた。観察してみると、少年より少し年下に見える者から年齢が上の者まで様々な人がいるように見えた。
少年は、あれから日毎に増した不安を何とか抑えようと必死だった。緊張と不安で、昨夜はよく眠れていなかった。そんな自身の内で繰り広げられる精神の攻防の最中、誰かの肩がぶつかった。その衝撃で少年はあっけなくその場に倒れた。見上げると、体格がよく、鋭い目つきをした男が睨みつけるように見下ろしていた。
「おっと……悪いな。大丈夫かい?」
そう言いながら、男は手を差し伸べてきた。その手を無視して、僕は立ち上がり、砂を払う。
「……大丈夫です。それと、自分で立てます」
そう言いながらも、少年の足取りはおぼつかないものだった。見かねた様子で男が少年の肩を支えた。男の鋭い視線が至近距離から少年に降りかかる。
「お前、ここにいるってことは、もちろん試験を受けるんだろうが、そんなひょろい体で大丈夫か? その腕、剣どころか木の枝すら握ったことが無さそうだぞ。それにその体幹だって――」
「余計なお世話です」
そう返すと、男は表情を緩ませた。その顔は、少年が最初に抱いた印象に反して、明るく、優しかった。少年は、張り詰めた感情が幾分か解けていくのを感じていた。
「そうか……そうだな。お前には期待してみる。もし上手くいったら、俺が先輩としてお祝いしてやるよ。頑張れよ」
それじゃあ、と会釈をすると、男の姿は人混みに消えていった。
「間もなく、各試験を開始します」
*
格闘、剣技、防護魔法、回復魔法などの試験は何とか乗り切った。少年が乗り越えなければならない試験は、あと一つ。攻撃の魔法の試験だ。試験内容は少し離れた距離の的に魔法を当てるという単純なものだった。
「それでは、開始」
試験官の声で、的へ向けて次々に魔法が飛ぶ。ある者は見事に命中させ、ある者は的を破壊し、ある者はあさっての方向へ飛ばしてしまう。少しずつ自分の番が近付いてくる。果たして、上手くできるだろうか。全身が震えているのを感じた。
意識を集中させ、魔法を発動させるための呪文を唱える。
――大丈夫、ここまで上手くやってきたのだから、きっと何とかなる。自分にそう言い聞かせながらも、少年の不安は増殖するばかりだった。
そして――。
手の中に微かに熱を感じた直後、少年の頭に激痛が走った。と、同時にいくつもの映像が流れる。
崩壊した街。泣き叫ぶ少女達の姿。巨大で不定形な怪物とそれに立ち向かう少年。そして、その少年に迫る影。思わず目を瞑るも、その映像は少年の中に映り続けた。周囲の声も近づいたり遠ざかったり、何度も繰り返されたりを繰り返す。
数刻の後、視界にもノイズが走る。モノクロームの視界と朦朧とした意識の中、少年は発動させた魔法を放つ。
次の瞬間、ここにいた誰も想像し得なかったほどの巨大な火球が出現した。
「あ」
肥大した火球は一直線に的へ飛んでいき、命中すると共に破裂した。破裂した火球から生み出されるように飛散する炎が周囲のあらゆるものを襲い、焼き、焦がした。
「あぁあぁぁぁぁあ」
「熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い」
「ギゃアああ……あ……」
候補生や試験官たちは、必死に魔法を使ったり水をかけたりして何とか火を消そうとするが、その火は一向に消える気配は無い。それどころか、より激しさを増していった。
「おま……え……いったい」
声のした方を見ると、先程の男の全身が焼かれていた。その目は、初めて感じた冷たさでも、その後に感じた温かさでもない、恐怖と絶望の色に染まっていた。その瞳が少年を捉えた直後、男の眼球が風船のように破裂した。さっきまで眼球がはまっていた黒々とした穴から液体を吹き出しながら、続けて男の腕が破裂した。沸騰した血液が肉と皮膚を吹き飛ばしたのだ。男は叫びとともに絶命した。
炎に包まれて死んでいくのは男だけではなかった。少年は、人々がただの物に変わっていく光景を呆然と見つめていた。どうすることも出来なかったのだ。彼らを助けることも、炎を止めることも。
「……何なんだよ、コレ」
かろうじて少年の口から出た言葉はそれだった。
炎は留まることを知らず、やがて街全域を襲い始めた。街のあちこちで悲鳴が上がり、人々が逃げ惑う。
「早く逃げろ!」
「火を消すんだ! 早く!」
「邪魔だよ!」
「おい、押すなって――」
「おかーさーん。かア……さン」
阿鼻叫喚の様に耐えられなくなった少年はその場から逃げ出した。人々の怒声や悲鳴が絶えず聞こえたが、彼が振り返ることは無かった。
どこをどう走ったのかは分からない。少年は気づけばあの森の中にいた。とうに切れた息を整えながら混乱する頭を正常に戻そうと必死だった。
――仕方なかったんだ。皆を助けなかったんじゃない。僕には助けられなかったんだ。どうすることもできなかったんだ。僕は悪くない。僕のせいじゃない。
少年は自分に何度もそう言い聞かせた。
足の力が抜け、地面に崩れるように座り込んだ直後、ガサガサと草の揺れる音がした。顔を向けると少女がいた。彼女がこちらに気づくと同時に、少年は彼女の視線から逃れるように目を背けた。
「どうしたのよ。……この臭い。街の方からだわ。ねえ、何があったの?」
少女は少年の肩を揺する。少年は何も答えない。その態度が気に入らないのか、彼女は何度も肩を揺すり、何度も問いかけた。だが、少年は力なく立ち尽くすだけだった。
少女は怪訝そうな瞳を少年に向けた。だが、彼女の顔を見ないようにしていた少年は、その表情に気づかない。ただ、小さな息遣いだけが彼の耳に届いていた。
「魔法の試験で……僕の魔法が……違う、僕がやったんじゃない……街を、皆を……」
途切れ途切れの少年の言葉を聞き、少女は理解した。今まさに、自分の愛するもの達の命が奪われようとしていることを。そして、目の前の少年が被害者ではなく加害者であることを。
少女は思わず手を振るった。少年の頬に、瞬間的な痛みが走る。続けて、少女は少年の胸ぐらに掴みかかった。
「あなた、何をしているのよ! 皆を危ない目に合わせて、それなのに自分は一人で逃げて!」
「……」
少年も気づいていた。仕方なかった、と考えることで逃げようとしていたことに。
少女の言葉が槍のようになって少年の心を突き刺す。
「そんなに強い力なら、皆を救うことだってできたはずでしょ!」
「……」
たとえ少年がこの惨劇を生み出した元凶であったとしても、自分の生きる世界を壊した憎悪すべき存在であったとしても、彼女には彼を見捨てることができなかった。
それは、彼に命を救われたからか、街への帰り道に感じた彼の温かさのせいか、あるいは自分の言葉が事の発端であることへの罪悪感があったからかもしれない。
だが、そんなことは彼女にはどうでもよかった。
「あなたの力なら……あなたの力を止められるのはあなた以上の力を持つ者だけ。そして、それは今ここにはあなたしかいない。皆を救えるのはあなたしかいないの」
少女は諭すように言う。その声には先程のような怒りの感情はない。ただ目の前の少年を救いたかったのだ。彼に立ち向かってほしかったのだ。皆を救ってほしかったのだ。
「……」
うなだれる少年の頬に何かが触れた。それは少女の手だった。血が通い、生命が流れている彼女の体温。全てを焼き尽くす炎とは違う安らぎのある温もり。顔を上げる少年に、少女は微かに笑みを作って見せた。本心からの笑顔でないことは明らかだった。それでも、少年にはそうして接してくれることが嬉しかった。
「まだ間に合うわ。あなたの力を止めるの。あなた自身の力で。それはあなたにしかできない――いいえ、あなたにならきっとできるはず」
「……うん」
少年は彼女を抱き寄せた。
それと同時に、彼女の口から息が詰まるような声が漏れた。
少年の腕の中で、鈍い音が響いた。
少年の腕の中で、何かが割れるような音がした。
少年の腕の中で、何かが潰れるような音がした。
少年の腕を、粘性のある液体が伝った。
少女は口を開き、必死に息を吸おうとする。突然の事に何が起きたのか理解できていなかった。
少年に向けられた瞳は恐ろしいほどに見開かれていた。恐怖、悲哀、憎悪――様々な感情が混ざりあったような表情だった。
「あ……が……」
少女は陸に打ち上げられた魚のように口を動かす。だが、息をするだけで全身を走る痛みが、それを阻む。荒い息が漏れ続けていた。そして、その唇は五文字の言葉の形を描くと永久に閉じられた。少女の声は少年には届かない。やがて彼女の体は力なく地に倒れた。
少年は、物を言わぬ少女の骸を抱き上げる。彼女の顔に手をやり、見開かれたままの瞼を閉じてやる。ずるり、と顔の皮膚が肉ごと剥がれ、白い頭蓋骨が露出する。
少年が触れる度に彼女の体は崩れていった。彼の涙が涸れた時、そこには彼女の姿は無かった。残されたのは地面を染め上げる赤と肉の塊。そして、汚れと彼女に塗れた一着のドレスだけだった。
「やっぱり、君を助けるんじゃなかった」
少年の手の中で、ぼろぼろのドレスが微かにはためく。風が吹いていた。あの日と変わらない、暖かな風が吹いていた。
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
お疲れ様でした。
ありがとうございました。