37.オフレコ⑤ ~ユキヤとアキヲ~
「ユキヤ」
その日の夜、自室に戻ろうとしたところでアキヲに呼び止められた。
内心うんざりするも、無視をするという選択肢も取れずに、渋々といった様子で振り返る。
「はい、父上」
「全く。あの女の我儘にはうんざりさせられるな。ガロ様の存在がなければ歯牙にもかけないというのに……」
アキヲが気楽な愚痴という感じで話しかけてくる。表面上は、「ロゼリアの我儘に振り回されて大変だった」と言わんばかりだ。
無論ユキヤは今日何の話をしていたのかは知っている。だが、ユキヤはアキヲとロゼリアが何の話をしていたのかは知らないということになっているだけだ。実際は事前に話を聞いているので、アキヲにとっては不愉快な話で、裏で考えていた計画を進めづらくなって、さぞ苛立っているだろう。
そうなってくれとユキヤは願っていた。
「まぁ、それはそれだ。あの女が代行である限りはうまく機嫌をとって進めていかねばならん。いつまで続くかはわからんがな」
機嫌を損ねて立ち行かなくなっているところじゃないかと言いたい気持ちを押し込めて、適当に話をさせていた。真面目に取り合う必要はないと思っているのでいつもほとんど聞き流している。
ちゃんと聞いていても楽しいことなど何もなかった。
父であるアキヲと家族らしい会話などした覚えがない。一言目からこんな話ばかりだ。金と権力とコネに執着している様子は昔から醜悪に見えていた。肉親であるから余計に苦々しく思う。この男の血が半分も自分の中に流れているという事実にはずっと嫌悪していた。
息子が自分のことを嫌っているという事実は、アキヲとてわかっている。なのに、こうしてあれこれと言いつけてくるのは父親という座に胡坐を掻いているからだろう。所詮、子供は親には逆らえないもの、という意識がどこかにあるのだ。アキヲ自身がそうだったように。
「お前の顔はあの女の好みではないが、……あの女がこれまでと違うのはお前も感じ取っているだろう? 案外、お前にも興味を示すかもしれん。仲良くなって、取り入って来い」
思わず眉を潜めてしまった。
何を言っているんだと言いたくなる。が、口を挟むことすら煩わしくて、不貞腐れたような顔で黙っていると、アキヲが溜息をつく。
「何とか言ったらどうだ? ああ、不安なら”練習台”は用意してやる」
「父上!」
たまらずに声を荒げてしまった。
アキヲが金などに執着するところはもちろん嫌いだが、もっと嫌なのは下世話なところだ。『普通の親』ならこんなことを子供になんて言わないだろうに。ユキヤは既に成人して、アキヲの性格もわかっているので躱せるものの、やはり不快なものは不快だ。
まだそういう自覚がない頃はアキヲのこの手の言動が意味不明だったし、分かった時には嫌悪感しか抱かなかった。
アキヲの言う「仲良くなれ」は単なる友達になってこい等という話ではない。
男女の関係になってこいと言っているのだ。
昔から、アキヲのこういうところが嫌でたまらない。
「なんだ? 不服か? お前も少しは遊べばいいものを……何人か用意してやるからとにかく練習してこい。相手がお前なら嫌がる女もそうそう居ないだろう」
「……父上の意向に従う気は一切ないと何度もお伝えしています。ロゼリア様がこれまでと違うのは私も感じましたが、だからと言って何故そう言う話になるのか理解が出来ません」
「全く。そういう面倒臭いところはアイツそっくりだな……」
さもユキヤがおかしいと言わんばかりに言い方に噛み付きたくなる。
幼い頃はアキヲに「おかしい」と言われるたびに「自分が変なのか」と不安になったものだが、今ではただただアキヲが気に入らないだけだと理解している。ただ、親から「おかしい」と言われ続けたのは流石に堪えた。
ちなみに、アキヲの言う『アイツ』というのは、アキヲの妻であり、ユキヤの母親だった人だ。政略結婚の末にアキヲの性格に辟易して出て行ってしまった。ユキヤは跡取りということもあってアキヲの元に残っている。だが、残ると決めたのは自分で、母親が「父親に似ていて変わらずに愛せる自信がない」と零していたのを聞いてしまったからだ。
とにかくアキヲとは合わない。親子と言ってもこんなものだ。
本当に疲れる。
ゆっくりと呼吸をしてから、正面からアキヲに向かい合った。
「母上に似て融通が利かない人間ですみません。とにかく、あなたの意向には添えません」
半ば吐き捨てるように言うと、アキヲが呆れた様子でユキヤを見つめ返す。
年齢を重ねた時、いずれこんな顔になるのかと思うとうんざりした。「アキヲの若い頃に似て……」という褒め言葉を受けることがあるが、ユキヤにとっては褒め言葉ではない。
「くだらんことに拘る……全く理解が出来ん。金への執着がなさすぎる。そんなことではいずれ路頭に迷うぞ」
「お金への執着がありすぎるあまりに、妻に見放され、今路頭に迷いそうになっている人にそんなことを言われる筋合いはな」
バシッと乾いた音が響いた。
遅れて痛みがやってきて、アキヲに頬を殴られたのだと遅まきながら気付いた。
アキヲが激高することは滅多になく、手を出すことも滅多にない。体裁を気にしているからだ。
それだけ焦っているのだと伝わってきて、殴られた身ではあるが小気味良い。口元に浮かびそうになる笑みをぐっと堪えて、父親に殴られた息子らしく見えるように傷付いたような表情をしてみせた。
「お前が息子でなければさっさと追い出しているところだ」
「……何故、そうされないのですか? 跡継ぎを私にすることに拘る理由はないでしょう」
「忌々しいがお前の交渉力や人脈作りはこれまで役に立った。それだけのことだ。──だが、忘れるなよ。お前の交渉が有利に運んだのも、人脈がうまく広がったのも、全ては『私の息子』というブランド力のおかげだ。自分だけの力などと思い上がるな。私の力があるからだと、ゆめゆめ忘れるなよ」
痛いところを突かれ、瞼がぴくりと動いた。
それでも傷付いた息子という演技は崩さず、それ以上は何も言わないで置く。
アキヲはそれで気が済んだらしい。「ふん」と鼻を鳴らして、足早にユキヤの前から立ち去っていった。
それを見送り、ユキヤも自室に戻る。
はあ。とため息をついて、ベッドに倒れ込んでしまった。
これまで何度自分の努力の結果を父親に奪われたかしれない。アキヲが言っていたように、他人が自分に興味を示すのは『南地区代表である湊アキヲの息子』だからだ。何の影響力もない人間であったなら、積極的にユキヤと仲良くなりたい人間はそういないだろう。
少しでも良い結果になればと思って交渉した案件がアキヲに上澄みをすくい取られて歪められるのも、個人的に親しくなったと思った相手がアキヲの人脈に吸収されるのも、日常茶飯事だった。
自分の努力が全てアキヲのものになっていく。
それが南地区や住民のためになるならともかくとして、ただアキヲの私腹を肥やすだけなのだ。虚しさばかりが胸の内を支配していった。
どうにもならないと思いつつ、深くため息つく。
すると、まるでそれに呼応したかのように携帯が鳴り出した。
性分で無視も出来ず、ひとまず発信元を確認する。
ロゼリアだった。流石に出ないわけにも行かずに、慌てて通話ボタンを押す。
『……もしもし? ユキヤ?』
夜だからか、密やかな声が聞こえてくる。
自分からかける時は必ず挨拶をすることにしているのだが、疲れていたのと驚いたのでそれを忘れてしまった。
「ロゼリア様? こんな時間に、何か──」
『今ちょっとだけ大丈夫?』
「はい、大丈夫です」
一体なんだろうと思いながらベッドに寝転がったまま通話を続けた。電話のいいところはこちらの状況が相手に伝わらないことだ。それが逆に欠点でもあるのだけど。
以前はロゼリアの声を聞くだけでうんざりしていたのに、以前のようなヒステリックな声を出すことはなくなったからか落ち着いて耳を傾けることができる。
『まず、今日のことはありがとう。またちゃんと話をさせて頂戴』
「は、はい、それはもちろん……」
『それでね、ほんっとうにどうでもいいことなんだけど……あの、今日ってノアは何をしてたの?』
「えっ」
まさかノアのことを気にかけていたとは思わずに変な声を出してしまった。いや、ロゼリアがノアを気に入っているのは察していたが、こんな風に尋ねてくるほどだとは思ってなかったのだ。
ただ、そう言えば、ロゼリアにもジェイルにもノアは極力アキヲの前に出さないという話をしていなかった。
「ノアは外に出ていてもらいました。……なんというか、父がノアのことを気に入ってないので、あまり傍に寄らせないようにしているんです」
『えっ!? だ、大丈夫なの? それ……』
「いつものことなので……って、ロゼリア様は知らないので不安ですよね。実はノアをそちらに向かわせるのも父の目から離れるという目的もあって……あの、そういう意味でも助かってます」
ロゼリアが息を飲む。
ユキヤとアキヲの関係が悪いことは知っていても、そこにノアが加わるとも思ってなかったのだろう。ノアはユキヤが勝手に側近として傍に置き始めたので、アキヲはノアのことをよく思ってない。自分の息のかかった人間をユキヤの傍に置いてコントロールしたかったのが頓挫したからだ。
ロゼリアの協力が得られるようになって、もし何かあった時はノアをロゼリアに任せるのもいいかもしれない。幸い、ロゼリアはノアのことをこうして気にかけてくれているのだから。
『……ねぇ、ユキヤ』
「はい」
『あたしはあんたに協力するって言った。これは契約と言っても差し支えない話よ。……でも、なんていうか、……こんなこと、あたしが言うのはおかしいって思うけど、』
そこでロゼリアは一旦言葉を切る。
以前の、ヒステリックで強欲で傲慢なロゼリアだったら、こんな言い方は絶対にしない。
いつからかユキヤが知っている九条ロゼリアは変わり、信用できる人物になりつつある。もしくは信頼できる人間に。
『ユキヤを助けたいと思う。あたしに何ができるのか、どこまでできるのか……何でもできるなんて断言はできないし、頼りないだろうけど、お金で何とかできることは、多分、してあげられるわ。──ユキヤにも、本当にやりたいことをして欲しいと思ってる。今回の約束はそのための協力だとも思ってるわ。だから、必要があれば言って頂戴』
閉じかけていた目を見開く。
見慣れた天井が少し明るく見えた。
これまで『九条ロゼリア』に頭を悩ませられていたのに、今度は『九条ロゼリア』の存在に助けられるとは思っても見なかった。ただ、これはアキヲが言っていたように『九条ガロの姪であるロゼリア』というブランド力のおかげでもある。それが自分にも当て嵌まるとは思ってもみなくて自嘲するしかない。
だが、ロゼリアはきっと『九条ガロの姪であること』を利用している。わかっていて、九条印というものを持ち出したのだ。何がそうロゼリアを駆り立てるのかは全くわからないものの、使えるものは何でも使う気なのだろう。
それが有り難いのは紛れもない事実だ。
ゆっくりと深呼吸をして、目を細めた。
「ありがとう、ございます……。私に力ないばかりに、ロゼリア様にはご面倒をおかけして」
『そんなこと思ってないわ。何度でも言うけど、あんたも平和でいて。できれば幸せになって。そのためにがんばりましょ。──話がずれたわね。ノアのこと、教えてくれてありがとう。あ、今後ノアがこっちに来る時はちょっとくらいもてなしてもいいわよね……?』
少し笑ってしまう。ユキヤが思うよりもずっとロゼリアはノアのことを気に入ってくれているらしい。
ノアを任せる未来も現実味を帯びてきてしまった。
「問題ありません。きっとノアも喜ぶと思います」
『そう、よかったわ。あ、へ、変なことはしないから……じゃ、そろそろ切るわ』
「はい。ありがとうございました。──おやすみなさい」
『またね。おやすみ』
通話が切れる。ツーツー、という無機質な電子音をしばらく聞いてから、電源ボタンを押す。
穏やかな声で送られた「おやすみ」が耳を離れない。
彼女の落ち着いた声がこんなにも耳あたりのいいものだとは知らなかった。本来ならこんな風に話しているのかと変に感心してしまい、それと同時に「幸せになって」という本当にらしくない言葉を思い出す。
「幸せ、か……」
幸せってなんだっけ。と、思う程度には疲れている。
アキヲという父親の存在も、自分のことを愛せないかもしれないと言って出ていった母親の存在も、ユキヤを疲れさせるばかりだった。家族団らんの幸せは知らない。ジェイルやノアと話している時くらいだろうか、安心できるのは。しかし、それを幸せと言っていいのかはよくわからない。
「ロゼリア様……」
そっと名を口にして、目を閉じる。
らしくない思考を否定するように、そのまま眠りについてしまった。




