279.約束の終わり③
気分を切り替えるように「こほん」と咳払いをする。
ひとまず、ユキヤと交わしていた約束は終わり。南地区に関して協力するのもこれで終わり。
それを確認したくてユキヤと話す時間を作った。若干変な方向に話が飛んじゃったけどちゃんと話ができてよかったわ。
「じゃあ、ユキヤ」
「ぁ、はい」
「以前の約束は今日で終わり。いいわね?」
「ええ、大丈夫です」
今度こそちゃんとスッキリした表情と答えが返ってくる。よし、これで本当に大丈夫ね。
ほっとしたところで視界の端でジェイルがアリスからホイッスルを没収しているのが見えた。まぁ、確かにアレはちょっとうるさかったわ。アリスもいつからそんなものを持ち込んでいたのか……。
──あ、そう言えばあの時の紙ってジェイルに預けたままなんだっけ。効力を失ってしまったから処分してしまいたいんだけど、ジェイルに任せようかな。
と、思っていたらジェイルがさささっと近づいてきた。
「お嬢様。ユキヤから預かっていた書面はこちらに……」
そう言いながらジェイルが胸元から取り出したのは以前、九条印を押したあの書面だった。折り目はあるけど綺麗な状態だったから、ジェイルがきちんと保管していてくれたことが窺える。
でもタイミング良すぎない!? ユキヤもまさか今日ジェイルが持っているとは思ってなかったみたいで驚いているし。
「いや、なんで今持ってるの?」
「……お嬢様が椿邸に戻られてからずっと持っていました。いずれこの話をされるだろうと思いまして……」
「じゅ、準備がいいわね」
驚きつつも書面を受け取った。確かにあたしの字だし、あたしの九条印だわ。
下手に残しておくのは良くないとも言われるし、見つかった時に妙な誤解を招くこともしたくないから処分したいんだけど、ユキヤはどう思うだろう?
「ユキヤ、これは処分したいんだけど……」
「……えぇと、いただくことは可能でしょうか? もちろん悪用しようなんて考えていません。ただ、これまでのこと、今日のことを忘れずにいたくて……」
ユキヤの性格上、これを悪用するとは思えない。だからあげちゃっても問題はないと思うのよね。
ちらりとジェイルの様子を窺ってみると「好きにしてください」と言いたげに小さく頷いた。ジェイルもユキヤがこれを悪用するとは思ってないのよね、当然だけど。
でも、協力するっていう文面だけにしておくのは微妙に抵抗がある……。
今日の日付と「終了」とでも書いておこうかな。
「ジェイル、ペン持ってない?」
「あります。小さいですが、こちらのノートを下敷き代わりにご使用ください」
すかさずペンが出てきた。しかもあたしが何をしたいのか察して、A6サイズのノートが出てきた。流石だわ。
「ユキヤ、今日の日付と終了する旨をを書かせて」
「問題ありません」
了承を得てから、ジェイルから預かったノートの上に書類を乗せる。本当だったらもっときちんとした場の方がよかったのでは? と思っちゃったけど、今更よね。
九条印の下あたりに「本日を持って契約は終了とする」と記入し、今日の日付を書いておいた。
自分の書いた字を見て誤字がないことを確認してからユキヤに手渡した。
「──ありがとうございます」
「あたしもちゃんと約束が果たせてよかったわ。……あんた、今後はどうするの? 前に他領に行くとか言ってたけど」
聞きながら、ペンとノートをジェイルに返す。
ユキヤは渡した紙を折るわけでもなく、大切そうに手に持っていた。問いかけには少し考え込む。
「ガロ様から屋敷を出ていいというお許しがいただけたら、改めて予定を立てる予定です。折を見て聞いてはいるのですが……まだ色々とガロ様からお話があるらしく、もうしばらくは留まるようにと命令されてまして……ここを出る目処が立ってから、ですね」
「そうなの。伯父様が無理を言ってるみたいで悪いわね」
「とんでもありません。むしろこうして保護していただけるのはありがたいです。南地区ではどうしても奇異の目で見られてしまうことが多いので……」
結局、他領に行くという予定は変わらないみたい。ユキヤの身の回りの騒がしさを考えたらしょうがないんだろうけど。ハルヒトも帰っちゃったし、ちょっと淋しくなるわね。
あたしはあたしで今後のことを腰を据えて考えたいわ。どこに行くか、どう動くかを。その前にのんびりしたいから、すぐに考えるわけじゃない。伯父様にもしばらく予定は入れるなって言われてるしね。……よく考えたら伯父様から許可が出ないと何もできないわ、あたし。
今後のことに思いを馳せているとユキヤが聞きづらそうに口を開いた。
「……ロゼリア様は、どうなさるおつもりですか?」
「え? あたし? しばらくはのんびりするわ。年内と来月くらいは」
「そうですか。教えていただきありがとうございます」
しれっとした様子で答えておくと、ユキヤはこの返答に納得したようだった。
第九領を離れたいという気持ちを見透かしているのは、多分ユウリだけなのよね。ユウリはかなり疑っていた。はぐらかしたけど、完全にはぐらかせたとは思ってない。どこかに行くとしたらユウリの目を掻い潜って出ていかないといけない。ま、大学があるからいくらでも隙はあると思う。
どちらにせよ、すぐにってわけじゃない。落ち着いてからよ。
さて、そろそろ戻ろうかな──。
アリスに声を掛ける前、不意にジェイルと目が合った。
そう言えば、ジェイルはずっとあたしの傍にいてくれたのよね。
味方になる、って……あたしが撃たれた時もあたしの望みを優先してくれた。伯父様のことが好きで九龍会に入って、伯父様の役に立つことに意味を見出していたはずなのに、あたしのことをかなり尊重してくれていた。
最初の頃、ジェイルの存在は本当に心強かった。ジェイルの様子を窺いながら動いていたのが懐かしい。
ユキヤとアリスがいるけど、感謝の気持ちを伝えたくなってしまった。
一呼吸置いてからジェイルに向き合い、彼の前に立つ。
「ジェイル」
「はい、お嬢様」
急に声をかけられて不思議そうだったけど、当たり前のように返事をしてくれる。そういえば、なんだかんだでジェイルがあたしの声かけを意図的に無視するっていうのはなかったな……。
伯父様に臨時ボーナスをあげて欲しいって言っておこう。
「夏からあんたに頼りっぱなしだった。あんたのおかげであたしは道を大きく踏み外さずにここまでやってこれたと思う。本当に、感謝してるわ」
そう言って笑うとジェイルが目を見開く。まるで瞬きすら忘れたみたいにあたしのことを凝視している。
視界の端でユキヤがアリスを引っ張って数歩下がっていた。
以前は威圧感のある風体と仏頂面が気に食わなかったけど、今では慣れてしまったし頼もしく感じている。いつでもどっしりと構えてくれていたから、あたしも安心できていた。
「酷いことも言ったし、……意見を聞きつつもあんたの忠告を聞かないことが多かった。ジェイルから見たら、あたしはとんでもない女だったでしょうね。でも、あんたが色々言ってくれたから考えることもできたの。決して、ジェイルの言葉や判断が要らなかったわけじゃないわ。あんたの意見を踏まえた上であたしはあたしの判断ができたの」
「……お嬢様」
ジェイルが右手を少しだけ浮かしかけ、ぎゅっと握りこぶしを作って下ろすのが見えた。
ちょっと笑ってから、あたしはその手に触れて両手で包み込む。
急に触れられたことに驚いたみたいだったけど振り払われることはなかった。
「ジェイルが傍にいてくれてよかった。改めて、ありがとう。……急に悪いわね。今、伝えたくなったのよ」
そう言ってゆっくりと手を離した。
ジェイルは少しの間言葉を探すように沈黙していたけど、やがて不格好に笑う。その表情はこれまで見たどんな表情よりも柔らかくて、くすぐったそうだった。
「──いいえ、こちらこそありがとうございました。お嬢様のお力になれて何よりです」
噛みしめるような言葉だった。本心からそう思っているのが伝わってくる。
ちゃんとお礼を伝えられてよかったと思っていると、ユキヤとアリスがこそこそ話しているのが聞こえてきた。「……白雪さん、あれはいいんですか?」「悔しいけど、ロゼリアさまからの接触なので許すしかないです。あくまで仕事の話ですし……ロゼリアさまの気分を害すことはしたくないですし……」「……なるほど」ってあの二人何の話をしてるのよ。ただただ感謝を伝えてるだけでしょうが。
二人の様子を気にかけていると、いつの間にかジェイルがあたしに背を向けていた。何で?
「ジェイル? どうかした?」
「何でもありません」
「何でもないならこっちを向きなさいよ」
「嫌です」
「はあ!?」
そんなあたしとジェイルのやり取りを見たユキヤはくすくす笑って「ジェイルにも色々あるんですよ」と呑気に言うし、アリスは「もういいじゃないですか~」とあたしの傍で頬を膨らませている。
すっごく気になるけど、梃子でも動かなかったら諦めることにする。
ユキヤへの協力も終わり、ジェイルへも感謝の気持ちを伝え終わり──どこか晴れ晴れとした気分だった。




