19.夢
夢を見ていた。
その夢はひどく陰鬱で、歪んでいる。
夢だとわかっているからさっさと目を覚ましたいのに覚醒ができない。
誰かが誰かを平手で打つ音が響く。
打った誰かは紛れもなくあたしで、打たれたのはユウリだった。あたしの足元でユウリが頬を押さえて膝をついている。
『ねぇ、ユウリ? 打つ方の手も痛いのよ、わかるでしょ』
ユウリは答えない。
『あんたが鳥頭で、あたしの飲みたいものすら覚えててくれないのがいけないの』
足元には紅茶が零れ、割れたカップが散らばっていた。
よく言うわ。
あたしが紅茶をストレートで飲みたいって言ったのに。
ユウリは言われた通りに持ってきただけなのに。
たった数分の間に気が変わってどうしてミルクティーを持ってこないのって、ただそれだけの理由でユウリを打った。
ユウリは賢い子よ。鳥頭なんかじゃない。
あたしの手の痛みなんて、爪が当たって血が滲んでいるユウリの痛みに比べたら笑い話にもならない。
そんなことの繰り返しで、ユウリはどんどんあたしに対しておどおどするようになった。怯えたような視線があたしにとってはたまらなくて、その目を見たいがためにユウリへの当たりはどんどん強くなっていった。
打って、蹴って、虐めて……逃げ場のないユウリはあたしの言うことを何でも聞くしかないから、とにかく従順だった。
夢の中だというのに気持ちが悪くなる。
* * *
場面が変わる。
『キキ、髪の毛が長くて鬱陶しいから切ってきて』
『……え』
すぐに答えないキキにイラついて、あたしは綺麗な三つ編みに手を伸ばして無理やり引っ張った。キキが小さく悲鳴を上げるのも気にせずに、足元に引き倒す。どさ、とキキがその場に倒れこんだ。
手にしていた三つ編みを手放し、ぐりぐりと踏みつけた。
『あら、汚れちゃったわ。……ね、長いと大変でしょう?』
キキが握りこぶしを作る。すぐに「はい」と答えない理由がわからず、あたしはひたすらイライラした。
『ねえ! 返事は?! あんたの髪の毛が鬱陶しいって言ってるのよ!』
『っ、は、はい。き、切ります! 切ってきます!』
キキは床に這いつくばったまま、これ以上あたしの機嫌を損ねないようにと必死で頷いていた。
翌日、キキはちゃんと髪の毛を切ってきた。
あたしはそれを褒めたけど、キキは悲しそうな顔をしていた。好きで伸ばしていたんだから、特に理由もなく「切れ」なんて言われたら悲しいわよね。
けど、あたしはキキの気持ちなんて考えもしなかった。
とにかく、あたしはあたしの感情だけが大切だった。自分の感情を優先することで誰かが傷つこうが悲しもうが気にも留めなかった。
それからずっとキキはボブのまま。
短い髪であっても手入れは欠かしてないようで、髪の毛は艷やかで綺麗だった。
──おとなになったら、めいっぱいおしゃれしていっしょにどこかにあそびにいきましょ。
……誰のセリフだったかしら? 思い出せないわ。
* * *
また場面が変わる。
目の前には冷たい目をしたジェイルがいた。その目線にひたすらイラついて、気が付いたら手を振り上げていた。
ばちん、と乾いた音がやけに響く。
『何よその目……あたしの言うことが聞けないっていうの?!』
ジェイルは頬を押さえるでもなく、ただあたしを真っ直ぐに見つめる。
その視線に更にイラついてるとジェイルが面倒くさそうに口を開いた。
『ガロ様がそんなことをお許しになるはずがありません』
『うるさい! 伯父様は関係ないわ! あんたはあたしの言う事を聞けばいいのよ!』
『聞けません』
『っ、この……!』
思い通りに動かないジェイルに腹を立てて、あたしは再度手を振り上げてジェイルの頬にビンタをお見舞いしていた。
乾いた音が部屋に響き、それを近くで見ていたメロが「痛そう」と言いたげな顔をしている。
『もういい! 出てって!』
そう言ってジェイルを追い出した。
ジェイルは『失礼します』とだけ言って出ていく。
当然、それであたしの機嫌が収まるはずもなくて、あたしの言うことを聞かないジェイルにひたすらイライラして、ムカついていた。
『ああ、イライラするっ……メロ!』
『はァい』
『顔貸して』
『はいはい、いいっスよ』
そう言ってメロはあたしの前に立った。
イライラを抑えられず、かと言ってそのままにしておくこともできず、あたしはメロに向かって腕を振り上げて頬を打つ。一発だけじゃ飽き足らずニ発三発とビンタをお見舞いして、メロがバランスを崩したところで蹴り倒した。
憂さ晴らしのつもりでメロの腹を蹴って、ぜいぜいと肩を上下させる。
メロが変な顔をして笑い、あたしを見上げていた。
『……痛いっスよ、お嬢』
あたしは答えない。
けど、疲れたのもあって、そのままメロを放置して離れてしまった。
思い通りにならないジェイルに腹を立てて頬を打ち、それでも収まらない苛立ちをメロにぶつけていた。
ジェイルはあたしに打たれても何も言わなくて、メロはその憂さ晴らしをされても何も言わなかった。きっと、言っても無駄だと思ってたに違いない。
あたしのイライラはまるで嵐のようで、じっと大人しくして過ぎ去るのを待っていた方が得策だって二人とも思ってたんだわ。下手に口答えをして、反感を買うよりはずっといいって思われていた。
あたしは周りからとっくの昔に見限られていた。
本気で相手をするだけ無駄だ、って。
全て自業自得で、自分のやってきたことに言い訳なんかできない。
* * *
本当に最悪の気分で目を覚ました。
これまでのことを思い出させる夢には無性にイライラさせられて、それでいて言いようのない虚無感が襲いかかってくる。既に過去のことだからどうしようもなくて、今更こんなもの思い出させないで欲しかった。
こんな風に色んなところから恨みを買って、それでやり返されるのもある意味当然……。
でもやっぱり死にたくないし殺されるなんて真っ平ごめんだし、やり返されるのも嫌。
自分がその報復を受けるのが嫌だから罪滅ぼしをしたいのか、本当に悪いと思って今からでもやり直したいと思って行動に移しているのか……。正直、自分の心情的には前者の方が近くて、自分で自分に言い訳すらできない。
だとしても、とにかくやれることをやるしかない。
悪いという気持ちが少しでもあるなら、自分を省みて償いをしていかなきゃいけない。
行動を起こして、気持ちは後からついてくると信じたい。
あたしはのろのろと身を起こして、軽く頭を揺らす。今日見た夢はさっさと忘れたいけど多分忘れられないわよね。っていうか、忘れちゃいけないんだわ。
そんなことを考えてため息をついたところで、控えめにドアがノックされる。
「入っていいわよ」
「ロゼリア様、おはようございます」
入ってきたのはキキだった。
別のメイドだったら気持ち的にまだマシなのにと思うけど、キキはあたし付きだから基本的にあたしの身の回りの世話を全部しているのよね。だからメイドの中では一番被害が大きい。
キキ、メロ、ユウリの三人は孤児院出身で身請け元が九条家だから実家がなく(というか実家は実質九条家)、逃げ場がない。他の使用人たちは基本的に働きに来ているのが大半で住み込みはあんまりいないのよ。
逃げ場のないキキたちのことを考えると、自分のやってきたことが重くのしかかってきた。
「……うん、おはよう」
「本日ですが……ガロ様が少しお戻りになるとのことです」
「えっ」
伯父様が? 戻ってくる?
確か第壱領とか弐領の人たちとの会合がどうとかこうとかって言ってうちを空けていたのよね。あっちこっちに行くのも珍しくはないし、気が付いたらいないってこともあったから気にしてなかったわ。
っていうか帰ってくるなら、キキたちのことをちゃんと相談するチャンス……!
キキたちの雇い主はあたしじゃなくて伯父様だから、別のことをさせるためには伯父様に一度相談するのが筋。まぁ、キキとユウリが何かやりたいって言うなら、なんとしてでも伯父様を説得するつもりだった。
伯父様、あたしに甘くてモノを買う分には何も言わないけど、ヒトについては結構厳しいのよね。昔も気に入らない使用人に対して「クビよ!」って言って椿邸から追い出したこともあった。でも、伯父様があたしに「お前に使用人をどうこうする権利はないんだよ」と諌めつつ、その相手を別の場所で働かせていたのを思い出す。
その時は伯父様の言い分がいまいち不満だったけど、今ならわかるわ。
あたしがそういうことに口を出していたら、椿邸で働いてくれる使用人がゼロになってしまう……。事実、椿邸で働いている使用人の給料は高いらしくて、それでも辞めたがる人間がいるんだから、あたしの横暴さに対して給料が見合ってないと思われることもあるってことよね……。
……そういうところも、これから改めて行かなきゃ。
あたしがベッドを降りたところでキキが近づいてくる。
「今日はどのようなお召し物にされますか?」
「……そうね。あ、伯父様が買ってくれたワンピースにするわ。あんまり着てなかったし」
「かしこまりました。朝食の準備もできております」
キキはいつもの通りだった。
あたしの機嫌を伺いつつ、極力地雷を踏まないようにしている。
……そういえば、昨日の件は考えてくれたのかしら。
「キキ」
「は、はい……!」
「やりたいこと、少しは考えてくれた?」
じっとキキを見つめてみる。ばち、と視線が一瞬だけ合ったけど、キキはすぐに視線を逸らしてしまった。
そして気まずそうに顔を伏せてしまう。
「……は、はい。考えさせて、いただいて……ます」
「そう、やりたいことが決まったらいつでも言って頂戴」
キキは顔を合わせないままぎゅっとスカートを握り締めて、「はい」と蚊の鳴くような声で頷くのだった。
う、プレッシャー与えてるみたいだわ。……あんまりしつこくしちゃいけないわ。次聞く時はもう少し時間を置こう。
小さなことを反省しつつ、あたしは伯父様のお迎えをするために身支度を始めたのだった。