110.一方その頃⑤
一方その頃──。
通話ボタンを押して聞こえてきた声はユウリではなくメロのものだった。何とも言えない気分になる。名乗らずに「おれおれ」を繰り返すことに若干苛立ってしまう。
しかし、「お嬢が」という単語一つで焦燥感が一気に高まった。
「お嬢様に何かあったのか?!」
うっかり声を荒げてしまうと向こうから呆れ声が聞こえてくる。
すぐ傍にいるハルヒトとノアが目を丸くしていた。驚いた顔でジェイルを見つめている。少し気まずくなってしまい、こほんと咳払いをした。
相手の言葉を遮ったのは自分なので口を閉ざして、メロが続きを言うのを待つ。
しかし、待った後で言われたことに眉間に皺を寄せてしまった。
「は? ……花嵜お前、適当なことを言ってないか?」
ゲロを見て気持ちが悪くなった、と聞かされたが、どうにも信じられない。それはジェイルが元々メロのことを信用してないからという理由が大きい。
状況を見に行くと言ったものの、メロからは「要らない」と言われ、車と水を頼まれてしまった。何様なんだと思ったが、全員でロゼリアのところに行って何が変わるわけでもない。それは理解するもののメロがあまりに一方的だった。
『ってことで、また連絡するー』
「おい花嵜、勝手に決めるんじゃない。聞いているのか?」
そう言い募ったが、聞こえてきたのはツーツーという不通音のみである。ぐっと携帯を掴む手に力が入ってしまった。
溜息をついてハルヒトとノアへと視線を向ける。二人とも心配そうだった。
「……お嬢様のご気分が悪くなったらしいです。なので、もう中止だと」
「えっ?! ロゼリア大丈夫なの?」
「心配です。……あ、ユキヤ様に伝えてきますね!」
「灰田、頼んだ」
「はい!」
ノアはすぐさまユキヤの方に駆けて行った。ユキヤはどんな反応をするんだろうと思いつつ、ひとまずハルヒトの方に向き合う。
「ハルヒトさん、そういうことなので……」
「こればっかりは仕方ないね。ロゼリア、大丈夫かな?」
「花嵜の口ぶりでは大丈夫そうでした。少し休憩をするそうです」
「……そっか」
ハルヒトは残念そうだった。
単純に外に出掛けることを楽しんでいたように見えたので帰るのが惜しいのかもしれない。とは言え、ハルヒトを置いていくわけにもいかないし、一旦ロゼリアを帰宅させるのが先決だ。
そうこうしている間に、ユキヤがノアと一緒に戻ってきた。
店を出る前に店員と何か話していたようだが何を話していたのだろうか。
「ジェイル! ロゼリア様は──!」
「少し休憩をしてから合流するそうだ」
「……そう、ですか。ごめんなさい、さっきまでは普通に見えていたのに……」
ユキヤはひどく申し訳なさそうで気付かなかった自分が悪いとでも言いたげな様子だ。しかし、どう考えても買い物中のロゼリアは至って普通だったし、トイレに行った際に何かあったのだろう。メロの言っていた吐瀉物を見て気持ちが悪くなった、というのはいまいち真実として捉えがたいが、一旦はそう言うことにしておくしかない。
気持ちとしてはすぐにロゼリアのところに行きたくても、この場を放り出すわけにもいかない。メロかユウリがいればここを任せられるのに、さきほどロゼリアの様子を見に行かせたのは他でもないジェイル自身だ。
「いや、俺の目にもさっきまでは普通に見えていた。お前が気に病むことじゃない」
「だといいのですが……」
釈然としない様子のユキヤ。さっきまでロゼリアの傍にいたのは自分なのでそう考えてもおかしくはない。
「お嬢様のことは真瀬と花嵜に任せている。俺たちは帰る準備をしよう」
「はい、わかりました。では、車を回してくる必要がありますね」
そう言えば車のキーはメロから返してもらっていたと思い出し、ポケットからキーを取り出した。
ハルヒトがそれをじっと見つめる。
「じゃあ、オレたちは駐車場に行く感じかな」
「え?」
「だって、ジェイルもユキヤも車の準備をしなきゃでしょ? オレの単独行動はダメって言われてるし……あ、帰りは君の車に乗せてもらってもいい?」
確かにそれはそうで──と納得したところで、ハルヒトが『君』と指名をしたのは他でもないユキヤだった。
正面から見つめられたユキヤは一瞬だけ驚いて、すぐににこやかな表情を見せる。驚いて当然の話だったろうに、すぐに順応できるのはユキヤのいいところだと感じている。内心どう思っているかはさておき。
「私は構いません。ハルヒト様、ロゼリア様はジェイルたちの車に乗ると思いますが……よろしいでしょうか? あと、ジェイルはいかがですか?」
「うん、大丈夫。ロゼリアと同じ車で帰れないのは残念だけどね」
「俺も問題はない」
ハルヒト、ジェイルそれぞれの言葉を聞いたユキヤは納得したように頷いた。
「わかりました。では、ジェイルの車にはロゼリア様、花嵜さん、真瀬さんの四人、私の車にはハルヒト様とノアですね」
「その分け方で問題ない。ちなみにあれは俺の車じゃないぞ」
「九条家の車というのは理解してますよ。便宜上そういう言い方をしただけです」
おかしそうに笑うユキヤ。正しくは九条家のロゼリア送迎用の車である。黒塗りのいかにも、といういでたちの車なので周囲からは避けられがちだった。それが楽な面があるのも確かである。
あとは水を買っていかなければいけない。駐車場に向かう道すがらに自販機があったはずなのでそこで買うしかないだろう。それ以外だと水が売っている場所は少し寄り道をしなければいけない。ロゼリアもいつ来るかわからないので早めに車の準備をしておきたいのが本音だ。
振り分けなども決まったのでジェイルは携帯を再度取り出す。リダイヤルボタンを押すと、2️コールで繋がった。
「真瀬か?」
『残念。おれ』
「チッ。……これから駐車場に移動する。お嬢様は九条家の車に乗るよう誘導してくれ。お前と真瀬もだ」
『舌打ちってさー……まぁいいや。りょーかい、お嬢もそっちまで歩くって言ってるし、すぐ出せるようにしといて』
「わかった。お嬢様に無理をさせるなよ」
『へいへい』
そう言って通話を切った。
メロの受け答えに思わずため息が漏れる。何故ああも適当なのだろうか。ロゼリアがメロを傍に置いているのが不思議でならなかった。所謂幼馴染というものだし、付き合いの長さもあって遠ざけ難いと感じているのだろうか。色々と腑に落ちない点はあるが、自分がどうこう言える立場ではないと思い直して首を振った。
もう一度通話ボタンを押し、今度は自分の部下に連絡を入れる。中止の連絡と、館内に不審な人間がいないかどうか探してから戻るようにと指示を出しておく。これまでも不審者の連絡はなかったので念の為の指示に過ぎない。
携帯をしまい、ハルヒトたちを振り返る。
「では、行きましょう」
「わかった。──ユキヤ、悪いけど帰りはよろしくね」
「ええ、お任せください。ノア、行きますよ」
「はい」
そう言って歩き出した。
人はまばらなのに視線を感じる。その視線は大体女性からのもので、興味や関心を向けられているのがわかる。しかし、当たり前のようにジェイルはそれらの視線を気にすることはなかった。ユキヤもノアも、そしてハルヒトも同じようにわかりやすい反応をしてない。なんだかんだでこの手の視線を感じることは多いので、気にしていたらキリがないからだ。ハルヒトはメロに言われたことを意識しているようだった。
こういう視線を向けてくるのがロゼリアだったらいいのに、と一瞬だけ考えてしまい、すぐに打ち消した。




