109.異変②
トイレを出ると、少し離れた場所にメロとユウリがいた。
二人を見た瞬間、なんというか、気が抜ける。ユウリがあたしに気付いて目が合ったところで、思わず駆け寄ってしまった。
「ロゼリア様?」
「あ、お嬢~。遅かったじゃないっスか~」
メロの軽口に付き合う余裕なんてあるはずもない。
あたしはそのままユウリの胸に飛び込んでいた。
「ぅえぇっ!? ロ、ロゼリ、アさまっ?! な、なに──……」
ユウリの焦った声が聞こえて、メロの唖然とした空気が伝わってくる。けど、あたしは何も言えなかったし、さっきのことを思い出して今更のように怖くなって震えてしまった。
普段なら絶対にこんな姿を誰かに見せたりしない。そもそもこんな目に遭うことはほとんどなかった。
震えなんて絶対に誰にも悟られたくないのに隠せもしない。
いつも通りでかい態度でいたかったのに一人で立っていることができなかった。
身の危険があったってだけでこんなに震えるのに、殺される間際はどんなに怖いんだろう。
あたしが震えているのに気付いたらしいユウリはおっかなびっくりという感じであたしの背中に手を回してきた。
「何かあったんですか? ロゼリア様」
何か言わなきゃと思って口を開こうとする。けど、唇が震えて言葉が発せなかった。
情けなさと恐怖からユウリの服をぎゅっと掴むことしか出来ない。ユウリがあたしの背中をゆっくりと撫でていった。その手に安堵してしまう。あたしはユウリを殴ってきたのに、ユウリがあたしに触れる手は優しかった。
あたしが何も言わないことを感じたのか、ユウリが少し体を動かした。多分メロの方を向いたんだと思う。
「メロ」
「え? あ、あぁ。なんだよ」
「ポケットに携帯が入ってるからジェイルさんに連絡してくれない?」
「──わかった」
メロがユウリの携帯を取り、ジェイルに連絡をしている──ようだった。あたしにそれを見て確認する余裕はない。
「あー、ジェイル? おれおれ。ユウリじゃなくておれ。は? いや、声でわかんだろ。ま、いーや。お嬢がさー、……いや、これから話すんだから黙って聞いてろって」
メロのセリフだけでどんな会話が繰り広げられているのかわかる。
ユウリが苦笑しているのが伝わってきた。その間も、あたしの背中を撫でる手は止めない。
「トイレにぶちまけられてたゲロ見て気持ち悪くなっちゃったんだって」
……は!? ちょ、なんてこと言ってんのよ!
あたしが、ってわけじゃないからまだいいけど、なんか、なんか嫌だわ……。
思わず顔を上げてメロを振り返ると、メロは悪戯っぽく笑って人差し指を口元に当てていた。見ればユウリも呆れた顔をしている。まぁ、そういう反応になるわよね。
「いやいや、今さっき清掃の人が入ってったし……。だからさー、デートはこれで中止。ユキヤくんにも伝えといて。お嬢が落ち着いたらそっち連れてくから、とりあえず待ってろって。は? わざわざこっち来なくていいって……それよりもすぐ帰れるように車回しといて。あと水買っといて。ってことで、また連絡するー」
ジェイルが何か言っているのが聞こえてきたけどメロは通話を切ってしまった。そして携帯をそのまま自分のポケットに入れてしまう。また自分から連絡するつもりみたい。
そのタイミングでトイレからアリサ──ではなく、小柄な清掃員がワゴンを押して出てくる。揃ってそっちに一度だけ視線を向けたものの、それだけだった。あたしが特に意識しないようにしたからか、ユウリはすぐに視線を逸らしてしまう。メロは一瞬だけ目を細めたけど、それも本当に一瞬のこと。
「ロゼリア様、少し休んでから移動しましょう」
トイレ出入り口から少し離れた場所にベンチがあり、ユウリがそれを指さした。
とにかく気分が悪い。上手く立ってられないって感じなのと体が震える。今にも吐きそうって感じじゃないのが幸いだわ。……これまでのあたしからすれば一大事なんだけどね。案外健康優良児だったから……。
ユウリに体を支えられるような格好で移動し、ベンチに腰を落ち着けた。
「……ご気分は?」
「よくないわ……」
「何があったのかは……」
「……。……ごめん、今はちょっと」
膝に手を置いて、ゆっくりと息を吐き出した。う、まだ手が震えてる……。震えを隠すつもりで両手を組んで、ぎゅっと握りしめた。
「変な女性に危害を加えられそうになったところをアリサに助けられた」というのが顛末ではあるのに、どうにも説明しづらいわ。アリサのことも言い辛いし、言わないで欲しいとは言われてないものの、やっぱり言い辛い。
メロとユウリが目の前に立って何か話していたけど、それが音になって聞こえてこなかった。やがて、何やら話がついたらしくて、ユウリがあたしの隣に座る。
何かと思って見上げるとユウリがあたしを見つめて少し緊張した面持ちで口を開いた。
「あの、よかったら肩を……」
「……ああ、ありがと。ちょっと借りるわ」
肩を貸してくれる、ということらしい。何かに凭れ掛かっていた方が楽だし、ありがたいわ。
あたしは何も考えずにユウリの肩に頭を預けて少しだけ目を閉じた。
──多分、そうしていたのは数分くらいだったろうけど、随分長い時間に感じられた。
そう言えば、メロとユウリとキキと遊んで疲れて……身を寄せ合って寝入ったこともあったっけ。今とは全然違う状況なのに、何故かそんなことを思い出してしまった。
そして、ゆっくりと目を開ける。
震えは収まったし、妙な気持ち悪さもいくらか薄らいでいた。
あたしの顔をメロが覗き込んでくる。
「お嬢、だいじょぶ? 何ならおんぶでもお姫様抱っこでもして運ぶけど」
「い、要らないわよ。自分で歩けるわ」
ちょっと引いちゃったわ。こいつがこんなこと言い出すなんて思ってなかったし、子供でもあるまいし人目のあるデパート内をそんな風に運ばれるなんて嫌すぎる……!
けど、心配そうなのは伝わってきた。
「気持ちだけ貰っておくわ。とりあえず、自分で歩けるから……」
「そお? ユウリは無理だろうけど、おれならお嬢のこと運べるからさー」
「……悪かったね、非力で」
メロの軽口にユウリがむっとした。確かにユウリは体力面ではさっぱりなのよね。
ゆっくりと立ち上がったところで足元がちょっとふらついてしまった。もう大丈夫だと思ったのに!
「っと、あぶね。お嬢、ほんと遠慮しなくていいんスよ?」
あたしの体を抱きとめて、メロが顔をもう一度覗き込んできた。
「もう大丈夫よ」
「いや、あんま大丈夫そうに見えないんスよ。ちょっと顔色も悪いし」
「そうですよ。あまり無理はなさらないでください」
思わず二人の顔を見比べてしまった。
なんでこいつら急にこんなに優しいの? なんかちょっと怖いわ。純粋に心配してくれてるっていうのは伝わってくるんだけど、あたしに対して優しくしてくるのがよくわからない……。
メロの腕の中からそっと抜け出して、二人をもう一度見つめる。
「ありがと。でも、……本当にさっきよりはマシになったのよ」
「そっスか。んじゃ、どうぞ」
そう言ってメロが手を差し出してきた。何のための手なの、これ。
「? 何、この手」
「いやいや、手ぇ繋ぎましょってだけっスよ。転倒防止、みたいな?」
「別にそんなの──」
「ロゼリア様。あの、本当に心配してるんです。これ以上何かあるとまずいですし、ここは僕たちの顔を立てると思って……」
メロもユウリも困った顔をしていた。
……なんか、『体調が悪い人には優しくしましょう』っていう親切の範疇な気がしてきたわ。あたしの考えすぎで、そこまで過剰に気にするようなことじゃないのかもしれない。厚意はありがたく受け取っておいた方がいいわよね、運ばれたくはないけど。
「わかったわ」
そう言って手を取ると、メロがほっとした様子を見せて表情を和らげた。




