108.異変①
あんまり時間をかけると変な誤解を与えそうだからささっと済ませなきゃ……。
そう思いながら早足になってトイレに向かった。
トイレから戻ったらジェイルたちに連絡しようかな。好きにしてていいわよ、って。買い物に誰かを付き添わせるのは普通のことだけど、遠くから見られていると思うと微妙に気になるのよね。
トイレに入ったところで、あたしの後に続いてやや壮齢の女性が入ってきた。いいとこのマダムって感じ。まぁ全然知らない人だわ。
と、思ってたんだけど……。
その人はあたしの顔を見るなり、ぱっと笑顔を見せた。えっ、なに、誰?
「ひょっとしてロゼリア様でしょうか?」
「え、……どちら様?」
全然見覚えがない。本当に誰?
あたしは身構えつつ必死で彼女を思い出そうとするものの全く思い出せなかった。
「お会いしたのは小さい頃ですし、覚えてなくても当たり前ですわ。クレア様には随分お世話になったもので……」
お母様の知り合い!? ますますわからないわ。
大体小さい頃に会ってたならあたしの記憶が曖昧でもしょうがない気がする。いや、どのくらい小さいかにもよるわね。というか、トイレに入りたいのにこんなところで話をしていたくないんだけど……。前世にいたおせっかいな親戚のおばちゃんみたいな雰囲気があってどうにもやりづらいわ。
そんな気持ちが伝わってしまったのか、彼女は「あら」と口元に手を当ててはにかんだ。
「ごめんなさい。こんなところでお話なんて……懐かしくて、つい」
「申し訳ありません。人を待たせているので、またお時間のある時にゆっくりと──」
「ええ、ええ。そうさせてくださいな。また、ぜひ」
そう言って彼女は手を差し出した。握手? トイレで?
いや、まぁ、入る前だしいいか……。とりあえず早く終わらせたくて手を出した。
指先が触れ合う直前、誰かが慌てて駆け込んできた。
「ロゼリアさまッ!! そいつから離れて!!!」
「えっ!?」
驚きの声を上げるのと同時に、目の前にいた女性めがけて新たにやってきた小柄な誰かが体当たりをした。女性の方は突き飛ばされて、壁にぶつかってしまう。壁が硬かったからか痛そうな音がしただけで大きな音はしてない。
一体何が起きたのかわからず、壁にぶつかって小さく呻く女性と、彼女を突き飛ばした相手とを見比べる。その子は清掃員の格好をしていて、トイレの出入り口には清掃用具が入っていると思しきワゴンが置いてあった。
「な、なに……?」
「そいつはロゼリアさまを狙ってます。こちらへ……!」
「っていうか、誰よ! あんたが怪しくないって証拠もないでしょ!」
こちらへ、なんて言われてもすぐに近づけない。予想外の出来事に心臓がバクバクしていた。
倒れてる女性もそうだけど、目の前にいる清掃員のことだって知らないし、どっちも信用できない。っていうか、本当に何なの? ゲームには全くないアクシデントだし、どう対応していいかわからない。
清掃員は帽子を目深に被っていて顔すらもわからない。
小柄で、どうやら女の子。声はどこかで聞き覚えが──……。
相手は何か言おうとして、すぐに思いとどまって俯く。やがて、意を決したように帽子のつばに手をかけて帽子を取り去った。
艷やかな黒髪に赤い目。
今日は体調不良だと言っていた白木アリサだった。
「アリ──いえ、アリサです。ロゼリアさま」
今自分のことを「アリス」って言いかけたわ。
そんなことに意識がいったけど、それ以上に謎すぎる。どうしてこんなことになっているのか。あたしはひたすら混乱していた。
「あ、あんた、どうしてここに……?」
「申し訳ありません。言えません。外にメロ、さんとユウリさんがいるので、お二人と一緒に別のお手洗いに移動をしてください」
「……いや、トイレはもういいわ」
行きたい気持ちは引っ込んでしまった。
アリサは倒れている女性に近づくとポケットから拘束具を取り出して、後ろに手を回させてそのまま縛ってしまう。
倒れている女性は本当に普通の人にしか見えない。
あたしの視線に気付いたアリサは彼女が持っているバッグを開けて、その場に中身をぶちまけた。
何故か注射器とアンプル、小さめのナイフ、手錠、ロープが出てくる。血の気が引くのを自分で感じた。こんな普通そうな人がこんなもの持ち歩く……?
「な、なに、それ……」
「隙を見てロゼリアさまに何かしたかったんだと思います」
「何かって……」
「……。……多分、連れ去りたかったのかと」
「な、な、なんで」
め、めちゃくちゃどもっちゃった。ぞわぞわと鳥肌が立つし、背筋が寒くなる。
だってこんなの全然考えてなかったし、アキヲが何かするかもって言ったけど全然本気じゃなかったもの! まさかこんなことになるなんて……。
アリサは黙り込んでしまった。どうやら言えないらしい。
「……申し訳ございません。その、現在色々と調査が、入って、まして……。
と、とにかく! ロゼリアさまの身の安全は、わたしが必ず守ります! 今日は、あの、ギリギリで怖い思いをさせてしまって申し訳ないです……こ、これからは、きっと、」
「ま、待って! 待って頂戴!」
思わず片手を前に出してストップをさせた。
ダメだわ、話に全くついていけない。っていうか、脳が処理を拒否しているって感じ。それでも何とか頭を動かす。
「アリサ、あんた……まさか、あたしの護衛? みたいな感じで派遣されてきたの……?」
アリサは逡巡した後に、ものすごく控えめに頷いた。
法で裁けない悪を暴いて裁くって感じの『陰陽』に所属しているアリサがあたしの護衛? なんで? 自分で聞いたものの全く繋がらなかった。
「それが全てではない、んですけど……それもわたしの仕事、です……」
「他にも仕事があるってことよね? それは何?」
「……す、すみません。これ以上は……」
ちょっと泣きそうな顔をするアリサ。小動物めいた仕草とは裏腹に手は動いている。
さっきの女性を拘束し、猿轡を噛ませて、更には目隠しまでしていた。て、手際がいい……! っていうかその人どうするつもりなの、ってあたしが聞くことではないんだろうけど……気になる。
「ね、ねぇ、その人どうするの?」
「……。……ひ、秘密です」
あたしとアリサは気まずい雰囲気で見つめ合ってしまった。
本当はこの場で色々と聞き出したいけど、段々気持ちが悪くなってくる。足元が覚束なくなって立っていられなくなりそう。床に転がっている注射器やナイフなどを見て、あのままアリサが来なくて握手をしていたら──と思うとゾッとした。あの時、よく見えなかったけど差し出されてない方の手はバッグに触れていたような気がする。見間違いの可能性もあるし、もう確かめようもない。
あたしは自分を落ち着ける意味も込めて、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、再度アリサを見つめる。
「……わかった。今はもう何も聞かないわ」
「ありがとう、ございますっ……!」
アリサがあからさまにホッとする。本当に表情豊かね。
「あんたの護衛任務はまさかこれで終わり?」
「いいえ、状況は落ち着くまではロゼリアさまの護衛を務めます」
「そう。じゃあ、椿邸には戻ってくるのね?」
「はい、必ず」
「わかったわ」
何故アリサがあたしの護衛なんてしてるのか、そもそも彼女の言う『状況』とは何なのか。
わからないことだらけだけど、戻って来るならいずれ聞く機会もあるでしょう。……今はもうあたし自身、これ以上対処しきれないわ。
そう思ってため息をつき、アリサに背を向ける。
「あ、ロゼリアさま……」
「何?」
「デートは中止をして頂けると……折角の買い物なのに、申し訳ないんですが」
肩越しに振り返ってアリサの言葉に瞬きを一つ。ふっと笑った。
「この状況じゃ流石にね。このまま帰るわ」
「はい、お気をつけて──」
「あんたもね」
そう言ってトイレを出る。
なんかどっと疲れた。こんなことになるなんて……想像つかないわよ……。




