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法務の鑑  作者: 鎌田啓一
2/2

Ep.2 就業規則とは就業するうえでの規則である

「瀬川さん、上海第ニ工場の吉村部長からお電話‥‥」

「今忙しい」

鎌田が言い終わるより先に瀬川がピシャリと言った。

「そんな冷たい言い方すんなよ、鎌田かわいそうじゃん。餌を取り上げられた豆柴みたいな顔してるぞ。」

米谷が向かえから口を出したが瀬川は書類から顔も上げなかった。

「買収案件で忙しいんです。それに鎌田ももう新人じゃないですから、少しくらい自分で対応すべきです」

「でも吉村部長の相手は大変だと思うぞー」

米谷が横目で鎌田を見ると必死にメモを取りながら受話器を片手に頷いていた。

「吉村部長の持って来る案件って法律の知識が微塵も役に立たないことが多いからなぁ、鎌田もかわいそうになぁ」

「そう思うなら米谷さんが手伝ってあげたらどうですか?」

瀬川が言うと米谷は「俺、欧米担当だから」といいながらパソコンに視線を戻した。

しばらく海外法務チームの島からは、鎌田の「はい」と「すみません」が交互に繰り返される音が響いていた。


ひとしきり長い電話が終わると、鎌田が話しかけてきた。

「吉村部長からのご相談は献血でした」

一瞬瀬川も動きが止まったが、米谷が身を乗り出して「なになに?それ面白そう!聞きたい!」と言ってきたのですぐに眉間に皺が寄った。

「政府からの献血の依頼が来たそうなんです。中国では各企業に献血量の割当があって毎年要望されるらしいのです。」

瀬川はちいさな声で「うん」と相づちを打った。

「例年は罰金を支払って終わらせていたみたいなんですけど、今年政府から金はいらないから血を提供しろって言われたらしくて。」

瀬川はだんだんと面倒臭くなってきて「で?」と鎌田を急かした。

「献血希望者を従業員から募ったら大量に希望者が出たので、人事に理由を聞いたら、就業規則に献血をしたら3万円くらい貰えて3日間有給休暇が与えられるって書いてあったらしくて。そんなルールにしないといけないのか、就業規則変えてくれと。」

「すごいな、その就業規則!それなら俺も献血したい!」と米谷がいう横で、瀬川はじっと机を見つめて何かを考えていた。

「上海第二工場の前の人事部長がちょっと問題がある人だったのよ、それで確か去年辞めてもらったんだよね。あの人が就業規則変えたのかな?大もとの就業規則はうちのグループのフォーマットを使ってるはずだから、そんな変な規定はないはず。鎌田、最新の就業規則取り寄せて人事と一緒に見直ししてもらえる?」

「わかりました!すぐ対応します!」

鎌田はそういうと一階下のフロアの人事部門へ走って行った。


就業規則とは、会社で働く従業員全員が守らなくてはならないルールで、通常だと何時から何時が就業時間か、休みを取る場合には何日前に上長の許可を取るように、等の働く上での注意事項が記載されている。入社の際に説明を受けたり、配られたりしているはずだが、実際にはあまり真剣に目を通していない人が多いのも事実である。

しかしいざ揉めた時にはこの就業規則が会社を守るものにも、従業員を守るものにもなり得る、非常に重要な規則である。


「...つまり従業員の中に指名手配犯がいたってことですね?」

瀬川の電話に海外法務チームの注目が集まった。

「はい...はい。二号館の生産ラインの従業員ですね?いつ入社したんですか?」

米谷が瀬川が手帳に書き込んでいる文字を覗き込む。

「上海第一工場」「二号館製造部入社半年」「強盗殺人」

の物騒な文字が手帳に書かれていた。

「取調べがこれからなんですね?はい...警察に要求されたら労働契約や入社の時の資料など包み隠さず全て提出してください。意図的に匿っていたわけではないということがわかれば、警察も会社に何か要求してくる事はないはずです。こういう場合の退職手続きは人事がわかっているはずですが、困ったら電話するように伝えてください。それよりも従業員に動揺が広がらないようなケアを人事にお願いしてください。....はい、警察に何か言われたらまたご連絡ください。」

「強盗殺人犯が工場にいたの?!」

電話を切った途端米谷が話しかけてきた。

「今逮捕されたらしいです。まあ、大ごとにはならないと思います。上海第一工場の人事も増井総経理もしっかりしておられるので。」

そういうと瀬川は次の仕事に取り掛かろうと書類の山をめくり始めた。


「鎌田は?昨日からずっと例の献血の就業規則の件やってんの?」

米谷のデスクからコーヒーの香りが漂ってきた。

「そうです。献血以外にも色々と問題のある就業規則だったので全面改訂をするように今、人事と会議室に籠ってやってもらっています」

「色々問題って例えば?」

米谷の顔は明らかに楽しんでいた。

「米谷さんを楽しませたいとは微塵も思っていないんですけど、例えば産休が6年取れる規定になっていて。」

「ろくねんっ!!」

流石の米谷もそれ以外に言葉が出てこないようだった。

「実際に従業員は6年取っている人も多いらしいんですけど、日本人の出向者が2年とか3年とかで帰ってしまうので6年もとってる人がいる、なんてことに気づかなかったらしいんです」

「なぁなぁ、中国って確か定年が早いんじゃなかったっけ?50歳とかだよな?だとしたら大卒で22歳で入社して、すぐ妊娠して産休取って、6年経って復帰する前にもう1人妊娠して・・・を繰り返したら?5人産んだら入社してから一回も出社せずに定年退職できるかもしれないってことだよな!それ凄いな!!」

米谷が興奮してきたので瀬川はため息をついた。

「鎌田が苦戦しているみたいなので米谷さんも相談に乗ってあげてください」

「相談には乗らないけど、話は聞くわ!」

米谷は楽しそうにコーヒーを啜った。


買収案件のペーパーワークに追われていると、昼過ぎに瀬川の携帯に蘇州工場の川上部長から電話が入った。

「瀬川さん、今日入社した人間をクビにしたいのですが相談に乗ってもらえますか?」

川上の声は明らかに疲れていた。

「何がありましたか?」

川上は中国暦も長く、中国語も堪能で大抵のことは自力で解決するのであまり法務に電話をかけてこない。その川上が堰を切ったように話し出した。

「今日入社した営業の子なんですが、採用した人物と違うんです」

「・・・・はい?」

珍しく瀬川が戸惑ったので、米谷が向いのデスクから視線を向けてきた。

「先月面接をした時、営業部の課長と人事のスタッフとが対応をして、最後に僕も少し面接したんです。経歴的には求めていたスペックに少し足りなかったのですが、とても人当たりが良くて優秀そうだったので採用したんです。そうしたら今日入社してきた人が面接の時の人と別人なんです」

「・・・・はぁ」

「あなた違う人ですよね?と何度も言ったのですが、絶対に自分だと言い張り、面接の時は病み上がりで顔が浮腫んでいたとか、声が枯れていたとかはいうのですが、絶対に自分だったというのです。口裏を合わせているようで、面接の時に出た雑談の内容まできちんと言えるんですよ!」

段々と川上が興奮してきたのが伝わった。

「あの、それでも絶対に別人ですか?」

瀬川が確認をすると

「絶対にこの人ではないです!」

と川上が強めに否定した。おそらく朝から今まで押し問答を続けていたのだろう、川上の声に疲労感が滲み出ていた。

「なるほど、それでその人をクビにしたいと。別人だということを証明できるものがないということですよね?採用の時に提出させた履歴書に写真は付いてなかったんですか?」

「付いていませんでした・・・」

「監視カメラはありますよね?」

「顔まではハッキリ写っていませんでした。背格好も髪型も似たような感じで・・・」

「なるほど、確信犯なんですね」

「そうなんです!それが腹立たしいんです!瀬川さん、何とかしてクビにできますか?」

瀬川は少し考えてゆっくりと話出した。

「川上部長、もうご理解いただいているとは思うのですが、現状を鑑みるとかなり不利な状況です。今彼を解雇したとして、彼が労働仲裁などの法的手段に出ると我々は彼を解雇するに値する事実を仲裁員や裁判所に証明しなければなりません。つまり、面接を受けた人物と入社した人物が異なることを証明できなければ、裁判所から再雇用の命令が出てしまうリスクもあります。」

「就業規則には、会社に虚偽の申告をして入社した場合には採用取り消しにできる、と書いてあります!」

「川上部長、それは大学名を偽ったり持っていない資格を持っていると申告をしたようなケースを想定しています。今の一番の問題は“虚偽の申告をした”ということを我々が立証できないことにあります。」

電話口で川上のため息が聞こえた。

「・・・川上部長、今その彼はどうしているんですか?」

「会議室に1人でいます。我々もどうしたら良いのかわからず。」

「もうすぐお昼の時間ですよね?その彼、出身はどこなんですか?同郷の方は従業員にいますか?」

「確か・・・西安の近くの三国志で有名な場所だっていう話をしていました・・・!営業3課の課長が同じ出身地だという話で面接の時に盛り上がったんです!彼に会議室に行かせます!ありがとうございます!また連絡します!」

合点した川上は慌ただしく電話を切っていった。


ひと段落ついて瀬川がペーパーワークに戻ろうとしたとき、鎌田が大量の書類を抱えて帰ってきた。

「お!献血規則!調子はどうだ?」

米谷が嬉しそうに鎌田を出迎えた。

「瀬川さんの予想通りで、前の人事部長が就業規則を丸々改訂していました。就業規則が見たことないような規定でいっぱいで・・・どうしてこんな規定が入っているのかがわからないものが結構あって。相談に乗ってもらえますか?」

鎌田が小さくなって瀬川に聞いてきたが、瀬川は鎌田の顔を見ようとはしなかった。

「例えば?」

「ここです、就業規則第56条 出社の時に下半身を裸で通勤してはならない。これってどうして出社の時だけなんですかね?しかも下半身だけなんですよ。上半身裸はいいんですかね? あ、あとこの64条もです。インターネット上に上司の悪口を書いてはならない。部下の悪口はいいのかな?とか・・・」

瀬川はスクっと立ち上がると

「米谷さん、鎌田をよろしくお願いします」

と言い残してその場合を去っていった。

後ろで「瀬川さん?え?」と戸惑う鎌田の声と、「退勤のときも下半身裸はマズイよな!それも書こうぜ!」という米谷の声が響いていたが、瀬川は心を無にして聞こえなかったことにした。



デスクに戻ると鎌田がおずおずと話しかけてきた。

「瀬川さん二件お電話がありました」

瀬川は鎌田に顔を向けずに席に座るとパソコンを立ち上げた。

「1件目は上海第一工場の増田総経理で、逮捕された強盗殺人犯なんですが、恋人が上海第一工場にいて、彼女が意図的に匿っていたそうなんです。」

瀬川は驚いて鎌田に向き直ると、「それで?」と聞いた。

「それで、あの・・・その恋人を解雇しようとしたら、えっと「就業規則に強盗殺人犯を匿ってはいけない」とは書かれていないから不当解雇だと言われたと、増田総経理が仰っていて・・・」

瀬川が「それで鎌田は何て答えたの?」と聞くと

「あの、犯人隠避は就業規則ではなくて刑法上の罪なので警察に通報してください、とお願いしました。その上で逮捕されたら罪はもう認めているのでそれを以て解雇するように人事に伝えてくださいと・・・」

鎌田の声がだんだん小さくなるのに対して、瀬川は少し頼もしくなってきた新人を見つめて「いいんじゃない?」といった。

瀬川が自分のデスクに向き直ろうとすると、鎌田が呼び止めた。

「あ、あともう一件、蘇州工場の営業3課の李課長からもお電話でした。」

「蘇州の李課長?ああ、どうなったって?」

瀬川が聞くと、鎌田はメモを見ながら不思議そうに言った。

「えっとー、瀬川さんに五常の徳が効きましたってお伝えください、と。五常の徳って三国志に出てくるあれですよね?義とか仁とか・・・これ、何の話ですか?」

瀬川はふっと笑って

「就業規則は万能じゃないってことよ。」

というとペーパーワークに戻った。


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