Ep.1 取引基本契約とは取引の基本である
世間一般ではあまり知られない「法務」という存在。
大企業くらいにしか存在せず、会社の中でも「法務?契約書作ってる人たち?」というくらいの認識しかない人が多く、その実態はあまり知られていない。
しかし、社内でもごく少数の人は「すべての仕事はまず法務に相談してから」というくらい愛用し、一度ハマると抜けられないという抱き枕のような存在として知られている。これはそんな法務マンたちの日々の戦いの話である。
メーカーで法務に配属になると避けて通れないものに取引基本契約がある。メーカーとはモノを作って売る、が基本ビジネスなので大量の製造に関わる原材料や補材(商品に直接組み入れられるものではないけれど商品構成に必要なもの、例えばお弁当に入っている緑の草モドキなど)の購入が必要になる。数千数万社に亘るサプライヤーから超大量の仕入れが継続反復的に発生するため、多くの大企業では「取引基本契約」という雛形を作成してサプライヤーに提示して締結し、日日の取引は注文書だけ、というやり取りで済ませることが多い。ところが、この取引基本契約は雛形とはいっても基本的に自分に有利な内容で作っているため、サプライヤーから修正を要望されることも多い。一日に数十件飛んでくる修正要望への対応は法務部の中でも若手の仕事で、体力と精神力を要する業務である。
「瀬川さん、上海第2工場の吉村部長からお電話です。」
鎌田から電話が回ってきた。
「せがわぁ?おい!大変なんだよ!」
電話口で吉村の大きい声がした。
「今日な、工場の非常口コチラのあのマークあるだろ?緑の走ってるマークのやつ。あれのな、矢印を辿ってみたんだよ、どこの出口に出るんかなって思って!そしたらな、何とな!一周したんだよーあっはっはっはー!それって法的にまずいよな?な?」
「法的にどうこうという問題ではなくて、いざ非常時に脱出できないと困りますよね?業者呼んで直してください。早急に。」
言い終わると同時に電話を切った。吉村は優秀だが、よく意味不明な案件で電話をかけてくる。法務への電話は深刻なトラブルの一報で一刻を争う場合もあるため、どんなときも一回出るように、と新入社員のときに教わったのを実践しているが、吉村からの電話は50本に1回しかまともな相談はない。
「何か悩んでる?」
米谷が自慢の高いコーヒーの香りを振りまきながらデスクの向こうから覗いて鎌田に話しかけた。
「いやー大した話じゃないんですけど、取引基本契約でH社から条文の追加要請があったんですよ。追加したい内容自体は別に書いても書かなくてもどっちでも良い内容だったので、まあ先方が書いて欲しいっていうなら追加してあげたら良いと思うんですけどね...条項が第53条なんですよ。」
「取引基本契約の雛形って確か全部で50条じゃなかった?なんで53条なの?」
米谷が眉間にシワを寄せている。
「間違いだろうなって思ったので“内容は追加OKですけど51条ですよね?”って返信したら、H社から“53条じゃダメですか?”って聞かれてるんですよ...」
横で瀬川が小さく「は?」と言ったのが聞こえた。
「第50条の次が53条でも良いのかなって思ってたところなんです。」
鎌田は自分で言いながら、くだらない話だなと思って少しため息が出た。
「51条と52条が抜けてることによるリスクってこと?お!51条と52条どこだ?!炙り出しか?引っ掛け問題か?!って契約書見た人が混乱することとか?!どうせなら2条分くらいスペース空けておいたら炙り出しかも!って思う人増えるんじゃね?」
米谷が楽しそうに笑った。
「鎌田、それって普通に50条の次に51条と52条書いて内容のところに“削除”って書いておいたら良いんじゃないの?」
瀬川の眉間にシワが寄っている。
「おい、瀬川。俺はそんなつまらない回答を求めてないぞ。もっと真面目にリスク考えろよ。」
米谷は楽しそうにこの話に食いついてきた。
「米谷さん、炙り出しってネタが昭和です。」
瀬川は面倒臭そうに米谷をあしらった。
「何で53条にしたいんですか?ってもう一回返してもいいんですけど、その労力が勿体ないからもう53でいいですよって言おうかな、でも本当にそれで良いのかなって思っていたところなんですよ。」
「いいねぇ、そういう話大好きだよ!鎌田、51条と52条を独自で作って資本主義に基づく取引とはどうあるべきぞ、みたいなこと書くのはどう?俺文言考えてあげるし。」
米谷が嬉しそうに鎌田の席に近づいてきた。
「米谷さん、鎌田に構わないでください。鎌田も、くだらないこと言ってないで、広州工場の修正定款のドラフトも早く出して。」
瀬川に叱られて米谷は残念そうに自席に戻って行った。
「瀬川さん、もう一件ちょっと困った修正要望が来てるんですけど」
鎌田が少し申し訳なさそうに書類を持ってきた。
「契約書の準拠法をフランス法にしてくれって言われてるんです。。。」
「は?」
米谷と瀬川が同時に声を上げた。
準拠法とは、締結する契約書がどこの法律に基づくか、という意味で契約書の中に「この契約書は日本法に基づきます」と書いてあればその契約書の中身は日本の法律に基づくし、「タンザニア法に基づく」と書いてあればタンザニアの法律に基づいて解釈される。通常、日本国内の取引であれば日本法を適用するが、契約書に記載して両者が合意すれば別の国の法律を準拠法とすることもできる。
「何の取引なの?何でフランス法?」
眉間にシワを寄せる瀬川と裏腹に米谷は「面白くなってきた!」とコーヒーを持って近づいて来た。
「フランスに本社がある電子部品のE社の日本子会社から部材を購入してるんです。取引は日本法人との間の取引なので国内取引でフランスは特に噛んでないんですけど、契約書の修正要望のやり取りをしているE社の担当者の人がいうには、E社の法務担当がフランス法でないとだめだって言ってるらしくて。」
鎌田の声がだんだんと小さくなってきた。
「日本国内取引に関する日本語の契約書をフランス法に準拠させたいと?本当に先方の法務がそう言ってるの?」
国内取引にフランス法を適用させることが不可能なわけではないが、司法制度も商慣習も異なるフランス法を日本国内取引に適用させることによる弊害が発生するリスクが高く、法律の知識のある法務がそんなことを言ってくるのには違和感があった。
「先方はフランス法にこだわる理由は何か言ってるの?何か利点があるのかしら。」
鎌田は資料をめくりながら首を横に振った。
「準拠法のところについては何もコメントはなくて、ただフランス法にしろとだけ。E社は修正要望が多くて、準拠法以外の箇所についてもいくつか争点が残っているので来週E社の担当者に法務を連れてきてもらうようにお願いしているんです。その会議一緒に出ていただいても良いですか?」
瀬川はため息混じりに「わかった」と言ったものの、胸の奥がモヤっとした。
“近藤真理 E社法務部部長 フランス法弁護士”
名刺には確かにそう書いてあった。40代後半の女性。しかし、会議が始まってからも近藤部長は一向に話に入って来ず、専らE社の営業担当者が鎌田とやり取りをするだけで会議が進んだ。そして他の条項について全て合意することができて、漸く準拠法の条項について話題を降ると、営業担当者は「僕ではわかりませんので」と言って近藤に書類を渡した。
「オゥ!ウィ、ホリツノオハナシデスーネ」
近藤が喋りだした途端、瀬川と鎌田の二人だけでなく、その隣に座っていたインダストリー事業部購買担当の三枝課長が固まったのが空気でわかった。
「はい、準拠法をフランス法をご希望と伺っているのですが、日本法人同士の取引で日本国内の取引ですので、日本法とするのが妥当かと当社では考えているのですが…」
鎌田がおずおずと話をするとおフランス近藤部長はフフフ、と笑った。
「あの、英語でのやり取りのほうがよろしければ英語にしますか?」
近藤部長が答えないのを見て横から瀬川が口を出した。
「ノンノーン!ワタシエイゴキライデスネ、ニホンゴワカリマス。」
不機嫌そうにそう答えた近藤部長はパラパラと契約書をめくりながら
「ニホンノホリツ、ダメネ。ファッショナブル、ジャナイネ。」
と言った。
「はい?」
鎌田の頭の中で「日本の法律はファッショナブルでない」が反芻して脳みそが混乱した。
「取引の実態に即した法律を準拠法とすべきと当社では考えるのですが、フランス法にこだわられる理由は何かあるのでしょうか?」
近藤部長のパルプンテ攻撃に脳みそをやられた鎌田に替わって瀬川が聞いた。
「トリヒキのケーヤクショ、フランスホウダケオッケーデスネ、ニホンノホリツ?ンーノンノン!」
話にならないな、と思った瀬川がチラリと鎌田を見ると鎌田は火星人に出会ったような表情で固まっていた。
「わかりました。どうしてもフランス法にこだわられる、ということであれば、この条項の修正案に当社としては同意しかねますので、本日はここまでにして再度両社内で検討し、継続協議する、ということにさせてください。」
「瀬川さん、僕、いまとても戸惑っています。。。」
小さくなっていくおフランス法務の背中を見送りながら鎌田が呆然と呟いた。
「戦略的放置ね。」
瀬川が小さく答えた。その瞬間小さくなったE社の二人が再度振り返って会釈をしてきたので瀬川と鎌田は深々と頭を下げた。
「放置ですか?どうするんですか?放置って?」
漸く二人が見えなくなったところで鎌田が食いついてきた。
「あの感じだと何を言っても無駄でしょ?フランス法を準拠法にするか契約締結しないかの二択よ。」
「でも取引は始まっちゃってます!」
瀬川は小さくため息をついた。
「鎌田。契約書がないと取引は成立しないの?」
いえ、と小さく鎌田が答えた。
「契約書は何のためにあるの?」
瀬川が真っ直ぐ鎌田の目を見て聞いた。
「取引におけるリスクを排除して事業を守るためです。」
「じゃあ今取りうる最善の策は?」
三秒間があって鎌田が「あ」と小さく声をあげた。
「なるほど!契約を締結していないからもし裁判になると行為密接地として日本法が準拠法になる可能性が高いのか!」
無表情の瀬川の口角が少し上がった。
意外と知られていないが、契約は当事者双方の意思の合致があれば成立をする。契約書の有無は関係ない。
しかしいざ取引が揉めたときには双方がどういう取り決めをしていたか、その取り決めに対してどっちが違反したのか、が問題になる。契約書がないとその場合にどうしても「言った」「言わない」の問題が発生する。
しかし、取引基本契約の内容については先方との間ですでに何度もメールでやり取りをしており、準拠法以外の条項については内容の合意ができている。つまり準拠法以外については「当事者間の意思の合致」ができていることをメールのやり取りで証明することができる。
「今日の打ち合わせで合意できた箇所を契約書に反映させて、準拠法のところについては“当社としてはフランス法に同意できず、再度双方社内で歩み寄りを検討”と記載してメールしておきます!」
鎌田が嬉しそうに胸を張った。
「あの、鎌田さん。E社のこの件はもうお任せして良いということですよね?」
三枝課長が覗き込んで来た。
「大丈夫です。今日中に私から先方へ返信をしておきます。今回E社とは契約締結をしないことになりますが、上の方から“契約締結まだじゃないか!”って言われるかもしれないので、そのときに三枝さんが出せるように、今回は戦略的に契約締結しません、という法務の見解書を社内文書として作成してお届けしますね。」
荷物をまとめた瀬川と鎌田ががそれでは、と挨拶をして立ち去ろうとしたところ、三枝課長から呼び止められた。
「あ、そういえば鎌田さん!H社の修正要望の件なんですけど。」
「H社?あ、あの53条にしたいっていう要望ですか?」
鎌田が足を止めて三枝課長に向き直ると、三枝課長は真顔で
「ラッキーナンバーだそうです」
と言ってきた。
「は?」
瀬川と鎌田は同時に聞き返した。
「どうしても53条がいいって言い張るので、昨日別件でH社の担当者が来られたときに聞いてみたんですよ。そうしたらH社のラッキーナンバーっていうのがあって、それが53らしいんです。だから53条にしたいと。53条で、良いですかね?」
「…いいと思います。」
折角クリアになった鎌田の脳みそが再度混乱するのが後ろ姿だけでも見て取れた。
法務部へ戻ると米谷は机の上でコーヒー豆を調合していた。
「おかえりー!解決したかー?」
視線をコーヒー豆から外さずに米谷が聞いてきたが瀬川も鎌田も答えなかった。
「瀬川さん…僕はまだまだ修行が足りないですね…」
「修行の問題じゃないでしょ。」
若干落ち込み気味な鎌田と対照的に瀬川は淡々としていた。
「なんだなんだー?なんか暗いぞ、二人とも!53条にこだわってた理由わかったか?会社のラッキーナンバーか何かか?」
瀬川と鎌田の動きが止まって米谷を見上げた。
「ん?」
米谷が不思議そうに二人を見返してきた。
「…鎌田、訂正するわ。私達は二人とも修行が足りていない。」
「僕もそんな気がします…」
二人が静かにパソコンを開いて通常業務に戻る中、何が起こったかわからない米谷がしつこく「なんだ?なんだ?」と聞いてきていた。
「瀬川さん、上海第二工場の吉村部長からお電話です。」
本日二度目の吉村コールだ。疲れているときの吉村の電話は極めて出たくない。
「せがわぁ?お前に言われてさ、すぐ業者呼んで緑の非常口コチラ看板直させたんだよ!でさ!ちゃんと直ったか確認しようと思って辿ってったらさ、非常口にちゃんと辿り着いたんだけどよ、なんと!その非常口にでっかい南京錠がかかっててよー!あっはっはっはー!なぁ、これって法的にマズ...」
聞くに耐えず、吉村が言い終わる前に電話を切った。
「吉村さん何の用事でした?」
横から鎌田が声をかけてきた。
「ん、何の用事だったか忘れちゃったんだって。」
瀬川は心の中で、今日の就業後、工場を出たところで吉村がバナナの皮を踏んで豪快に転ぶ呪いにかかるように何度も念じた。