87話 本気になれる理由なんて人それぞれ
美玖もそんな春人の変化に顔を上げお互いに目を合わせる。
「見ててくれ。勝ってくるから」
自信に満ちた瞳で美玖を見つめる。美玖は春人の言葉に、はっと目を丸くするもすぐに笑顔を浮かべる。
「うん、見てるよ」
柔らかく微笑む美玖は香奈たちの元に戻っていく。
そんな美玖の後ろ姿を見送りながら一度、深呼吸して気持ちを切り替える。
「すーーー……はーーー……よし」
春人は息を整えコートのベースラインに立つ。
「随分と長かったな。負けたときの言い訳でも考えてたのか?」
相変わらず春人を挑発するような言葉を並べるが今の春人はもう何も感じない。心は波の立ってない水面のように、しーんっと穏やかだった。
そんな反応のない春人に北浜は舌打ちをして不機嫌さを露にするが春人のサーブのフォームを見て顔色を変える。
(あん?なんかさっきとちが――)
打ち込まれたボールは北浜が反応もできず横をすり抜けた。
「は?」
後方を転がるボールに気づいてやっと北浜は今何が起きたかを理解し唖然と口を大きく開ける
「お、おい審判!今のボール入ってんのか!?」
「え?えーと入ってると思うけど……」
審判を務める生徒も曖昧に返事を返す。それほどまでに春人が打ちこんだボールは速かった。
「そんないい加減な判断でいいと――」
「入ってたぞ今の」
体育教師の田中が二人の話に割って入る。
「佐藤、審判を変わろう。流石にこんな試合の判断は酷だろう」
「あ、はい。ありがとうございます」
審判台の審判の交代を行っていると次第に周囲も現状を理解し始めた。
「え?今のボールすごいスピードじゃなかった?」
「お前テニス部だよな。サーブってあんなもんなの?」
「んなわけねえだろ。あんなボール怖くて取れるか」
生徒たちの中で動揺が大きくなっていく。
そしてそれは美玖たちも一緒だ。
「すんげー春人!なにあのサーブ!ギューンって!」
「香奈さんテンション上がりすぎ。語彙力下がってる」
「でもほんとにすごい。私見えなかった」
「美玖がラケット渡してからだよね。何したの?」
「何って別に特別なことは――」
「特別じゃないことはしたんだ?」
香奈の誘導尋問に見事に引っかかる。美玖は、むっと唇を尖らせる。
「香奈……」
「いや、ただ聞いただけじゃん。そんな顔しなくても」
「それで美玖さん兄さんに何したの?」
「そんな別に……ただ、勝ってって言っただけで……」
「へー、美玖の言葉に応えて春人が本気になったと。愛の力だね!」
「あっ!愛って!?何言ってんの香奈っ!?」
いきなり恥ずかしいことを口走り始めた香奈に美玖は声を荒げて抗議する。
「えー、だってなんかよくない?この方が」
「何がいいのかわかんないけど!?バカなこと言わないで!」
「美玖さん真っ赤で可愛い」
「琉莉ちゃん!?」
ストッパー役の春人がいないので香奈と琉莉が好き放題にしている。そこに挟まれる美玖は慌てふためいていた。
「へ~、そんな感じなんだ」
美玖たちの後ろから梨乃亜が三人の様子を観察していた。興味なさげな雰囲気を醸し出しながらもしっかりと三人を見ている。
審判の交代を終え再び試合が再開される。
北浜は春人へとキッと視線を向ける。
(くそっ!さっきは油断してただけだ!そうそうあんなサーブが入るわけ――ッ!)
春人がラケットを振り抜くとコートに入ってバウンドしたボールはもう北浜の目の前だ。
必死に体勢を捻りボールを避けた。
「はっ……はー、はー……」
あわや身体に当たるところだった。状況を理解し北浜は声を荒げる。
「てめぇっ!今狙いやがったな!」
北浜は目を見開き春人を睨む。だけど春人はそんな北浜の激昂を意に介さず至って落ち着いた口調で返す。
「あ、悪い。見てなかった」
「……は?」
春人の返答に北浜は口を開け固まる。本当に気づいていなかったのか春人は不思議そうに北浜を見返した。
(見てなかった?は?見るまでもなかったってか!)
更に北浜の怒りのゲージが上がっていく。最早冷静さを欠いていた。
(はっ、そっちがその気ならこっちだって考えがあるんだよ!惨めに徹底的に負かせてやる!)
息巻く北浜とは対照的に春人は落ち着いていた。
(あーなんだろう。さっきまでと違って身体が軽いな)
春人はサーブを打ち、返ってきたボールを北浜のいないスペースへ打ち返すと北浜は必死にラケットを伸ばすが追いつけない。
すると審判となった田中の声がコートに響く。
「40-0!」
打ち上がったボールを北浜のコートに叩きつける。
「ゲーム1-3!」
北浜が打ったサーブに春人は難なく追いつく。
(遅いな……さっきまであんなに速く思えたのに)
「0-15!」
ラリーになっても必死にコートを走り回る北浜に比べ春人は軽いステップを踏みながらボールに追いつく。
(当たり前か。さっきまで負けてもいいとか考えてたんだから)
春人のバックハンドからの鋭いボールがコートを駆ける。
「ゲーム3-2!」
(そんな気持ちで試合してても勝てるわけねえよな)
「ゲーム5-3!」
みるみる春人が追い上げ気づけば点数は逆転していた。
「はー、はー、はー……」
北浜は膝に手をつき息も絶え絶えに春人を睨みつける。
(なんなんだ!なんなんだよこいつはっ!)
手にしたラケットのグリップを力任せに握る。
(こっちはわざわざ体育の予定を聞きだしてテニスの道具に部活の練習だって参加してたんだぞ!それがこんな今日始めた初心者に!)
歯をギリっと欠けるような力で噛み締める。
もう完全に北浜は怒りで冷静さを失っていた。
スポーツをするうえで怒りの感情は邪魔でしかない。その証拠に春人の動きは最初のピークを境に急激に低下していた。
ろくに運動をしていない春人がテニスの一セットの試合にスタミナが続くはずがない。
落ち着いて対処できれば北浜にだって勝てる見込みは十分にあった。それを自分自身で潰したのだ。
春人の打ったボールを北浜は打ち損ね打ち上げる。
「しまっ――!」
目を見開きボールを追う北浜の瞳に春人が映りこむ。
上がったボール目掛けて春人が跳躍する。高く上がったボールにラケットを振り下ろしインパクトの瞬間に一気に力を込める。
反応する暇もなく、ボールは北浜のコートに叩きつけられ勢いそのままにコートの外まで跳ねていった。
「ゲームセット!」
田中先生の声が校庭に響くと同時に生徒達から割れんばかりの歓声が上がった。
美玖たちもお互いに手を打ち合わせながら飛び跳ねて喜びを表している。
「すごいっすごいっ!勝ったよ美玖!」
「うん!よかったーほんとによかった!」
「ふふ、さすが兄さん」
琉莉が口角を少し上げ不敵に笑顔を作る。さながらどこかの闇の幹部的な雰囲気を醸し出す。この状況を一番楽しんでいるのは彼女かもしれない。
そんな歓声鳴りやまないコートの中心で北浜は両膝を地面につき地面を睨みつけていた。
(くそっ!なんでだ!なんで俺がこんなやつに!)
罵詈雑言を唱えながら奥歯を噛み締める。
こんなはずではなかった。一方的に叩きのめして生徒たちの前で恥を晒してやるつもりだった。
なのに結果として今生徒の前で惨めな姿を晒しているのは北浜だ。受け入れ難い現実に北浜は地面を叩きつけた。
春人はそんな北浜を一瞥してコートから離れる。負けて悔しがっているやつの姿を見て優越感を感じる趣味はないし今は速く会いたい人がいた。
春人は美玖たちがいる場所に戻る。真っ先に目に入った美玖に春人は声をかけた。
「勝ったよ」
なんだろうか。言ってて少し恥ずかしい。見てたのだからわかるだろうと思う。
でも美玖はそんな春人の心境とは裏腹に形相を崩す。
「うん、見てた」
嬉しそうなその笑顔に春人は試合終了後の高揚感とは別の心の高鳴りを感じた。
自然と笑顔が溢れ二人で見つめ合い表情を崩す。
「ちょっと。な~に二人でいい雰囲気出してんのさ」
香奈がジト目で春人たちに視線を向けていた。春人はしまったと頬を引きつる。周りの状況を全く気にしてなかった。
「別にただ話してただけだろ」
「へー、あたしたちもいるのにわざわざ美玖にだけ、へ~」
「いや、その、悪かったよ」
別に悪いことはしていないはずだが少し罪悪感が湧いてきた。
「兄さんお疲れ様」
「ああ、サンキュー……なんだよ?」
琉莉が何か言いたげに、じーっと視線を向けてくるので春人は訝しげに眉を顰める。
「兄さんなにかあった?」
「は?なんだよほんとに」
「なんか試合前と違ってすっきりした顔。なんか吹っ切れたような」
春人は少し驚く。この妹はよく自分のことを見ているなと。北浜との試合の途中で確かに春人は今回の勝負に対して考えを変えた。吹っ切れたという例えは一番しっくりくる。
「そうだな……少しこの勝負に前向きになったよ」
「……そうか」
琉莉は春人の言葉に満足したのか少し口元を和らげ、それ以上聞いてくることはなかった。
とりあえずこれで一勝だ。問題は次の知力での勝負。正直こちらは勝てるビジョンが見えてこない。それでも勝つと決めた以上はやれるだけのことは春人はやるつもりだった。




