7話 天使の微笑みと悪魔の嘲笑
高校に入学してから二ヶ月近く経つと大分気温も高くなってきた。外で軽く運動しただけでも汗ばむほどだ。
そんな温度の変化を春人が厭わしく思っていた。
「はー、体育めんど……」
大きくため息をつき春人は肩を落とす。進んで身体を動かすことがない春人にとっては体育は嫌いな教科の一つだった。
「えー、いいじゃん体育。勉強してるより全然よくないか?」
「そこは同意するけど、俺は谷川みたいに運動ができるわけでもないからな」
「……お前、学校始まって最初の体力テスト確か学年三位だろ。なんだ?嫌味か?バカにしてんのか?」
「してねえよ。体力テスト何て決められたことやってるだけだからある程度はできんだよ。でもスポーツとなるとないろいろその場で判断しないといけなくなるだろ?俺そういうのは無理」
「おー?なんかわかるようなわからんような難しいこと言うなお前」
「谷川は難しいこと考えなくていいよ。どうせわからんし」
「やっぱ馬鹿にしてんだなお前!」
掴みかかってきた谷川の両手を掴み押し合いの力比べをしていると後ろから声を掛けられる。
「兄さんちょっといい?」
「は?……え?お前なんでいんの?」
肩越しに振り返って春人は驚愕する。もう授業も始まるというのに目の前に琉莉が現れたのだしかも――。
「なんで体操服着てんだ?次の体育俺たちだぞ?」
「兄さんこそ話聞いてなかったの?今日は私たちのクラスと合同授業だよ」
琉莉に言われて朧げな記憶を辿る様に視線が泳ぐ。確かにそんな話があった気がしてきた。春人が記憶の海を彷徨っていると両手を掴まれた状態の谷川が目を丸くしていた。
「え?百瀬兄妹いんの?しかも百瀬琉莉……」
「ああ、琉莉、こいつは俺のクラスの谷川修也だ。谷川は知ってんだな琉莉のこと」
「知ってるに決まってんだろ!百瀬琉莉なんて一部の男子にはかなり人気があるんだぞ!その小柄で愛らしい顔は男子の庇護欲を嫌でも刺激されるんだ!」
「あ、ああ、そうか……」
興奮して熱くなってきた谷川を余所に春人は琉莉へ視線を向ける。
(こいつが男子に人気があるー?んなあほな)
毎日お菓子やジュースを飲みながらソファに寝転がってゲームをしてるようなやつだぞ。女子としての色気も全くないこんな妹がモテるなんて春人はにわかには信じられなかった。
眉を顰め疑わしい目を向けていると琉莉がにこっと笑顔を作り口を開く。
「初めまして谷川さん。春人の妹の琉莉です。いつも兄と仲良くしていただきありがとうございます」
「そ、そ、そんな、な、仲良くだなんて……僕の方こそ、は、春人君には仲良くさせてもらって」
春人は苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
(うわあぁぁ、谷川お前……きょどりすぎてキモいぞ)
友人の痴態を目にし春人は谷川から一歩離れ距離を取った。
(にしても、ほんと見事に猫被ってんなこいつ)
学校での琉莉の変わりように感心してしまう。もし家での琉莉の姿を見たら何人もの男子が涙を流すだろう。本当に罪づくりな女である。
「すみません谷川さん。少し兄のこと借りるね」
「ど、どうぞどうぞ!こんなのでよければいつだって」
「こんなのとか言うんじゃねえよ。俺はお前のものでもねえし」
「おまっ!変なこと言うなよっ!百瀬さんが勘違いしたらどうすんだよっ!」
「お前が勘違いすんな!何考えてんだ!」
再び谷川と騒ぎ始めるとくすくすと琉莉が笑う。
「ふふふ、谷川さん面白い人だね」
「っ!あ、あーいえ、そんな……」
顔を赤くしながら頭を掻いて照れる谷川を気持ち悪いと思いながら春人は冷めた視線を琉莉へ向ける。
(こいつ……絶対面白がってんな、男心をそんな弄んで楽しいのか……)
天使のような微笑みを浮かべる琉莉だが、春人には悪魔の嘲笑にしか見えなかった。
「それでは谷川さん失礼するね」
最後にまた笑顔を振りまくと琉莉は春人の腕を掴み体育館の端まで移動する。周りに誰もいないことを確認し――。
「はーーー。疲れたーーー」
盛大なため息とともに琉莉は綺麗に真っ直ぐ伸びていた姿勢を曲げる。家で見るぐうたら妹である。
「そんなに疲れんなら無理に猫被んなきゃいいのに」
「は?何言ってんのお兄」
心底呆れた様子で細めた目を春人に向ける。
「いい?クラス内では目には見えないけど確実に上下の関係はあるの。高校入学して数日でこれはもう確立されてしまう。カースト上位に君臨するだけでその後の学校生活はイージーモードで進められるんだよ。これは必要な投資なわけ」
「こう聞くとすんげえ怖いところに聞こえるな学校って」
「ちなみにお兄は出だしに失敗したからもう学校生活ハードモード。カースト上位の私には逆らえないわけ。オッケー?」
「オッケーじゃねえ。勝手に失敗したことにすんな」
「それもそうか、なんせ学校一可愛い女の子に気に入られてるもんね」
にやっと含みのある笑みを作る琉莉に春人は頬を引きつる。
「それで?何なんだよ用事って」
「ん?その学校一可愛い女の子についてのことだよ?」
にやにやした笑みを一旦しまい込み琉莉は言葉を続ける。
「朝から観察してたけどやっぱりふつーーーに噂通りの美玖さんだね。全然おかしなところはなかった」
「観察って……え?お前昨日は何もしないって言ってただろ?」
「何もしてないよ。見てただけだし」
「それは何もしてないに含めていいのか……」
妹の価値観がわからず春人は眉を竦める。
「なんとなーく美玖さん見かけたから気づいたら尾行してただけだからねー。結構面白かったスパイゲームみたいで」
あっけらかんに言う琉莉。ゲーム感覚で尾行されては美玖も堪ったもんじゃないだろう。
「それで思い出したんですよ。今日はお兄のクラスと合同授業があるって」
「あるみたいだな。それがどうしたよ?」
「本当にお兄はおバカさんだねー。ここまで言ってもわからないとは」
やれやれと両手を広げて首を左右に振る琉莉。相変わらず春人を煽らないと気が済まないらしい。
「お兄、美玖さんと一緒に授業受けてよ、どんな反応なのか見たい」
「は?無理だろ。普通男女別々で授業だし」
「そこをどうにかするのがお兄の仕事でしょ」
当然のように無理難題を投げつけてくる。普通に考えて春人にどうこうできる問題ではない。
「無茶言うな。第一一緒になったところでいつもみたいに嘘をついてくるかなんてわからんし」
「は?それじゃあ意味ないじゃん。折角同じ授業になったのに……やっぱお兄はその程度なんだね」
「お前さっきから好き勝手に……」
はあー、とこれ見よがしにため息をつく妹に春人の眉がピクピクと痙攣する。それでも妹の傍若無人っぷりは今に始まったことではないと春人は怒りを鎮める。
「とにかく、他に話がないならもう行くぞ、授業も始まるし」
「へーい」
やる気のない返事を返すと琉莉は姿勢を正し、綺麗な足取りで生徒たちの方へ歩いていく。一瞬にして学校で見る猫を被った琉莉の姿に変わったことで春人は感心するやら呆れるやらで何とも複雑な気分になった。
そして数分後――。
「なんでだ……」
体育の授業が始まって数分――春人はバレーボールを持った美玖と向かい合っていた。