29話 抱き着いたと言えばそうだけどこれは不可抗力です
春人は玄関を出ると朝だというのに容赦なく太陽の熱を放出してくる空を目を細めて見上げる。
「あっついなー今日も」
眠気など一瞬で消し飛ぶ暑さに文句を言いながら学校へと歩みを進める。
歩いているだけでも汗が噴き出す暑さだ。ニュースでは連日最高温度を更新しており、それを見るたびに、うわぁっと声を漏らしている。今日も例に洩れず更新するらしい。
家を出てしばらく歩くとその暑さの影響をいろいろと実感する。空からだけじゃなく地面のアスファルトからも反射した熱を感じ、少し遠くの方なんて朧げに歪んで見える。
毎日のことだがこの暑さに慣れなんてものは無く春人もげんなりとしていた。
首筋を伝う汗をスポーツタオルで拭っていると道の先から一人の女性が歩いてくるのが見えた。
それだけなら春人も特に気にしないのだが――。
(あれってうちの制服だよな。なんで学校と逆方向に)
不思議に思うが忘れ物や友達と一緒に登校など考えればいくらでも思いつき、疑問はすぐに消える。
それでも正面からこちらに来るので視線には入る。
ウエーブがかった髪が歩くたびに揺れる。顔までははっきりとわからないが醸し出される雰囲気から勝手に美少女だろうと春人は脳内で都合よく判断する。
あと数歩ですれ違う距離まで来たとき女子生徒が何かに躓いたように体制を前方へ投げ出す。
「あぶなっ!」
春人は咄嗟に地面を蹴って女子生徒の身体を支える。反射神経には自信がある春人のお陰で何とか間に合った。
手に触れる柔らかな感触と羽のように軽い華奢な身体が女性らしさを感じさせる。
女子生徒を抱きかかえながら春人は息を吐き安堵する。
「あの……大丈夫ですか?」
倒れてきた女子生徒に声をかけ確認する。もしかしたら熱中症かもしれないと春人は救急車でも呼んだ方がいいのかとも考えたが女子生徒から落ち着いた声が返ってくる。
「ほー、何もないとこで転んでしまったぁ。これは恥ずかしぃ」
間延びした感情があまり込められていない声に春人は気が抜けてしまう。だが女子生徒が顔を上げたとき春人は目を丸くし固まる。
人形のように整った顔に長い睫毛。たれ目がちの目は彼女の雰囲気に見合って独特な空気を醸し出している。まるで絵本の物語の姫様のようなか弱さがあった。
しばらくそんな女子生徒に視線を奪われていると女子生徒が再び口を開く。
「助けてくれてありがとー。うちの生徒ぉ?」
「……っ!えーと、はい。同じだと思います」
「ん、そっかぁ。朝から迷惑かけたねぇ。えーと……」
「あ、百瀬です」
「ももて?」
「百瀬です。百瀬春人」
「ももてはーと?」
「………」
わざとやってるのだろうかと疑いそうになるがどうもそうではないらしい。本気で難し気に何度も口を動かして春人の名前を繰り返す。
「んーーー。もう、もも君でいいやぁ」
(いや、いいやって……)
面倒くさい感じに勝手にあだ名をつけられ春人は微妙な表情を作る。
「私はくるみ」
「え、あ、はい」
「二年生ぃ」
「……先輩だったんですか」
なんともペースが読みづらい。マイペースと言えばよいのか。先ほどからくるみのペースで話が進み春人は苦笑する。
「先輩はどうしてこっちに歩いてたんですか。忘れ物でもしました?」
とりあえず最初に感じた疑問を質問しておく。するとくるみは何を言っているのかと言いたげに首を傾げ目をぱちぱちと瞬かせる。
「朝なんだから学校に行くんだよぉ」
「……あの、学校は逆ですが」
春人はくるみが来た方向を指さす。それを見てくるみは驚いたように目を丸くする。
「なんと……逆方向だったかぁ」
(……なんなんだこの人)
春人はいまだに抱きかかえているくるみに珍獣でも見るような目を向ける。ここまで話していてもつかみどころのない人だ。何を考えているのか全然わからない。
それはそうと――。
「先輩そろそろ離れてもらってもいいですか」
「ん?……あー、そういえば抱きつかれたままだったねぇ」
(抱きつかれって……まあ、間違ってはいないけどさ……)
誤解を生みかねない言い方に苦笑いを浮かべているとくるみは春人の腕の中でもぞもぞと動きながらゆっくりと立ち上がる。スカートの皴を直すようにパタパタと叩くと身なりを確かめるようにくるくる回る。
よしっと納得したのか声を漏らすと春人に向き直る。
「改めてありがとぉもも君」
「いえ、先輩に怪我がなくてよかったです」
軽く会釈するとくるみは歩き出す。歩き出すのだが――。
「先輩逆です」
なぜかまた反対方向へと歩き出す。
「んー?ん?こっち?」
「はい、そうですね」
くるみは不思議そうに首を左右に傾げて学校方向を指さす。
何度も道を間違えるくるみを見て春人は思い浮かんだ言葉を口にする。
「先輩って方向音痴ですか?」
「それはよく言われるけど皆勘違いしてるぅ。私は方向音痴じゃないよぉ」
全く自覚はないらしい。自信満々に春人の言葉を否定する。
「あー、そうでしたか」
「うん、そうだよぉ」
もう指摘するのも疲れてきた春人はくるみに合わせて相槌を打つ。そんな春人へくるみも人当たりのいい笑顔を向ける。
朝からひどく疲れた春人は天を仰ぐ。視線の先にはギラギラと輝くあっつい太陽が鎮座しており思わず目を瞑る。
「それじゃあ、ばいばーい」
くるみは身体の横で腕を伸ばして大きく振って見せる。ウエーブがかった綺麗な髪を揺らしながら歩いていく。そんな後ろ姿を見つめながら春人は目元を和らげる。
「先輩逆です」