145話 一番優先すべきもの
イルカショーが終わると時刻は十七時を少し過ぎていた。そろそろ帰らなければならない時間だ。
「もうこんな時間か……そろそろ出ようか」
「うん……そうだね」
春人は少し表情を曇らせる。
帰りの提案をしたが春人はもう少し遊んでいたかった。それほどに美玖とのデートは楽しかったのだ。
それでもこれ以上は遅くなってしまうので美玖の為にも帰るしかないのだが。
「あー、楽しかったなぁ」
春人の言葉を代弁するように美玖が口を開いた。
「楽しんでもらえたのなら誘ってよかったよ」
「うん。ほんとーーーに楽しかったよ!ありがとねはる君!」
笑顔が眩しい。ここまで喜んでもらえたのなら誘った甲斐もあったというものだ。
――そうなるとこれから美玖に伝えようと思う内容はこの時間を壊してしまいそうでとても怖い。
「美玖」
春人は勇気を振り絞るように手を強く握る。
「ん?どうし、たの……?」
美玖の顔が少し強張る。
春人の様子が先ほどと違うことに気づいたのだろう。尻すぼみに声が小さくなる。
二人の視線が交わる。真剣な春人の視線と不安げな美玖の視線が。
春人は一度大きく息を吐くと覚悟を決めたように言葉を紡ぎ出した。
「今日デートしてて再確認したよ。やっぱり俺にとって美玖は大事な人なんだって」
デートしていてよく分かった。やはり春人は今の美玖にもしっかりとした好意を抱いていると。
それでも昔のことを綺麗に忘れるまでは自分の気持ちが整理できていない。どうしても昔の美玖がちらつくのだ。今の美玖を強く思えば思うほどに。
今回のデートで春人の感情にも踏ん切りがつけばと思ったがやはり長年積み上げてきたものはそう簡単には消えないようだ。
それでも美玖の気持ちに少しでも応えたい自分がいるのは確かであり、そんな美玖に今まで通りの我慢を強いるのは春人の気持ちと反するところがあった。
自分の保身のために美玖の気持ちを押さえつけるのは間違っている。
春人の中での優先順位が今日変わった。だから春人は美玖に告げる。
「そんな美玖に俺のために我慢させておくわけにはいかない。……ありのままを出していこう」
「ありのまま?」
「ああ、学校でも今日の美玖みたいな。それが普段通りの美玖だから我慢なんてもうしなくていい」
春人の言葉を最後まで聞くと美玖は驚いたように目を丸くし、すぐに不安そうな表情を作る。
「でも……いいの?」
美玖は春人を気遣う。そもそもこれは学校での春人の立場を考えての処置だったのだ。“学校一可愛い女の子”と噂される美玖に明らかに他と対応が違う男子生徒が現れたら春人にどんな影響が出るかわからなかった。
「ああ、いいんだよこれで」
それでも春人の中で何を大事にしていくのかはもう決まった。美玖の気持ちを尊重する。これはもう何があっても変わらない。
「ごめんな。こんだけ偉そうなこと言ってるけどまだ美玖の気持ちにちゃんと答えを出せてないヘタレで」
いろいろ偉そうなことを言ってるが結局は全部春人のせいなのだ。しっかり答えが出せないからこんなことになってしまっている。
しばらく美玖は無言で立ち尽くしていた。その顔は少し俯き表情が読み取れない。
その時間は数秒程度だったが返答を待っている春人としては数分とも数時間とも思える長い時間だった。
美玖の顔がゆっくりと持ち上がる。
「もしかしてずっと負担に思わせてた?悩ませちゃってたのかな……」
へにゃっと表情を崩しどこか春人に後ろめたさがあるような不安げな顔を作る。
今にも泣き出しそうな美玖の顔に春人は慌てて弁解する。
「いやっ、そんなことない!むしろ俺の方こそ……ずっと我慢させてたんだから負担だっただろ。ごめんな」
「謝らなくていいよ。負担だなんて思ってないし、私が納得してたんだから。それに――」
美玖が崩れた表情で柔らかく微笑みを浮かべる。
「私のこと考えてくれてありがとう。私のこと大事に思ってくれてありがとう」
一筋。美玖の頬を涙が零れた。でもその涙が先ほどまでの後ろめたさからくるものではないことは春人でもわかった。
ひとまずは春人も安堵する。
「でも、ほんとにいいの?今日みたいに学校でもはる君に接して。私は別に我慢できるよ?」
「いいんだって。もう美玖に我慢させないって決めたんだから。つうか……時々我慢できてなかったろ」
「う……そ、それはー……」
春人の視線から逃れるように美玖が目を逸らす。
学校でも何度か危うい場面はあった。人によってはもう気づいているのかもしれない。
そんな美玖の気まずそうな反応に春人はおかしそうに笑った。
「ちょ、ちょっと、笑わないでよっ」
「反応見る感じ悪いとは思ってたんだなって。ただの天然だと思ってたよ」
もちろんただの天然だったところもあるだろうが美玖としても申し訳ないとは思ってたらしい。
そう思うと余計におかしくなってしまった。一向に笑いがおさまらない春人に美玖はぷくっと頬を膨らます。
「笑いすぎ!もう!」
美玖はぷいっと春人から顔を逸らす。へそを曲げてしまったようだ。これには春人も笑いを止めざる負えない。
「ごめんごめん。ちょっと笑いすぎた」
「ちょっとじゃなかったけどね。私は怒りました」
「ごめんって、なんとか機嫌直してくれ。な?」
春人は手を合わせて謝罪を口にする。そんな春人を一瞥し美玖は「ん」と手を差し出す。
「?なんだ?」
「握って」
「へ?」
「握って。手。帰ってる間」
それで許してあげるとなんとも可愛らしいことを口にする。
「はいはい。仰せのままに」
春人は肩を竦めると美玖の小さな手を優しく握った。すべすべぷにぷにの感触がとても心地いい。
だがこれはこれで恥かしい。いやでも美玖のことを意識してしまう。
「えへへ、温かい」
そんな美玖は先ほどまでの不機嫌さが嘘のように、にへーっとその顔をだらしなくしていた。
これくらいのことで機嫌が直ってくれるのならと春人も表情を緩める。
とりあえずはお互いに納得するところに落ち着いた。実際に学校でどんな変化が起こるかわからないが春人が後悔することは無いだろう。
帰る最中はどうしても手を放さないといけない場面を除いて帰り道が分かれるまで手を握り続けた。
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