1話 隣の席の桜井美玖は俺にだけ嘘をつく
教室の一番後ろの窓際の席。そこが百瀬春人が座る席だ。他の生徒から無駄に見られることもなく授業中に先生から問題を当てられることも少ない――ような気がするこの席は春人にとって高校入学最初の幸運だった。
席ガチャで当たりを引いた春人は充実した学校生活を送っていた。開いた窓から流れ込む風の心地よさに授業中ということも忘れ、外の風景を眺める。特に物珍しいものなどないが何とも落ち着くこの時間は春人は好きだった。
こんな時間がいつまでも続けばと春人は淡い息を吐くが――この時間は一瞬にして崩れ去る。
「百瀬君、百瀬君」
透明感のある綺麗な声音に春人は隣を振り返る。
春人の視線の先には何とも可愛らしい少女――桜井美玖がこちらに微笑みを浮かべていた。腰まで伸びる長い髪に大きな瞳に長い睫毛、透き通るように白い肌に細身でありながら出るところは出ているスタイルの良さなどまるで人形のような少女だ。
こんな少女に話しかけられようものなら、学校中の男子生徒誰であろうと泣いて喜ぶだろう。
だがーー。
(来たな桜井……)
春人の反応は思春期真っ盛りの男子とはまるで違った。冷や汗を垂らしながらどこか警戒するように恐る恐る口を開く。
「どうした桜井?」
春人が返事をすると美玖は笑顔をより濃くする。
「百瀬君、教科書忘れちゃったから一緒に見せて?」
「ああ、いいぞ。わか、った……」
春人の視線が美玖の机の引き出しに向かう。そこには今現在授業を行っている現国の教科書がはみ出していた。
春人が教科書に目が釘付けになっていると美玖が動く。
「ありがとう百瀬君」
美玖は机を少し持ち上げると春人の机にくっつけた。教科書を見せるのだからこの形は当然だが春人の頭には先ほど目にした教科書が頭から離れなかった。
「あのさ桜井。本当に教科書忘れたの?」
「うん、そうだよ。ちゃんと確認したと思ったのにね」
「……そうか。一度机の中見てみたら?」
「そこも確認したんだけどねー。どこ行っちゃったんだろ?」
「あー……そうか」
本当に不思議そうな顔を浮かべ美玖は首を傾げる。
春人が警戒していたのはこれだ。――桜井美玖は嘘をつく。
だが、この嘘は他の生徒につくことはない。決まって春人にだけだ。高校に入学してからというものほぼ毎日、春人は美玖の嘘に振り回されていた。
「それじゃあ、教科書見せて」
可愛らしく首を少し傾けながら微笑む美玖に春人は不覚にもドキッとしてしまう。
「おお……はい」
教科書を二つの机の中心へと移動させる。するとまた美玖は「ありがとう」と微笑む。
こういった笑顔は春人も素直に可愛いと思う。警戒心が先に出てしまうだけで普通にしていれば特に問題もない本当に可愛い少女だ。
不意に美玖が教科書を覗き込む。そうすると必然にお互いの顔が近づくわけで――。
(なーんか。すげえいい匂いするわー)
シャンプーの香りなのか石鹸のような清潔感が感じられる匂いが春人の鼻孔を擽る。この香りを堪能したい気持ちが膨れだしてきたが流石に自分を律する。
(待て待て待て、これじゃあ、ただの変態じゃないか)
春人は強く目を閉じ一度心を落ち着かせようとする。
「百瀬君?どうしたの?」
「いや、気にするな。ちょっと自分自身と戦ってるから」
「ん?そうなの?」
きょとんと目を丸くする美玖を余所に春人は精神を統一する。
しばらく美玖は春人の顔を見ると口角を上げて笑顔を作る。
「百瀬君、なんか変なこと考えてた?」
「そ、んな、ことはないぞ」
「えー、すごい動揺してるけど」
春人の心を見透かす様に笑う美玖。春人も本当のことなので何も言えず頬を引きつる。
「怪しいなー」
「別に……普通だろ……」
「こんなに動揺してるのに普通なんだ」
「俺常に動揺してるから」
「ふふふ、なにそれ」
口元に手を添え上品に笑う美玖。一つ一つの動作が綺麗で思わず視線で追ってしまう。
「ねえ、もしかしてドキドキしてた?」
「ど、ドキドキ何て……してないよ」
「そうなの?」
的が外れたと思ったのか美玖は一度春人から視線を外す。警戒しているとはいえ、美玖に顔をずっと見られているのは心臓に悪い。春人が安心して息を吐くと――。
「私はドキドキしたけどなー」
まさかの発言に春人はぎょっと目を開き美玖を見る。一体何を言い出しているのか。折角落ち着かせた心がまた暴れ出す。
そんな春人の反応が面白かったのか美玖は笑顔を向け――。
「うーそ」
にひっと目を細め笑う美玖。男子なら誰もが勘違いしそうな笑顔だ。
でも春人が勘違いなど起こすわけもなく「なっ!」と声を漏らし狼狽える。
「あはは、引っ掛かったね百瀬君」
「お前な……くだらない嘘つくなよ」
「と言われても、これが私の楽しみだし」
「なんて傍迷惑な楽しみ作ってんだよ」
再びにひっと笑う美玖に春人は頭を押さえた。
「ん?百瀬なに話してるんだあ?」
少々騒ぎ過ぎたのか先生になかなか当てられないという窓際後ろのアドバンテージが崩れてしまった。
「いえ、何でもないです」
「本当か?なら、ほら教科書続き読んでみろ」
「………」
もちろん聞いてなかったのでどこからかわからない。それでもとりあえず席を立ち教科書を睨むように見ていると、救いの手が隣から伸びてきた。
「三十ページの二行目だよ」
口元を手で隠して美玖が小声で教えてくれた。
春人は視線を送り頷くと教えられた文章を読み始める。
「えー、彼女は小さく見えなくなっていく彼の背中をいつまでも――」
「どこ読んでんだ百瀬ッ!」
春人が読み始めてすぐに先生の怒声とクラスのクスクスと笑う声が教室に響き渡る。
「え?」
春人は皆の注目を浴びながら目を丸くし、油を差し忘れた機械のようにぎこちない動作でゆっくりと首を動かし美玖を見る。
「にひひ、嘘だよ、百瀬君」
なんとも楽しそうに笑顔を作るじゃないか。春人は恥をかき恥ずかしいやら恨めしいやらで顔の筋肉が固まってしまう。
入学から桜井美玖の嘘に翻弄される日々が百瀬春人の日常になっていた。
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