自分の内側にある幸せを
先に倒れたのは僕だった。入院するなら総合病院の3病棟と、事前に決まっていたため、割とスムーズに入院することができた。手続きや準備なんかは、当時まだ動けていた奈央がすべてやってくれた。
「どう? なにか不便なことはない?」
心配そうに覗き込んでくる奈央の顔。ほんのりと匂ってくる香りは、奈央の誕生日に初めて贈ったプレゼントの香水だった。金木犀が好きだという前情報は得ていて、僕はその頃すでに少しだけ不自由となっていた足を引きずりながら、ステッキを頼りに街中の雑貨屋へと向かった。
ころんころんと丸っこい形の小瓶が並ぶ中から、オレンジ色の可愛らしい小花のイラストを見つける。それを購入、ラッピングしリボンをかけてもらった。
「はい、どうぞ。ありがとうございました」
お金を払い、そのプレゼントを店員から手渡された瞬間。僕の心がふわっと温かくなるのを感じた。誰かになにかを贈ることの嬉しさ。そこからきているのだろうと思う。
じわり。じわり。
(奈央が喜んでくれるといいな)
そう思えばまた、じわり。
うきうきしながら迎えた、誕生日当日。渡された香水の瓶を手に持って、奈央は嬉しそうに鼻を何度も何度も小瓶に近づけた。
「んんー……金木犀の匂いって、なーんか気持ちが落ち着くんだよねー」
自分の手首の裏側に、シュとひと吹きする。香りが丸みを帯びながら広がった。
「わ! 良い香り!」
その時の笑顔。寝たきりになってしまった今でも鮮明に脳裏に残っている。
金木犀の香りをふうわりと漂わせながら、奈央は僕とのデートに来てくれるようになった。
ある日、カフェでコーヒーを飲んでいる時のことだった。周囲からの興味本位な視線に、僕は気がついてしまっていた。店にいた他のカップルや家族連れが、僕と僕のステッキとをチラチラと見ている。まだ若いのに杖を使って歩く姿が、人目を引いたのだろう。
「……なんかごめんね」と、僕は言った。
「なに言ってるの。別に見られても全然平気。ステッキなんて英国紳士なら誰でも持ってるじゃない?」
ぶっと吹き出してしまった。
「日本で持ってるのはだいたいお年寄りだけどね」
「でも若い人だって日傘とか携帯用扇風機とかペットボトルとか色々持ってるじゃない? それと同じだよ。持ち物のひとつであって、別に特別なものでもなんでもない」
「反論できないなあ」
「反論するなら殴るかも」
「DV反対」
「私も! 戦争とかセクハラとか浮気とか政治家の給料とか、もろもろ反対」
「なんの話だよ」
煙に巻かれて終了だ。僕の悩みなんかちっぽけなもんなんだと、教えてくれる。
そんな奈央のことが、僕は大好きだった。
けれど、僕が倒れてから1年後。今度は奈央が倒れた。
僕はその時は身体の一部を除いたほとんどの部分が動かなくなっていて、すでに入院生活を送っていたから、奈央が倒れた時に、側にいてやることができなかった。
大丈夫、僕が一緒にいる。
駆け寄ってそう何度も言い、今度は僕が支えてあげたかった。奈央が僕にしてくれたように。強く強く抱きしめて、頭を撫でながら、慰めながら、一緒に涙を流したかった。
肝心な時に、愛する人を守ることも寄り添うことも、僕にはできなかった。そんな無力で役立たずな自分自身への怒りが、僕の寝たきりで動かない身体を炙るように熱くした。
けれど、その悔しさをもってして、動かない自分自身の身体を、この怒りのこぶしで叩きのめすことも、自ら壁に頭を打ちつけて気を済ますこともできない。
結局のところ、僕には、なにひとつとしてできることはないのだ。
どうすることもできない怒りに耐えながら、ただ。左手の薬指にはまっている結婚指輪の存在を感じながら、奈央が入院してくるのを待つしかなかった。
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奈央は緊急で運ばれ、そのまま総合病院に入院した。もちろん僕たちは夫婦なのだからと、同じ病室に入ることができた。隣のベッドに奈央が横たわっている。夫婦揃って同じ病気で寝たきりだなんて、こんな不幸なことはそうそうない。はたから見れば、そうなのだろう。けれど、最初からそれは承知の上で結婚したんだし、こうなる未来は見えていたのだから、神さまに対する文句もひとつとしてない。
あるのは、奈央と巡り会わせてくれたという感謝だけだった。
「おはよう、奈央」
「ふふ、雅さん、おそよう」
「え、もうそんな時間⁇」
実際、落ち着きを取り戻した僕の心は、多幸感に満ち溢れていた。隣に奈央がいると思うだけで、胸がいっぱいになる。
モニター越しではあるが、カメラ機能を使ってお互いの顔も見ることができるし、僕たちはまだ微かに動く口を使って普通に会話もできていた。
「雅さん、まだ仕事してるの?」
「うん、納期までに仕上げないと」
「仕事もらえて、こんなありがたいことはないね」
「ほんとそれな。奈央の小説の進捗はどうなの?」
「んーーーちょっと止まってる」
僕は、モニターに映し出されたプログラミングの設計書をいったん終了させた。
「奈央の書いた恋愛小説、結構面白いと思うんだけど」
「んーーー止まってるのはねえ……ちょっと、うん」
珍しく歯切れの悪い返事だった。
「主人公とヒロインがさ、簡単にくっついていいのか悩んでんの?」
「えっと、そこはもうくっついた」
「はやっ。僕と奈央も付き合うの、早かったけど」
「ふふ、雅さんが奮発して予約した高級レストランでね。ボクとツキアッてクダシャイ! ってね」
「居たたまれん」
「あれは笑った」
「笑ってなかったじゃん」
「我慢した」
「じゃあ、なにを悩んでんの?」
「うえ? えっとねえ、その……」
「なに?」
「……う」
「なに!」
僕が強い口調で問うと。奈央はとうとう白状した。
「いやあ、付き合うってことはアレだね? アレするってことだね?」
「え! そ、そうだ、ね?」
エッチシーンってことか。少し動揺する。
奈央が言いにくそうに続けた。
「雅さんに読んでもらってるじゃん? そういうシーン書くの、ハズカシーーーーって思って」
「別に良いじゃん、夫婦なんだからさ。モニターのカメラ切っとけば、お互い顔は見えないんだし」
「実はさ、もう書いちゃったんだけど」
僕はちょっとだけドキドキしながら、
「じゃ読ませてよ」と言った。
「カメラ切ってよ」
「切った」
「よし。じゃあ投稿するよ」
「……はい」
小説の投稿サイトを開く。新着の作品の中から、奈央が今書いている小説を開けて、最新話を読んだ。
「結構、濃厚だね」
「ノウコウとか言うな」
「別に恥ずかしくないって。何度も言いますけど、僕たち夫婦なんですから〜」
「参考にさせていただきました」
「え。いや待って恥ずっっっっ」
こうしてずっと寝たきりになってしまうと、永遠を感じる時と、終焉を感じる時がある。
奈央との会話はこれからもずっと続くと信じているけれど、終わりは必ず来るのだという考えも、頭のどこか片隅にこびりついている。
「奈央、手を繋ごうよ」
「どうしたのよ急に。繋げるわけないでしょ〜」
「なんか方法ないかな」
「あ! じゃあさ、お互い自分の【手】の写真を撮ってさ、【手】と【手】がギュっていうのはどう?」
妙案だけれど、そのアイデア良いなと思った。それからは、なにかある度に、いや、なにもない日常で、画像とはいえ、奈央と手を繋ぐことができた。本当は奈央の体温を感じたいが、それは叶わない。そんなときは、夏の夜空で引き離された、彦星と織姫の気分になる。
その頃からだろうか、奈央はよく眠るようになっていた。
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