ゆるやかにその日を迎え
いつからこんな状態になったんだっけ?
発病してからずっと書き続けている日記を過去へと遡ればわかることだが、調べるにはこの重いまぶたをはっきり開けなければならない。今は眠気で半寝の状態。調べたり考えたりはめんどくさいし、まあいいやと諦めた。
惚気とかそういうのじゃないのだが、僕の隣には常に妻がいてくれる。顔は見えないが、夕方近くのこの時間になると、いつも彼女は眠っていて。
鉛のように重く動かない左腕がもぞもぞする。まだ少し動く右手を使い、手元にころんと置いてあるナースコールを探し当てた。
ぐっと親指で押すと、少しして看護師の佐藤さんが入ってきた。佐藤さんは明朗快活な人で、たぶん善良だ。
「はーーい入谷さーん。どうされましたー」
そうだった。伝えたいことがあるのだから、結局は閉じていたまぶたをしっかり開けなければならなくなった。目の前に固定されたモニター、その下半分を占めるキーボードに、視線を真っ直ぐに向ける。その視線を左右に微妙に動かしながら、視線とまぶたの動きを使って文字を入力していった。
【左腕が変】
モニターを覗き込んだ佐藤さんが、僕の左腕を確認する。
「あらほんと。点滴の管が絡まってますよ。これじゃこそばゆいはずですね」
そうなんだよ、この身体はポンコツで動きはしないが神経はちゃんと張り巡らされていて、厄介なことにその機能はバリバリ現役選手だ。だから、痒い痛いこそばゆいは最初こそ我慢できるのだが、放っておくとそのうち苦痛に変化し、手に負えなくなってしまう。そうなる前に看護師を呼ぶ、そういうことなのだ。
視線を左右に動かして言葉を綴っていき、【妻は寝てますか?】と訊く。モニターを見ながら、点滴を調整し直す佐藤さんの頬が、ぴくっと動いた気がした。横に視線をずらした動きなのだろう。
「やっぱりご夫婦ですねえ、わかります? 奈央さん、ぐっすり眠ってますよ」
【奈央、もしかしてヨダレ垂らしてます?】
僕は心で笑いながら、キーボードを目で追った。佐藤さんはぶふっと吹いてから、笑顔を僕に向けた。
「ヨダレ垂らしてようがなにしようが、可愛い奥さん大好きでラブラブなくせに〜」
長年の入院生活により、看護師のみなさんとはフランクな関係を築いている。みんな、僕の愛妻家ぶりを茶化すのが、楽しいのだろう。
「今日は天気が良いみたいなんで、窓、開けときますね〜」
シャと音がして、レースのカーテンと窓が開けられたようだ。外の世界の音が明瞭となる。パーァァっと遠くに響く、車のクラクション。
そのうち、緩やかな風が窓から入ってくれば、寝っている妻の頬を優しく撫でてゆくだろう。彼女の髪をさらさらと梳いていき、そして伏せられた長く艶やかな睫毛をふるりと揺らすだろう。
まだ夏には少し早い涼風が、病気で動けなくなった僕の代わりに、寝汚い妻を優しく起こしてくれるだろうか。
(奈央)
僕は右手をそろっと動かしナースコールをどかすと、あるだけの弱々しい握力で手のひらをぐ、と握り、妻の名前を心の中で、何度も呟いた。
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「うわあぁあぁぁ!」
喉が焼けるほどの雄叫びをあげた気がする。
倒れ込んだ拍子に打ちつけた左肩。痺れたような痛みがびりびりと走った。
床に這いつくばった視線が捉えたのは、さっきまでこの手で握り、操作していたスマホ。それが手元から離れて落ちた一瞬のうちに、遠くの方、階段のたもとへと滑っていったらしい。ぼうっと鈍く光っているのが見えた。
「嘘だ、まじか、もう来たのかよ……」
この日が。
ついに来てしまった。
いつか動けなくなり寝たきりとなることは、何年も前からわかっていた。ある程度の覚悟もしていたし、入院の準備も金銭的な用意もしてあった。確かに筋力は弱っていて、今ではステッキがないと上手く歩けないほどだ。
けれど、こんな悲劇は自分のことじゃない他の誰かのことだとか、もしかしたらこの寿命が尽きるまでなにも起こらないかもしれないとか、そういう楽観的で希望的観測が、頭のどこかにあったのかも知れない。
だから、本当に身体が動かなくなり倒れたときには、医者の見立ては正確だったのだと、その事実に衝撃を受けてしまった。
足も腕ももちろんのこと、身体のすべてが動かない。現実に打ちのめされた。
「動けない……た、助けて、くれ」
喋った拍子にヨダレが垂れた。床にべったりと張りつき横向きに押し潰されている頬を伝っていく。
ヨダレが垂れるのと同時に湧き上がってくるのは、絶望だった。今まで出来ていたことが出来なくなる、という現実を、容赦なく目の前に突きつけられている。悔しいとか情けないとかじゃない。それは恐怖でしかない。
僕は、ただの棒になってしまった、という恐怖。
「うぅぅうえぇぇ」
言葉にならない言葉が、喉の奥から地響きかのように出た。
すると、廊下の奥から、ぱたぱたとけたたましいスリッパの足音が。
「雅さんっ! どうしたのっ!」
妻の奈央が駆け寄ってきた。彼女は僕の身体にしがみついて、僕をこれでもかというほど揺らした。
「雅さん、」
「うぅ動か、ない、」
「雅さん、雅さん、心配しないで。私がいるからね、大丈夫。私がいるから大丈夫」
寄せては海へと戻っていく波のように、何度も、何度も。
私がいるから大丈夫と、奈央は繰り返し、僕の手を握りしめた。
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