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今度、社員旅行があります。  作者: 月津 裕介
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旅行の成果

■旅行の成果(社員旅行から十年後の四月)――徳丸和哉


 靴棚の奥に埋もれていたニューバランスを久しぶりに引っ張りだした。

 まだ履けるだろうか? そのカビ臭さに一度鼻を離したが、今日ばかりはこれを履いていくべきような気がしていた。覚悟を決め、除菌スプレーを噴いて足を突っ込んだ。靴のなかはひんやりとしていて、溜まっていた十年分の埃が靴下にまとわりついてくるようだった。

 やはりやめておこう。他の靴に履き替えたところで、後ろの廊下からペタンと音がした。

 しまったと縮みあがった。

 そんなぼくに容赦なく、そのペタペタは迫ってきた。「おとしゃん、こうえん? こうえん?」試作中の二足歩行ロボットみたいに、つたない体重移動で向かってきた娘の栞が、ぼくの背中に突進してきた。

「ごめんなー? ちょっとだけ出かけてくるねー?」

「こうえん?」栞が逃すまいとまっすぐな瞳でぼくを捉えてくる。

 ああ、そんな目で見ないでおくれ。「いやぁ、公園じゃないんだ」頭をかきながらも何の疑いもなく、こんなぼくを必要としてくれる彼女のことをとても愛おしく思った。

「栞、お父さんはお出かけするの」助けにきてくれた妻が栞を抱きあげた。

 なんで早く行かないのよ。細くなった目がぼくにそう訴えかけている。

「あとでお母さんが公園に連れていってあげるから、今日のところは我慢してねー?」

「えー、おとしゃんといくぅ」妻の腕のなかで口を尖らせた栞が、ごねて身体を左右に振る。

「お父さんねー。大事なお友達に会いにいくのー」

「たいしな、おともだち?」

「そうだよ」大袈裟に肯いた。

「わたしもいくっ」立ちあがったぼくに向かって、栞が両手を伸ばしてきた。

 あぁ。抱き寄せたい衝動に駆られながらも、我慢してそれを押し殺した。

「ごめんねー? 今度ねー?」と手を振ると、彼女の眉がぴくりと反応し、上くちびるが口のなかに巻き込まれていった。

 まずい、まずいぞー。泣き出す前兆を見てしまったぼくが、このまま強行突破しようか、いや、この状況じゃ危険だろう、どうしようか、などと右往左往していると、妻の声が狭い玄関に響き渡った。

「いい加減、早く行きなさいよっ」


 待ち合わせ場所の新宿に向かうため、特急電車に乗った。土曜だが、まだ昼さがりということもあってか、座席こそ埋まっているが、吊革を握る人はまばらだった。南側の窓から降り注いでくる優しい陽射しが、五月になろうとしている車内を、暑からず寒からずといったほどよい温度に保ってくれていて、なんだか目の前に座っているちっちゃな目で外の景色を眺めているおばあちゃんの横に座り、渋い抹茶と餡子菓子をお供に、令和という新しい時代について語り合ってみたい、なんて平和な気分にさせた。

 しかしながら、そのおばあちゃんの隣には、彼女の孫くらいの歳の高校生らしきジャージ姿の男の子が座っており、「どんな時代でも受け入れるから、ここだけは眠らせておくれよ」とばかりにぱかんと口を開け、「ちなみになかは、こんなんなの」と絶妙な角度でその中身をぼくに見せつけていた。

 噴き出しそうになるのを堪えるため、脇腹のぜい肉を思いきりつねった。

「いてっ」思わず出てしまった声に、まわりの人たちとともに前のおばあちゃんも反応し、今の何かしら? とそのちっちゃな目できょろきょろし出したので、ぼくは素知らぬ顔でそっぽを向いた。

 視線の先に中吊り広告があった。その見出しが目に飛び込んできた。

【SNS時代の寵児、鬼島隆司。その驚くべき経歴】

 ちっ。思わず舌打ちしそうになった。

 また書かれている。彼をブームなんかにするなっ。広告を睨みつけたあと、昨日の鬼島くんとのやりとりが脳裏に浮かんできた。

 昨日の朝、ぼくたちの会社が運営するネット上のライブ会場「スタたん」の通信速度が極端に遅くなった。原因は保守担当の技術員が、過去に起きた障害を調査するために仕込んだ監視ツールの負荷によるものだった。代表である鬼島くんは、このプロジェクトのリーダー役であるぼくを呼びつけ、皆の前で、「どうなっているのか?」と叱った。

 それでいい。メンバーのミスは、それを統括するリーダーのミスだ。ミスを起こさないよう統制できていなかったのだから仕方ない。今の会社に管理職というものはないが、仕事をするからにはどこかに責任は伴うものだ。

 ぼくはその担当者を小部屋に呼び、障害の起きた原因を確認した。単なる確認洩れだった。事前にテスト環境を用い、ふたりがかりで検証していたのだが、いざ本番となった当日に、メイン担当が他の障害調査に急遽駆り出されてしまい、残されたサブ担当だけで実施することになってしまったそうだ。急な事態に焦ったサブ担当は、手順書通りに慎重に操作を進めていったが、制限時間に追われ、注意書き部分の確認を怠ってしまった。メイン担当が言うには、テスト時は口頭でもそこは確認するよう、ちゃんと説明していたと言う。しかしサブ担当からの報告は違った。そんなことは聞いていないと言う。

 トラブルというものは得てして、こういう送り手と受け手の意識の差から生まれる。どうせ当日はオレがやるんだから、伝えるのはこれくらいでいいだろう。どうせ当日はこの人がやるんだから、任せておけばいいだろう。

 どちらのせいでもない。けれど障害は起きてしまった。そう伝え、ぼく立会いのもと、ふたりで改善策を練ってもらった。話し合ってもらった結果、サブ担当がテスト時にメイン担当として実施してみるということで落ち着いた。それなら非常時にも対応できるだろう、とぼくも認めた。どちらにも準備段階から緊張感を持ってもらうということだ。仕事は「準備八割、実行二割」というではないか。プロジェクトに持ち帰ってそれを共有してもらうと、メンバーたちは皆、快く受け入れてくれた。

 十七時を回った頃、鬼島くんから内線があり、最上階のカフェで落ち合った。

「ほいっ」ぼくが着いたと同時に鬼島くんがコーヒーを差し出してくれた。ぼく好みのミルク多めの砂糖少なめだ。

「で、どうだった?」鬼島くんは二杯目のブラックを口にしながら、ぼくの話を聞いていた。そして話が終わると、冗談っぽく歯を見せ、「さすがは自己啓発本の鬼」とぼくのコーチング力を賞賛してくれた。「会社をはじめたとき、徳ちゃんに、『上下関係のない会社にしないか』って言ってもらって、ほんとうによかったよ。お蔭でみんな自立して仕事してるし、何より生き生きとしてる」

「お蔭でぼくは未だに年下の子からバカにされるんだけどね?」と口をすぼめた。

「はは、それはキャラクターの問題じゃない? それにいつも満更でもないような顔してるけど、気のせいかな?」

「気のせい」と大きく肯いた。

 目が合って、ふたりして笑った。

 それからお互いの近況を報告し合った。目指しているものにブレはなかった。いつもながら彼と話していると自信が湧いてくる。

 信頼し合える人と仕事ができるというのは、やはりいいものだ。


 十年前のあのバスジャック事件のあと、会社を辞めたぼくを拾ってくれたのは、この鬼島くんだった。

 萌ちゃんに協力し、血糊を使ってみんなをだましただけでなく、バスの車体に高感度の通信アンテナを取りつけ、ライブ配信する仕組みを車内に構築したのは、このぼくだ。だから起訴こそされなかったものの、移動先の病院で身柄を拘束され、家宅捜査までされた人間が再就職するのは、さぞかし難しいだろうと考えていた。

 案の定、ぼくを拾ってくれる会社はなかった。履歴書に、【和栄テクノ】とあるだけで、ほとんどが書類選考で落とされた。面接にこぎつけたとしても、それは興味本位に事件のことを訊いてみたいという冷やかしでしかなく、ぼくという人間そっちのけで事件のことを根堀り葉堀り訊いてきた挙げ句、「追って結果を連絡します」と告げた人事担当者の笑顔のあとに届く通知にはすべて、【不採用】の文字が印刷されていた。

 威勢よく辞めてはみたものの、現実はそう甘くなかった。表向きには事件のせいにはしているものの(表って誰に対してだ? というツッコミがありそうだけれど)、ぼくがもっと社交的で自信を持った人間であれば、もう少し早く決まっていたのかもしれない。そんなことは重々承知している。けれどまた人の大勢いる会社に入るという選択肢はまったくなかった。同じことの繰り返しになるような気がしたし、ましてや「胸に社章をつけてないやつ」などと、朝礼でまた晒し者にされたくもなかった。

 すぐに春が来た。すぐに夏が来て、秋があっという間に過ぎていった。そして事件を起こした一月が間近に迫ってきたクリスマス前。カーテンを閉めきった寒くて暗いアパートの一室でひとり悶々としていたところに、一本の電話が入った。半年近く鳴ることのなかったスマホに、どうせかけ間違いだろうと思いながら出た。

「とくっ、んっ、す、すみません、徳丸です」久しぶりでうまく口がまわらなかった。

「徳丸さん?」

 相手の元気な声に圧された。「はい……」

「はあ、よかったぁ、やっと見つけたぁ」電話の主が、なぜかうれしそうに安堵の息を吐いた。「今、何してるんですか?」

「何って、こたつに入って……」言いかけてやめた。なんでそんなこと、この人に答えなきゃならないんだ。

「いや、今、何か仕事されてますか? ってことで」

 そっちか、と恥ずかしくなった。「いえ、何も……」

「よかったぁ」

「はい?」またうれしそうに言われ、少し腹が立った。失業で困っている相手にいきなり電話してきてそれはないだろう。もはや泥沼と化している就職活動について、他人にとやかく言われる筋合いはない。

「じゃあ、よかったら、うちの会社に来ませんか?」

「はい?」

 それが鬼島くんとはじめて交わした会話だった。もちろん相当な胡散臭さを感じたのは、言うまでもない。でも会いに行った。貯金が底をつきかけていたのだから仕方なかった。こんなに寒いというのに、光熱費が怖くて滅多にお湯も沸かせない状況なのだ。生きるため、藁にもすがりたかった。

 何か売りつけられるんじゃないか、と事前に準備していった逃げ口実の「すみません、興味ないんで」を呪文のように何度も唱えながら臨んだ面接、というか面会で、待ち合わせの駅にやってきたのは、五分刈り頭の真っ黒に日焼けした中背の男だった。MA1に色あせたジーパン、手にはセカンドバックを抱えていた。「鬼島です」と見せた歯がやけに白く、胡散臭さが増した。

 思わず漫画で読んだ「闇金くん」を連想してしまったぼくは、「用事を思い出したんで」とすぐに立ち去ろうとした。

「ちょちょ、ちょっと待って」焦った彼がスーツの袖をつかんできた。草鞋のようなごつい手だった。「ごめんねぇ、こんな恰好で来ちゃって」

 人懐こい顔で頭をさげる彼を、無下にすることはできなかった。その代わり、いつでも逃げられるよう、呪文「興味ないんで」を喉元にセットした。

 鬼島くんは自己紹介もそこそこにこう言った。「じゃあ、カラオケでいい?」

「はい?」

 眉をしかめたぼくを彼は近くのカラオケボックスへと連れていき、目を輝かせながら、「このなかのもの、何食べてもいいよ」と食べ放題メニューを勧めてきた。ピザやポテトなど、すぐに胸焼けしてしまいそうなB級グルメが所狭しと並んでいた。そんなに食べられないなあ、と躊躇するぼくを尻目に、鬼島くんは、「決まった?」と相変わらず元気な声で訊いてきて、ぼくが、「いや、まだ……」と答えると、「じゃあ、先に頼んじゃっていい?」とメニュー片手に十品ちかくをオーダーしていった。

「じゃあ、歌おっか?」彼が分厚い曲目リストをつかんだ。

「え?」会社説明はないの?

「新曲はぁ、っと」ページを捲りはじめた彼の頭が赤べこ(会津の民芸品)のように揺れていた。うれしそうで今にも跳ねだしそうなくらいだった。

 面倒そうだからあとにしようと抑えた。まあ、カラオケは嫌いなほうではない。

 それから五曲ほど、初対面の男ふたりで交互に歌い合うという不思議な時間が続いた。そして最初の料理が持ち込まれたところで、口に肉団子を放り込んだ彼が口を開いた。

「いつかはさ、自社ビルの展望フロアなんかでさ、シェフなんか雇ってこういう安っぽいものの一番おいしいやつ、また一緒に食べようよ」

「はい?」言っている意味が分からなかった。

 首を傾げたぼくを見て、彼がいそいそと靴を脱ぎはじめた。そして脇にあったスツールの上に立ちあがると、高々と片腕をあげた。

「うちの会社は、お客さんも社員もみんな、全員を笑顔にする会社になりますっ」

 見あげたまま、固まってしまった。

 大丈夫か? この人……。

 過去の成功者たちを気取ってか、みかん箱ならぬスツールの上で自信満々にそう宣言するこの男に、ますます不安を覚えた。

 そんなぼくに、鬼島くんが恐ろしくなるようなことを言ってきた。

「君が入ってくれれば、社員第一号だ」

「へ?」今度はめまいがした。今、なんて言いました?

「昔テレビでやってた『スター誕生』って番組、知ってる?」彼が訊いてきた。なんとなく聞いたことはあったが、観たことはなかったので、「知らないです」と答えると、彼はスマホで再生したその番組映像を見せてきた。古ぼけた画像のなかで筋肉モリモリの男性が力こぶをつくって会場から笑いを取っていた。

 ああ、「なかやまきんに君」かと思っていると、下のテロップに、【ぶるうたす】と表示されたので、別の芸人であることが分かった。アイドル発掘のオーディション番組らしきものを勝手に想像していたぼくが、「なんだ、お笑いのほうだったんですね?」と少し肩透かしを喰らったように言うと、「いいや、なんでもいいんだ。音楽でも手品でもダンスでも」と鬼島くんはその目をきらきらさせた。

「こういうのをネット上でやりたいんだ。アプリを使って気軽にその能力を披露してもらえばいい。もしかしたら、それを観て共感してくれた誰かがスポンサーになって出資してくれるかもしれない。それなら、お金やコネのない人でもチャンスは無限大にある。全世界相手のオーデション番組だ。自分にどんな才能があるのかなんて、自分じゃなかなか分からないもんだ。ある意味、他人に評価されてはじめて、それが才能という形になるのかもしれない。人種も年齢もコネも一切関係ない。世界中の老若男女みんなが挑戦できるし、そんな夢を持った人たちの存在を知る機会を得るためにも、オレはそんな場所を提供したい」熱っぽく語った彼はフライドポテトの束を口に放り込むと、コーラをひと飲みした。

 そんな彼をぼくはぼうっと見つめていた。

 彼の話は妙な説得力を持ってぼくに響いていた。すごく大っきなこと考えてるなぁ。そういうことを考えていること自体に感心していた。

 曲登録のなくなったカラオケマシンから、人気のランキング曲として、女の子バンドのカラオケバージョンが流れていた。

「月火水木金と会社に行って、人に言われたことやって働く。そうじゃない人生もあるってこと、もっとみんなに知ってもらいたいんだ。認められれば、人生なんて、あっという間に変わってしまう。そういうことを世のなかに知らしめるためにも、是非とも君に協力してもらいたい」彼がまじまじとぼくを見つめてきた。

 口説かれることに慣れていないぼくは、なんと返せばいいか分からず、伸びてきた鼻の下をなんとか誤魔化そうとするだけだった。「でも、なんでぼくなんかを?」

「あの事件で使ったネット配信の仕組みは、君ひとりで構築したものなんだろう?」

「ええ、まあ……」ぼくはぎこちなく肯いた。

「すごいことじゃないか。理由はどうであれ、本気になった君はとてつもない才能を発揮する。あのバスジャック事件の映像を見て、そう思った。誰がなんて言ったのか、丸分かりだったじゃないか。中途半端な素人じゃ、あそこまでできない。熱意がなきゃね。そんな君の才能をオレは発見したんだ。オレがこれからやっていきたいことと一緒だ。その隠された才能をいま、オレが買いたい。『スタたん』スカウト、第一号だ」

 素直にうれしかった。遠くのまったく知らない人が、ぼくのことを見ていてくれ、認めてくれていた。こんなに胸が熱くなったのは、萌さんに励まされた時以来だ。「死ぬ覚悟があるんなら、なんだってできる」と。なんだか、あの時にも似た勇気が胸のあたりから熱く湧き出てきた。目の前にいる真っ黒な男に、ぐいぐいと惹かれていった。

「これからその事業をはじめる、ってことなんですか?」

「うん。いずれは広告収入だけで賄いたいけど、はじめはスカウトしてくれたスポンサーから何割かマージンをもらうしかないだろうな」彼は口をすぼめた。

「鬼島さんは今までは何をされてきたんです?」

「オ、オレ?」と鬼島くんは自分を指差したあと、「あのさぁ、敬語はよしてよ。実はこう見えてもオレ、君と同い年なんだ」と照れくさそうに耳を掻いた。

 聞けば、ぼくと同じ二十四歳だという。坊主頭で口髭も濃いせいか、どう見ても三十路以上にしか見えなかったが、「信じてくれないみたいだね」と見せてくれた運転免許証にある生年月日からは、確かにぼくと同時期にランドセルを背負っていた輩に違いなかった。

 親近感が湧き、少し力が抜けた。「じゃあ改めて。今までは何の仕事をしてたの?」

「オレねぇ……」そう答えた彼は天井を見あげた。

 大学卒業後に就職した中堅商社が超のつくほどのブラック企業だったらしく、この二年間、ほとんど休みなく日本全国の工場や倉庫を駆け回っていたそうだ。交通費も「後払いで」という謳い文句のまま、なかなか振り込まれず、催促するのも面倒になり、泣き寝入りすることも度々あったという。昔ながらの体育会系風土で、上司の指示は絶対。報告と連絡はあってもいいが、相談は下手をするとマイナス査定の要因になったそうだ。気づくと、四十人いたはずの同期が一年後には、十人ほどになっていたという。

「この会社、やっぱりおかしいぞ?」そう言って早めに見切りをつけていった同期の意見に賛同しながらも、「取り敢えず三年は頑張らないと辞め癖がついてしまう」などという社会通念を、自分の気持ちよりも優先していたそうだ。使い捨てのつもりで大量採用されていたことにも気づかず、「診断書が出たので休ませてください」と言って、そのまま復帰することなく消えていった同僚たちを横目に、三年というまったく根拠のないゴールを目指し、不条理な指示に耐え続けた。

 そんななか、あのバスジャック事件が起きた。映像を見た鬼島くんは、「まるで自分の会社の様子を外から観ているようだった」と言い、「あの事件のお蔭ですべてがバカバカしくなったんだ」と、ぼくが素直に喜んでいいのか分からなくなってしまうようなことを清清しく言ってきた。

 その後、彼は先輩を殴るという暴力沙汰を起こしてしまい、解雇されてしまう。

「そのための新入社員だろう?」客先に謝りにいく前、喫煙所で先輩ふたりがそう言っているのを、トイレ帰りにたまたま聞いてしまったそうだ。新人に罪を全部押しつけてしまえばいい、そういう役目なんだから、と笑っていたそうだ。

 「元気を出して」という曲を彼が歌い出したところで、ようやく彼が人を励ます曲ばかりを選んでいることに気づいた。【あなたの小さなミステイク、いつか想い出に変わる】その歌詞が心に響いた。

 きっと自信をなくしていたぼくを励ましてくれているんだろうなと思いつつも、敢えて訊かなかった。口にしてしまうことで、彼の厚意がありきたりなものになってしまいそうな気がした。目を瞑って熱唱する彼の心意気がとにかくうれしかった。代わりにそれに応えようと、ぼくも元気ソングを選んでいった。

 いつのまにか彼のことが好きになっていた。この人となら、頑張ってみてもいいかな。そんな風に思えていた。

 最後に、「バンザイ」を一緒になって歌い、握手まで交わしていた。


 あの時、鬼島くんに誘ってもらえて、ほんとうによかった。その後の仲間にも恵まれた。どこかの社長が言っていた。「人生のなかの仕事であって、仕事のなかの人生ではない」と。

 ほんとうにそう思う。仕事は選んでいいのだ。続けてあの時の萌さんの言葉が甦ってきた。「きっと、あなたを待っている世界がある」と。

 新宿駅東口の階段をあがっていくと、壁に寄りかかっている大勢の人の姿が見えた。

「さすがに混んでるなぁ」とひとりごちりながらも、自分もその一端を担っていると思うと、致し方なかった。

 アルタを中心とした喧騒のなか、【着きました】と待ち合わせ相手にメッセージを送信すると、すぐさま、【ごめん、遅れる。あと二十分くらいかかる】と返ってきたので、どこか適当な場所はないかと見まわした。

 途中、リュックを背負った男と視線が交差した。同じく居場所を探しているようだった。こんなことで競いたくないのだが、まわりを取り囲む待ち人たちの真んなかに、ぽつんと立っているわけにもいかず、きょろきょろしていると、ちょうど正面で待ち人を見つけた人が、「私出ます」とばかりに手をあげて出てきたので、ぼくはその隙間を運よく確保することができた。恐る恐るリュックの男のほうを見ると、こっちを見て口を尖らせていたので、ごめんねと申し訳ない気持ちになった。

 パイプに寄りかかり、駅のほうを向いた。左手に交番があり、警官の姿があった。

 思わず腰をあげた。一瞬だが、事件当時の記憶が甦っていた。

 立ちあがったぼくを見て、先ほどのリュックの男が、「そこ空くの?」と期待の目を向けてきたので、「ごめんなさい、間違いです」と頭をさげて腰を戻した。

 取り調べを受けて以来、警察というものが苦手になっていた。こちらが悪かったとはいうものの、事件とはあまり関係のなさそうなプライベートなことまで問い質され、精根尽き果てた。あんな経験はもう二度としたくない。

 街に大音量のビートが流れはじめた。その聴き覚えある曲にアルタの大型ビジョンを見あげた。モデル出身のタレント、アリーシャが走り、跳び、ウェイトを持ちあげ、また走りはじめる。「カラダ生活してる?」お決まりのフレーズでそのCMは終わった。

 まわりが見入っていたのを見て、なんだかうれしくなった。

 最近、純子さんの会社が目覚しいほど注目を浴びている。きっかけは先ほどのアリーシャが、純子さんが考案した「ブイ・フィット」という連動型フィットネスの効果に感銘し、SNSで拡散したことからはじまる。今や若い女性はともかく、中高年女性までも取り込み、関東圏に十店舗ほどあるジムは入会困難な状態が続いているという。年内にさらに数店舗開設し、今後中部、関西方面にも進出していくらしい。空前の美魔女ブームが巻き起こっていた。

 数年前、銀行主催のビジネスコンテストで最優秀賞を取った純子さんは、その軍資金を元に会社を興した。その時点で「ブイ・フィット」はある程度可能性を認められていたのだが、広告費まで捻出できないせいか、なかなか世間に周知されないでいた。

 そこで考えた純子さんがアリーシャにアプローチをかけたらしい。まだタレントとして売れはじめる前のことだ。先見の目を持っていたと言っていいだろう。アリーシャの素質を見抜き、専属トレーナーとして彼女を全面バックアップした成果がこれだ。

 調子いいなぁ、純子さん。ぼくも頑張らなきゃと励みになった。

 昔のことを想ったせいか、そう言えば、と会社を辞めたあと、同期だった植田くんが電話をくれたときのことを思い出した。鬼島くんと仕事をしはじめてから一年ほど経った頃だった。

「久しぶり」懐かしさのこもる挨拶を交わしたあと、「あのあと、もう大変でさぁ」と会社のことを愚痴った彼は、「全部お前のせいだぞ?」と冗談っぽく責めてきたが、話の節々からぼくがどうしているか心配して連絡してきたことが伝わってきた。

 あの事件のあと、ぼくを含めた何人かが会社を辞めていた。権藤さんと黒木さんも辞めようとしたらしいが、その歳では職探しも難しいだろうからと社長に諭されたそうだ。

 けれどそれも長くは続かなかったらしい。降格こそされなかったものの、役を解かれたふたりは本社に異動となったのだが、まったく使いものにならなかったそうだ。穏健派めいたことを言っていたのも最初のうちだけで、すぐに地の性格を出してきたらしい。

 営業部門の目付役として、事務所入口近くの席に陣取った権藤さんは、仕事を装い、マウスをクリックし続ける毎日で、人が通るたび、「行ってらっしゃい」と声をかけた。皆が気を遣い、「行ってきます」と先に声をかけるようになると、次第に挨拶する人としない人をチェックするようになっていった。誰かが冗談交じりにつけた「門番」という肩書きを妙に気に入ってしまい、それからは水を得た魚のように、ほんとうの門番となってしまったそうだ。挨拶しなかったり、声が小さいと、公にその人のことをけなすようになり、次第にその上皇然とした態度が煙たがられていった。どうやら目付役の意味を履き違えてしまったらしい。

 そんな権藤さんはともかく、総務部に配属された黒木さんは、「俺は細かいこと分からねえからよ」と相変わらず面倒なことは部下にやらせようとするため、まわりの女子社員たち間で不満が蓄積していったそうだ。そんなことなら、最初から自分たちでやったほうがいい。仕事を回されなくなった黒木さんは、徐々に居づらくなって休みがちになり、そのうちに会社に来なくなってしまったそうだ。

 そしてその数ヶ月後、ふたりが逮捕された。駅前のドーナツ店に深夜、侵入したのだ。防犯センサーが作動し、通報を受けた警察が駆けつけたところ、店内のソファでふたりが泥酔状態で寝ていたという。権藤さんが定年退職する二週間前のことだった。ほんとうかどうか定かではないが、噂では自分と同じ境遇だったはずの権藤さんが普通に退職金までもらって退職していくことが許せなかった黒木さんが、お祝いと称して権藤さんを誘いだし、潰れるまで呑み食いさせた挙句、捕まることを承知で店に侵入したんじゃないかと言われている。

 今は大丈夫なんだろうか? 勝手な心配と懐かしさから、【和栄テクノ】とスマホで検索してみた。会社のホームページを開くと、大都市の航空写真をバックに、スーツ姿の男女四人が遠くを見つめていた。皆、口を引き締め、いかにも仕事ができそうだった。業績を見ると、ここ数年は前年比増の右肩あがりだった。

 みんな頑張ってるんだな。自然と笑みがこぼれた。経営理念の欄には、見事に生え際が後退し、おじさんと化した田丸さんが代表取締役として社外に向け、メッセージを送っていた。経営者らしい整然とした顔つきをしていた。

 ぼくがいた頃、田丸さんはいつも忙しく、よく休日出勤していたものだ。あの時の苦労がなんだか報われたような気がして、心が温かくなった。

 プンッ、と通知音が鳴った。妻からのLINEだった。

【栞がお父さんばっかり出かけてズルイってさw もうグズって大変よw】

 泣き顔の娘を想像し、自然と笑みがこぼれた。【お詫びに】と入力した。

【帰りにお菓子でも買っていくよ。それで許してって、言っておいて】

【冗談よ、冗談w。ひさしぶりなんだから楽しんできなよ。私からじゃなんだけど、當間さんによろしく言っておいて】と書いてきた。

 よろしくって……。そんなこと、言えるわけないだろう……。


 當間さんから会社に電話があったのは、月曜の昼休みが終わったあとのことだ。内線が鳴り、受話器をあげると、「NPO法人ノアリティのトウマという方からお電話が入ってますが、お繋ぎしますか?」と総務役の社員が伝えてきた。

 NPO? ノアリティ? 最初は会社名のほうに意識がいってしまい、「マンションの勧誘だったら断ってください」と突き返してしまった。すると再び内線が鳴り、「昔会社が同じだったトウマという方で、どうしてもお話しがしたいと」と伝えられた。

 耳を疑った。そんなはずは……。緊張して身体が硬くなった。

「も、もう一度名前言ってみて?」と訊き返すと、「トウマ様です」とはっきりと返された。突然の非常事態に、受話器を握ったまま、あたふたしてしまった。急になんだ? なんの用なんだ? まわりに座るプロジェクトメンバーが不思議そうな顔をしていた。

 なかなか反応を示さないぼくに、「どうします? 不在にしておきます?」と彼女が痺れを切らしてきたので、「ほんとうに私宛てですか?」と訊き返した。

「ええ、ほんとうに徳丸さん宛ですよ」と失笑されてしまった。目の前の電話機の三つある外線ランプが、一つだけ赤く点滅していた。恐らくこれだ。「一番?」と訊くと、なんとなくこちらの気持ちを察してくれた彼女が、「徳丸さん、今光っているのは一番だけですよ?」と冗談ぽく背中を押してくれた。

 覚悟を決めた。よし、とひとり小さく気合いを入れてから、ボタンを押した。「お電話代わりました、徳丸です」

「ご無沙汰してます。當間です」

 緊張しているからだろうか。懐かしいというより、はじめて聞くような声に感じられた。「こ、こちらこそ、ご無沙汰してます」反射的に頭をさげていた。

「突然お電話してすみません、徳丸さん」

 と、徳丸さん? ビジネス的敬語を使われ、背中のあたりがむず痒くなった。

 緊張するぼくに、當間さんは昔と変わらない元気な声で、最近のうちの会社の活躍を褒め称えたあと、今の自分の状況を伝えてきた。

 現在、ノアリティ(「ノアの箱舟」から引用しているらしい)というNPO法人を立ちあげ、電話やメールで労働相談を行う慈善活動をしているという。その活動のさなか、うちの会社が実践している「役職、上下関係、一切なし」の評判を聞きつけ、その実情を是非とも聞かせてほしいと、電話してきたのだった。

 昔話を交えながら一通りの説明をし終えた頃には、ぼくの緊張も解け、彼の敬語も消えつつあった。

「だからたまたま今、リーダー役が多いというだけで、別段ぼくが誰それの上司ってわけじゃないんです」

「なるほど、それは皆が幸せになる仕組みだ。がんばってるなぁ、徳丸さん」

 背中がまたむず痒くなった。いい加減堪らなくなり、「気持ち悪いですから、昔みたいに呼び捨てにしてください」とお願いした。

 當間さんは電話の先で、「うーん」と唸ってから、「じゃあ、そうさせてもらうわ」とすんなり同意してくれた。きっと向こうもやりにくかったのだろう。

 このやりとりで、肩の力が抜けた。

「オレがこんな仕事してるなんて、思わなかっただろう?」

「ええ、正直言って驚きました」と本音を伝えた。

「おっ、言ってくれるねぇ」當間さんはうれしそうにそう答えると、続いて、「あのあと、何やってもダメでな」と鼻を鳴らし、いろいろな職を転々とした挙げ句、今に至っていることを赤裸々に告白してきた。

 聞いていて、不思議な感じがした。

 これがあの、プライドの塊のようだった當間さんなのか? 何を言っても怒らなそうな、その柔らかな物腰に驚きながらも、胸の奥底に溜まっていた霧がすっと晴れていくような清々しさを感じた。

 十年って、すごいな。人をこんなにも変えるもんなんだ。

「よかったら、今度会わないか?」

 やはりそうきたか、と思いながらも、嫌な気はしなかった。「いいですね、是非会いましょう」素直に口に出た。

 携帯番号を伝え、電話を切った。

 ふうと大きく息を吐いた。なんだかとても疲れたが、充実感に満ちていた。長い間ずっと空いていた穴がようやく埋められたみたいだった。

 顔をあげると、今の会社にいた。目の前で今の会社の仲間が働いていた。

 職場を見渡した。みんな生き生きとしていた。十年前にいた会社とは、まったく違う。あの時のぼくのように、死んだ目をしている人など、どこにもいない……。

 いかん、とすぐに自分を戒めた。

 そう思っているのは自分だけなのかもしれない。おごったと感じた時にはいつも勘違いしないよう、そう自分を戒めるようにしている。人は公の場で本音を出さないものだ。大人だったら尚更だ。それがマナーであり、モラルだからだ。だからこそ長く会社にいる者こそ、いつも謙虚な目でまわりを見ていなければならない。

 あの頃のぼくは何をやっても空回りしていた。誰にも認められず、それを打開することもできず、ひとり悶々としていた。朝起きてから夜寝るまでの間、ずっと憂鬱がつきまとっていた。苦しくて苦しくて死んでなくなってしまいたいとさえ思っていた。

 そんなあの頃の自分が、この事務所のどこかに座っているかもしれない。そんな苦しんでいる人がいたら、それをつくり出したのは、ぼくだ。苛められっ子が苛めっ子になったら、おしまいだ。大袈裟かもしれないが、人生の半分は仕事仲間によって決まる。ぼくはそう思っている。


 當間さんによろしく言っておいて――。社交辞令とも取れる妻のメッセージに、なんと返せばいいか分からず、まごついていた。

 當間さんは、ぼくが結婚していることを知らなかった。結婚して子供もいることを伝えると、「そうか、おめでとう」と驚きを含んだ声で祝福してくれた。だからぼくの結婚した相手が誰なのかはおそらく知らない。

 伝えるべきかどうか悩んだ。知ったら、どう思うだろう? 想像するとやはり怖くなった。ならば敢えて伝えるべきではないだろう。成り行きで、「相手はどんな人なの?」と訊かれたら、その時になって話せばいい。それでいい。そう思った。

【了解】と妻に打ち返したあと、後ろめたい気分になった。

 でも今のあの、電話で話したあの當間さんなら、妻のことを許してくれている。そんな気がした。もしかしたら、逆に妻に謝りたいとすら思っているかもしれない。そう思えた。そうじゃなきゃ、こうして大嫌いだった彼に、ぼくも会いになんて来ていない。


 四年前、鬼島くんが急に、「秘書を雇いたい」と言い出した。ちょうど英語圏版の「スタたん」からデビューしたスリランカ人の兄妹デュオがUKチャートを駆けあがっている最中だった。その哀愁あるメロディーと女性ボーカルの温かい歌声に、「カーペンターズの再来」と騒がれ、そのサクセスストーリーとともに、きっかけとなった日本発の「スタたん」が全世界で注目を浴びるようになっていた。

 会社の代表である鬼島くんは、海外出張が多くなり、マスコミ対応にも追われ、必然的に彼のスケジュールを管理する人が必要になっていた。ぼくは敢えて採用しなくても、うちの業務をよく知っている今の社員のなかから選んだほうがいいんじゃないかと提案した。そのほうが効率的だし、万一このブームが一時的なもので終わってしまっても、損失が少ないからだ。

 けれど鬼島くんは、「いい人材を見つけたんだ」と言って引かなかった。その目がなぜか、いつも以上にきらきらと輝いていて、悪戯っぽく見えた。

 まさか美人な秘書でもつけたくなったか? そんな疑心がよぎったが、彼に限ってそれはないだろう、とすぐにそれを打ち消した。

 鬼島くんには奥さんがいる。何回か家にお邪魔したことがあるが、気さくでとてもよくできた人だ。ぼくたちが同い年ということもあるかもしれないが、出された食事にぼくがなかなか手をつけないでいると、「遠慮しないでね?」と促してくれ、それでもあまり食べないでいると、「会社のためにもちゃんと栄養とってね?」と取り皿に料理を盛ってくれた。ぼくはただ、母親以外の手料理というものが、なんとなく苦手だっただけなのだが、彼女の勧めに応じて食べ続けていると、そんな苦手意識もいつのまにか消え去り、おいしく感じられるようになっていた。もちろん彼女の手料理がおいしいからではあるが。

 彼女は以前、とある上場企業で保健師をしていたそうだが、今は家庭に入り、忙しくなった夫の健康管理をしている。そんな彼女のことを鬼島くんが「大」がつくほど好きであることが、見ていて充分なほど伝わってきた。幸せなんだろう。奥さんは小学校の時の同級生で、鬼島くんにとって初恋の相手だったという。

 彼女もぼくと同じく、彼に口説き落とされたらしいが、今ではそうされてよかったと、彼が離れた時にこっそりと教えてくれた。「同感」とぼくが伝えると、彼女は、「ありがとう、そう言ってもらえると私もうれしい」と白い歯を覗かせた。

 そんな羨ましいかぎりの人生を送っている彼には、道を踏み外さないで欲しい。最近まわりににちやほやされ、調子づいてないか? 少し彼のことが心配になった。

 大好きな人と一緒にいられるのって、すばらしいことなんだぞ? そうひとりごちたところで、おのずとあの人の顔が浮かんできて、切なさにぐっと胸が締めつけられた。

 事件後、執行猶予がついたというものの、萌さんの消息は不明となった。ネットで彼女の名前を検索すると、たくさんの目撃情報が見つかった。だがどれも怪しいものばかりだった。当時は彼女のファンサイトのようなものがいくつもでき、事件後の彼女の消息をこぞって追っていた。住んでいた磯子のアパートには、ストーカーもどきの男たちが昼夜問わずたむろし、近所住人からの通報で警察沙汰にもなっていた。そんな状況を予想していたのか、彼女のほうは事件前に既にそこを引き払っていた。「沖縄で見た」「北海道で見た」などと、さまざまな情報が飛び交ったが、どれも確証なく風化していった。

 どこにいても、元気でいてくれさえすればいい。そう願いながらも、その切なさはいっこうに消えなかった。

 もう結婚しているかもしれないな。あんなにきれいで優しい人なんだ、普通の男なら放ってはおかないだろう。男なら……。そうウジウジと考えるばかりで、何もしなかった自分に何度も蓋をしていた。

 数日後、ロンドンに着いた鬼島くんから電話が入った。

「秘書採用した人を迎えに行って欲しい」

「そんなの、人事に」そう反論しかけたところで、「ごめん、今回は徳ちゃんが一番適任なんだ。手配しといたから、よろしくっ」と一方的に切られてしまった。電話し返したが出てくれなかった。

 適任って……。出発前に、「秘書を雇いたい」と言った時の、彼のぼくに向けた悪戯っぽい眼差しが甦ってきた。やれやれ、こういうことだったのかと嵌められた悔しさはあったものの、鬼島くんは意味のないことをしない人なので、何か知ってるかと素直に人事に訊きにいった。

「鬼島さんから、『徳さんが来たら、これを渡してくれ』って」と卒なく封筒を手渡された。席に戻り、きっちりと糊づけされた上部をハサミで開封すると、三つ折にされたA4用紙が二枚入っていた。

【業務命令:来る四月十三日、郡山駅前にあるホテル「アドミール」に宿泊せよ】

 驚いて、もう一枚を確認すると、それはネット予約したホテルの控えらしく、住所は福島県からはじまっていて、下にある地図には郡山駅が、「私が目印です」とばかりに真ん中に鎮座していた。

 ふざけてるのか? すぐさま鬼島くんに電話をした。

 出てくれない。仕方ないので、LINEで文句を言った。【こんな忙しい時に郡山まで行けって、どういうこと?】

 返事はすぐに返ってきた。こいつ、電話には出ないつもりか。【会社の将来のためにも、必ず行ってね。三日間休みにしておいたからさ(音符マーク)】

 すぐさまグループウェアを確認した。四月十三日から十五日までの三日間、スケジュールがいつのまにか、【出張:福島】と埋められていた。更新者を確認すると案の定、鬼島くんだった。ぼくが封筒を受け取ったことを知り、すかさず登録したのだ。それもわざわざ海外から。

 あきれてものが言えなくなった。鬼島くんのことだ。何か目的があって、こういうことをしていると察しはつくが、いくらなんでも人を迎えに三日間も潰すというのは、少々やりすぎじゃないかと思った。今、仕事の残件は山積みなのだ。

【悪いんだけど、他の人に行ってもらえないかな? 今、忙しいからさ】と入力した。

 すぐさま返事があった。【だめです。これは業務命令です】

 あきらめた。鬼島くんは大事な場面では絶対に引かない。その判断が今までこの会社を正しい方向へと導いてきた。ここは断るほうがリスクが高いと体感的に思えた。

 覚悟を決めた。【肝心な採用者の名前がないじゃないか】と送ると、【そのホテルにいる】とだけ返ってきた。

 そこに宿泊しているってこと? アドミールを検索してみた。画面に細長のビルが映った。古めかしいビジネスホテルだった。ほんとか? 再びA4用紙を確認した。

 一泊、四千五百円――。大丈夫かと心配になった。もちろん大浴場などの贅沢な施設はない。なぜこんな地方の寂れたホテルにその採用者がいるのか不思議でならなかった。

 まぁ、その人がそのホテルにいるのなら、翌日には帰って来れるだろう。そう気軽に考えることにした。


 四月十三日。郡山はあいにくの雨だった。空一面が灰色の雲に覆われ、僅かに抱いていたぼくの旅行気分をいっきに萎ませてくれた。

 折り畳み傘を開き、駅から五分というホテルアドミールを目指した。通行人に迷惑にならぬよう、キャリーケースを反対に持ち替える。

 大通りに面した新しめのホテルを何軒か通り過ぎたあと、スマホの案内のまま右に曲がっていくと、寂しげな路地がまっすぐ北へ延びていた。【駅前銀座商店街】と書かれた黄ばんだ外灯が奥のほうまで点々と連なっている。

 予想通りの格安ホテルか。気落ちしながら殆どシャッターのおりた商店街を進んでいくと、数件先にホテルアドミールがあった。ネットで見た写真より、実物はさらに古臭かった。築四十年といったところか。うす暗いエントランスに昭和情緒が漂っていた。

 自動ドアでなかに入ると、すぐ手前に受付カウンターがあった。四畳半ほどしかなく、ロビーとはいえない。当然、人と待ち合わせるスペースなど存在しない。

 ここにいるってことだけど、まさか、ここの従業員のことか?

 しばらく真正面の壁にある鍵棚と対峙していたが、いっこうに誰も出てこないので、カウンター上にある呼び鈴を鳴らした。

「あーい」と低い女性の声がし、「へいへいへい」というかけ声とともにサンダルの擦れる音が近づいてきた。暖簾の先から出てきたのは恰幅のよい女性だった。紫色のパーマ、それも短髪だった。「は~い、いらっしゃあ~い」浴びせられた息が煙草臭かった。

 この人じゃ……ないよな?

 もし着ている服が制服でなく、アニマル柄だったら、「大阪のおばちゃん」が完成しそうだ。分厚いレンズの奥にある目が、どうしたの? とぼくを覗き込んでくる。

「よ、予約した徳丸といいます」

「ああ、お客さんね? じゃあ、そこに住所と名前書いといて」そう言うと女性は手元の台帳を開きはじめた。

 さすがは四千五百円、と納得しながら、そばに転がっていたボールペンのキャップを開けた。

「ちゃんと電話番号も書いてね?」と言われ、「え?」と顔をあげた。

「たまに、『電話番号も書くんですか?』なんて、わざわざ訊いてくる人がいるのよ。書くの当たり前でしょう?」彼女は脂肪分たっぷりの頬を揺らして同意を求めてきた。

「そ、そうですね」と笑い顔をつくると、彼女は満足げに口の端をあげた。胸元にあるプレートには、【よしこ】とひらがなで書かれていた。

 一瞬、名前なのかと疑ったが、いくらなんでもホテルの受付でそれはないだろう、と思い直し、きっとこの地方特有の名字か何かで、漢字が難しくて読めないから、敢えてひらがなにしているのだろうと踏んだ。

「出張でこちらへ?」

「ええ、そんなところです」

「大変ねぇ、週末なのに」

「いや、まぁ」ペンを進ませながら、よしこさんの質問に受け答えしていった。

「うちを選んだのは、やっぱり安さ?」

 答えに困る。「すみません、私じゃなく、会社の者が予約しましたんで……」

「へぇ~それは残念だったわねぇ。ボロっちぃホテルでびっくりしたでしょう? もっといいホテル、まわりにたくさんあるのにねぇ。きっと会社の人がケチったのよ、きっと」よしこさんは愚痴るように言った。ぼくに同情しているというよりは、このホテルの経営者に文句を言っているように聞こえた。

「いえ、そんなことは……」

 ひっきりなしに浴びせられる煙草臭に耐えながら、やっとのことで宿泊伝票を書き終えると、よしこさんは内容(特に電話番号)も確認せず、後ろの鍵棚に手を伸ばした。

「ありゃりゃ? なんか入ってるぞ?」よしこさんはルームキーとともに取り出したメモらしき紙を見て、何やらぶつぶつ言いながら、カウンター下へと消えていった。がさごそと音がしたあと、「これかぁ」と声が聞こえ、汗ばんだ赤い顔のよしこさんが大きな茶封筒を持って出てきた。そして、「徳丸さんでいいんだよね?」と改めてぼくの名前を確認してきた。ぼくが、「はい」と答えると、「だよね?」とぼくのことを指差し、「なんかあなた宛てに届いてるわよ?」と昔ながらのプラスチック棒のついたルームキーとともに、その封筒を差し出してきた。

 宛名欄には確かにぼくの名前があり、住所は郡山のこのホテルになっていた。誰からだ? と裏返すと、鬼島くんの名前があった。

「どこからなの?」とよしこさんが興味深げに訊ねてきた。

「ああ、いや、会社からです」

「めずらしいわね? 今時、宿泊先に郵便だなんて」

 なんとなく、なかに何が入っているかが想像できた。鬼島くんのことだ。こうやって情報を小出しにして楽しんでいるのだ。人を楽しませるために彼は手間を惜しまない。だが今回、ぼくのほうはまったく楽しくない。面倒なだけだ。きっと中身は迎えに来た人の情報で、おそらくファイナルアンサーではない。何がしのヒントが書かれているだけだ。

「まさか、これから部屋でお仕事?」

「いえ、少し休んでから外で食事しようかと」

「よかったら、夜、二階のラウンジに来てちょうだいよ」よしこさんがにやりと銀歯を見せた。

「は、はあ……」引き気味に答えた。

「今日泊まるお客さん、あなただけだから、いっぱいサービスしちゃうわよ?」とくちびるをすぼませ、しなをつくっている。

「はい……」きっと行かない。

 ガタガタと揺れるエレベーターで八階に向かった。客がひとりしかいないのに最上階に案内されるということは、よっぽどラウンジとやらがうるさいのだろう。

 ドアノブの鍵を回し、部屋に入ると、ほんのりとカビ臭さを感じた。古いんだから仕方がない。そのうち慣れるだろうと床に荷物を置き、封筒を手にベッドに腰をおろした。マットが沈み、ギギと窮屈そうにスプリングが鳴いた。

 封筒には案の定、鬼島くんからの伝言が入っていた。

【業務命令:四月十四日、郡山駅発のバスツアーに参加せよ】

 固まった。そんなことをさせるのか。半ばあきれながら、一緒に入っていた旅程表とチケットを確認した。【マウントツアー】明日の土曜、郡山駅西口朝八時発の「歴史と桜の鶴ヶ城」という日帰りツアーだった。

 なんでこんなバスツアーなんかに参加しなきゃならないんだ。それも男ひとりで……。観光バスのなか、ぽつんとひとり席に座る自分の姿が浮かび、寒気がした。

 スマホで、鶴ヶ城を検索した。ホテルから車で一時間もかからないほどの距離だった。レンタカーでも借りれば、すぐだ。敢えて観光バスで行く理由が分からない。

 なんでこんなことさせるんだ? すぐさま鬼島くんに怒りのLINEを送った。

 返事はすぐにあった。【ちゃんと受け取れてよかった。反応がなかったら、同じ資料をメールで送るところだったよ】

 火に油を注がれ、すかさず、【帰る!】と突き返した。

【業務命令です】

【帰る!】

【採用者はそこにいます!】

 そのバスにいるって? ということは、その人とこのツアーをまわれということか。親睦を兼ねて。そういうことだったのか。

 怒りが収まりかけてきたところで、【そういうことでよろしく、ね!】と送られてきた。再び怒りが込みあげてきた。【ね!】ってなんだ、【ね!】って。

 近くの中華食堂で夕食を済ませたあと、まだ雨が降っていたので街の散策もせず、すぐにホテルへと戻った。テレビがつまらず、あまりにも暇になったので、ラウンジとはどんなものかとおりてみることにした。決してよしこさんと一緒に呑みたいわけではない、ただの怖い物見たさだ。こう言ってはなんだが、こんな寂れたホテルだ。きっと客なんかいないに違いない。こっそりとその哀愁具合を確認したら、すぐに折り返してくるつもりだ。

 エレベーターで恐る恐る二階におりていくと、外から音が聴こえてきた。カラオケのようだ。扉が開くと、大音量の歌声が迫ってきた。そのあとにいくつものガヤ声が聞こえてくる。どうやら客はいるようだ。

 結構、繁盛してるじゃないか。ラウンジはエレベーターを出たすぐそばにあった。入口前に立て看板が置かれている。奥に延びた廊下の先は真っ暗で何も見えない。

 忍び足で近づいていった。立て看板には、黒地の上にピンクの蛍光ペンで、【ラウンジ(ハートマーク)】とはっきり書かれていたが、下にある店名らしき文字は消えかかっていた。読めそうで読めないその文字が気になり、指で追っていった。

 はじめは、【よ】に見えた。次が難しかった。う~ん、【し】? かな、で次は……。

 ホラー映画にも似た悪寒が走った。まさか……。

 最後のかすれた文字が、【こ】に見えてきたところで、仰け反ってしまった。

 同時に靴先が看板の脚に触れてしまい、ふらついた看板がパタンと倒れてしまった。

 まずい。慌てて立て直そうとした。けれど、もともと不安定だったのか、なかなか看板は自立してはくれなかった。

 そこに聞き覚えのある低い声がした。「あれまぁ、お兄ちゃん、来てくれたのねぇ」

 恐る恐る顔をあげると、入口に妖怪が立っていた。電飾の淡い光のなかで、よしこさんの青白い顔がぼんやり浮かんでいた。

 やはりホラーだ。床の上でたじろいだ。

「そんなのいいから、入って入って」よしこさんが後ろにまわり、背中を押してぼくを強引に店のなかへと押し込んでいった。

 奥にあるボックス席で十人ほどの年配の男女が談笑していた。皆、ラフな格好をしていた。作業着姿の人もいれば、ジャージ姿の人もいた。どうやらここは、地元の社交場になっているらしい。

 ぼくはそこに放り込まれた。「いらっしゃ~い」歓迎を受けたぼくは、その後小一時間ほど、その地元の紳士淑女たちと戯れる羽目になってしまった。

 だがそれは、警戒していたほど悪いものではなかった。むしろ楽しめるものだった。皆とてもいい人で、都会から来たこの若輩者を快く受け入れ、飽きさせないよう、いろんな話題を振ってきてくれた。このホテルが潰れない理由がなんとなく分かったような気がした。

 途中、よしこさんに、「【よしこ】って、名前だったんですね? 名札を見て、もしかしたら名字なのかなぁ、なんて思ってたんですよ」と伝えた。

 するとよしこさんは、真っ赤に塗ったくちびるをうれしそうに広げ、「そうなの。でも実は本名じゃないのよ?」と手を添え、こっそり教えてくれた。

 本名は、「牧野妙子まきのたえこ」というらしく、「よしこ」は源氏名なんだそうだ。

 彼女のセンスがよく分からなかった。

 翌日、カーテンを開けると、眩しいほどの朝日が差し込んできて、いっきに部屋が明るくなった。昨日とは打って変わっての晴天。青空の下、郡山市街地の朝の風景を一望、とまではいかないが、遠くの山々まで見ることができた。よしこさんが最上階の部屋を選んでくれた理由がなんとなく分かったような気がした。

 絶好のお花見日和に気分も高揚してきた。バスツアーなんて、あの事件の以来、一度も行っていない。いや旅行というものにすら、ずっと行っていない。今日一日行動をともにするその採用者がいい人だといいのだが。

 前日にコンビニで買っておいたおにぎりを食べながら仕度をしていると、ドアがノックされた。覗き穴を見ると、人間の姿に戻ったよしこさんが制服姿で立っていた。

「どうしました?」ドアを開けると、「ワイシャツ出しなさい」といきなりドラえもんのような手を出してきた。

「はい?」

「昨日お店に来てくれたお礼に、アイロンかけてあげる」

「いいですよ、そんなの」と手を振ると、「若い子が遠慮するもんじゃないよ」と引きそうになかったので、仕方なくワイシャツを差し出した。

「何時に出るの?」よしこさんが振り返って訊く。

「七時半には出ようかと」

「分かった、超特急で仕あげるわ」片手をあげたよしこさんが身体を揺らしながらエレベーターのほうに消えていった。

 いい人だ。心が温かくなった。

 戻ってきたワイシャツはまっすぐな上に糊づけまでされていた。これから大事な採用者に会うんだ、と否が応でも気分が引き締まった。

 駅西口の集合場所には、ツアー客らしき集団がそこかしこにできていた。案の定、年配の女性ばかり。このなかに男ひとりでいるのは、ちょっとした忍耐力が要りそうだ。やはり採用者頼みだ。

 連なった観光バスの横を進んでいくと、嫌でも事件当時のことが思い出された。浮かんでくるのは、もちろん彼女のことばかりだ。

 ぼくのなかで生き続ける萌さんが笑ったり、むっとしたり、時には悲しそうにしたりする。もちろん、どれもきれいだ。ずっと会っていないから、美化し過ぎているかもしれない。といっても、二割増しまではいってないだろう。

 小さなため息をついたあと、洟をひとつすすった。


「ミカサツアーはお土産で、がっちり!」マイクに向かい、萌さんが拳をおろした。

「いいんじゃないですか」録音した音声を確認し、ぼくが言った。

「よかったぁ」彼女がほっと安堵の息を吐いた。

 もう十年も前になる。彼女と一緒に社員旅行のバスで流すであろうDVDの吹き替えを、ぼくのアパートで行っていた。映像元は、彼女が以前バスガイドとしてほんとうに勤めていた「港南ツーリスト」でのテレビ取材時のものだ。当時のリポーターや彼女が発した言葉で、辻褄が合わない部分をぼくや彼女自身の声で吹き替えていった。

「ほんと、こんなことしてもいいんですかねぇ」作業中、彼女はそう言って不安をあらわにした。

「そりゃあ、いけないですよ、もちろん。でも、お父さんのためにここまでやってきたんですから、このまま突き進まないと」ぼくはそう言って彼女を励ました。

「そうですよねぇ……」罪の意識に苛まれているようだった。

 決行することに変わりはないと思う。けれどいくら復讐が目的とはいえ、これから全国ニュースになるようなバスジャック事件を起こすのだ、不安になって当然だ。大人びているとはいうものの、まだ二十歳の女の子なのだ。ずっと背徳感に苛まれているに違いない。

 ぼくは彼女の一言に救われた。きっと、あなたを待っている世界があると――。

 だから今度はぼくが彼女を助ける番だ。そう決心し、犯罪だと知りつつも彼女に協力していた。それでいいと思っていたし、彼女となら何も怖くはなかった。

 萌さんはぼくの用意した機材を見て、感心したように、「すごいね」を連発していた。「徳丸さん、これは特技だよ。やっぱり、こういうことを仕事にするべきだよ」とも言ってくれ、いっぱしのエンジニア気分になった。褒められるたび、やってやれないことはないと実力以上の力が発揮されていった。

 決行前日の夜、ぼくたちは港南ツーリストの車庫に忍び込んだ。翌日使用する観光バスに細工をするためだ。レンタカーに用意した機材を積み込み、途中駅で萌さんを拾って現地に向かうと、待っていた萌さんの元同僚の鴨江さんが門を開けてくれた。車庫といっても屋根のないただのだだっ広い駐車場で、真冬の冷たい夜風の吹きすさぶなかでの過酷な作業となった。車内の様子を鮮明に捉えるため、いたるところに配線を這わせ、前方のメインカメラ以外にも、宴会席にも高感度の小型カメラを設置していった。「お金のことは気にしなくていい」と萌さんは言ってくれたが、後に彼女に降りかかってくるであろう賠償金のことを考えると、そうもいかなった。ぼくは可能な限り車体に傷をつけぬよう、必要最小限のネジ穴を開けていった。

 運転手役の鴨江さんは少し変わった人で話しかけてもなかなか反応が返ってこなかった。萌さん曰く、しゃべりたい時にだけしゃべる、自由気ままな人なんだそうだ。バスの運転技術は社内でもピカイチなのだが、急なシフト変更などコミュニケーション能力のないあいつにやらせておけばいいと強いてくる会社の上層部に不満を持っていて、「会社に復讐できるなら」と解雇覚悟で元同僚の彼女の呼びかけに喜んで応じていた。

 ここにもぼくと同じような人がいた、人が多く集まると同じことが起こるんだと思った。

 最後に車体の後方に二十キロ近くある大きなアンテナを取りつけた。これが一番大変だった。三人がかりで行ったが、下で支える鴨江さんがその高い背丈の割に非力で、屋根の上から支える萌さんから、「鴨ちん、しっかりしてよっ」と何度も叱咤されていた。鴨江さんは腕をぷるぷるさせながら、今にも泣き出しそうになっていた。脚立に乗ってネジ留めするぼくも気が気でならなかった。

 すると下から、「もうだめだぁ」と鴨江さんの声が聞こえ、ぐらりと脚立が揺れた。ゆっくりとバスから身体が離れていくのが分かった。

 落ちる――。

 身の危険を感じたと同時に、固定されきっていないアンテナが落っこちて、下にいる鴨江さんを直撃してしまうことを恐れた。

 身体が投げ出され、アスファルトで肘を強く打った。

 痛みに堪えながらも、すぐに顔をあげた。「鴨江さんっ」

 ネジ留めのお蔭か、アンテナは落下していなかった。

 ほっとしたぼくは上にいる萌さんを確認した。なぜか彼女の両腕が先ほどと同じ状態でアンテナまで伸びていた。よく見ると、その腕がぷるぷると震えていた。そんな、まさか――。

「萌さん、大丈夫ですかっ」

 苦しそうな声が聞こえてきた。「早ぐぅ……」

 いきんでいる彼女の顔を決して見てはいけないと思った。

 すると隣から鴨江さんの、「すげぇ、キン肉マンかよ」という場違いな声が聞こえてきた。

 あんたのせいじゃないか。睨みつけると、気まずそうに下を向いてしまったので、「早く支えてくださいっ」と怒鳴りつけてしまった。

 その後、仕切り直した。会社のユニック車を使い、クレーンでアンテナを吊りあげながら取りつけることにした。萌さんは鴨江さんが作業するのを見ながら、「はじめからこうしておけばよかったのに」とぼやいていた。

 その横でぼくは彼女の二の腕を見ながら、先ほど鴨江さんがつぶやいていた言葉を思い出していた。

 火事場のクソ力ってすごいな。


 どんな人が来るんだろう。少し、いや、かなりどきどきしながら目標のバスへ急いだ。スーツ姿がいけないのか、すれ違う他のツアー客のおばさま方の顔に、「あなた、ツアー会社の人?」と書いてあるので、「そうじゃないですよ」と軽く手で断りを入れながら進んでいった。フロントガラスに貼られた、【ふくしまの今】といったツアー名を見て、ここが被災地だったことを改めて認識し、襟を正した。

 奥に【歴史と桜の鶴ヶ城】のバスを見つけた。前にバスガイドが立っている。ちっちゃくて可愛いらしい人だった。

 制服姿のせいかもしれない。似ても似つかないが、当時の萌さんに重ねてしまう。おそらく年齢もあの当時の彼女くらいだ。

 ぼくに気づいたガイドの顔がぱっと明るくなった。「徳丸さん、ですか?」

「はい」と肯くと、「よかったぁ」と彼女は安堵の息を吐いた。どうやら来ないのかと不安にさせてしまっていたようだ。「すみません、ぎりぎりになってしまって」

 彼女は慌てて手を横に振った。「そんな、大丈夫ですよぉ。ちゃんと約束の時間は守られてますから」彼女の一連の動作に親しみを感じつつ、「連れの人って、来てます?」と訊くと、「ん?」と間を空けられた。

「連れの人って、徳丸さんのお連れの方、という意味ですか?」

 嫌な予感がした。

「ええ」と答えると、彼女は手板にある乗客名簿を見ながら首を傾げた。「徳丸さんはおひとりでのご参加じゃ、なかったでしたっけ?」

「ですけど、ここに……」バスを指差しながら頭に嫌な汗が出てきた。

 もしかして、ここにもいない?

 ほくそ笑む鬼島くんの顔が浮かんできた。

 まただまされた。下くちびるを噛んだ。

「徳丸さん?」ガイドの声が聞こえた。「大丈夫ですか?」

「あっ、はい……」

「さあ、どうぞなかへ」手をあげた彼女の誘いを断るわけにもいかず、重い足取りでステップをあがっていった。

 化粧の臭いが鼻を突いてきた。案の定、席に座るおばさま方から、「まさか、男ひとりで?」とでもいう矢のような視線がびゅんびゅん飛んできた。顔を伏せ、無数の矢を脳天で受け止めながら、中央を進んでいった。指定された席はなんということか車体のどまんなかだった。それもふたり用の席をひとり占めだ。

 腰をおろすと、すぐさま後ろのほうから、「そんなに桜が好きなのかねぇ」「そうじゃないわよ、きっとお城のほうよ」「免許持ってないのかしら?」などとぼくをネタにする声が聞こえてきた。けれどそこで咳払いする勇気は、ぼくにはなかった。

 鬼島ぁ。今度ばかりは真面目に殺意を覚えた。すぐさまLINEすると、変わらず、【採用者はそこにいます】とだけ返ってきた。

 なんだよと舌打ちすると、通路向こうの八千草薫似の品のよさそうなおばさまの顔が引きつった。

「すみません」と頭をさげる。

 そこにいます、って誰だよ?

 まわりを確認しようと腰をあげると、また隣の八千草さんと目が合ってしまい、えっ、何? 私何かした? と今度は目をぱちくりさせてしまった。

「す、すみません」また頭をさげた。

 もうだめだ。あきらめて、耳栓代わりにイヤホンをつけて目を閉じた。

 まもなくガイドの声がして、バスが動きはじめた。男ひとりの、憂鬱な旅がはじまってしまった。

 だが世のなか、そんなに悪いものでもない。

 嫌で嫌で堪らなかった感情は、行きたくもないワイナリー工場見学から戻ってきた頃には薄れていて、昼食の「福島豚三昧」を済ませた頃には、逆に居心地のよさに変りはじめていた。男ひとりでの参加に対する好奇心なのか、それを不憫に思ったのかは定かでないが、まわりのおばさま方がひっきりなしにぼくに声をかけてきてくれたお蔭だ。それは出発直後の、隣の八千草薫こと、坂野さんからの、「よかったら、飴玉どうぞ」にはじまり、「桜好きなの?」「お城好きなの?」と身を乗り出してきたまわりのおばさま方からの質問攻めへと続き、そこで自らを「友だちのいない、しがない独身サラリーマン」と格づけると、こぞって我が子のように扱われるようになった。そして最近話題になっているネット企業で働いていることを知られると、「よかったら、うちの婿に来ない?」とシニア向けスマホで娘の写真を披露されてしまう始末だった。大学に入るため上京して以来、ずっとひとり暮らしを続けてきたぼくは、なんだか親戚の家に遊びにきたような気分になっていた。

 まさか鬼島くんは、これを味合わせたかったんじゃあるまいな。そう疑ったくらいだ。昨日のラウンジといい、このバスといい、ここの人はなぜ皆いい人ばかりなのだろう。

 しかしお目当ての人物はいっこうに見つからなかった。立ち寄った場所場所でさり気なくすべての乗客を確認していったが、秘書採用したと思える人物はいなかった。

 午後に入って、展望台から猪苗代湖を眺めたあと、ツアーの目的地である鶴ヶ城に着いた。土曜ということもあってか、ドライブインには多くの車が止まっていた。

 バスを降りたぼくたち一行はガイドの旗に引率されながら、本丸へと向かっていった。園内では「さくらまつり」なるイベントが催されているようで、ピンク色ののぼりがそこかしこに立っていて、活気があった。

 今回のツアー名にもなっているが、名所と言われるだけあって、ものすごい桜の数だった。城を中心とする公園内には千本ちかくあるらしく、広く伸びた枝の先で、淡いピンク色の花が空を覆い隠すほどに咲き誇っていた。天守閣を囲んだその光景は歴史的背景も相まってか、尊厳があり、かなり見応えのあるものだった。

 途中、着物を着た女性を何人か見かけた。金髪の外国人女性の姿もあった。思わず見取れてしまっていると、坂野さんに指で、「徳丸さん、鼻の下、鼻の下」と指差され、なんのことかと鼻の下を触ってみると、「伸びてますよ?」と品よく笑われた。

 ガイドの五十嵐さんは優秀な人だった。弱冠二十歳だというのに、おばさま方に物怖じせず、その堂々とした立ち振る舞いに加え、解説も見事なものだった。会津藩の悲しい歴史はもちろんのこと、壕をはじめとした城の構造や何種類もある桜の種類まで熟知していた。おばさま方の質問攻めを難なくこなし、「ちなみに」と補足までして満足させていた。その生き生きとした笑顔を見ていると、この仕事がほんとうに好きなことが伝わってきた。おそらく休みの日も勉強していたりするのだろう。

 そこでまさかと頭に信号が点った。

 もしかして採用する秘書とは、彼女のことでは?

 改めてそういう目で見てみると、てきぱきと事を進めていく彼女がどんどん仕事のできる人間に見えてきて、ますます正解のように思えてきた。試しに鬼島くんへLINEしてみた。

【おおっ、ついにそこまできたか! 悔しいけど、確認してみてよ】と興奮気味な文字が返ってきた。

 やった、ビンゴか。てっきり、ツアー客のなかにいるものとばかり思っていた。いや、ぼくが勝手に思い込んでいただけだ。気づいた自分を褒めてやりたくなった。

 天守閣のなか、五十嵐さんは後ろで、皆が展示物を見終えるのを待っていた。質問があったらすぐに対応できるよう、時折首を動かし注意を払っている。

 意地悪だなぁ、なんで言ってくれないんだよ。謎解きを成し遂げたぼくは、意気揚々と五十嵐さんへ近づいていった。

 気づいた彼女がぼくの顔を見て、少したじろいだように見えたが、すぐに持ち直し、なんでしょう? と笑顔をつくった。

「五十嵐さん、あなただったんですね? やっと見つけましたよ」

「はい?」

 静かな時が流れた。

 首を傾げた彼女の顔が、この人は何を言っているの? と訴えていた。

 唾をひとつ呑んだ。

「どういう、意味です?」彼女の眉間にしわが寄った。

「あのう、五十嵐さんは私の会社に採用された方じゃ……ないんでしょうか?」

「はあ?」今度は顔を突き出してきた。この人、大丈夫かしら? そう訴えてくる。

 違った……。

「いや、なんでもないです。すみません、人違いでした」両手を突き出しながら、その場を離れていった。身体じゅうから汗が出ていた。

 天守閣を回り終えると、三時までの残り四十分が自由時間となった。歩き疲れたおばさま方がこぞって、「花より団子」とお約束のスローガンを掲げながらドライブインへと戻っていくなか、ぼくはひとり、園内を散策してみることにした。このツアーに三年連続で参加しているという坂野さんから、「是非とも見ておいて」と強い奨めがあったからだ。鶴ヶ城は天守閣のある本丸以外にも、壕の外側、北と東西に敵を迎え撃つ出丸が築かれており、そこに咲く桜も相当なものらしい。坂野さんは、「今年はお友だちとお茶したいから」と戻っていったが、ぼくはせっかくなのでその奨めに乗ってみた。

 時折吹く強い風に樹木がざわめき、至るところで桜吹雪が起きた。つられて昨日の雨で散り落ちていた花びらが足下で舞った。枝の隙間から洩れ射してくる柔らかい光が、なんとも暖かく、天国にでもいるような気分にさせてくれる。

 鬼島くんはいったいここでぼくに何をさせたいんだ? そう思いながらも、こうしてピンク色の世界を歩き続けていると、そんなことなど、どうでもよくなってくる。

 本丸内を一周したあとパンフレットを広げると、ピンク色の雲海のなかに天守閣が浮かびあがっているような写真を見つけ、惹きつけられた。写っている長屋の位置からして東側のようだった。これを逃す手はないと東にある二の丸を目指した。

 高い石垣の間に挟まれた遊歩道を進んでいくと視界が開け、正面に朱色をした橋が見えてきた。「廊下橋」というらしい。名前の通り、木板の敷かれた廊下のような橋が向こう側の壕まで続いていた。その上でたくさんの観光客たちが、壕沿いに咲く桜並木をバックに記念写真を撮っている。近づいていくほどに、その高欄の鮮やかな朱色に惹きつけられ、否が応でも厳かな気分にさせられた。

 立ち止まっている観光客たちを避けながら橋に辿り着くと、向こうから着物姿の女性が歩いてくるのが見えた。そのグレーに近い控えめな色合いが、まわりの景色に抗うことなく調和していて、なんとも風情があった。

 壕からの風が軽やかに前髪を撫でていった。春の香りに包まれたぼくは、まわりの邪魔にならぬよう高欄のほうへ寄り、目を閉じて深呼吸した。芽吹いたばかりの様々な栄養素が身体じゅうに染み渡っていくようで、とても気持ちがよかった。

 満足して目を開けると、先ほどの着物女性が目の前まで来ていた。案の定、きれいな人だった。邪魔になってはいけないと、さらに端へ寄った。女性が会釈したのが分かったので、ぼくも頭をさげた。

 女性が横を通り過ぎていった。

 そこで感じた微かな香りに、ぼくの脳が反応した。

 春のそれとは少し違う、なんと言ったらいいのか……。けれどぼくはその香りを知っている。

 彼女から? 着物女性を振り返った。髪を結いあげたその後ろ姿に、先ほど垣間見たその横顔が重なった。

 あの眼差し、あのくちびる……。少しあがりめで、厚めだった……。

「萌さん……」勝手に口が動いていた。

 着物女性は反応せず、同じ歩調のまま離れていった。

 人違いだろう。彼女がこんなところにいるはずがない。着物を着ているということは観光客に違いない。偶然同じ日にここに観光に来たというのなら、話は別だが……。

 着物女性はどんどん離れていった。橋を渡り切り、本丸方面へと向かっていく。すれ違った男が仲間の肩をたたき、彼女のことを「あの人、見て」とばかりに指差していた。

 この吸引力。やはり萌さんじゃないか? 確信に近いものがあった。先ほどの香りが妙にぼくを押してきた。

 葛藤しながらもその後ろ姿を目で追うだけで、動けないでいた。

 もしかして鬼島くんがやろうとしていたのは――。

 すかさずスマホを手にした。

 そうこうしているうちに着物女性は高い石垣のなかに消えようとしていた。

 焦燥感がいっきに押し寄せてきた。

 また彼女を失ってしまう――。

 自然と足が動き出した。観光客たちのなかを掻い潜っていった。

 違ったら、違っただ。そう思うと迷いがなくなり、いっそう足が速まった。

 先ほど歩いてきた石垣沿いの遊歩道。その先に着物女性の後ろ姿が見えた。

 もう迷いはなかった。ぼくは声の届くところまで一目散に走っていった。

 もう少しだ。彼女の帯が間近に迫ってきた。

 やっと……。

 そこで急に足を緩めたのがいけなかった。つま先が引っかかり、よろけた。

 まずい――。砂利が目前に迫ってきて、慌てて両手をついた。ざざざと大きな音を立てて滑っていくのが自分でも分かった。

 遊歩道に静寂が訪れた。まわりの観光客たちがどんな顔をしているか、見ないでも分かった。大注目を浴びているところだ。着物女性が誰であれ、随分と恰好悪いところを見せてしまった。手のひらや膝にじんわりと痛みが伝わってくる。

「大丈夫ですか?」上から女性の声が聞こえた。

 その声に身体が熱くなった。

 ずっと待ちわびていた声だった。とてつもなくうれしい半面、こんな無様な再会になってしまったことが無性に腹立たしくなった。彼女の草履がぼくのほうを向いているが、恥ずかしくて顔をあげられない。

「あれ? もしかして徳丸さん?」視界の隅に彼女の顔がひょっこりと現れた。

 十年ぶりに目が合った。それなのに、苦笑いするしかなかった。「お、お久しぶりです」相変わらずダサダサだ。

「大丈夫です?」立ちあがるぼくのスラックスについた砂利を、彼女が手で払おうとしてきたので、「大丈夫です」と制して自分で払い落とした。

 姿勢を正したところで、再び彼女と目があった。

 ほんとうに萌さんだ。じわじわと幸福感で満たされていく。

 改めて言った。「お久しぶりです」

 見ていた彼女がくすと笑った。「お久しぶりです」

 十年ぶりの彼女は、昔とは違う美しさを持ち合わせていた。可愛らしさのようなか弱い部分が消え、代わりに持ち前の気品のよさがより際立ったように見えた。着物を着ているせいかもしれない。三十歳の彼女はかなり大人になっていた。

 聞けば彼女は今、ドライブインにある着物レンタル店で働いているという。宣伝のため、毎日午前と午後の一回ずつ、こうやって着物を着て園内を散歩しているのだそうだ。

「なんでここに来たんです?」という彼女の問いに、バスツアーでここに来たことを伝えると、彼女がぼくの目を見つめてきた。

 どきんと胸が高鳴った。彼女に聞こえてやしないかと心配になった。

「バスジャックには気をつけてくださいよ?」彼女が悪戯っぽく笑った。

 ドライブインまでの道を並んで歩ていった。

 かなり緊張していた。それを察してか、大人な彼女のほうが、「今はどこに住んでいるのか」「どんな仕事をしているのか」などとぼくについての質問を矢継ぎ早にしてきたので、ぼくのほうは彼女のことを訊くタイミングを逃し続けてしまった。

 あっと言う間にドライブインに着いてしまった。これから彼女のことを訊こうと考えていたところで、急いでバスに向かっていく坂野さんたちの姿が見えた。気づいた坂野さんが手を振ってから腕を指差すので、慌てて時計を確認すると、集合時刻の三時に秒針が重なる寸前だった。

 まずいと萌さんのほうを見ると、自分に手を振られたと勘違いしたのか、坂野さんに向かって手を振り返していた。

「もしかして、もう集合時間です?」

「ええ……」このまま別れたくなかった。だが、喉元まできている「連絡先を」という言葉を口にする勇気が出なかった。

「もう少し話したかったですけど、残念ですね」と彼女が言った。

 言え。連絡先を交換したい。いや、教えてほしいか。いや……。

 バスから五十嵐さんが降りてきて、きょろきょろと見回しはじめた。

 きっとぼくのことを捜している。しっかり者の彼女のことだ。遅刻には厳しそうだ。

「早く行ったほうがいいですよ? 他の人に迷惑ですから」萌さんが促す。

 時間切れ――。あきらめるしかなかった。

「じゃ、じゃあ行きますね」頭をさげた。

「お元気で」無情にも彼女が手を振ってくる。

 退路を断たれてしまった。いや、退路だけになってしまった。

「そちらもお元気で」笑顔で手を振り返した。

 これでおしまいなのか――。未練たらたらだった。


 ぽっかりと胸に穴が空くとは、まさにこのことだ。夢のような時間が過ぎ去り、バスのなかで呆然と天井を見あげていた。

 隣の坂野さんが心配そうに、「徳丸さん、どうかされました?」と訊いてきたので、「大丈夫です」と肩を落として答えた。

 もう会えないのか。いや居場所は分かったんだ、いつでも会いに行け……。

 悪戯にも似た鬼島くんの業務命令は、ぼくの想像をはるかに超えたものだった。ぼくと彼女を再会させるための彼のなりの演出。秘書採用者など端からいなかったのだ。

 ホテルに戻ったぼくがLINEで、【もし偶然彼女に会ってなかったら、どうするつもりだったたんだ?】と訊ねると、【その時はもちろん着物をレンタルさせてたさ】と彼はすんなり返してきた。さすがに抜かりなかった。計画し尽くされていた。

【で、もちろん連絡先を訊いたんだよね?】

 ストレートに痛いところを突かれた。

 言われるまでもなかった。彼女と別れてからずっと後悔の淵にいた。これでまた彼女がどこかへ行ってしまえば、会えなくなってしまう。そう思うと、胸が苦しくなった。

 彼女、仕事中だったし……。言い訳なのは重々承知しているが、彼女と話していて、絶対にうちの会社のことなんて知らないと察しがついたので、それ以上どうすることもできなかったというのが本音だ。でも帰ってきた今となっては、ただの意気地なしだったようにしか思えてならなかった。

【聞いてない。彼女、仕事中だったし】と返すと、すかさず鬼島くんから、【それでいいの?】と鋭い指摘が返ってきた。

【別に知らなくても】見栄を張った。

【ほんとに?】

【うん、別に】強がってみせた。

【そうか、オレの勘違いだったかぁ。徳ちゃんはてっきり……】

 てっきり、なんだよ? もっと問い詰めてくれよ。弱気な自分をとことんまで彼に問いただしてもらいたかった。もっと背中を押してくれ。そんな不甲斐ない自分がいた。

【ごめん、言い過ぎた。やっぱ、これ以上介入できないよ。あとは徳ちゃんに任せる。じゃね】

 あれ? 突き放された? 今まであんなに口出ししてきたのに……。

 肩透かしを喰らった気分になった。同時に自分が情けなくなった。

 ぼくには自分の意思というものがないのか?

 徳丸和哉、いったいお前はどうしたいんだ?

 そりゃあ、彼女に連絡先を訊いて……。

 じゃあ連絡先を訊いたら、電話するのか?

 するさ……。

 で電話して何を話すんだ? 今日一日のことを話したところで、なんの実りもないじゃないか。そんなことされたって迷惑なんじゃないのか? 彼女がぼくを必要としているわけじゃないのに……。

 そう、ぼくだって今まで四六時中、彼女のことばかり考えていたわけじゃない。ふとした時に思い出す程度のことだ。

 旅行代理店の前を通った時。

 街で観光バスを見かけた時。

 ニュースで女の人が捕まったと聞いた時。

 そんな時、ふと思い出す程度だ。きっと、もっと時間が経てば忘れるはず……。

 いやいや、もっとあった。

 イヤホンからバラードが流れはじめた時。

 寒い冬、コンビニで弁当を買って外の空気を吸った時。

 いや、もっと正直に言えば、冬になるといつも街に彼女の面影を捜していた……。

 そんな時はいつも、彼女のことを美化し過ぎているんだ、そう戒めていた。

 そんな日々がまた繰り返されるだけだ……。ただそれだけのことだ……。

 プンッ、とスマホに通知音が鳴った。

 鬼島くんだった。ずらずらと長い文章だった。

 ったく、なんだよ。止めたんじゃないのかよ。煩わしく思いながらも読みはじめた。

【あるIT企業を起こした社長がこう言ってました。「たった一度の人生、夢を追わなくてどうする」と。ボクはその言葉に刺激され、今まで頑張ってきました。けれど、ここまでやってこれたのもボクひとりだけの力じゃなかった。臭い言葉ではあるけれども、出会ったすべての人たちのお蔭です、と誓って言える。そのなかでも感謝してもしきれない人が、この世にふたりいます。もちろん、ひとりは最愛の妻だけれども、もうひとりは、起業する前の何もないボクがカラオケボックスで語った夢物語を真に受けて、ずっと行動をともにしてきてくれた戦友です。彼がボクを信用して人生をともに歩んできてくれたお蔭で、ここまで会社が成長してこれたと言っても過言ではありません。そんな彼が時折、寂しそうな顔を覗かせるのです。昔からずっとです。その原因がなんなのか、ボクは長い間ずっと分からなかった。訊いても、「いや、なんでもないよ」といつも笑って誤魔化されていたから。けれど自分が結婚して、ようやくそれがなんだったのか分かったのです。彼の寂しさを満たすことができるものが、なんなのかを――。徳ちゃん、君にとっての『しずかちゃん』はいったい誰ですか?】

 背中のスイッチを押された。

 こんなんじゃ、いけない。

 いてもたってもいられなくなり、すぐさまホテルをチェックアウトし、レンタカーで再び鶴ヶ城へと向かった。

 チェックアウトする時、よしこさんは、「今夜も一緒に遊びたかったのにぃ」と身体をくねらせたが、最後には、「男になってきなさい」となぜかぼくを後押しするような口ぶりで送り出してくれた。

 次の日、開店と同時に店に飛び込んできたぼくを見て、萌さんがその吊り目を丸くしたのは言うまでもない。

「きっ、着物を、レンタルしたいんですけどっ」

 固まっていた彼女の顔が崩れた。「ふふっ、徳丸さん、そんなに焦らなくても着物はなくなりませんよ?」

 着付けを終え、彼女の散歩に便乗させてもらったぼくは、用意してきた言葉を思い切って伝えてみた。「萌さん……もしよかったら、うちの会社で働いてみませんか?」

 これなら気軽に言える。もちろん本心だ。機転の利く彼女がうちの会社に来てくれれば、即戦力間違いなしだ。鬼島くんも、きっと許してくれるだろう。元はといえば、彼が業務命令としてぼくに課していたのだ。連絡先を訊くのは、これが断られたあとだ。

 萌さんが立ち止まった。そしてぼくの顔をしかと見つめてきた。

 目のやり場に困った。逸らしそうになったが、ここばかりはと踏ん張った。

「はい」彼女が肯いた。

 即答だった。

 思わず、「えっ、ほんとですか? うちの会社ですよ?」と訊き返してしまった。

 そんなぼくを見て、彼女が相好をくずした。「ええ、是非」両手を前に重ねると、「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」とかしこまって頭をさげてきた。

 すんなり行き過ぎて、本当なのかとその場で右往左往してしまった。

 顔をあげた萌さんが悪戯っぽく、舌を出していた。「鬼島さんから言われてたんです。徳丸さんからちゃんと誘われるまで絶対に黙っててくださいって」

 だまされた大賞――。

「ほんと昨日、あのまま帰られて、どうなるのかと思いました。でも鬼島さんに連絡したら、もうちょっと待ってって言われて」

 完全に踊らされていた。

「せっかくオーナーにも協力してもらったのに。もし失敗したら、やっぱりまた雇ってくださいってお願いしなきゃならなくなるところでした」

「オーナー?」

「ええ、今勤めてるお店のオーナーさんです。ほら、そこに」

 彼女が指差した先に、着物レンタル店のポスターが貼られていた。縁台に腰掛け横を向くひとりの着物女性が写っていた。その横顔がバスで何度も見た坂野さんそのものだった。

「ええっ? し、知り合いだったんですか?」大きな声を出してしまった。

「ええ、私がお店を辞めると伝えた時、この話をしたら、是非私にもやらせてくれって言ってきて。あの人、ああ見えて、とんでもなくお茶目なんです」

 やられた。

 鬼島くんのドヤ顔が浮かんできた。してやったりと歯を見せてにやけている。

 そこで思った。まさか……。

「も、もしかして、ぼくの泊まっていたホテルのよしこさんも?」

「ん? ああ、お名前は知りませんけど、鬼島さんがとっても面白いホテルがあるから、そっちの人にも頼んでみるって言ってましたよ? どうでした? 面白かったです?」

 ええ、面白かったです……。じゃないでしょうっ。完全に鼻面を引き回されていた。

 憮然としたぼくを見て、彼女が口を尖らせ、指先でぐりぐりと僕の腕を押してきた。「ほんと徳丸さん、頼みますよぉ~?」

 そこで、そういえばと思い出した。

 そういえば、この人もこういう風に人をだますことが大好きな人種だったと。

 気が楽になったぼくたちは、改めて今後の会社のことを含め、事件後のお互いのプライベートなことまでも伝え合った。「でも、なんでうちの会社に入るって決めてくれたんです? 鬼島くんが相当押してきたんですか?」

「ううん」と彼女は首を横に振った。

「徳丸さんと一緒につくった会社なら、悪いはずがない。そう思ったから決めたんです」

 鼻の奥がつんときた。

 答えた彼女がちょっぴり恥ずかしそうにしていた。

 どういう意味?

 敢えて訊かなかった。いいほうに解釈すればいい。そう思った。

 これからまた、彼女と一緒にいられるのなら――。


「おうっ、徳丸っ」

 行き交う人混みのなか、声のした先で眼鏡をかけた中年男性が手をあげた。

 ぼくはその人を見て思わず、近くのホームセンターでいつもDIY用の木材をカットしてくれる店員のことを思い出していた。

 ほんとに? こんなになっちゃったの?

 目を凝らした先から、その腹の出た男性がにこやかに手を振って近づいてくる。

 ちょっとばかりじゃないじゃないか。

 その突き出た腹を見て、思わず熟れた茄子を想像してしまい、くすっと鼻から笑いが洩れた。

 そこら辺にいるおじさんじゃないか。

 そう思いながらも、胸は熱くなっていた。

 十年という長い歳月が、あっと言う間に縮まっていくようだった。

「當間さんっ」

 ぼくは手を振り返し、立ちあがった。

「ごめんごめん、遅くなって」當間さんが笑っていた。

 身体の真んなかを、涼風が吹き抜けていった。


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