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今度、社員旅行があります。  作者: 月津 裕介
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旅行の後始末

■旅行の後始末(社員旅行当日の夜)――當間悠人


 場内アナウンスが流れ、サービスエリアにいる和栄テクノ全社員は施設中央に集まるよう指示された。

 来たか。集合場所を見ると、乗ってきたバスより、ひとまわり小さなバスが二台停車していた。その横で記者たちが、今日の締めくくりとばかりに僕たちを待ち構えている。

 あーやだやだ。スマホを開き、先ほど見たばかりのメールボックスを覗いた。通販業者からのメールが相変わらず、ずらずらと並んでいた。

 なぜこの僕が、こんな意味のない非生産的な行動をとっているかというと、正直に言えば時間つぶしだ。迎えのバスが来ても、すぐには行かないでおこうと決めていた。スマホに夢中になっていて、気づいたら集合時間ぎりぎりになってしまった。そんな理由づけをして、皆とは少しでも遅れて合流したかった。

 サービスエリアの端にあるレストラン。その外壁にもたれ、まわりを覗い見ながら、ひとりスマホを操作し続けていた。開いたり閉じたり。消極的なことをしているせいか、指を動かすたびにどんどん自分が小さくなっていくようだった。息苦しくなってくる。けれどそうすることでしか、今の自分は居場所を見出せないでいた。

 そんななかでもSNSだけは避けた。会社のことはもちろん、僕のことを批難するコメントが多数あったからだ。

【やっぱ、あの一言が効いたんだよなぁ。言ったのは、あのなかにいたやつか?】

【手塩にかけて育ててきた後輩にあんな陰口たたかれたら、オレも死にたくなるわ。でもまぁ、まずは会社辞めるね、絶対に】

【お前も死んで償いなさい。お前が、い・ら・な・い(笑)】

 うんざりだ。ほんとうに悪いのは権藤さんであり、黒木さんだ。それなのに、なぜ僕がこんなに犯人扱いされなきゃならないんだ。僕のは、おまけみたいなものだ。とどめの一発みたいに扱われてるが、あんな一言で大の大人が自殺するわけないじゃないか。仮にそうだとしたら、堪ったもんじゃない。それじゃあ、世界の人口が半分くらいになってる。あんなの、呑みの席で調子に乗って出ただけのただの冗談だ。言ったことすら憶えていない。きっと皆を楽しませるためだったんだ。決して本心から出た言葉なんかじゃない。あんなちょっとした場面だけを切り取られ、「ほら、お前の声だろ? これがお前の本性だ」と突きつけられても――。

 視界の隅に、後輩たちが歩いてくるのが映った。楽しそうに話しながら、ぞろぞろと僕の十メートルほど前の歩道を歩いていく。

 怒りが込みあげてきた。僕を罪人扱いしたあいつらの態度が許せない。だが、それを諭す術も見つからなかった。仕方なく今はこの状況に耐えるほかなかった。

 スマホを見るふりをしながら彼らの様子を覗った。僕の存在に気づいた数人がちらちらと見てきたが、声をかけてくる者はいなかった。以前なら、「當間さ~ん、集合ですよ~」などと植田あたりが手を振ってくるところだが、どうやらもう、そんな気はしないらしい。明らかに避けられていた。先頭にいる国枝などは、敢えてこっちを向かないようにしているのか、ずっと横を向き、不自然な横歩きを続けている。

 目の前の光景に打ちひしがれた。もしかしたら声をかけてくれるんじゃないか。先ほどまで抱いていたそんな淡い期待が彼らが進むごとに萎んでいった。つい一時間ほど前まで、一緒にはしゃいでいたのが嘘のようだ。知り合ってから長年築きあげてきた絆みたいなものがなくなっていた。

 さらに下を向いた僕は、彼らが通り過ぎるのを待った。こんな弱気な自分に吐き気がしたが、堪え忍んだ。これからどんな顔をしてバスに入っていけばいいのだろう。何もなかったかのように、普段通り明るく入っていけばいいのだろうか。

 軽蔑しました――。植田の言葉が甦ってきて、そんな考えは甘い、とすぐに打ち消された。あの場では気づかないふりをしたが、はっきりと聞き取れていた。あの言葉が耳に残ったまま、ずっと離れないでいる。

 くそぅ。ひとりぼっちがまた心に浸みてきた。

 こんなことなら、所長か黒木さんと一緒にいればよかった。いやいやいや。その光景を想像し、すぐにかぶりを振った。彼らはA級戦犯だ。今まで通り一緒にいたら、僕まで重罪人の一味として吊るしあげられてしまう。罪の度合いが違いすぎる。彼らがしたことと比べたら、僕のしたことなど重箱の隅にある米粒くらいのものだ。

 低い夜空がパチパチと光った。バスに集まってきた会社の連中に向け、ストロボが焚かれはじめた。

 僕たちはもう純粋な被害者ではなくなっていた。萌ちゃんのサイトには、真崎さんの日記はもちろん、彼女が独自に調べあげたうちの会社のハラスメント事情が、まるで犯罪歴のように綴られていた。見て見ぬふりをして何もしようとしなかった社員たち。そんな傍観者たちも、今では罪人扱いになっている。父親の復讐を果たすため、バスジャックまで決行した娘。世間はそれを肯定してはいないが、否定もしてはいなかった。

 そのサイトが元ミカサツアーのものだったことを知ったのは、ネットの記事からだった。ミカサツアーという会社は存在していなかった。僕たちをだますため、捏造された会社だった。サイトは萌ちゃんが作成したものだった。中退したとはいえ、工業高校の情報科にいたのだ。あれくらいなら、たやすくつくれるのだろう。

 一度ミカサツアーのサイトにアクセスしたことがある。その時の率直な感想は、ちんけな会社だなぁ、だった。文字ばかりがずらずらと並んでいて、今どき個人ブログでも見ないくらいお粗末なものだった。こりゃあ、いつか潰れるなと思った。

 でも、そんな小さな会社だからこそ、安心できた部分もあった。そこに勤める萌ちゃんより優位に立てるからだ。大手だったら、中小企業に勤める僕のことなど、相手にしてくれるはずもない。そう考えていたから、あの時はなんの疑いもなく、眺めただけで終えてしまっていた。あの時、少しでも怪しいと思っていればと思うが、今さらどうしようもない。まんまと彼女の策略にはまってしまった。選んだ幹事の責任は重大だ。自分で自分の首を絞めていた。

 昨年までお世話になっていたバスガイドのユキネエが、悲痛な声で会社に電話してきたことを思い出す。「聞いたわよ、なんで今年はうちにしてくれなかったの?」

 その時、僕は冷たくこう答えていた。「今年はセカンドオピニオンをさせていただきます」と。

 バスのなかに人影が見えた。どうやら乗りはじめたようだ。

 仕方ない、行くか。スマホをポケットにしまい、バッグを背負った。

 うつむきながらストロボのほうへ向かっていくと、テレビ中継が終わったところに遭遇した。カメラがおろされ、緊張が解けた女性リポーターが、照明のなかで手をさすりながら白い息を吐いていた。

 不幸にも彼女と目が合ってしまった。目を細めた彼女が、「あっ」と大きな声をあげ、いきなり僕のことを指差してきた。「あの人、もしかして當間悠人?」

 全員が一斉に振り返った。

 な、なんだ? 見ず知らずの人にフルネームを口にされ、気が動転した。

 足が止まった僕に、数人が同じように口を開けた。彼らはすぐさまスマホを取り出し、画面と僕とを見比べはじめた。

「そうだ間違いない、當間悠人だっ」知らない男にまた呼び捨てにされた。

 そばにいた髭面の男がリポーターに向かい、顎をしゃくった。彼女が、「承知」とばかりに肯き、僕めがけて迫ってきた。慌てて逃げようとしたが、横からすっと出てきた髭面に行く手を阻まれた。危うくぶつかりそうになり、「おいっ」と怒鳴りつけると、知らん顔でそっぽを向かれた。

「當間さん、ですよね?」

 後ろから声をかけられ、仕方なく、「ええ」と認めると、リポーターは溢れんばかりのえびす顔を見せた。「真崎萌のサイトにある居酒屋の動画で、最後に、『あの人は要らない』発言をしていたのは、當間さん、あなたで間違いないですか?」

 マイクを向けられ、固まった。

 なぜ、それを知っている? 誰か、会社のやつがチクったのか? 思い返すと、先ほど記者の前で僕のことをしきりに指差していた美咲の姿が真っ先に浮かんできた。くそぅ、べらべらとしゃべりやがって――。

 答えないでいると、リポーターから笑み消えた。「SNS上ではもう、あなたの名前と顔写真が拡散してますよ? 『あの人は要らない』発言は、幹事のあなただったと」

 目の前が真っ暗になった。状況は容易に想像できた。僕の顔写真と名前が、僕の知らない人間の間を矢継ぎ早に飛び交っている。僕も何百回とやってきた行為だ。フォロー先から送られてきた話題の人物の写真を見て、「こいつかぁ」とにやけ、「こいつらしいぜ?」と感想をつけてリツイートし、次々と拡散させていった。

 その話題の人物がまさに今、この自分となっている――。

「知りませんでした?」固まっている僕に、彼女が再びマイクを向けてきた。そしてお節介にも、「これです」と操作したスマホ画面を向けてきた。

 恐る恐る画面を覗き込んだ僕は、そこに映る画像を見て凍りついた。

 そこには写真の僕がいた。正面をまっすぐに見据え、凜々しくも不敵な笑みを浮かべている。専門学校の卒業アルバムのものだった。これから飛び込んでいく社会に向かい、僕ならなんだってできるさ、と自信に満ち溢れていた頃の顔。その下には高々と名を名乗るように、【當間悠人】の四文字がはっきりと映し出されていた。

 当時の同級生の仕業に違いなかった。誰が? そう考えたところで、分かるはずもなかった。きっと当時、僕のことをよく思っていなかった輩の仕業だ。あの頃も相変わらず僕は目立っていたから。そう思い返していると、なんとなく二、三人の候補が頭に浮かんできた。

 こんなことになっているなんて――。

 バスのなかでの僕のことを誹謗中傷するコメントに腹が立ち、そのあとSNSをまったく見ていなかった。植田に動画を見せられたあと、ずっと萌ちゃんのサイトやマスコミ関連のニュースばかり見ていた。そこには所長と黒木さんに関するものばかりで、僕に関するものといえば、あの動画くらいだった。それもあの一言を言ったのが誰なのかは公になってはいなかった。少なくとも少し前までは――。

 改めて画面を確認した。先ほどと変わらない自分の顔と名前があった。無数の知らない人間がこれを見て想像している。こいつかぁ。こいつらしいぜ? つかみどころのない恐怖がもわもわと身体じゅうに渦巻いてきた。

 デジタルタトゥー。無関係だと思っていた言葉が思い浮かぶ。僕が死んでも、これは残り続ける。

「當間さん? 當間さん、大丈夫?」

 リポーターの声で我に返った。いつのまにか大きなテレビカメラがそばに来ていた。音声や照明のスタッフが僕を獲物のように取り囲んでいた。

 ここにいちゃ、まずい。危険を感じ取り、歩きだした。

「ちょ、ちょっと、當間さんっ」焦ったリポーターが声をあげた。

 無視してバスへ急いだ。

 追いかけてきた彼女が強引に僕の横に並んできた。「答えてください。あの一言は、本心で言ったんですか?」

 うるさい、ババァ。心のなかで言い放ち、足を速めた。

「ねぇ、答えてよっ」なぜか彼女の口調が変わった。

 まさか聞こえたのか? なわけないよな、と突き進んだ。

 バスの手前から警官が出てきて、彼女を食い止めた。

 よかったぁ。安堵した僕は歩を緩めた。

「ねぇ、答えてっ」制止されてもなお、彼女は訊いてきた。

 ふんっ。僕は優越感から振り返った。彼女は警官の腕にがっちりと行く手を遮られてもなお、手を伸ばしてあがいていた。

 何をそこまでやってんだ。彼女の必死な形相を見て、思わず失笑してしまった。

「教えてよっ。お世話になった人を切り捨てる気持ちって、いったいどんななの?」

 落雷に打たれたような衝撃を受けた。

 彼女を制止していた警官が振り返っていた。僕に答えを聞きたがっているような顔だった。それを見て、リポーターのぶつけてくる数々の言葉が彼女ひとりだけのものでなく、世論を背負ってきているもののように思えてきた。ずしりと身体に重くのしかかってきた。

「教えてよっ、いったいどんな気持ちっ?」彼女は泣いていた。

 さらに動けなくなった。なんで、そこまで――。

「急いでっ」強い力で肩をつかまれた。

 別の警官だった。彼に背中を押され、僕はやっとのことでバスに辿り着いた。

「ねぇ、どうなのっ」ステップをのぼり終えた僕のふくらはぎに、最後に浴びせられた彼女の声が言霊のごとくへばりついた。

 なんなんだよ、あの女。そこまで大声出すことないだろう。逃げ切れたことに安堵した僕は大きく息を吐いた。そして顔をあげたところで、再び凍りつくこととなった。

 ぼんやりとした車内に大勢の人間が座っていた。

 忘れていた。ここはバスのなかだった――。

 現実が襲いかかってきた。

 まずい。すかさず逸らした視線の先に女性ふたりが座っていた。その驚いた顔が目に飛び込んできた。

 新入社員のカトパンとミトちゃんだった。新人の定位置として、前のバスと同じく最前列に座っていた。どちらも普段からよく声をかけているせいか、僕によくなついている。カトパンは、名字を「加藤」といい、細身で割と可愛いということもあり、入社早々の呑み会で僕がそう命名していた。旅行好きの彼女は旅行に行くたびに、僕にこっそりとお土産を渡しに来てくれる。その時の目つきからして、僕に気があることは間違いなかった。

 一方のミトちゃんのほうは、名字を「美輪」といい、アナウンサー繋がりということで、その場の流れで僕からそう命名されていた。公には、「ミ」からはじまる名字だから、としていたが、ほんとうの理由は、彼女が少し、いや、だいぶぽっちゃりしているからだ。それは絶対に本人の前では言ってはならない禁句だ。

 見開いていたカトパンの目がすっと細くなった。見たことのないその冷たい眼差しがぐさりと胸に突き刺さった。なんで、こっちのバスに来たんですか? そう訴えているようだった。嫌悪感がありありと滲み出ていた。

 彼女も、なのか……。失意のなか隣を見ると、ミトちゃんも同じ視線を僕に向けていた。堪らず後ろに目を逸らした。

 薄暗い車内に、並んだ目玉がずらりと奥まで列を成していた。どれもこれも先ほどの彼女たちと同じ冷気を放っていた。さげすむような視線を僕に向かって投げかけてくる。

 進むことも退くこともできず、目のやり場に困った。外を見ようとも、窓ガラスには車内の様子が反射して映っているだけで、皆が僕のことを注視している光景を見せつけられてしまう始末だった。

 八方塞――。もう下を向いて鼻を掻くしかなかった。

「おう當間、こっち空いてるぞ」奥のほうから声がした。

 最後尾で黒木さんが手をあげていた。その隣には見覚えのある白髪が覗いていた。

 この期に及んでまだ一緒にいるのか。そんな批難めいた意見が一瞬、頭の隅をかすめたが、皆に疎まれているこの状況では、有り難い助け船だった。

「はいっ」と笑顔をつくって進んでいった。道を空けるように皆の視線がばたばたと落ちていった。まるでこいつとは関わりたくないとでも言っているかのようだ。途中、国枝と植田が並んで座っていたが、同じく目を合わせようとはしなかった。

 後ろに近づくにつれ、不自然な状況が見えてきた。最後尾に座る所長と黒木さんのまわり一帯が空席になっていた。

 これって……。黒木さんに目で訴えると、彼は気まずそうに歯を見せた。「ほんと、大変だったよなぁ、當間。大丈夫だったか? マスコミのやつら、勝手なことばかり言いやがってよぉ、ほんとひでえよなぁ。俺なんかよぅ、うるせえから全部無視してやったぜ」そう言って黒木さんは、ここへ来いと隣の席をたたいた。

 何を言ってるんだ? この人――。あきれながらも仕方なく、「へぇ、そうなんですかぁ」と知らないふりをして座った。記者に追われ、駐車場まで逃げていったのは誰ですか? そう言ってやりたかった。

 一目瞭然だった。皆がこのふたりのいる後ろを避けたのだ。最後尾に座りながら、権力の失墜をまじまじと感じ取った。

 窓側に座る所長は頬杖をついたまま、ずっと外を向いていた。その丸まった背中がどっぷりと老け込んで見えた。記者たちに囲まれ、一所懸命弁解していたあの必死な姿が遠い昔ように思えた。

「あんまり気にすんなよ、な? 當間」そう言って黒木さんが肩をたたいてきた。

 どういうこと? すぐさま黒木さんを見返した。

「お前、あの女にやられたな? いくら酔ってるとはいえ、あの『要らない』は、ちとまずかったなぁ。あれじゃ、まるで、お前が犯人みたいだもんなぁ?」同情するような目でまた肩をたたかれた。

 あんただって、あれだけ――。そう反論しそうになったが、やめた。僕を見て何度も頷く黒木さんの剥いた目がこう言っているように見えた。

 俺がしたことは、確かにパワハラだったかもしれない。けどよぉ、最後にとどめを刺したのはよぉ、お前なんだぜ?

 やはり悔しくなり、言い返した。「黒木さんも、マスコミにたくさん言われたんじゃないですか? 彼女のサイトにあれだけ悪く書かれていたんですから」

「そうなんだよ、聞いてくれよ。あいつら一方的に俺のこと批難してくるんだぜ? 酷いもんだぜ、俺は全然悪くないっていうのによぉ。だから、ちゃんと言い聞かせてやったんだ。俺が真崎にやったことはパワハラなんかじゃなく、ちゃんと筋の通った教育だったんだってな? あんたらも会社員なら、それくらいのこと分かるだろう。部下を育てることも大事な仕事のひとつなんだってな? ははは」黒木さんは満足げにそう告げると、「だろう?」と僕に同意を求めるような顔つきをしてきた。

 そこで車内が静まっていることに気づいた。皆が聞き耳を立てているとすぐに分かった。

 反応のない僕を見て、気づかない黒木さんが、どうした? と首を傾げた。

 バカか? この人。自分の今置かれている状況をまったく理解しちゃいない。

 ふんっ。鼻で笑うような音が前から聞こえた。

「誰だっ、今笑ったのはっ」黒木さんがいきりたった。

 誰も応えなかった。

「誰だ? ぜってぇ許さねぇからなっ」

「いい加減黙れ、黒木っ」所長が怒鳴りつけた。

 腰をあげていた黒木さんが横を向いて固まった。

「もうよせ……。これ以上、醜態を晒すな」そう諭し、所長は再び窓のほうを向いた。

「はい……」しょんぼりした黒木さんはゆっくり腰をおろしていった。まるで叱られた小学生みたいだった。

 僕たちがしばらく黙っていると、ちらほらと前のほうから会話が聞こえてきた。抑え気味に話すそのひそひそとした声が耳に痛かった。僕たち三人をさらに疎外し、除け者にしていくようだった。

 先ほどの警官が入ってきて、人数を数えはじめた。そして無線で報告を終えると、運転手にOKサインを出した。エンジンがかかり、振動が伝わってきた。

「出発します」マイク越しに運転手の声が響くと、ゆっくりとバスが動きだした。


 不調を訴えた一部の社員に付き添う恰好で、僕たちは病院へと向かっていった。早く解散してほしかったが、PTSDなど事件後の精神的ケアも必要という理由で全員が連れていかれた。

 搬送されたのは近くにある大きな総合病院だった。まだ夜の七時を過ぎたばかりということもあり、受付の終了した外来ロビーには、看護師や食器ワゴンを片づけるおばさんなど、たくさんの従業員が行き来していた。

 バスを降りた僕たち三人のまわりには、見えないバリアがあるみたいだった。車内同様、声をかけてくる人は誰ひとりおらず、逆に気配を感じると道を譲られ、距離を取られた。叱るわけにもいかず、所長も黒木さんも黙ってそれに耐えていた。

 僕は徐々にそこから離れていった。やはり一緒にいたら、ひとつに括られてしまう。

 後ろを向くと、徳丸が歩いていた。目が合うと、すまなそうに頭をさげてきたが、声をかける気もしなかった。萌ちゃんに協力し、あんな演技までされたのだ。そう考えると、なぜこいつがノコノコとここまでやって来ているのかが不思議になった。幇助の罪で一緒に捕まっていても、おかしくないんじゃないのか。

 前方に、後輩たちと並んで歩く美咲の姿があった。一時間ほど前に送ったLINEには未だ返信がない。

 無視してんのか? 心のなかでぶつけた。

 どうやら彼女にも避けられているらしい。ここ半年くらい、ずっと萌ちゃんのことばかりで、彼女のことはそっちのけだった。たまに会っても面倒に感じていた。それを感じ取っていたのだろう。今さら何? そんなことところか。サービスエリアで、犯人はあの人です、とばかりに僕のことを指差していた彼女の姿が甦ってくる。

 集められたロビーで診察希望を確認され、終了するまで皆でここで待つよう指示された。僕はすぐさま不要と告げ、トイレへと向かった。皆のなかにひとりでいることは、とてもじゃないが、これ以上耐えられなかった。

 用を足したあと、戻らずに廊下を奥へ向かっていった。途中に長居できそうなベンチを見つけ、腰をおろした。そこからは外灯に照らされた中庭がうっすらと眺めることができた。

 電話が鳴った。母親からだった。躊躇ったが、鳴り止まないので出た。

「あんた何したの? ネットにあんたの顔が出まくってるじゃない」予想通りの困惑めいた言葉が投げかけられた。

「ああ、嵌められたんだ、犯人の女に」

「嵌められたって、あんた、ほんと酷いこと書かれてるわよ? 裏切者とか、偽善者とか。バスジャックにも驚いたけど、すぐに知り合いから電話がかかってきて、『息子さんのことがネットにたくさん書かれてるわよ』って言われてさ」母親が嘆いた。

「ああ、いいよいいよっ、分かってる、分かってるからっ」

「分かってるって何よ。みんなになんて言えばいいのよ、これじゃ明日からお母さん、外に買い物にも行けないじゃない」

 かちんときた。「分かったから、切るぞ?」

「ちょっと」母親の声を残し、電話は切れた。

 自分のことばかり言いやがって――。

 苛立ちながらも、事が大きくなっていることに失望を覚えた。こんな状況では家に帰っても注目の的だ。どうすればいいんだ、これから……。

 しばらくするとスマホの通知音が鳴った。

 美咲からだった。【今どこにいる?】

 うれしさに胸が熱くなった。彼女がいる。その有り難さが身に染みた。

 すぐに居場所を伝えた。親しみを込め、スタンプも付けた。ぐったりと床に垂れた恰好のブタのキャラクター。美咲のお気に入りだ。

【分かった。今から行く】

 よかった、美咲だけは僕を心配してくれていた。マスコミに何か言っていたのは誤解だったのだ。孤独感がいっきに消え去っていった。彼女からの返信を何度も見返した。

 しばらくすると、廊下を歩く音が聞こえてきた。顔を出すと、美咲がすぐそばまで来ていた。

「診察、終わったのか?」

「うん……」小さく肯いた美咲はベンチを眺めたあと、僕からふたり分ほど空けた端に腰をおろした。

 距離を取られ、胸がさざ波立った。いつもなら、「聞いてよ」とばかりに僕の真横に座ってきて、診断結果を報告してくるところだ。

 だが今は笑顔もなかった。中庭を見つめたまま、何か考えている様子だ。

「大丈夫だったのか?」気を遣いながら訊いた。

「うん……。少しPTSDの気もあるらしいけど、別段問題ないって」美咲は言い終えたところでようやく顔を向けてきた。けれど目が合ったとたん、また前に戻してしまった。

 彼女との距離がさらに遠くなったような気がした。やはり様子がおかしい。

「そうか、それはよかった……」悪い予感のするなか、なんとか言葉を捻り出した。

 長い沈黙が生まれた。

 こんな時、以前なら、彼女のほうが焦って何かしゃべってくるところだ。だが今は焦る様子もない。外を向いたまま押し黙っている。

 堪らず僕のほうから口を開いた。「こんなことになるとはな……」

「こんなことって、何?」美咲が反応した。突っかかってくるような物言いだった。「事件のこと? それとも、みんなに避けられてること?」

 皮肉めいたその問いに戸惑った。核心を突いていた。事件のことを言ったつもりだったが、今の僕にとっては、追いやられた今の状況のほうが確かに一大事だった。

 あの美咲が僕にこんなことを? 憧れの先輩――。優位な立場が消え失せていくようだった。

「きっと、今の避けられてることのほうが辛いですよね?」

 あの鈍感な美咲が、切れ味の鋭い言葉を次々と投げかけてくる。

「今日で當間さんのこと、みんな分かったと思うよ」

 聞き捨てならない言葉に声を荒げた。「どういう意味だ、それっ」

「いざという時にこの人は、人を裏切る人なんだって」

 言葉を失った。こんなストレートに人格否定されるなんて。

 見返した僕に美咲は、そうでしょう? とでも言いたげな目を向けてきた。

「大袈裟な。あれは呑みの席での出来事で、まわりを盛りあげるために出した言葉だ。全然本心なんかじゃない」

「本心じゃない? ああやって人を傷つける言葉を気軽に言えるんだ? あなたは」

 あなたは? かっと頭が熱くなり、立ちあがった。「何だと?」

 声を荒げた僕に動揺もせず、彼女は見返してきた。「本心じゃないにしても口から出たってことは、一瞬でもそう思ったってことでしょう? 真崎さんに対して」

 言う通りだ。思ってもないことを口にすることなんてできない。だが、思ったことと本心とは別物だ、すり替えられては困る。「オ、オレは、本心じゃない、って言ってるんだ。話をすり替えないでくれっ」

「すり替えてなんていないっ。本心か本心じゃないかなんて訊いてないっ。何であんなこと言えるの? って訊いてるのっ」

 美咲は引かなかった。その勢いに負けそうになる。

 返す言葉を見つけられないでいると、美咲が口を開いた。「當間さん……」

 呼ばれて目を向けた。

「分かってるの? あなたが言ったあの一言が、人を死に追い詰めたって言われてるのよ? 本心じゃない、笑いを取るために言ったあの一言が――」

 美咲の目には涙が溜まっていた。

「真崎さんが亡くなった時、私は新入社員だった。会社に入ったばかりで何も知らなかったから、ただ単に精神的に病んでいた人が勢いで自殺してしまった。そう思ってた。そう聞いてたし、誰もその前の経緯なんて教えてくれなかったから……。いつも呑みに連れていってくれるのは、當間さんや所長、そのまわりの人ばかりだったから……。それはそれで、とてもありがたいことではあったんだけど……」

 そう言うと美咲は中庭を見つめた。

「私も反省しなきゃなんないな。いつのまにか会社で上手く立ち回れる人が優秀で、人間的にも優れてる、なんて思い込んでた」

 美咲はそれが僕のことだとは言わなかった。けれどそのあとの、言い終えたあとの間が、僕のことだと指し示していた。

「人間的に優秀なんて物差し、どこにもないのにね? でも会社のなかにいると、役職の高い人の言ってることが、いつも正しいことと思えちゃうから不思議。おそらく朝礼や会議なんかで日常的に上下関係を擦り込まれてるから、全員が誤解しちゃってるのよね? そして気づかないうちにそれが行動に出てしまっていて、近くにいる心優しい誰かを傷つけてしまってる。この人は主流じゃない、劣っている人なんだって……」

 徳丸のことを言っているような気がした。別段、美咲が彼に何をしたというわけでもないが、その何もしない、相手にしなかった、そんな無意識について悔いている、そう言っているように思えた。

「しょせん会社も社会の一部。歴史やニュースで見る人間同士のいざこざが大なり小なりここにもあるんだなって、今日思い知った」

 以前とはまるで違う美咲に圧倒され、かける言葉が見つからなかった。

 彼女は背筋を伸ばすと、「よし」と小さく言った。そしてかしこまった面持ちで僕のことを見た。

 まさか――。

 不安がよぎった時には、彼女の口が動きはじめていた。

「私たち、もう終わりにしてもらっていいかな……」

 予期した言葉が耳に入ってきた。遅れて脳に伝わってきたその言葉が頭のなかを真っ白にした。

「言っとくけど、今回の件があったからじゃないよ? 前から考えてたんだ。當間さんは私のことを好きじゃないって、ずっと分かってたから……」

「そんなことない」そう答えるしかなかった。

「あるっ」即座に言い切られた。彼女の目が僕に、嘘をつくなと言っていた。

「なんでそう言い切れるんだ?」訊きながらも答えを聞くのが怖い。

「じゃあ當間さん。私が今日、あのガイドに刺されそうになったあの時、あなたはどうした?」

「それは……」何も言えなかった。

「もちろん、なんで助けに来てくれなかったの? なんて言わない。でもね? 少なくとも見捨てないでほしかった……」

「見捨ててなんてない。ガイドの脅しだ、そう思ってたからだ……」歯切れの悪い返事しかできなかった。

「ほんとう?」美咲が確かめるように僕を見た。

「もちろんっ」と虚勢を張った。ほんとうのことはとても言えなかった。彼女の顔を見て、ダサいなと思っていたとは。

 美咲が僕の目を疑うようにじっと見ていた。「あの時私たち、目が合ったよね?」

 息を呑んだ。鋭い眼光に心の内を見透かされてしまいそうだ。

「いや、合っては……」否定したが、あとの言葉が続かなかった。

 あの時の、助けを懇願する美咲の顔が、今でもはっきりと目の奥に焼きついていた。あの時、僕は逃げた。視線を外し、気づかないふりをしていた。

「うそ、合ってた。でも逸らされた」美咲がきっぱりと言った。

 気づかれていた。けれどここで認めてはいけない。

「いや、ほんとだ。合ってなんかない」頑として否定するしかなかった。近くにある大事なものが大事だったことを、今さらながら気づかされた。

 これからは絶対に大切にする、誓うから。だから終わらせないでくれ。そう心の底から願った。

「ふん、まぁいいわ」彼女は鼻を鳴らした。「目が合った合ってないなんて議論、どうだっていい。でも、これだけは憶えておいて。あれで、あなたが目を逸らしたのを見た瞬間、私は絶望したの。ああ、こんな死ぬ間際にも、私はほっとかれるんだって……」

「そんなほっといてなんか……」

「別にいいの、助けになんて来てくれなくても。あの時はみんな怖かったんだから。彼氏なら助けに来るのが当然でしょう、なんて無茶なこと言わない。でもあの目を逸らされた、あの時のことだけは目に焼きついてて、どうしても消えないの。ものすごい絶望感だったから。これからもずっと消えないと思う。當間さんと会うたびに思い出してしまう」

「だから、目なんて合ってないって……」

 いくら否定しても美咲は顔を向けてくれなかった。中庭をじっと見つめたまま、時折、指で涙を拭うだけだった。

 為す術がなかった。もう終わりなのかと思うと、鼻の奥がつんときた。

 廊下から声が聞こえてきた。女の声だった。その声が近づいてくる。

「規則だと一ヶ月前までに出せばいいことになってるけどね?」

「でもふたり同時に出したら、絶対に揉めるでしょ?」

「そうだよねぇ、参ったなぁ」

 声からして、新人のカトパンとミトちゃんだ。どうやら辞表を出す出さないという話をしているようだ。

 今回のことで会社が嫌になったのだろう。当然だ。社会人一年目にして、こんな全国ニュースになるほどの事件に巻き込まれたのだ。その上、勤め先の評判もがた落ちなのだ。

「じゃあ、私が今月先に出すから、美輪ちゃんは来月にしてよ」

「えー、それは酷いんじゃない? それじゃまるで、私がつられて辞めるみたいじゃん。同期の子が辞めるから私もって」

「ははは、ごめんごめん。冗談、冗談よ」ふたりの声がどんどん迫ってきた。

 まずい、このままでは美咲と一緒にいるところを見られてしまう。今さら付き合っていることがバレるのは構わないが、今の涙目の彼女を見られたくはない。僕が泣かしたと誤解されては困る。

 立ちあがると美咲が、出てくの? という顔をしたので肯いた。

 ひとつ深呼吸してから飛び出していった。新人の彼女たちなら、普段お世話になっている僕を素直に受け入れてくれるだろうと踏んでいた。先ほどのバスでは冷たい顔をされたが、こうやって皆のいないところで声をかけられたら、絶対に対応してくれるはずだ。「おーい、聞こえてるぞぉ?」

 突然の僕の登場に、ふたりは、「うわっ」と素っ頓狂な声をあげ、後ろに仰け反りそうになった。

「ごめんごめん、そんなに驚かなくても」そう言って手を差しだした。

 それを見た彼女たちが一歩引いた。

 そんな……。

 顔から拒絶感が滲み出ていた。何するんですか。そう言われているみたいだった。

 傷つきながらも、平静を装った。「な、何ぃ? か、会社、辞めちゃうの?」

 ふたりとも僕に目を合わせようとしなかった。気まずそうに口をつぐんだままだった。

「こんなことがあったからなぁ。無理に引き留めはしないけど、もう少し考えてみてからにしなよ? まだ一年も経ってないんだからさぁ」と顎をなでながら言った。話の分かる先輩として、ありきたりだけれど、このタイミングとしては的確であろうアドバイスを伝えた。

 ふたりは口をつぐんだまま、動かなかった。

 少し盛ってやろうか? 今まで会社を辞めたいと思ったことはもちろん僕にもあったけれど、思い悩むということまではなかった。客に無理を言われてむかついた時に思うくらいのことで、二日も経てば忘れていた。それだけ今の会社は僕にとって居心地がよかった。そう思えたのも、僕自身が努力して今の地位を築いてきたからだ。それくらいの自負がある。僕もそうだが、若者は利に聡いものだ。情勢不利と分かれば、すぐに逃げ場を探そうとする。

「オレもそうだったから分かるよ。会社に入ってまだ一、二年の頃は辞めたくて辞めたくて仕方なかった。でもね? いい先輩……」

 そこで口が止まった。

 いい先輩に恵まれて――。そう言いかけたところで、口が動かなくなった。

 いい先輩――。その代表格として、真崎さんの顔が真っ先に浮かんでいた。相変わらず、人のよさそうな笑みを浮かべている。

 カトパンが顔をあげた。「でもいい先輩、何です?」そこにはバスのなかで見た時と同じ、軽蔑の眼差しがあった。

「あ、いや……」取り繕うことができなかった。

「當間さんは辞めないんですか?」

 違う声に驚き、横を向いた。

 声の主は、隣にいるミトちゃんだった。普段、目上の人に対しては控えめな彼女が僕の目をしかと捉えていた。

「オ、オレ?」思わず自分のことを指差した。

 あんなことしておいてなんで辞めないんですか? そう迫られているみたいだった。お世話になった先輩によくあんなこと言えますね? そう責められているみたいだった。

「當間さんが辞めるなら、私は辞めません」

「なっ……」脳天をおもいきり、がつんとやられた。

 ここまで嫌われたなんて――。彼女に気高さがあることを今になって思い知らされた。

「行こう?」カトパンが声をかけると、ミトちゃんだけが一礼していった。

 離れていくふたりの背中をただ見つめるしかなかった。

 とことん嫌われたんだな、オレ……。

「すごかったね、大丈夫?」同情するような顔つきで美咲が言った。「でも今回の件で、ああやって会社を辞めたくなってる人、結構多いと思うよ?」

「そうなのか?」分からないでもないが、とぼけたふりをした。

「ネットでたたかれたお蔭で、自分たちのいる世界がおかしかったんだって、気づかされたんだと思う……」美咲がみんなのいるロビーのほうを向いて言った。

 その横顔を見て、場違いにも、こいつ、きれいだな、と改めて思った。すっと尖った顎のラインに色気があった。若い女の瑞々しさが、まだ彼女にはあった。

「ごめん、そろそろ戻るね?」

「ちょ、ちょっと待てって」話は終わっていない。ここで去られたら、別れることになってしまう。

「ううん、戻る。ふたりしてずっといないでいると、怪しまれるでしょう?」美咲が同意を求めるように言ってきた。付き合っていることをずっとひた隠しにしてきた僕の台詞みたいだった。

「もういいんだ。みんなにバレてもいいと思ってる」そうたしなめた。今、彼女に去られたら、僕は終わりだ。

 その言葉に、美咲がぱっと眉をあげた。

 喜んでくれたか? そう思ったのも束の間、すぐに彼女は元の冷静な顔に戻した。

「こんな状況になったから言ってるの? さっきまで、『萌ちゃん、萌ちゃん』って言ってたくせに。その目がなくなったからやっぱり私、なの?」

「そうじゃない。あれは……」

 沈黙が生まれた。

 図星だった。都合よく乗り換えていることは否めなかった。この半年、萌ちゃんのことばかりで頭がいっぱいだった。美咲に電話したり、デートの予定を立てたり、とこちらから彼女を求めることは、まったくと言っていいほどしてこなかった。

「當間さん、今までありがとう。楽しいこともいっぱいあった。でも……つらいことのほうが多かったかな……」思い出を噛みしめるように、美咲は遠くを見つめた。

 なんと声をかけていいのか分からなかった。

「ご、ごめん、行くね?」彼女の声が潤んでいた。

「待てよっ」歩きだした彼女の腕をつかんだ。

 すると彼女の強ばりが手のひらに伝わってきた。

「ちょ、ちょっと、触らないでっ」大声を出した美咲が僕の腕を振り払った。

 慌てて腕を引っ込めた。

 彼女がものすごい形相で睨みつけてきた。そして僕につかまれた箇所を確認すると、手で払いはじめた。まるで不潔なものに触られたかのように――。

 頭を打ち砕かれた。僕のことをあんなに好きでいた彼女が嫌悪感を露わにしていた。

 絶望。

 急に耳が聞こえなくなったみたいだ。目の前で美咲が腕を払い続けている。彼女が口を動かし、何やら文句を言っているようだが、何も聞こえてこない。眉間に皺を寄せ、僕のことを睨みつけている。なんてことしてくれたのっ。口の動きから、ようやくそう読み取れた。

 そこまでなのか? そこまで嫌いになったのか? そこまで嫌われたというのか――?

「……したんですか?」

 遠くから声が聞こえてきた。ロビーのほうからだった。顔を向けると、今度ははっきりと聞こえてきた。

「どうしたんですか?」廊下の先に大柄の男が立っていた。

「大丈夫です?」そう言った国枝がこっちを見ていた。

 まずいな。そう思うと同時に、この状況を説明するための策を講じた。このままではまるで僕が美咲に絡んでたみたいだ。

「美咲さん、なんかあったんですか?」国枝の語気が強くなった。

 どうやらもう疑われているようだ。

 それに乗じて美咲が歩きだした。

「美咲っ」と手を伸ばしかけた。

「気安く呼ばないでっ」大きな声が廊下に響き渡った。

 国枝のほうへ駆け寄っていく彼女を、呆然と見ているしかなかった。

「當間さん、美咲さんに何したんですか?」国枝が睨みつけてきた。

 だから、何もしてないって。攻撃的な態度に腹が立ち、睨み返した。

 それを見た国枝がこっちに向かってきた。

「おい、なんだよっ」と言いながらも、血が引いていくのが分かった。「ちょっと待て」身体が萎縮していく。

 制しようと手を伸ばしたが、国枝は容赦なく向かってきた。すごい威圧感だ。眉のないその顔でチンピラのごとく、ガンを飛ばしながら迫ってくる。

「ちょっと待てっ。何か勘違いしてないか?」足が一歩さがった。全身が恐怖で覆われていた。

「こんな時に何やってるんですか? 何も反省してないんですか、あなたは」

 その高圧的な口の利き方に、いっきに顔が熱くなった。三つも年下の後輩に見下されたのだ。舐められてたまるか。

「なんだとっ」

 僕の大声に動ずることなく国枝は向かってきた。

 負けじと睨み返すしかなかった。

 それを見た国枝がくちびるをむき、ふっと鼻で笑ったように見えた。

「なっ……」頭にきたが、ここでまた大声を出したら、さらに見下されると思った。

 軽量後の会見で、対戦相手にガンを飛ばし続けるボクサーみたいに威嚇し続ける僕に、国枝があきれたように言った。「何やってるんすか、當間さん」

「話してただけだ」

 国枝が僕の視線を外し、ふうと横に息を吐いた。「別に襲ってたなんて思ってませんよ。ただ今は美咲さんのことを、そっとしておいてあげて欲しいなと思って」

「知ってるのか? オレたちのこと」

 国枝は一度後ろを確認してから言った。「見てれば分かりますよ……」

 その口ぶりにピンときた。「お前まさか、美咲のこと……」

「そうじゃないですっ。美咲さんに対する當間さんの態度が冷たすぎるから言ってるんです」国枝が語気を強くした。その目が潤んでいた。

 悔し涙か? 途端に冷静になれた。

 好きだってバレバレじゃないか。それも相当。じっと覗き見てやると、恥ずかしくなったのか、国枝が顔を背けた。

 なんだこいつ。立場は逆転していた。

「好きなら、ちゃんと見ていてあげてください」国枝はそう言うと、踵を返した。

 なんだ、捨て台詞かよ。戻っていく彼の背中が小さく見えた。

「美咲は絶対にやらない」小さくなったその背中に向け、言ってやった。

 彼の向かう廊下の先が妙に騒々しかった。

 なんだ? と目を凝らした。

 そしてそれがなんであるかが分かった瞬間、息が止まった。

 たくさんの知った顔が横一列に並んでいた。そこには仲間を迎え入れる優しい目と敵を排除する冷たい目の二種類があった。優しい目で迎え入れられる国枝とは違い、僕のほうには冷たい目が向けられていた。鉄砲隊のように並んで撃ち込まれてくる批難めいた視線の弾が、こっちに来たら容赦しないとばかりに訴えてきていた。

 植田がいた。カトパンもミトちゃんもいる。あのクソ真面目な加納さんでさえも僕に鋭い銃口を向けていた。そんなにたくさんの弾のなかを国枝が平然と戻っていく。

 試しに一歩前に出てみた。途端に無数の弾が飛んできた。痛みはなかったが、代わりに心が粉々にされた。

 孤独の波がいっきに押し寄せてきた。僕をさらい、皆からみるみると遠ざけていく。廊下の奥へ奥へと流されていく。

 帰還した国枝が皆から賞賛の声をかけられている。そのまぶしい光景を、僕はただ遠くから眺めているしかなかった。そんな僕を数人がまた威嚇してきた。お前はこっちに来るなよ。来たら、また撃つからな?

 僕が動けないでいると、皆がロビーのほうへ戻りはじめた。僕を置き去りにしていくことに、まったく抵抗はないようだ。誰も僕のことなど見向きもしない。

 ひとり、またひとりと人が消えていく度に、身体の一部一部が消えていくようだった。そして最後のひとりが廊下から消えたところで、僕という存在はとうとうなくなってしまった。

 静寂が僕を包み込んでいた。

 もう要らないってことか……。カースト最下位。誰もいない廊下を見て、そんなことを思った。こんなにも簡単に見捨てられるとは……。人はこんなにも簡単につながりを切れるものなのか……。

 寂しさというより虚しさを感じていた。仕事をバリバリとこなし、あちこちに人脈を築いてきた。その人脈を使い、人並の営業職よりも多く仕事を取ってきた自負がある。どれだけ会社の利益に貢献してきたことか。帰り際にトラブルで呼ばれ、そのあとの予定をキャンセルしたことなど何度あることか。そのまま徹夜することになってしまったことも一度や二度の話ではない。休日出勤もざらだった。

 今までやってきたことはなんだったんだろう。会社のために、といろいろと頑張ってきたことが、だんだん馬鹿らしくなってきた。

 もう、どうにでもなれっ。吹っ切れた。

 反転し、廊下の奥へ進んでいった。突き当たりにエレベーターが見え、その僅かな光に惹きつけられていった。上階行きのボタンを押すと、矢印がオレンジ色に光った。

 今頃ロビーでは、失墜した僕について、皆が面白おかしく噂し合っていることだろう。

 ああなっちゃうと惨めなもんだな? お調子者の末路ってやつか。あの人、プライド高いから、きっと立ち直れないぜ? そんな中傷する言葉がいくつも浮かんできた。

 エレベーターが到着し、扉が開くと、眩しい光に包まれた。上階ボタンが、【R】まであった。夜でも屋上に行けるのか? 試しに押してみると、ボタンが点灯し、エレベーターが反応した。案内を見ると、屋上には庭園があるようだった。病棟階で降りても仕方ないので、取り合えず行ってみることにした。

 振動を感じながら、ふと思った。

 いっそのこと屋上から飛び降りてやろうか――。

 そう考えると、それもありのように思えてきた。

 どうせこんな状態じゃ、もうこの会社にはいられない。それに辞めて次を探したところで、うまくもいかないはずだ。今や僕の顔と名前は全国区だ。採用担当者が履歴書の【和栄テクノ】の文字を見て、ネット上の僕に辿り着くのに、そう時間はかからないだろう。こいつ、例の事件の男だ、となるのがオチだ。ならばいっそのこと、僕だけを悪者にした皆への当てつけに死んで報いてやろうか。

 屋上は五階に位置していた。絶対に死ぬな。いや打ち所が悪くて、一生寝たきりってことも有り得る。それだけは避けたい。

 屋上に到着し扉が開くと、目の前に暗闇が広がった。入ってきた冷気にぶるっと身体が震えた。すかさずダウンコートのチャックを上まで引きあげた。

 エレベーターホールはテラスのようになっており、大きなガラス窓が外との空間を仕切っていた。目を凝らすと、微かに木々の形が見て取れた。どう見ても夜間開放しているとは思えなかった。

 まさかこっちは開いていないだろう。そう思いながら中央にあるテラスの入口に近づいていくと、扉は抵抗することなく動いた。

 鍵のかけ忘れか? それとも普段からかけていないのか? ずさんな管理だなと思ったが、今の僕にとっては好都合だった。万一ここで事故が起こったら、病院は責められ、今後の管理体制を一新するだろう。いや事故の程度によっては、この庭園を閉鎖し、屋上へは行けなくしてしまうだろう。そのきっかけが、この僕になるかもしれない。

 真冬の屋上には、ひっきりなしに強風が吹いていた。顔が凍りつきそうだ。鼻や耳が締めつけられるように痛い。

 外灯のない真っ暗な庭園を進んでいくには、月明かりだけが頼りだった。うっすらと見える石畳の上をゆっくりと進んでいった。両側にある区画には、たくさんの木々が植えられているようだが、今は黒い亡霊のようでしかなかった。

 僕が飛び降りたら、みんなどう思うだろう? あそこまで責めなくてもよかったんじゃないか? やり過ぎたんじゃないか? そんな風にきっと後悔するはずだ。マスコミやネットの連中は、自分たちのしたことを棚にあげ、「また罪を個人に押しつけたのか」とさらに会社の連中を責め立ててくるだろう。そうなれば皆、おしまいだ。会社は潰れ、皆、路頭に迷う。美咲は僕に別れ話をしたことを一生後悔することだろう。あんなこと言わなければと。もしかしたら、心に傷を負って一生結婚できなくなるかもしれない。

 そう考えると、なんだかワクワクしてきた。きっとこの状況が一変する。みんなして申し訳なかったと謝罪に来ることだろう。

 それを僕はどこで聞くのだろう? 病院のベッドの上か、それとも墓の下か。

 目が慣れてきたのか、まわりが見えてきた。石畳を進みながら乗り越えられそうな場所を探すが、両側とも隙間なく木が生い茂っていて、とても奥まで行けそうになかった。

 ほんとうにやるのか? やれば必ず大騒ぎになる。でもやらなければ、このまま僕は悪人のまま社会に葬り去られるだけだ。自問自答しながら進んでいった。

 奥まで行くと、いい感じの場所が見つかった。格子状の柵の高さが僕の胸あたりまでしかなかった。飛び降り防止ため、よじ登っていかないと越えられないような、高い壁のような柵を想像していたので少々肩透かしだった。こうして夜でも簡単に屋上まで来れてしまうくらいだ。この呑気な病院に、そこまでの警戒心はないということだ。

 柵の向こう五十メートルほど先に別の病棟が見えた。背伸びして間にある谷間を覗くと、深い闇に吸い込まれていきそうだった。ひっきりなしに吸い込まれていく風が、こっちだとばかりに勢いよく僕をいざなっていく。

 ここに落ちる? ごくりと息を呑んだ。

 だがしばらく覗いていると、底が見えないせいか、恐怖を感じなくなってきた。逆に、この暗闇に身を委ねるだけだ、意外と楽なのかもしれない。そんな風に思えてきた。

 先ほどまでの皆とのやり取りが思い返される。

 お前はこっちに来るなよ――。たくさんの目がそう訴えてきた。

 何も反省してないんですか、あなたは――。国枝に鼻で笑われた。

 触らないでっ――。あの美咲に拒絶された。

 當間さんが辞めるなら、私は辞めません――。あのミトちゃんが反抗してきた。

 外に買い物にも行けないじゃない――。母親が迷惑そうに嘆いた。

 あの「要らない」は、ちとまずかったな――。戦犯の黒木さんにまで同情された。

 見損ないました――。あの植田にため息をつかれた。

 皆がすべてを僕のせいにした。

 いったいお前ら何様なんだ? 自分たちのことは棚にあげやがって――。

 意は決した。皆に復讐してやる。この身体を以ってして。

 柵に手をかけた。かじかんだ手に金属の冷たい感触が伝わってきた。試しに力を入れ、前後に揺すってみた。少し揺れるだけだった。どうやら支柱でしっかりと固定されているようだ。これなら簡単に越えられそうだ。神様の存在を信じているわけではないが、こんなに簡単だと、なんだか神様が僕のためにお膳立てをしてくれているようにも思えてくる。早く済ませて楽になりなさいと。

 そこでふと、真崎さんの顔が浮かんできた。

 もしかしたら、真崎さんも同じ思いだったのだろうか? きっと今の僕と似たような状況だったはずだ。

 考えて、いいや全然違う、とかぶりを振った。今の僕は絶望感というよりは、皆を陥れてやろうという復讐心のほうが強い。真崎さんの場合は、追い詰められた挙句の絶望だったからに違いない。

 ん? でもなぜそう言い切れる? そう自分に問い質すと、すっと背筋が冷たくなった。もしかしたら真崎さんも同じことを?

 ほんとうのことは分からない。分からないけれども、可能性がないわけではなかった。今の僕と同じように、真崎さんも絶望の先に見えたものが復讐心であったかもしれないことは否めないのだ。

 でも、あの温和な真崎さんがそんなこと思うはずは……。

 すると頭のなかに、黒いモヤのようなものが噴き出てきて、真崎さんの姿を形づくってきた。

 當間、ようやく分かったか。迫り来るモヤが僕の身体のまわりをじわじわと侵食してきた。抵抗しようにも、金縛りにあったようで動けなかった。

 君に裏切られて、ほんと、絶望したさ。一番信頼していた後輩だったからね? 居酒屋でのあの時のショックは、君には計り知れまい。でもね? そのお蔭で吹っ切れたよ。もういいや、そこまでされるのなら、こっちにも考えがあるってね? 逆に勇気が湧いてきたよ。死んで君や皆に報復する勇気がね。

 愕然として、その場に膝を落とした。

 真崎さんはそんな風に考える人ではない。そんな人じゃないっ。

 そう信じたかったが、ほんとうのことなど分かるはずもなかった。

 あの時、真崎さんはどう思ってホームを蹴ったのだろう。悪いほうに考えはじめると、いくらでも話の筋は繋がっていった。あの日、真崎さんが自殺したという一報が事務所に入ってきたあの瞬間、皆がこの上ない後ろめたさを感じたのは事実だ。

 そこまで深刻だったのか――。そう思い知らされたあとに、すぐさま何もしなかった自分たちの逃げ場を探していた。オレじゃないよな? 私、何もしてないよね? 悲壮感が漂うなか、そんなしたたかな空気が事務所に蔓延していた。そして罪のすべてを所長や黒木さんへ押しつけることで、部下であることを理由に自分たちのずる賢さを正当化していった。

 それでも長い間ずっと、暗いしこりが心の片隅に残り続けた。みんな気づいていたが、決して口には出さなかった。自分たちの背中に、「傍観者」という卑怯者のレッテルが貼られていることを。そしてそれを、お互いに指摘し合うこともなかった。

 どちらにせよ、僕たちは真崎さんを絶望させ、その死を以って報復を受けていた。

 ここにきてはじめて自分が劣悪な人間であることを思い知った。真崎さんがその身を以って示してくれた反省がまったく生きていない。会社も僕も同じ過ちをまた繰り返している。

 死んで真崎さんに報いるしかない――。

 柵に手をかけ立ちあがった。真っ黒な谷間が、早くおいでと迎えていた。

 死んで償わないと。生きていると、きっとまた誰かに迷惑をかけてしまう。真崎さん、許してください。そんな陳腐な言葉で、きっと許してなんてくれないでしょうが。でも、これだけは言い切れます。僕はあなたのことが好きでした。いや、今でもそうです。あんなに親身になって僕を指導してくれた人は、未だにあなたしかいません。真崎さん、僕のなかであなたは、生涯一番の恩師です。それなのに僕は――。

 足を振りあげ、柵の上にかけた。強風が吹き、髪が乱れた。

 死に顔が無様じゃ、恰好悪いな。軽く手櫛を入れてからコートのフードを頭にかぶせた。視界が狭まり、不安が消えた。再び吹いた強風が、早く楽になれよ、ともたもたしている僕に発破をかけてきた。

「よしっ」と自分に言い聞かせ、もう一方の足を振りあげた。

 だがコートの裾がどこかに引っかかったようで、それ以上、前にいけなかった。

 おかしいな、後ろには何もなかったはずだ。

 そう思って振り返ろうとしたところで、身体がふわりと宙に浮いた。

 な、なんなんだ?

 徐々に重心が後ろにずれていった。手を伸ばし、なんとか体勢を立て直そうとした。しかし無情にも身体は後ろに傾いていくばかりだった。

 危ない。このままじゃ頭からコンクリートに直撃だ。

 なんとか柵をつかもうと必死に手を掻いたが、虚しく空を切るだけだった。為す術なく後ろへと落ちていった。

 だめだ――。痛みを覚悟した。

 すると背中に何かが触れた。かと思うと、がっちりと身体が支えられ、跳ね返されるようにして靴のほうからきれいに着地していった。

「だ、誰だ?」つんのめって振り返ったところで、僅かに見えた人影が視界から消えていった。

 次の瞬間、みぞおちに強い衝撃が走り、すぐさまそれが激痛へと変わっていった。

 な、何するんだっ。腹を押さえ、床に転がった。ざらざらしたコンクリートの細かい凹凸が頬にいくつも刺さってきた。

「誰なんだ? いったい……」涙で滲んだ視界に、ぼんやりと眼鏡をかけた男の顔が映った。

 真崎さん……? まさかと思いつつも、こんな邪魔をするのは真崎さんしかいないと思った。

 自分は死んだのに、僕には生き続けろとでも言うんですか? そう訊きたかったが、痛みで腹に力が入らなかった。

 しかしもう一度見ると、真崎さんにしては細身過ぎるような気もした。視線を落とした先にうっすらとスニーカーのNのマークが見えた。

「すみません、思いきり殴っちゃいました。手加減したら、中途半端になっちゃうと思って。殴り返されたくないですからね」

 声の主が分かり、とてつもない怒りが込みあげてきた。

「徳丸っ、お前な……」罵倒しようとしたが、痛くて声が途切れてしまった。辛うじて開いた片目に、月に照らされた丸い頭が蔭となって映った。

「萌さんの言った通りでした。見張っておいてよかったです」

 見張っていただと? 僕のことを? 徳丸ごときに見張られ、ずっと気づかずにいたというのか? そう思うと自分が情けなくなった。それと同時に自分のしようとしていた行為が恥ずかしくなってきた。一定のリズムで突きあげてくる腹の痛みに歯を食いしばった。涙でぼやけた視界に、時折、徳丸のスニーカーが映った。

 くそぅっ。心のなかで叫んだ。こんな無様な僕を見ながら、こいつはあざ笑っていることだろう。ざまあみろとでも思っているのか。

「すみませんでした當間さん。痛みが落ち着いたら、みんなのところに戻りましょう」

 えっ? その言葉に驚いた。

 だがすぐに、徳丸らしいと思った。そうだ、こいつはこういうやつだった。そう思いながらも、同情されたようで悔しくなった。

「くそぅっ」ようやく声が出た。幾分、痛みが和らいできたが、代わりに悔しさが増してきた。

「くそぅ」言っていて、だんだん虚しくなっていく。

 もう終わりだ……。腹を押さえ、仰向けになった。

 終わりにしよう。やけになっているのが自分でも分かった。横に立っている徳丸の顔がうっすらと確認できた。丸いレンズの奥にある目が、大丈夫かなぁと心配そうに僕を覗き込んで見ている。

 それを見て観念した。もう、どうにでもなれっ。

 相変わらず空には、大きくて丸い月が浮かんでいた。まるでこういう結末になることを知っていたかのように、僕のことをずっと見守ってくれていた。

「當間さん、ごめんなさい。一緒に戻れそうにないみたいです」徳丸が言った。

「みたい? どういうことだ? つっ」彼のほうへ向き直ろうとしたが、腹に力を入れてしまい、また痛みが走った。

「どうやら、お迎えが来たようです」

「お迎え?」

 視界の上をいくつものライトの光が騒々しいくらいに交差していった。

「おいっ、そこで何やってるっ。徳丸なのか?」

 警官の太い声が、僕たちの間を切り裂いていった。


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