旅行の仕度
■旅行の仕度(社員旅行前年の四月)――島野純子
容器に入れたひとり分のパスタを電子レンジで茹であげ、「これくらいの贅沢ぐらいいいじゃん」と奮発した蟹入りのトマトクリームソースで味わったあと、テレビを点けると、街頭で若い女がつくったことのない料理に挑戦していたので、ああそうだ、今日は日曜だったな、と改めて思った。お題は「ロールキャベツ」らしい。女は挽肉をお玉ですくい取り、広げておいたキャベツの葉にぼとんと落としたが全部落ち切らず、なんとか落とそうとしている。いくらたたいてもこびりついた挽肉は落ちてくれない。その行為に、「あらあら味つけしないの?」と男性ナレーターがツッコミを入れ、続けとばかりにおばちゃんたちの笑い声(明らかに録音と分かる)が重なった。しばらくすると女はとうとう吹っ切れたのか、素手を使いはじめた。最初からそうしなよと思いながらも、挽肉をほじくり出しているそのネイルがペンキを塗ったような青色をしているので、いつかその塗料が剥がれて具材に混ざってしまうんじゃないかと、自分が食べるわけでもないのに妙な心配をしてしまう。
休みの日まで人に気を遣いたくないとチャンネルを変えた。するとヨーロッパを優雅に旅する元宝塚女優が出てきたので、「アジアへ行ってみろ、アジアへ」とまたツッコミを入れた。用を足したあとの手で調理された屋台飯を、この気取り顔の女優が断固拒否している姿を想像しながら次のボタンを押すと、司会者に新婚生活のことをいじられ、大袈裟なくらいはしゃいでいる素人夫婦が出てきたので、瞬殺してやった。ゴルフ番組を軽く飛ばし、次に出てきた【アンデス文明五千年の謎】という右上のタイトルに惹かれ、危うく食い入りそうになったところで、我に返って押した【1】と【2】は、体操と囲碁というまったく毛色の違うジャンルではあったが、どちらもなんと同じ「NHK杯」という冠を掲げていた。
あきらめて電源を切ると、ひとりぼっちになった。座椅子にもたれ、う~んと唸ってみた。外から微かに車の走行音が聞こえてきた。ベランダの上には、青いきれいな空が広がっていた。
日曜午後一時。外が晴れているせいか、こうして家にいる自分を鑑みて憂鬱になる。
もちろん出かけたっていい。けれど日曜のこの時間、出かけると正直、心が折れてしまうのだ。
一番厄介なのはショッピングモールだ。日曜の昼といったら、家族連れやカップルたちで占拠されている。買い物をするにも、「こんなところで牛歩かい?」と突っ込みたくなるほどゆったりと進む彼らの間をすり抜けながら目的の店に辿り着くには、相当なパワーが要る。そして問題はそのあとだ。
たとえば、その店でセンスのいい服を見つけ、買ったとする。そしてルンルン気分で店の外へ出ると、先ほど追い越した同年代くらいの子連れ夫婦と再び遭遇してしまう。相変わらずのゆったりとした足取りで、楽しそうにおしゃべりしている。するとなぜかしら、買ったばかりの服が必要のないものに思えてきてしまう。
これって、いつ着るんだろう。どこに着ていくの? そういえば、これと似たのあったっけな、あれは三回くらいしか着てない……。じゃあ、これってほんとうに欲しかったものなのかな? そんな自問自答がはじまってしまう。
人と比較しない。それは幸せに生きるための鉄則だ、そうものの本にはよく書いてある。だが、私はまだ修行が足りないせいか、未だにあらゆるものをすぐ天秤にかけてしまう。もちろん自分がもう若くはないことは、充分に分かっているつもりだ。女の主流が下の年代に移っていることも――。
いっそ、日曜真っ昼間のフードコートに行って、ソファ仕様のボックス席をひとり占めし、大盛のつゆだく牛丼とぶっかけうどんを一時間かけてゆっくりと食べ切ることができれば、この厄介な天秤をぶち壊すことができるのだろうか?
いや、そんなの修行でもなんでもない。ただの地獄だ。そんな人混みなんかじゃなく、誰もいない大自然のなかで思いっきり黄昏れてみたい。
そうか、バイクでも買おうか? お陰さまで今住んでいるところから海や山も割と近い。バイクならある程度渋滞を気にせず、一時間も走れば、その夢は現実のものとなる。
名案だ。早速スマホで当たってみる。すると車体本体はともかく、免許を取るための教習所費用を上乗せしたところで、天秤がいっきに振り切れてしまった。
「あー、誰か金くれー」ひとりごちて天を仰いだ。視線の先に明かりの点いていないシーリングライトがあった。その円形をじっと眺めていると、なんだか天井にくっついて休んでいるUFOのように見えてきた。
四十にして惑わず。そんなこと誰が言ったんだ? 惑ってばかりじゃないか。ああ、明日からまた仕事だ。こんな早い時間から「サザエさん症候群」になっている四十路近い女がこの世のなかにはどれくらいいることだろう。あ、いや、まだそんな時間じゃないから、「新婚さんいらっしゃい! 症候群」とでもいうべきか、とひとり手をたたいたが、誰も座布団を運んできてはくれなかった。
なんだか、どうでもよくなってきた。もう呑んじゃおうか、と腹に力を入れた。いやいや、それはいくらなんでも早すぎるだろうと自分を諭し、再び座椅子に身体を預けた。
そこでふと、話し相手にネコでも飼ってみようかという、ときめきプランが頭のなかをよぎっていった。
それ、いいんじゃない? 飼うならロシアンブルー、もちろん子猫からだ。そう思いながら、ひとりほくそ笑んでいると、なんだか母親になったような気分になってきた。
翌日月曜の朝礼。所長が黒木と呑みにいった時のことを話しはじめた。近くで聞いている黒木がなぜかくちびるを丸め、相好をくずしていた。どうやら当事者だけにこの話のオチが分かっているようだ。
「刺身の美味い店だっていうのに、なぜか彼があまり刺身に手をつけないんです。で、不思議に思って訊いてみたら、『実は生ものが苦手だ』って言うんです」と所長がオチをつけましたとばかりに笑って言った。
まわりが黒木のほうを見てくすくすと笑う。当人は恥ずかしそうにしているが、まんざらでもない様子だ。
「僕は黒木くんのこと、好きですよ。でもね?」と所長が、ここが大事です、とばかりに片手をあげた。「でもそこまでして、嫌いなものを我慢してまで、上の人に付き合うことはないですよ? 苦手なものは苦手とはっきり言ってください」
言われた黒木が苦笑いしている。
「皆さんも、そういうことで無理する必要はありませんからね? 気を遣うなら、もっと違うところで遣ってください。以上、よろしくお願いします」
なんの話なんだ? 一礼し、さがっていく所長を見ながら思った。「ごま擦りもほどほどに」という教訓か? はたまた、ふたりの仲のよさを自慢したいのか? 黒木の出世に対する貪欲さと、ある意味それを良しとするような所長の口ぶりに、朝から不快な気分にさせられた。
この会社の朝礼は、なんでこういつも不快な気分にさせられるのだろう。先週もそうだった。所長が、「胸に社章をつけていないやつ、手をあげろ」と言って、男数人が手をあげさせられていた。それを所長が、「皆さん、この人たちをよーく見ておいてください。会社の決まりを守れない人たちです」と晒し者にした。「仕事ぶりもそんな感じの冴えない人たちですねぇ」そんな所感つきだった。
すかさず心のなかでツッコミを入れた。「先日、会社の入退出カードを居酒屋に忘れて届けられたのは、どこの誰でしたっけ?」週のはじめから龍角散を飲みたくなった。
うちの男たちは大変だ。こういった儀式のなかで、レギュラー組と補欠組にはっきりと選別されていく。僅かでも差異があれば、たたかれて補欠落ち。辞めるまでベンチを温め続けることになる。かといって、レギュラー組に入ればずっと安泰かといえばそうでもない。いつ補欠に落とされるか分からないからだ。だから自分が標的となる前に、先手をうって補欠組をたたくようになる。まるで戦時中の優生学でも推し進めているかのようだ。それを私たち女は冷めた目で見ている。くれぐれも「強制収容所建造キックオフ会議」など、おっぱじめないでもらいたいものだ。
朝礼が終わり、面倒と思いながらも黒木のところに蛍光ペンで印をつけた引当在庫確認表を持っていった。向かった先で黒木が、「もう、変なこと言わないでくださいよ」と先ほどのことで所長に、冗談ぽく口を尖らせていた。
「黒木課長、よろしいでしょうか?」
私の声に黒木が驚いて姿勢を正し、顔を見て、「おうっ」と大袈裟な声をあげた。その顔がいっきに赤くなり、汗ばんでいく。
「すみません、この「MDR115」のメンテナンス料の在庫、月末でまだ残ってるんですが、大丈夫ですか?」
表を手渡すと、黒木は頭を掻いた。「これが残ってるって?」表を見ながら訊いてくる黒木に、「ええ」と肯くと、彼はマウスをクリックし、「確認したんだけどなぁ」と目を合わさず販売管理システムを立ちあげはじめた。
ふたりして起動するのを待っていると、沈黙に乗って彼の緊張がじわじわと伝わってきた。過去は過去。そう割り切っている私は別段どうってことないのだが、彼のほうはもう五年も経つというのに、未だにこうやって私との過去を引きずっている。
相変わらず小さな男だ、と心のなかで嘲笑していると、黒木は耐えきれなくなったのか、「確認してあとで持っていく」と私を追っ払った。
席に戻りながら思う。もうあきらめたんだろうなと。以前は、といっても三年前くらい前までの話だが、さっきのような場面で黒木は私のほうを見てきた。もちろん好意的な目ではない。まだ辞めないのかよ――。そういった批難の目だ。
私が悪いの? 別れたばかりの頃は、考えて眠れない日もあったが、それも次第に慣れてくると、逆にそんな仕草をする黒木が幼稚な男に思えてきた。
なんであんなやつのこと、好きだったんだろう。お蔭ですっかり目が覚めて、未来を向けるようになった。
けれどそんな私にも、ひとつだけ過去を引きずっているものがある。真崎さんのことだ。あの人にだけは未だに申し訳なく思う。勘違いした黒木を抑え切れなかったからだ。
「絶対、あいつが誰かに言ったんだ」私たちのことが社内で噂になりはじめた頃、黒木はそう言って怒っていた。「真崎さんが洩らすわけないじゃん。きっと他の誰かにも見られたんだよ」私が何度言い聞かせても、彼は聞く耳を持たなかった。噂に気づいたのがタイミング的に、真崎さんと東急ハンズでばったり会ったすぐあとのことで、他に疑いを向ける相手もいなかったからだ。
噂は奥さんの耳にまで届いた。もちろん私が、「奥さんと私のどっちを取るの?」なんてメロドラマ風の台詞を吐いた憶えはない。けれど最終的に彼は、そのメロドラマ風のベタな筋書き通りに、奥さんのほうを選んだ。「彼女が妊娠したんだ」
何? やることやってんじゃん。そう思うと同時に、彼の背後に小さな人影が見えてしまい、私が身を引くしかないじゃん、と人知れず泣きくずれた。まさか自分が、主人公の男に荒波を立てるだけの脇役に成りさがるとは、思ってもみなかった。生まれてくる子のことを想像すると、いくら考えてみても、こちらが身を引くしかなかった。だから別れた。会社を休んで三日間、アパートに引きこもって枕を濡らし続けた。
ところが真実は違っていた。妊娠などしていなかったのだ。それは黒木と私を別れさせるための奥さんのつくり話だった。まんまとだまされ、離婚もされた黒木が頭をさげて復縁を求めてきたが、一度天秤にかけられて敗退した私は、意地でそれを突っぱねた。「結局、私を切り捨てたんだよね?」
そう嫌味っぽく返すと、「それは……」と黒木は続けられなくなり、最後には、「子供ができたって言われたんだぜ? 仕方ないじゃないか」とキレ気味に言い返してきた。
「やることやってたからでしょ?」そう言い返してみたものの、本心では、「それでもお前が」とあきらめずに私を求めてきてくれれば、などと淡い期待をしていた。だが実物の彼はそんな私の気持ちなど気づくことなく、呆気に取られるほどすんなりと退散していった。
所詮そんなものだったのか。虚しさの渦中、書店で惹きつけられるようにして手に取った瀬戸内寂聴の最新刊を何度も読み返し、なんとか心を落ち着かせた。
夕方、メイク室から戻る途中、エレベーターから出てきた當間の顔がやけににやけていた。心なしか普段より歩調も軽やかだ。
面白そうなので、声をかけることにした。「ちょっと、當間くん」
「はいぃ?」振り返ったその顔に、まったく締まりがなかった。
「なんかいいことでもあった? そんなにニコニコしちゃって」
當間が頬を撫でながら言う。「えーそんな顔してます? 参ったなぁ。いやぁ、今、下で飛び込みで来た旅行会社から、社員旅行の話聞いてたんですけどぉ、意外によかったもんですからぁ」とまったく腑抜けていた。
何が参っただ、と思いつつも、「飛び込み」という言葉が妙に気になった。當間の手には、筒状に丸められたパンフレットの束が握られていた。
まさかと思い、「もしかしてそれ、ミカサツアー?」と訊ねると、彼は目を丸くした。「な、なんで知ってるんですか?」
やはり。「もしかして来たの、田中って女?」と訊くと、「な、なんで知ってるんですか?」と當間は同じ台詞を繰り返してきた。見せられた名刺には、【田中 萌】とはっきり刻まれていた。
ほんとうに来たんだ。名刺を見ながら、彼女の顔を思い浮かべた。
「純子さん、なんで彼女のこと知ってるんです?」當間がまた訊ねてきた。相当気になっているらしい。
「あんたねぇ、前に私がこの子の会社、紹介しようとしたら、『いつもお願いしてるとこに悪いからいいです』って即行で断ったじゃない」
私はずっと参加していなかったので知らなかったが、當間曰く、うちの事業所は例年ある旅行会社に頼み、同じバスガイドに担当してもらっているらしかった。「ユキネエ」という姉御肌の面白い人なんだそうだ。
「げっ、あの時のって、この会社のことだったんですか?」と當間は手に持っていたパンフレットを広げてきた。その悔しそうな口ぶりから、あんなに可愛い子が来るんだったら、先に言ってくださいよ、と心の声が腹話術のように、ワンテンポ遅れて降ってきた。ピンク色の紙に、【ミステリーツアー、今年もやっちゃいます!】とタイトルが打たれ、下に、【ミカサツアー】と社名が続いていた。
「で、何がよかったの?」受け取ったパンフレットをパラパラと捲りながら、私は少し意地悪な質問を浴びせてみた。はじめにあったピンク色の紙以外は、他の大手旅行代理店の冊子だった。
「へ?」口を突き出してきた當間の頭上に、クエスチョンマークが浮かんでいた。
「意外によかったって、さっき言ってたでしょ? で、どんな内容だったの?」
「えっ、あ、それ? まぁ、伊豆とか箱根とか……」
うそつけ。心のなかでツッコミを入れながら、もうちょっとだけ意地悪をしてやろうと、「伊豆や箱根で何するの?」と掘りさげてやると、「も、もちろん温泉に決まってるじゃないですか」と當間は顔を赤らめた。俄然面白くなってきたので、「おい、色男。ほんとにそれがよかったのかぁ? ウリウリっ」と肘で腕をつついてやると、「や、やめてくださいよぉ」と本心がバレバレなのもまんざらでもなさそうだったので、「このこのーっ」と続けていると、運悪く前から美咲がやってきてしまった。
ふたりして姿勢を正した。そんな私たちを見て、彼女はそのよからぬ空気に気づいてか、眉間を寄せて行ってしまった。いつも當間に見せているシナは微塵も見せなかった。
「やばっ、変なところ見られた」
「もう純子さん、やめてくださいよ」
當間がむっとしたのが分かったので、ちょっとしつこかったかと反省した。続けて、「純子さん、社員旅行行くんですか?」とずっと参加していない私に嫌味っぽく訊いてきたので、「ううん、行かない」と答えると、「じゃあ、あんまり詮索しないでくださいよ」と彼は怒って行ってしまった。
あーあ、またやってしまった。今夜ひと悶着あるであろうあのふたりに申し訳なく思ったところで、不吉な予感にも似た疑心がよぎった。
萌の顔が浮かんでいた。ほんとうに飛び込み営業までしてきた彼女のことが、少し恐ろしく思えていた。確かに彼女はきれいだ。それにまだ二十歳だというのに、ちゃんと自分というものを持っている。四六時中、男にモテることばかり考えていたあの頃の私なんかと比べたら、雲泥の差だ。でも……。
違和感は拭えなかった。二十歳の女とは、そんなんじゃない。四十年近く私を形づくってきた身体じゅうの細胞がそう訴えてきていた。
田中萌とは、私が月二万という大枚をはたいて通っているフィットネスクラブで、三ヶ月ほど前に出会った。
一連の筋トレを一時間ほどかけて行ったあと、プールで一キロ泳ぎ切った私がミストサウナをひとり占めしていたところに、ドアが開かれた。
顔をあげた私の目が、一礼して入ってきた女を一度素通りしたあと、なんだと? といっきに吸い寄せられていった。まずその水泳選手並の肩幅の広さに目がいき、次にその下にあるスポーツ水着に押さえつけられた胸の起伏に目がいった。
「こんにちは」爽やかに声をかけてきた彼女に、無意識のうちに、「こんにちは」とオウム返しをしていた。白くぼやけた室内でも美人だと思えたのは、その力強い眉のせいだろう。
彼女は二メートルほど離れたところに腰をおろした。同性ながらも一連の動作を目で追ってしまった。太ももが半分近く水着で覆われているとはいうものの、床まで伸びたその長い足は、健康的な無駄のない曲線美を描いていた。
世の中って、やっぱ不公平だ。眼下にある太い足を見て、自然とため息が洩れた。
私がこの高級クラブに通っているのは、もちろんダイエットという目的もあるが、一番は若さを保つためだ。それも「人知れずに」が頭につく。公共施設などにある格安ジムに行ってしまうと、必ずと言っていいほど、「バーベル、何キロまで持ちあげられる?」などと自慢し合うタンクトップ姿のオジサン連中が徒党を組んでいて、若い女(私も三十七だから決して若くはないのだが)が入ってくると、「おっ」とそのスケベ面で品定めしてくる。一応、私は合格圏らしく(決して自慢ではない)、その後も下半身あたりをジロジロと見てくるので、そういう不快な思いをするのが嫌だということもあるが、一番は知り合いに会いたくないからだ。重い負荷をかけ、真っ赤になって踏ん張っている姿など、絶対に見られたくない。「この前、純子さんがジムで真っ赤になってたぜ」そんな噂話になど、絶対にあがりたくない。その点、こんな高級ジムなら、普段付き合いのあるような貧乏人は決して来ない。だからまわりを気にせず、思いっきり自分を痛めつけられる。流れ出る汗が、肌の上で玉にならなくなってきたせいか、「若さを保つ」というより「健康維持」という表現のほうがしっくりくるような気もするが、やはりそれを絶対に目的にしてはならないと思う。そうなった瞬間、私は女でなくなってしまう。
そんな切なる思いで週二回(水曜、土曜)のジム通いを自分に課している私に、彼女は、いくら頑張っても私みたいにはなれないわよ、とでも言わんばかりの存在感をこの狭いサウナルームのなかで突きつけてきた。
もしかして、モデルか何か? 気持ちよさそうに顔をあげている彼女がずっと目を瞑っているのをいいことに、私は横から観察し続けた。
ほんと、パーフェクトだ。そう魅了されつつも、徐々にこちらの自信を奪っていくようなその吸引力に、「藤原紀香さんですか?」とでも嫌味を言ってみたくなる。ちょっと古臭いか。でも、れっきとした褒め言葉だ。
「ふぅっ」紀香が大きく息を吐いて目を開けた。
おお、あぶない。すぐさま前を向いた。
「ううん、気持ちいい。やっぱりサウナはミストですよねぇ」彼女が言った。
もしかして今、話しかけられた?
驚いた私は、ゆっくりと顔を向けた。白くぼやけた視界のなか、彼女と目が合うのが分かった。その眼光の強さに同姓ながらも胸が高鳴った。
「私ここのジム、入ったばかりなんですけどね。このミストサウナがあるのが決め手だったんです」
独り言とも取れるその言いぐさに、どう返していいか分からず、「はあ」と言葉が洩れた。続けてミストサウナなんてどこにでもあるし、と否定的な言葉が浮かんできた。
「私、今日で二回目なんですけど、いいですね? ここ。きれいだし、空いてるし」
「まあ……」こいつ、もしかして話し好きか? 目の前の若くて美しい女が急に面倒な女に見えてきた。タイミングを見計らい、ここから出ようと準備した。
「思いっきり身体いじめてへとへとになるまで運動すると、頭のなかが空っぽになるんです。悩んでいることも、この時ばかりは入ってくる余地がないみたい」そう言って、彼女は気持ちよさそうに上を向いた。
何、臭いこと言ってんだ、この女。そう思いつつも、言っていることは腑に落ちてきた。退場しかけていた身体から力が抜けていった。「いろいろありますもんね、人生には」自然と言葉が洩れていた。恐ろしいほど臭い台詞だった。
「ほんとうですね。いろいろあります、人生には」彼女は納得したようにオウム返ししてきた。「私、普段バスガイドをしていて……。いろんな人に会えるのはいいんですが、最近、会いすぎるのもどうなのかなぁって、思うようになってきちゃったんです……。酷い話なんですけどね」
バスガイドとは意外だった。こんなに容姿端麗で、こんな高級クラブに来ているくらいだ、もしかしたらお忍びで来ている芸能人か何か、少なくとも高給取りだろうと勝手に思い込んでいた。「へぇ、大変そうなお仕事ね? 休み少なそうだし……」
私が意見すると、彼女はうれしそうに身を乗り出してきた。「そうなんですよ」そして日頃の鬱憤を晴らすかのように、「バスガイドあるある」を披露してきた。
【集合時刻に遅れてきた客が決まって言う言葉、「私で最後?」(最後じゃなかったらいいのか!)】
【明日のツアーが中止になるよう、接近してきた台風を本気で応援してしまう】
【コンパニオンじゃないし!】
【修学旅行生に告白される】
【「お金もらって旅行できていいねぇ」って言われる。(やってみろ!)】等々。
腹を抱えて笑い転げた。そんな私を見て、彼女も満足げだった。お蔭でバスガイドの日常をある程度理解できた。想像していた以上に大変な仕事だと敬意を表した。
「はじめて会ったのに、こんなに愚痴を聞いていただいて、ありがとうございました。お蔭でスッキリしました」彼女はそう言って頭をさげると、両手を後ろに突いて身体を反らせた。そのダイナミックな凹凸が、またもや私の目を釘づけにした。
やっぱこやつ、すごいや。バスガイドで終わらせるにはもったいない。こちらも真似して伸びをしてみた。上半身の凝りが、すっと頭の先から抜けていくようだった。
サウナという、ゆったりした時間の流れる空間にいるからだろうか。それとも彼女と波長が合うからだろうか。会話がなくなったというのに、この上ない居心地のよさを感じていた。彼女はどう思っているのだろう。そっと横を覗った。
彼女は膝の間に頭を伏せていた。肩が揺れ、なんだか苦しそうに見えた。
「だ、大丈夫?」慌てて彼女のそばに寄った。
「だ、大丈夫です……。急に頭がくらくらしちゃって……」
「出たほうがいいよ」私が肩を抱くと、彼女は素直に従い、ゆっくりと立ちあがった。そして何度も「すみません」と言いながらプールサイドへ出ていった。監視員が慌てて駆け寄ってきて、ふたりして彼女をひとりがけのベンチに座らせた。
もたれかかった彼女は荒い息を吐いていた。監視員が持ってきたミネラルウォーターを飲ませると、次第に呼吸が落ち着き、幾分顔色もよくなっていった。「大丈夫?」と声をかけると、「大丈夫です」と小さく頭をさげた。
体調が悪いとはいえ、ベンチに座る彼女はまるでギリシャ彫刻のように美しかった。肌の白さに加え、その整った目鼻立ちには日本人離れした風格があった。
女の私がそう思うのだから無理もないだろう。横にいる若い監視員が彼女に見取れているのが分かった。何度も視線を上下させている。心配になった私が、「ねぇ、あんた大丈夫?」と声をかけると、彼ははっと我に返った様子で、「だ、大丈夫ですっ」と慌てて手をあげ、敬礼しそうになった。どこ出身なんだよ? 思わず吹き出しそうになった。
このままずっと付き添っていても仕方ないので、「あとはお願いね」と監視員に告げると、聞いていた彼女が虚ろな目で、「ほんとうにすみませんでした」と頭をさげた。
「じゃあ私行くから、ゆっくり休んで。変なことされたら、すぐに大声出すのよ」
「はい、そうします。ありがとうございました」彼女は再び頭をさげ、口元に弱々しい笑みを浮かべた。
「そんなぁ」と苦笑いする監視員に、「冗談よ、冗談。じゃ、よろしく頼む」と私は敬礼して去っていった。
それからだ。毎週クラブで会う萌と挨拶を交わし、話をするようになった。クラブに通いはじめて三年ほど経つが、こんなことははじめてだった。会社以外の場所で知り合いをつくるのも、意外に悪くないもんだなと思った。そう思えたのは、おそらく萌だからだろう。若いのに、ちゃんと自分なりの哲学を持っていて、その上、人を楽しませるユーモアも持ち合わせている。バスガイドという職業柄、サービス精神が旺盛なのかもしれないが、それがプライベートでも卒なくできてしまうのは、生来の能力なのだろう。そして何よりも客観性があるところがいい。もしかしたら私にとって、これが一番大事なことかもしれない。自分を客観視できないやつは、即お断りだ。傲慢さに気づいてしまうと、どうしても鼻についてしまう。今までの人生、いろいろあったから、つくづくそう思う。
「よかったら、紹介しようか?」
私のほうからそう提案したのは、話の流れからだった。萌の勤めているミカサツアーという旅行会社が実はセクハラ、パワハラの横行しているブラック企業だという話題から、「うちも、うちも」と盛りあがり、「年々、貸切バスの依頼が減ってきてて」と経営不振の話題に切り替わってきたところで、毎年うちの会社が社員旅行に行っていることを思い出した。ハラスメントに耐えながらも、バスガイドとして日夜頑張っている彼女に少しでも協力できたらと思った。「私はここずっと行ってないんだけど」前置きした上で訊ねると、彼女は少女漫画のように黒目をきらきらと輝かせ、「是非とも!」と両手を握りしめてきた。
「幹事に訊いとくよ。でも、あんまり期待しないでよ?」
「ありがとうございます。是非とも、よろしくお願いします」
本気で頭をさげられ、名刺まで渡されてしまった。軽い気持ちで言ったのだが、なんだか負担になってしまった。「ほんと、期待しないでよ?」そう念押しすると、「ええ、期待しないで待ってます」と彼女は再び目を輝かせた。
後日、當間に確認すると、「旅行会社を変えるつもりはない」とあっさり断られてしまった。普段参加していない私がそれ以上強く推すこともできず、あきらめざるを得なかった。落胆する萌の顔を想像し、自分の力不足に、ひとりため息をついた。
幹事が旅行会社を変えるつもりがないことを伝えると、彼女の顔が豹変した。
「どうしてですか?」あの穏やかな彼女が語気を強くした。そのあがりめの目をさらに吊りあげ、私に突っかかってきた。
意外な反応に一歩引いた。そんなに怒ること?
「すっ、すいませんっ」彼女は慌てて口に手を当て、頭を何度もさげてきた。
「いいって、いいって。ごめんね、期待に応えられなくって」申し訳ないと思いながらも、彼女の本性が垣間見えた気がして、少しだけ距離をとった。
「仕方ないですよ」彼女は残念そうに言い、少し考えるような素振りを見せたあと、「あのう、失礼でなければ私のほうから直接、幹事さんを訪ねて行ってもいいでしょうか?」と申し訳なさそうに訊ねてきた。
「それは構わないと思うけど……」そこまで本気とは思ってもみなかったので驚いた。もしかしたら、相当の負けず嫌いなのかもしれない。圧されるがままロッカールームで会社の名刺に幹事の名前を入れて渡した。
「島野さん、すみません。この幹事さんのお名前、なんて読むんです?」
「ああ、それ? トウマ。はじめてだとなかなか読めないよね」
「トウマさん……どんな方です? もしかして怖い方?」萌が不安げに訊く。
「ぜーんぜん、怖くなんかないよ。逆に少し抜けてる感じ。でも仕事はできる。まあ、うちの若手ホープってところね」
そう言いながら疑問符が浮かんでいた。
仕事が調整力という意味であれば、彼はできる。だが、ひとりで困難を乗り切っていけるかという意味であれば、それはどうか? 普段の當間を思い返しながらクエスチョンマークが続いた。入社したばかりの頃の彼は素直で好きだった。だが今はそう思えない。どうしてか? 考えてみると、すぐに答えが出てきた。
人によって態度が変わってる? そんな気がした。風見鶏……要領……。そう、要領がよくなってしまったのだ。
いつからそうなってしまったのだろう。真崎さんの横で一所懸命汗をかいていた頃の彼が脳裏に浮かび、懐かしくなった。
諸行無常……、そんな言葉が浮かんできて空しくなった。
「よかったぁ、でもそんな優秀な人なんじゃ、気合いを入れて挑まないと」そう言って萌は、よしと私の前で拳を握ってみせた。
ほんとうに来るのだろうか。そんなの添乗員の仕事でなく営業の仕事だ。もしかしたら御破算になったことが悔しくて、その場の勢いで言ってきたんじゃないか。自分から行くと言ってしまった手前、引くに引けなくなって連絡先を受け取ってしまったのでは?
そんなところだろう。この時は、その程度にしか思っていなかった。
「うちの会社に来たんだって?」
運動前のストレッチをしようと、奥のマットエリアに向かっていったところで、先に来ていた萌に声をかけた。
「どうも」萌がタオルを取って、立ちあがった。汗をかいた肌が瑞々しい。ゴム鞠のように柔らかそうだ。
「まさか、ほんとうに来るとはね。それもアポなしで」
「へへ」と萌は悪戯っぽく笑って見せ、「電話すると断られそうなんで、直接行っちゃいました」と舌を出した。
「飛び込みのほうがよっぽど……」そう言いかけたところで、そうでもないか、と止まった。確かに電話だと一発で断られてしまう。けれど、わざわざ足を運んでやってきた相手に対しては、よっぽどでない限り、人間なかなか無下な応対はできないものだ。まさか、それを見越してのことか?
「どうしました?」萌が首を傾げた。
「行動力あるね」
「え? ああ、ありがとうございます。それ、褒め言葉と捉えていいですよね?」
「もちろん」彼女がとびきりの笑顔をつくる。
「當間がデレデレだったよ」
「どういうことです?」
小首を傾げた彼女に、この女とぼけてるのか? と少しむっときたあと、その黒目があまりにも透き通っていたため、もしかしてほんとうにこいつ、自分の色気に気づいてない? と拍子抜けしてしまった。
「當間さんって、いい方ですね。急に伺ったのに話をよく聞いてくださって。一応、候補のひとつとして考えてくれるみたいです」
あいつ、私が紹介しようとした時は即行で断ってたくせに。
「いろいろとありがとうございました」
「いや、私は幹事の名前教えただけだから」
「いえ、島野さんが先に當間さんに声かけしてくれてたから、急に行っても対応してもらえたんだと思います」彼女が頭をさげる。
それは違うぞと思いつつも、相手を立てるその心遣いが彼女らしいと思った。
「島野さん、実は私、今月でこのジムを退会することになりまして……」
「えっ?」とてつもない寂寥感に襲われた。
「やっぱり、お金が続かなくて……。会費が高いのは分かってました。でも自分への投資だと思ってはじめたんですけど、やっぱり……」
何言ってんのよ、私もきついよ。でも自分への投資だと思ってなんとか捻出してるんだよ。お金くらい、やりくりすればなんとかなるじゃない。要は優先順位の問題よ。
そう頭のなかで反論したが、目の前にあるゴム鞠を見て、私とは優先順位が違うのかもしれないと、改めて彼女との等級の差を思い知らされてしまった。
「そう……」湧き出る本音を伝えたかったが、汐らしくなってしまうのも嫌だった。引き留める都合のいい言葉を見つけられぬまま、時間切れとなっていった。
「せっかく島野さんと知り合えたのに……」彼女のほうが残念そうに眉をさげた。
私も、と喉元まで出かけたが、声には出さなかった。こういう素直じゃないところが自分でも嫌になる。
「今までいろいろとお話ししてくれて、ほんとうにありがとうございました」萌が深々と頭をさげた。
連絡先でも――。口まで出かけたが、またもやプライドが邪魔した。所詮、このクラブで会った時にだけ話す間柄だったのだ。外で会ってなんになる? 友だちにでもなりたいのか? 大人っぽいとはいえ、相手は二十歳だ。下手したら、親子ほどの年齢差だ。こんなおばさんにしつこくされたら、きっと迷惑に違いない。そう自分に言い聞かせた。めずらしく人に対して名残惜しさを感じている自分を無理やり抑えつけた。
「もし、和栄テクノさんの社員旅行をうちの会社でやれることになったら、是非、島野さんにも参加してもらいたいです。私がガイドをしますから」
そうか、萌がバスガイドをすることになるんだ。面白そうだなと思ったが、やっぱりと手を横に振った。「前にも言ったけど、私、そういうの参加しない人だから」
「はは、そうでしたね」萌はにこりと歯を見せたあと、タオルで汗を拭った。「すみませんが、今日はこれから夜発のツアーがあるんで、ここで失礼します」
「そう、大変ね。気をつけて」寂しさを微塵も見せずに言った。
「ほんとうにありがとうございました」彼女は一礼して去っていった。
切なくて堪らなかったが、そこをぐっと堪えた。
また会えるさ、今日のところはこれで。月末まであと半月ほどある。きっとまた会えるだろう。そう軽い気持ちで考えた。
けれどそれ以降、このクラブで彼女に会うことはなかった。
いつものように定時で仕事を切りあげた私は、エレベーターを通り過ぎ、奥の階段を降りていった。五階なのにエレベーターを使わないのは、公には健康のためと称しているが、本音は会社の人と一緒になりたくないからだ。「お先に失礼します」とせっかく帰るモードにスイッチが入ったというのに、エレベーターを待っているところに誰それがやってきて、「今日は早いんですねぇ?」などと気を遣いたくないし、遣われたくもない。おそらくそれはお互い様だろう。
一階に降りたところで當間の声が聞こえ、そのあとに来客風の女の声が聞こえてきた。その聞き覚えのある声に私は足を止めた。
誰だ? こっそりと覗き見た。
當間の前でスーツ姿の萌が頭をさげていた。
まだ続いてたんだとうれしい気持ちになった。玄関先まで見送りに出ていった當間に頭をさげ、彼女は去っていった。その笑顔は相変わらずの吸引力だった。彼女がいなくなったというのに、當間がなかなか動かないでいる。
デレデレするんじゃない。彼の後頭部にハリセンを一発お見舞いしてやりたくなる。
案の定、にやけた顔で戻ってきた當間に、「気持ち悪っ」と聞こえない程度の罵声を浴びせ、消えていくのを見計らい、萌のあとを追った。「頑張ってるじゃんっ」とひと声かけたかった。
五十メートルほど先にその後ろ姿が見えた。早足になっていく。もちろん驚かせてやるつもりだ。「よっ、久しぶりっ」と肩をたたく。驚いた顔の彼女が目に浮かび、ほくそ笑んだ。
彼女が歩きながら上着を脱ぎ、白のブラウス姿になった。そして肩にかかった髪を手で払った。すれ違う大学生らしき男の子の眉が、おっとあがるのが分かった。彼はすれ違ったあとも、ずっと彼女のことを見続けていた。
さすがは萌。吸引力はやはり女優クラスだ。無防備な男の子の頭に向かってまたハリセンをおみまいしたくなった。
前を向くと、彼女の背中が呼べば振り返りそうなところまで来ていた。
その後ろ姿が一瞬、何かに重なって見え、足が止まった。
それがなんなのか分からない。分からないが、なぜか身体の血が騒ぎ出していた。白いブラウス姿の彼女がなぜか懐かしく、それでいて切なさを感じさせる何かを私に思い起こさせようとしていた。
声をかけるのを躊躇った。いったいなんなんだ、この物悲しさは――。
それはここ半年ほどの間、スポーツクラブで見てきた彼女の印象とは、まるっきり違っていた。あの時を陽とするならば、今は陰。しかしそれが、今の彼女のほうが、ほんとうの彼女であるように思えてならなかった。
振り返られても気づかれないくらいの距離と角度を保った。そして駅に近づいていくにつれ、このまま彼女をつけてみようかという気になっていった。
彼女のことをもっと知りたい。どこに住んでいるのか、男はいるのか、等々、興味は山ほどある。早く帰ったところで、どうせやることなんてないのだ。いつものようにテレビを観ながら残っている佃煮あたりをつまみに晩酌するだけだ。私は人生はじめての尾行に、冒険心を掻き立てられていった。
中山駅の改札を抜けた萌は横浜方面の電車に乗った。探偵ごっこをはじめた私にまったく気づかない。まわりを気にすることもなく、車窓に流れる景色を直立不動で見据えていた。その凜としたオーラに感服するほどだ。同じくそれに気づいた人がちらちらと彼女のことを盗み見ている。
もしかしたら、そんな周囲の目にうんざりしているのかもしれないとも思った。いちいち気にしていたら切りがないのだろう。それほどの視線量。美人すぎるのも意外に大変なものだ。
二十分ほど吊革に揺られたあと、彼女は横浜駅で根岸線に乗り換えた。
席に座った彼女の死角になるよう、私は同じ側の離れた席に陣取った。
根岸線に乗るのは久しぶりだった。五年くらい前になるだろうか。真崎さんの通夜以来だ。もうそんなにも経つのかと改めて思った。そう思うと、ほとんど省みることのなくなっている自分が薄情な人間に思えた。当時の情景が思い起こされ、ほんのり目頭が熱くなった。今でも思う、救えたのかもしれないと――。
人間とはずるいものだ。こうやって死んだ人のことを想い出すたびに、偽善者ぶったことを思う。そのときは微塵も思わなかったくせに。
あの通夜は、今までで一番のやるせない通夜だった。
胸にできたしこりをひた隠しにしながら参列した。私だけじゃない、会社の全員がだ。それをどこか、自分のせいじゃないし、というずるい考えで和らげていた。そんなだから、祭壇の上の遺影をまともに見れなかった。真崎さんに何か鋭い一言を言われそうで怖かった。お別れの言葉もまともに伝えられず、ただ心のなかで、すみませんでした、と謝り続けていた。
最後に、残された奥さんと娘が弔問客を迎えていた。涙で目を腫らした奥さんは会社の私たちに対し、何度も頭をさげていた。お世話になった、迷惑をかけて申し訳なかったと。
私は頭を横に振った。おそらく謙遜していると捉えられただろう。ほんとうはその後に、「私たちのせいなんです」と続けたかったのに、卑怯者の私はそれを口にできなかった。というか、しなかった。怖かった、当事者にされることが。事なかれで流れていくその場の雰囲気をぶち壊していいものか。そう勝手に理由づけした。私が言ったところで。そうブレーキをかけた。みんなそうしているんだ。そう肯定し、保身に走っていった。
娘は頭をさげることもなく、呆然と天井を見つめていた。制服姿の似合うとてもきれいな子だった。真崎さんのことだ。きっとこのひとり娘を溺愛し、大切にしていたに違いない。そう思うと、ぼろぼろと涙が出た。思わず口から、「ごめんね」と出てしまった。
それに反応した娘と目が合った。そのやや吊りあがった目のなかにある瞳が、ほんとうにそう思ってる? と問い詰めてきた。
私はまた、「ごめん」と言ってしまった。
それで? 彼女が険しい目で訴えてきた。
私は頭をさげ、逃げるようにしてその場から離れた。最後に見えた夏用の制服の白さが今でも目に残っている。
我に返り、再び萌を見遣った。相変わらず姿勢よく前を向いていた。その白のブラウスが、先ほどの夏服の白さにも似ていた。
びくん。痺れにも似た衝撃が身体のなかを走った。
まさか、そんな……。
心臓が早打ちはじめた。続けざまに、「萌」という名に惹きつけられていった。確かそんな名前ではなかったか? 唾を呑んだ。
「娘、すごく可愛い子だったね?」通夜の帰り道、連れ立った後輩(二年前に退職)に言った憶えがある。
「ほんとそうですね。顎なんかすっと尖ってて」
「なんて名前なの?」
「**ちゃん、っていうらしいですよ」
「ふうん、名前も可愛いんだね……」
肝心なところが思い出せなかった。確か二文字だったような気がする。それ以上会話が続かなくなり、しばらく黙ったままだった。夏に近いというのに、肌寒い夜だった。腕をさすっていた記憶がある。
まさかね……。
連なる乗客の頭を飛び越え、彼女のことを覗い見た。変わらず前を見据えていた。その吊りあがった目尻がどことなく通夜のあの娘に似ていた。
でも彼女の姓は田中だ、真崎ではない。私の思い過ごしだ。
そうだよな、娘なら、父親が自殺した会社にわざわざ営業になんて来るはずがない。
そんな私の想像などよそに、萌はずっと窓の外を見続けていた。やはり何度見ても二十歳の女には見えない。世のなかの酸いも甘いも知っているような大人の女の顔だ。二十歳ということは、五年前なら十五歳だ。高一か中三……。計算は合う。でも、ね……。
いつのまにか外が暗くなりかけていた。外の景色が見えなくなっていく代わりに、見たくもない自分の姿が窓ガラスに映りはじめていた。乗り換えてからもう四、五駅くらい過ぎている。
「次は磯子、磯子」
アナウンスの声とともに、前に座っている鷲鼻の神経質そうな男が萌のいるほうを向きながら首を伸ばしたので、つられて私も向いた。
彼女が立ちあがっていた。上着を着ながら、ドアのほうへ向かっていく。
向かれたら危ない位置関係になったので、さりげなく額に手を当てて顔を隠した。
ここで降りるのか。磯子……。ん? 磯子――?
その駅名が先ほどの古い記憶とぴたりと重なった。
そう、あの時、あの五年前の夜、私は真崎さんの通夜に向かうため、この磯子駅で降りたはずだ。まったく乗ることのない路線で駅名にピンときたのだ。おそらく間違いはないだろう。やはり彼女は……。
指の間から萌を確認した。ドアの前に立ち、電車が停まるのを待っている。見るほどに、五年前の娘と重なっていく。
出たら立とう。そう決めて前を向くと、鷲鼻がまだ彼女のことを見ていた。その舐めまわすような視線が気色悪い。パンプスで一発はたいてやりたかったが、もちろんそんなことはできないので、睨みつけてやった。
おい、変態野郎っ。心のなかで怒鳴りつけた。
すると鷲鼻が慌てたように前に向き直った。思わず目が合ってしまった。
まさか聞こえたのか? お互い驚いたが、私が睨み返すと、鷲鼻は気まずそうに視線を下へ落としていった。
どうしたんだ? 鷲鼻の不可解な行動に萌のほうを見遣った。
心臓が止まりそうになった。彼女がこちらを見ていたのだ。
慌てて前を向いた。私を見る彼女の顔が眼の奥に焼きついている。顔が熱い。真っ赤になっているのが自分でも分かった。
鷲鼻が不思議そうに私のことを見ていた。今度は私が床を見た。
気づかれたか? 動転するなか、頭をフル回転させた。気づかないふりをして立ちあがるか? こっちの離れたほうのドアなら。いやいや、わざわざ姿を見せることはないだろう、このままやり過ごすほうが……。
そうこうしているうちに外が明るくなり、ホームが見えてきた。
もしかしたら気のせいだったかも……。そんな淡い期待がよぎり、再び指の間から萌のほうを覗い見た。そして後悔した。
彼女はまだこちらを向いていた。
すぐさま顔を戻し、両手で顔を覆った。
やはり気づかれていたのだ。どうしよう、もう終わりだ……。
電車が停まり、ドアが開いた。
彼女が出ていくのが手に取るように分かる。でも、どうにもできない。
入れ替わるたくさんの足音が耳のなかで交錯していった。そして無情にもドアは閉まっていった。
もういないだろうけれど。顔をあげ、ホームの人混みに彼女を捜した。案の定、見つけることはできなかった。
鷲鼻が興味深げに私のことを見ていた。ねぇ、あんた、あの美人と知り合いなの? にやけた口元がそんなことを言ってそうだった。
見んなよっ。眉間に力を込め、睨みつけると、彼はひっと縮こまってしまった。
予想だにしなかった最悪の結末で、私の探偵ごっこは終了してしまった。
次の駅で降り、渋々と反対側のホームへ移動していった。
私を見た萌のあの目。そこには見せたことのない敵意があった。島野さん、これ以上、知っちゃいけないよ。そう訴えているようだった。不意だったせいもあり、本気で怖じ気づいた。自分の行動が恥ずかしくなり、自己嫌悪に陥った。なんてことをしてしまったんだ。彼女との関係もこれで終わってしまうのか。そう思うと、とてつもない悔恨が胸に込みあげてきた。だがその裏では、抱いていた疑念が確信に近くなっていた。
確証が欲しい。真崎さんの娘であるという証しが――。
彼女からもらった名刺があることを思い出し、手帳から取り出した。【ミカサツアー横浜営業所営業部営業二課、田中 萌】
今どきめずらしい黒一色の簡素な名刺。その上、レーザーならまだしもインクジェットで印刷されたものらしく、明朝体の文字が滲んでいた。ここにコストをかけられない会社の経営状況の厳しさが覗えた。添乗員にも営業をさせているくらいだ。以前、萌が言っていた「うちの会社、ブラックなんです」というのも、まんざら大袈裟な話でもなさそうだ。
どんな会社なんだろう。俄然興味が湧いてきた。横浜営業所の所在地は少し離れた保土ヶ谷区となっていた。先ほど磯子駅で降りたばかりの萌は今、当然そこにはいない。
試しに電話してみるか。彼女のことで何か分かるかもしれない。
スマホの時計を見ると、十九時を少しばかり過ぎていた。まだ大丈夫かなと名刺にある電話番号を押そうとした。
待てよ。そこで指が止まった。
素直に名乗っては、島野という人から電話があったとあとで萌に伝えられてしまう。ベンチに座り、簡単な作戦を立てた。反対側のホームでキャップ帽をかぶった人が後ろにある人材紹介会社の広告を見あげていたので、その会社名を使うことにした。株式会社夢ナビ。ちょっと胡散臭い気もしたが、実在する会社のほうがいいと思えた。
ひと通り整理し終え、あとは度胸だと、よしと頬をたたいて気合いを入れた。念のため、非通知の「184」を打ってから、名刺の番号を入力していった。後ろめたさから、緊張していくのが分かる。
コール音が鳴った。溜まってきた唾を呑み込む。大丈夫、考えた通りに言えばいい。
五コール目。だめか。おそらく営業時間は過ぎている。
仕方ない。あきらめてスマホを耳から離しかけたところで、コール音が途切れた。慌てて耳に戻した。
再びコール音が鳴りはじめた。先ほどより少しキーが低かった。どうやら、どこかに転送されようだ。本社にでも回されたのだろうか。そうなるとあまり意味がない。萌のことを知っている人間でないと意味がないのだ。
「お待たせしました。ミカサツアーです」丁寧な物腰の女が出た。
「遅くにすみません。私、社員旅行の件でお世話になっている株式会社『夢ナビ』の鈴木、という者です。こちらの番号、横浜営業所さんでよろしいでしょうか?」
「ええ、そうです」女が応えた。
ほっとして続ける。「恐れ入りますが、営業部営業二課の真崎さんは、まだいらっしゃいますか?」カマをかけてみた。真崎の名で反応があれば、ビンゴだ。
「真崎……ですか?」女が戸惑う様子をみせた。
はずれたか? 慌てて補足する。「ええ、バスガイドもされている真崎萌さんですが、いらっしゃいませんか?」
「こちらには、真崎という社員はおりませんが……」
ヤマがはずれた。仕方なく軌道修正する。「そうですか……。あっ、すみません、私の勘違いでした。田中さん、田中さんでした。今、名刺を確認したんですが、田中萌さんでした」なんとか取り繕った。少々大袈裟だったかもしれない。
女の反応がなかった。
何かまずいことでも言ったか? 発言を省みたが、特に問題はなさそうだった。無言の間が私から口を開かせた。「あのう、田中さんは……」
電話の向こうから咳払いが聞こえた。「失礼ですが、もう一度、お客様のお名前をお聞かせ願えますか?」少し口調が変わっていた。間違いのないよう確認している、というよりは、何か警戒しているような冷たい感じだ。
背中に汗が出てきた。だが、ここで躊躇っては怪しく思われるだけだ。緊張しながらも、はっきりと答えた。「夢ナビ、総務の鈴木、と申します」
「復唱させていただきます。夢ナビ総務の鈴木様、でよろしいですね?」
まとも復唱されると、自分でも怪しく思えた。このまま顧客台帳などを調べられたらアウトだ。だが、もうあとには引けない。バレたらバレただ。しょせん電話だ、その時は切ってしまえばいい。覚悟して、「はい」と応えた。
「申し訳ございません。あいにく、田中は本日退社してしまっております。後日、本人から電話させますので、鈴木様のお電話番号を教えていただけないでしょうか?」
ほっとした。ただの確認だけだったのだ。
「いえ、またこちらからお電話させていただきます」
「そうですか。では申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。田中へは電話があったことを伝えておきますので」
それはまずい。「いや、それは結構です」
「どうしてですか?」なぜか女が噛みついてきた。
「どうしてと言われても……」そう口に出たあと、ん? と首を傾げた。女のそのフレーズに聞き覚えがあった。
どうしてですか? 前にもこんな風に誰かから強く迫られたことがある……。
女が続けた。「すみません、もう一度確認させてください。御社名は『夢ナビ』様、でほんとうによろしいですか?」
「あ、はい……」追及され、思わず声が小さくなってしまった。どうやら疑われているようだ。「ほんとうに」などと付け加えられている。
「今、こちらにあるお客様情報を検索してみたのですが、夢ナビ様の登録はございませんでした」
こいつ、いつのまに――。
「そ、そうですか……」まずいことになった。
「失礼ですが、お客様は田中とはどのようなご関係でしょうか?」女の語気がまた強くなった。
「あ、いや、そのう……」しどろもどろになった。
「申し訳ございませんが、最近、弊社添乗員に対しての嫌がらせが多いもので、素性のはっきりしないお客様は容易に電話を取り次ぎできなくなっておりますので」
だめだ、完全に疑われている。ここはもう退散するしかない。
「そうですか。ではまた今度にします、失礼しました」逃げるように電話を切った。
冷や汗が身体のあちこちから出ていた。何がなんなのか、さっぱり分からなかった。電話の女がなぜあんなに私のことを疑ってきたのか、まったく理解できなかった。どうしてですか? なんて客に対して言うか? 普通……。
ぞわり。背中が寒くなった。
これ以上、知っちゃいけないよ――。最後に見た萌の目がそう私を諭していた。
まさか、そういうこと? 心臓がぎゅっとつかまれたようだった。
すぐさまスマホで、【ミカサツアー】を検索した。数件しか検索結果が出てこなかった。そのなかから自社サイトらしきものを選んだ。【ミカサツアー】とロゴマークがある下に、でかでかと京都特集が載っていた。旅行会社にしてはお粗末なデザイン。文字ばかりで写真が少なく、旅行プランを探すための検索欄もなかった。
やはり質素なサイトだ。これでは客は呼べないだろう。下にスクロールしていくと、おすすめの日帰りツアーや宿泊ツアーのバナーが並んでいた。試しにそのなかのひとつをクリックしてみた。【ただいまメンテナンス中】と表示され、土下座して謝るような人のアイコンが繰り返し頭をさげてきた。トップ画面に戻り他のバナーを押してみる。またもやメンテナンス中の文字が表示された。
やはり。他も押していった。どれもこれも土下座してきた。これではまったく営業サイトとしての用を成していない。
思いつき、當間に電話した。彼はすぐに出た。「ごめん急に。今、大丈夫?」
今日も会社の連中と呑んでいるらしかった。島野さんからの電話だということで、あとで話のネタにされること必至だが致し方なかった。後ろから、「ヒューヒュー」と国枝らしきガヤが聞こえてきたので、私の閻魔帳のなかで彼の順位をひとつさげてやった。
「あんた今日、萌と会ってたでしょう?」とツッコミを入れると、當間は、「よく知ってますぬぇ~」と酔い声で応えてきた。あんたが誰に会っていようと、私には興味ないんだけどね、と心のなかで毒づく。
「訊きたいことがある。あんた、彼女の会社、ミカサツアーに電話したことある?」
「もちろん、何回かぁ、ありますよぉ~」と當間。
「それって、毎回、『田中さんをお願いします』って彼女を呼び出してる?」
「えぇ、そうですよぉ~。彼女忙しくって、だいたい会社にひないんで、ひつも折り返してもらってるんですぅ~」
ほほぅ、同じだ。
「なんでそんなこと訊くんですぅ~?」當間が不思議そうに訊き返してくる。
軽く受け流し、もう少し踏み込んでみた。「いや別に。で、ちなみに電話に出る人って、毎回同じ女の人?」
「ひやぁ、そこまでは分かりませ~ん。ああ、でもそういえば、ひつも女の人が出ますねぇ~。事務所に誰もひないのか、ひつも電話が転送されるんですよねぇ~」
決まりだ。おそらく先ほど電話に出た女は萌だ。ミカサツアーに電話すると彼女の携帯に転送され、別の社員を装った萌本人が出るのだ。声色をかなり変えていたからはじめは分からなかった。けれど彼女はしくじりを犯した。先ほどの私に向かっての「どうしてですか?」には、彼女の癖が色濃く出ていた。以前、當間に会社紹介ができなかったとき、彼女がまったく同じ反応をしていたのだ。
確信した。ミカサツアーは、存在しない。
「萌ちゃんとなんかあったんすかぁ~?」酔っ払いが直球を投げてきた。
ほんとうのことを話せば面倒なことになる。こいつのことだ、「この前、島野さんから訊かれた」と本人に言いかねない。
「なんにもないよ。ただ今回の社員旅行、面白そうだなぁって思って」
「ふぇーっ? 島野さん、社員旅行参加するんすかぁ~?」當間が大きな声を出した。
この酔っ払いがっ。次いで外野の酔っ払いどものガヤが耳に入ってきた。「えーっ、まじぽん? まじぽん?」
「大声出すんじゃないよ、いい? この電話の件は、絶対に萌に言うんじゃないよ、いい? 旅行当日に彼女を驚かせるためなんだからね? いいね?」
「ふあぃ、分かりっした―っ」當間がふざけた返事をした。
イラッときたが我慢した。「ありがとう、邪魔して悪かったね。じゃあ、引き続き楽しんでおくれ」電話を切った。最後に、「ふあぃ」という腑抜けた返事が聞こえてきた。
やはり萌は真崎さんの娘だ。ということは――。
考えると、急に怖くなってきた。フィットネスクラブでの彼女とのやりとりが思い出される。彼女とはじめて会ったのは、半年ほど前、ミストサウナのなかだった。
もしかして、あれは故意だった? 彼女が意図して入ってきたのだとしたら? そうだとすると、入会からの話になる。まさか私があそこにいることを見越して……。
急に気分の悪くなった彼女を私は介抱した。それからだ、彼女と話すようになったのは……。
もしかして、私に近づくための演技だった? 話をするようになると、彼女は私の会社のことを根掘り葉掘り訊いてきた。なぜそんなにもうちの会社に興味が湧くのか、まったく分からなかった。うちに転職でもしたいのかと思ったくらいだ。もしかしたら、亡くなった父親が勤めていた会社が、今はどんな状態なのか知りたかった? でも、そんなこと知ったところで……。
つかみどころのない疑念が身体じゅうを覆っていった。
眩しい光が差し、上りの電車がやってきた。
萌、あんたはいったい何をしたいんだ? 何を――。
前を向くと、先ほど気づかなかった夢ナビの転職を誘発するような宣伝文句が目に入ってきた。【あなたは今、子供の頃夢見ていた未来に生きていますか?】
先ほどしくじったせいか、それを見て無性に腹が立ってきた。
じゃあ、何かい? 移った先には夢見た未来ってヤツがあるとでもいうのかい?
一歩前に出た。ホームに入ってきた電車が私に、束の間のスポットライトを浴びせてきた。電車風を浴びた髪がふわりと舞う。
夢かぁ……。髪を押さえながら思う。
人の否定ばかりしていて、夢見ることさえなくなっている自分がいた。
やな女――。
なんだか自分の人生がちっぽけなものに思えてきた。決して向上することのない、現状維持の先の見えた未来が、ぼんやりと頭のなかに浮かんできた。
ドアが開いた。
つまんないな。
電車に乗り込む。
同じことの繰り返し。
席が埋まっていた。ドア横の手摺に寄りかかった。
ガラス越しに夢ナビの広告が見え、その下に先ほどのキャップ帽の人が立っていた。なぜかしらこちらに向け、指鉄砲のようなものをつくっていた。
なんだ? と顔を近づけた。
よく見ると、変な恰好をした女だった。キャップ帽の下がスーツにパンプスというフォーマルなのだ。
息を呑んだ。
その女が帽子を取った。
なんでここに――?
目の合った萌は、バンと口を動かし、私を撃ってきた。そして銃口だった人差し指を口へと持っていき、「しー」のポーズをつくった。
言わないでください――。目を細めた彼女はそう訴えているようだった。
やられた。逆につけられていたのだ。
電車が動きはじめた。
風に髪を乱されながらも彼女は私に向い、伸ばした指を口に当て続けていた。
萌、あんたって子は――。
いさぎよく敗北を認めた。消えてゆく彼女を見つめながら、その覚悟が痛いほど伝わってきた。
でも、なんでそこまで――。
それだけは、まったく分からなかった。彼女にメリットがあるとはとても思えなかった。このままいけば、彼女はバスガイドとして当日付き添うことになる。誰が好き好んで父親が自殺した会社の連中と旅行などしたいものか。
彼女の姿が消えた窓に自分の顔が反射して映った。
けれど彼女のことだ、きっと何か考えがあるに違いない。それだけは確かだと思えた。
身体がむずむずし、心が波立ってきた。
なんだか面白くなってきたぞ。
旅行途中で、「実は私、真崎の娘なんです」とでも暴露してもらいたいものだ。