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今度、社員旅行があります。  作者: 月津 裕介
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サラリーマンの憂鬱

サラリーマンの日常を題材に小説にしてみました。

よかったら、ご一読願います。

■旅行のさなか(社員旅行当日)――當間悠人


「では、はじめます。【きのうの夜】【家の前で】【植田くんが】ぁ〜」

「オレオレ?」立ちあがった植田が自分を指差し、動揺してみせる。

「【正座していた】!」

 彼は大袈裟にズッコケた。車内がどっと沸くなか、調子づいた彼は靴を脱ぎ、座席に正座して見せ、さらに周囲を沸かせた。

 植田陽介――。うちの会社に入ってまだ二年目だが、その人懐こい性格のせいか、皆に可愛がられている優男。こういう純粋な男は、「世の中、傲慢さも必要だ」と途中で気づいて路線変更すれば出世するが、気づかなければ会社にいいように使われるだけだ。

 その植田の膝の上に身を投げる者がいた。

 国枝昌則――。植田の二つ年上で、体育会系野球部の巨人。坊主頭に抜かれきった眉のせいか目つきが悪く、まるでどこかの組の兄貴のよう。中高と吹奏楽部だった僕は昔から「体育会系」という言葉に弱く、正直いって彼は苦手なタイプだ。

「痛い痛い、国さん」

 泣きを入れる植田の上で腹這いになった国枝が手足を伸ばし、「ブーン」と飛行機の真似をしたあと、飛び跳ねた。

 叫ぶ植田。国枝が後輩でよかった。つくづくそう思う。

「おいおい、あいつ、涙流してやがるぜ」ふたつ隣に座る営業課長の黒木さんが笑いながら、ビール缶を押し潰した。手前には二つ折にされた缶がすでにいくつも転がっている。僕は手を伸ばし、それらをビニール袋へ回収していった。

「おお幹事、気が利くねえ」隣に座る白髪の男に声をかけられ、ここぞとばかりに、「何か飲みます?」と訊ねてみた。すると男は、「大丈夫だ」と素っ気なく答えただけで、じゃれ合う国枝たちのほうへ再び顔を向けてしまった。

 失敗したぁ。僕は気を遣ったことを後悔しながらテーブルの空缶を片づけていった。

 今日は僕の勤める会社、和栄テクノ中山事業所の社員旅行。毎年一回この冬の時期に開催される恒例行事で、今年は僕が幹事役をつとめている。ヤダけど――。

 でもやるからには、と内緒で一年も前からプランを練りはじめていた。しかし正直、横浜からの一泊だけで、このわがままな、いや、目の肥えた参加者たちを満足させる観光地などなかなかないもので、早めに動くのも馬鹿馬鹿しいやと半ばあきらめかけていたところに、突然、天使が舞い降りてきた。


「ツアーの紹介だけでも」

 と飛び込み営業で入口に立っていた萌ちゃんに一目惚れしたのは、僕のほうだった。まだ寒さの残る四月初旬だった。夕暮れの薄暗い玄関ホールで、彼女だけがスポットライトを当てられたように浮かびあがっていた。一礼して顔をあげた彼女の少し吊りあがった目が、僕をしかと捉えてきたので一瞬怖いと感じたが、彼女の両頬がみるみる持ちあがっていくのを見て、なんだか駅で待ち合わせしていた彼氏のような気分になってしまい、思わず、「遅くなって、ごめん」と頭を掻いてしまった。

 席に着いたやる気満々の萌ちゃんは、身を乗り出してパンフレットの説明をしてきた。ちょっと近づきすぎかも、とひとり緊張している僕のことなどお構いなしに、彼女は必死に僕を口説き落とそうとしてきた。少し厚めの苺ミルクのようなそのピンク色のくちびるから、なんだか甘い匂いがしてきた。反応した僕の舌の先っぽからみるみると唾が湧き出てくる。

 そこばかり見ていると、「當間さん、聞いてます?」と彼女は口を尖らせた。慌ててパンフレットをめくりだすと、「ふふふ、當間さんって、面白い方ですね。モテるんじゃないですか?」と上目遣いで迫ってきた。

 夕暮れの応接コーナーで、いつのまにかキャバクラにいるような気分になっていた。

「なんでこの仕事してるの?」なんて質問をした僕に、彼女が、「好きですから」と答えてきたので、「僕のこと?」と冗談混じりに自分を指差してみせると、「もう、それはまだ早いです」と彼女は絶妙な切り返しで僕をノックアウトしてみせた。

 すっかり魂を吸い取られてしまった僕は、その夜、彼女のくちびるに支配されていた。スマホの向こうでずっと会社の愚痴を言っていた社内恋愛中の美咲が突然、「ねぇ、私の話聞いてる?」と突いてきたので、「あ〜、苺ミルク舐めて〜」と思わず口にしてしまったくらいだ。もしかしたら、俗に言う桃源郷に連れていかれたのかもしれない。そこに桃林はなかったが、限りなく桃色に近い苺とミルクでできたその世界は、すべてが萌ちゃんの熱量で包まれていた。差し入れの「とちおとめ」を頬張りながら、北海道弁をしゃべる乳牛に案内され、ようやく辿り着いたお城の天守閣で待っていた彼女は、手厚いもてなしで僕のことを迎え入れてくれた。このプランをパンフレットに掲載すれば、大いに繁盛しそうだ。

 次に彼女に会う時までにはもう、いつも使っている旅行会社を変更する口実を考えはじめ、それを誘い文句に彼女との距離をさらに縮めていった。僕らは互いに躊躇することなく、急接近していった。そして最終的には幹事の特権のもと、彼女がガイドをするなら、と勧められたミステリーツアーに乗っかることにした。

 僕の前にやっと『しずかちゃん』が現れた。そう確信し、ほくそ笑んだ。


「植田さん大丈夫ですか? はい、よかった、大丈夫だそうで。では次。【子供の頃】【会議の席で】【田丸さんが】ぁ〜」萌ちゃんが絶妙な溜めをつくりながら読みあげる。

 あれ? 確か今日、田丸さんは来ていないはずだ。納期が迫っていて、今日も休日出勤しているはず。生真面目で少しおっちょこちょいな田丸さんを想像してか、まわりからくすくすと笑いが洩れてきた。

「【鼻をほじって食べていた】!」

 どっと笑いが起きた。現実の田丸さんに、ずっぽりとはまっていた。「ミラクルだっ」と誰かが感嘆の声をあげた。

「よくほじってるが、さすがに食べてはいないよなあ」隣に座る白髪の男が涙を拭きながら笑っている。「あれ? 田丸は今日来てないのか?」

 何気なく振られたその問いに一瞬、答えていいものか躊躇した。「ええ……」

「よかったなあ。聞かれたらまずかったもんなあ……」そう言った男の声が最後にトーンダウンしていった。

 まずい、まずいぞぉ。

「田丸以外に、今日来ていないやつは誰だ?」

 きたっ。男のそのひと言に、車内が一瞬にして凍りついた。

「松浪に吉倉、ええと小林に……ああ、社長もか」と男が指を折っていく。

 隣に座る黒木さんがそこに、「前原、渡辺……」と付け加えていく。

「なんだあ、全員ぱっとしないやつばかりじゃねえか。まあ、来たくないやつは来なくていい。なあ、當間?」

 肩をたたかれた僕はどう答えてよいか分からず、愛想笑いで返すしかなかった。

「来なくて上等。こういう会社行事が何に影響するのかも読めんやつらだ。しょせん部下の管理などできんさ。知ってたか? 実は社長もこういうの苦手なんだぞ。ははん」

 淀んだ空気が流れた。参加してほんとうによかった。皆そう思っているに違いない。

 男は僕たちの職場、中山事業所のトップ、所長の権藤さん。彼が僕の隣、バスの最後尾に、皇帝のように鎮座している。「そうだ、今日はめずらしく純子も来てるもんなあ」彼が前に向かって声をかけた。

「は〜い、いますよ〜」経理の政所様、純子さんが気だるそうに背もたれから、にょきとその化粧顔を突き出してきた。後ろにくれば、すぐにでもキャバレーが開けそうだ。

「どういう風の吹きまわしだ? 男とでも別れたか、くくく」そう言って所長は黒木さんのほうを向いた。

 その振り、あり? 酔っているとはいえ、やり過ぎのように思えた。

 古傷に触れられた黒木さんは天井を見あげ、何のことやら? と目をぱちくりさせていた。

 そう、昔このふたりは付き合っていたのだ。いわゆる不倫というやつだ。噂になってあっけなく終わってしまったが、黒木さんの代償は大きかった。それが原因で奥さんと別れてしまったからだ。当時、新入社員だった僕は、こんな身近にそんなテレビドラマみたいなことがあるんだと衝撃を受け、ふたりが話しているのを見るたびにそわそわしてしまい、まわりから、「落ち着け、少年っ」とよくワイシャツの袖を引っ張られたものだ。

「あぁ所長、またセクハラ発言。じゃあ、そんなこと言われて悔しいからぁ、今夜はうちのホープ、當間くんを布団部屋にでも誘っちゃおうかなぁ」くちびるを器用に片方だけ吊りあげた純子さんが僕に色目を使ってきた。

 熟しはじめているが、決してブスではない。「今晩どう?」と指を差されれば、尻尾を振ってついていく準備はある。

 戸惑う僕を見た彼女は、してやったり、という顔をして横をちら見したあと、「冗談冗談、刺されるわ」と笑って頭を引っ込めた。

 通路を挟んだ隣に座る美咲が腕を伸ばし、頬を膨らませて純子さんをつつく。

 おいおい、そんなプレイすんなよ。思わず口に出そうになった。

 美咲が僕のほうを見る。

 っ、バカ女。心で舌打ちしたあと、まわりに気づかれないよう、引っ込めと顎でしゃくった。それを見た彼女が、無邪気にも後ろに手を振るものだから、僕たちの関係をまだ知らない黒木さんが、「何だ? 何だ?」と騒ぎだしてしまった。

「所長に手を振ってたんですかねぇ?」と助けを求めると、「當間てめえ、ちゃんと教育しとけよ」と頭をはたかれたので、僕は泣き顔をつくって曖昧に頷くしかなかった。

「よ、よろしいでしょうか。よろしければ、そろそろゲームの続きを……」前で内輪話の終わりを待っていた萌ちゃんが言った。

「ああ、そうだったな。悪かったな、ガイドさん」所長が謝った。

 鬼軍曹――。そう揶揄される彼に、ここでは絶対に逆らってはならない。それを破って潰されていった人間を僕は何人も見てきた。彼は部下に絶対服従を要求する。少しでも帰属意識が欠けると見越した者に対しては、容赦ない罵声を浴びせる。誰がいようがいまいがお構いなしだ。そしてその後は一切声もかけなくなるという徹底ぶり。

 たとえば、席に座って仕事をしているあるお気に入りの社員に、彼が声をかけたとする。すると彼はついでにまわりの社員にも順に話を振っていく。が、嫌いな社員の番になると、あからさまにその順番を飛ばす。一瞬、不穏な空気が流れるが、次の振りを受け取った社員が、ここは試練だとばかりに、オーディションさながらの元気な声と愛想笑いを返すことで、その場をなんとか収拾する。その露骨な行為に蔭口をたたくやつもいるが、そういうやつらは大方、居場所を失い、この会社から去っていく。

 嫌なら辞めてもらっていい。所長の口癖だ。

 お蔭さまで僕は、真っ先に声をかけられている。組織や集団に属するとは、そういうことだ。話を振られないようなコミュニケーション能力の低いやつは、早々に退散してもらっていい。僕もそう思っている。

「では、引き続き。あ、すみません、またお願いしてもいいですか?」

 声をかけられた最前列に座る徳丸が、メガネの位置をただし、再び札の入った箱を萌ちゃんの前に構えた。

 徳丸和哉――。入社二年目。植田と同期だが、植田のほうは僕の隣、後ろのメイン会場にいるのに、彼のほうは最前列でガイドの手伝いをさせられている。任命したのは僕だ。宴会席にいても誰からも相手にされず辛いだけだろうからと考えた幹事としての配慮。

 そう、彼は所長から見限られた存在だ。決して悪いやつではないのだが、何しろ話が自分のことばかりでつまらない。仕事にミスも多く、言い訳ばかりするので皆から干されている。

 それならそれで、そんな駄目キャラを突き通せばいいものを、といつも思う。若いうちは隙を見せたほうがいいのだ。まずは上から気に入られ、可愛がられること。大人ぶるのはそれからでいい。芸能人を見ていれば、簡単に分かることだ。「おバカキャラ」や「不思議ちゃん」を装ったアイドルたちは、数年後には見事、「演技派女優」や「ママさんタレント」という地位を確立している。皆、生き残るために必死なのだ。

 けれど彼はいっこうにその路線を変えようとしない。聞いた話では、この前の面接で、「もっと責任のある仕事をさせてください」と課長に直訴したらしいが、そんな博打のようなマネ、絶対にできない、と誰もが思う。自己啓発本ばかり読んでいて時折会話にそのネタを織り込んでくるが、その効果がいっこうに表れてこず、呑みの席で、「早く辞めてくんないかなぁ」と黒木さんがぼやくのを何度も聞かされているような状況だ。

 しかしそれも、もうすぐ終わりだ。彼は今月で退職する。なのにこの旅行に参加してきている。その思考回路が、まったく理解できない。

 両手で箱を抱えた徳丸がじっと萌ちゃんのことを見つめている。

 まさか見惚れているのか? あきらめろ。彼女は今、仕事中だからお前に優しいんだ。プライベートになればお前など、まったく相手にしてもらえない存在だ。社内カースト最下位のお前に――。

 メガネをかけた徳丸がだんだん、のび太のように見えてきた。そこで以前にも思い浮かべたことのある、くだらない疑問が甦ってきた。

 なぜ野比家以外のネコ型ロボットは、こうして困っているご先祖様を助けに来なかったんだろう。


「では行きます。【たった今】【車のなかで】【幹事さんが】ぁ〜」

 皆がいっせいに僕のほうを向いた。「いいねぇ」と声が洩れる。

 注目を浴びた僕は、「えー」と大袈裟に声をあげたが、正直悪い気はしていなかった。逆にチャンス到来だ。

「【所長から秘孔を突かれた】!」

 歓声があがり、植田が、「所長、當間さん、當間さんに」と煽りはじめた。

「な、なんだよ」のけぞってみせると、笑いが起きた。

 むくりと立ちあがった国枝が僕の前に仁王立ちし、「失礼します」と一礼すると、膝の上に跨ってきて、無理やり僕の両腕を座面に押さえつけた。

「や、やめろよっ」

 殴り合いの喧嘩をしたら絶対に負けそうな後輩に馬乗りになられた僕に、酔面の所長がにやりと、伸ばした二本指を見せつけてきた。

 それを見た国枝がかけ声をはじめた。「所長! 所長!」

 皆の手拍子に合わせ、所長がひょっとこの真似をして踊りだした。

「やめてくれ〜」僕も調子に乗った。

「いくぞぉっ」二本の指が僕の脇腹を突き刺した。

「うへぇん」恥ずかしい声を出してしまった。もちろん、わざとだが。

 車内は大爆笑。皆の笑顔。所長は超ご満悦。

 幹事冥利に尽きる。間違いなく僕は、カースト上位にいる。


 数件の空振りはあったものの、その後も笑いは絶えなかった。

 いつどこで誰が何をしたゲーム。企画段階で萌ちゃんに提案され、はじめはそんな小学生がやるような遊びに大の大人が、と思ったが、会社という普段真面目な付き合いでつながっている間柄でやってみると、意外と面白かった。それに今回はミステリーツアーだから行先を調べられないようにと、皆のスマホを乗車の際に回収しておいたのがよかった。ネットの呪縛から解放され、純粋にこのイベントに集中できている。そしてこのあと、さらに皆を驚かせること必至の爆弾企画が待っている。それも彼女からの提案で、内容は幹事の僕にも秘密なのだそう。「どっきり」なので、ネタばらしするまで絶対に口出ししないように、と念を押されている。

 うちを選んでくれたからと、こんな最新設備の整った超豪華な観光バスや飲み物まで提供してくれて、彼女の会社を選んでほんとうによかった。

 マイク片手に一生懸命、場を盛りあげている萌ちゃん。その仕事ぶりに舌を巻く。とことん、いい女だ。

「では次いきます。【昔むかしあるところに】【駅のホームで】【真崎さんが】ぁ〜」

 ん? その名に一瞬、思考が止まった。

「真崎さん? 誰です? それ」植田がまわりに回答を求めるが、誰も応えない。その名を知っているのか、腕組みした国枝が目を閉じたまま眉根を寄せている。

 前で首を傾げる萌ちゃんの額に、はてなマークが浮かんでいる。「どうされました? い、一応、続きを言っておきますね? 【真崎さんが】【床で滑って鼻血を出した】……」しんとした車内に、その声が虚しく響き渡った。

 真崎さん――。久しぶりにその名前を聞いた。何年か前にこの職場にいた、僕の直属の上司だった人だ。新入社員の僕に、教育係として一から仕事、いや社会人としての心構えなど、すべてのことを教えてくれた、とても優しい、いい人だった。

 過去形なのは、もう彼が、この世に存在していないからだ。

「何か、まずかったですか?」萌ちゃんの不安そうな声が聞こえてきた。

「誰だ? こんなこと書いたのは。冗談じゃ済まされないぞ」鬼軍曹が声をあげた。

 反応がなかった。舌打ちする彼の熱が冷めるのを待つかのように長い沈黙が続いた。

「おい幹事。この空気、なんとかしろっ」

 矛先が僕に向いた。名前で呼ばないところに怒りのバロメーターの高さを感じる。こうなると調子を合わせるのに苦労する。

 とばっちりを受ける恰好となったが、ちゃんと段取りはできていた。萌ちゃんの会社のDVDを観るのだ。「会社の宣伝の為に無理やりテレビ出演させられて、ほんとうに嫌だったんです」と愚痴りながらも、「これだけは見せるようにと会社から言われてまして」と申し訳なさそうにする彼女に、僕は、「面白そうだ、是非観たい」と励ましと期待の混ざった言葉を返した。そして当日は言いづらいだろうからと、あたかも幹事からの要望のような恰好で進めようと彼女に進言していた。あの時の僕を見つめる彼女の感謝のまなざしを今でも忘れられない。

「じゃあ、萌ちゃんのビデオ観ようよ。テレビで放送されたやつ、あるんでしょ?」

 美咲の顔が通路に飛び出てきて、僕のことをきっと睨んだ。

「なんだよ當間、ガイドのAVか? AV」黒木さんの声が一段高くなった。

「もう課長、残念ながらそんなんじゃありませんよ。彼女むかし、バスガイドの取材でテレビに出たことがあるんですって。ねえ、萌ちゃん?」美咲の頭を飛び越し、萌ちゃんに話を振った。

「しかし、あれは……」打ち合わせ通り、彼女は困り顔をつくった。

「いいじゃん、ね? この通りっ」と僕が手を合わせる。

「会社の宣伝用に編集されちゃってますから、ほんと、つまらないですよ?」

「いいよ、観よう、観よう」

 まわりからも声があがり、彼女はしぶしぶ袋からDVDを取り出した。

「いいですよね? 所長」

「ああ」鬼軍曹が落ち着きを取りもどしてきたので、僕はほっと息を吐いた。

「つまんなかったら、言ってくださいね? すぐに切りますから」

 萌ちゃんは何度も断りを入れながらディスクを差し込んだ。僕たちは、天井に埋まっている前後二台の液晶テレビを引っ張り出した。四十インチはあるだろうか。これが最新鋭の観光バスか、と感心している間に画面に映像が映し出された。

 よかったね、と前を見た。目の合った萌ちゃんが僕に向かい、さりげなく、「ありがとう」と頭をさげた。さらに彼女に近づいた気がした。

【ミカサツアー 〜新人バスガイド物語〜】

「タイトルに少し昭和が入ってますけど、二年前のものですから。神奈川テレビで平日の夕方に放送された番組で、それをうちの会社が宣伝用にあとから編集しています」彼女は映像が流れていることを確認すると、先頭の一段高いガイド席に腰をおろした。

 ひと昔前、濁声で人気のあった芸人がリポーターとして出演していた。ジャガイモがぱんぱんに詰まったビニール袋を指差し、『お母さん、欲張りぃ〜』と大袈裟な声をあげる。野菜詰め放題に奮闘したおばちゃんたちが、したり顔でそのコツを伝授する。しかし、彼女たちのようには上手くいかず、ビニール袋の口が裂けてしまい、せっかく詰めたジャガイモが、ぼとぼととコンテナに落ちていった。

『あ〜ああ』スタジオから笑い混じりの声が洩れる。『すごいお土産の量ですねぇ。これじゃおたくの会社、元が取れないんじゃないですかぁ』

 指でコインもどきの輪っかをつくった彼の前に、バスガイドが映った。

 少し若い萌ちゃんだった。化粧が薄いせいか、今より目が細くきつめの印象があるが、それはそれで可愛かった。やはり素材がいいのだ。

『ええ、ほんとギリギリでやらせていただいてます。でも、こうやって皆さんの喜ぶ顔が見れるのが何よりもうれしいですから。ミカサツアーはお土産で、がっちり!』にこっとした彼女が握った拳をおろした。

『もしもしガイドさん? それじゃあ、まるで儲けてるみたいじゃないですかぁ』

 はっと口を押さえた萌ちゃんが、すぐに両手を振って否定した。

「これ、やらせですから」実物の萌ちゃんがそうコメントを入れ、笑いを誘った。

『面白いガイドさんだなぁ。美人だし申し分ないなぁ。スタジオの皆さん、この』

 プツリと音声が途切れた。あれ? と思ったあと、すぐに復旧した。

『なんですけどぉ、実はぁ、なんと、これが初仕事の、新人さんなんですよぉ。まだ彼女、十八なんですぅ』

『え〜?』客席から一段と大きな声があがった。

『聞くところによると、彼女はバスガイドになりたくて、何度も今の会社に願書を送ったとか』

『はい、そうなんです』

「ってことは今いくつ? これ二年前って言ってたよね? じゃあ今、はたちってこと?」なぜか国枝が興奮していた。

 それに対し、萌ちゃんが申し訳なさそうに肯いた。

「そんなに若かったんだぁ」自分より年下だと分かったからだろうか、心なしか国枝の表情が華やいでいた。

 二十五くらいかと勝手に思い込んでいた僕も、正直驚いた。萌ちゃん。その歳でその色気は、ないだろう。

 映像が切り替わり、突然こたつの置かれた部屋が映し出された。まわりを囲む襖戸や障子戸が古めかしさを感じさせる。

『お邪魔しま〜す』

「お恥ずかしい。私が前に住んでいた借家です。どうしてもって、テレビ局の人にお願いされて仕方なく……」萌ちゃんが恥ずかしげにコメントを入れた。

「結構プライベートなとこまで、突っ込んでくるんだなぁ」黒木さんがつぶやいた。

『へぇ、ここでお母さんとふたりで暮らしてるんですかぁ』腰をおろしたリポーターは部屋をぐるりと見まわしながら、かける言葉を探しているようだった。その表情には、金に苦労していそう、という感情がありありと浮かんでいた。『今日、お母さんは?』

『近所のスーパーに働きに出てます』萌ちゃんがリポーターに湯呑みを差し出す。

『これは……』リポーターが棚にある写真立てを指差した。

『私です。昔、道を踏み外していた時期があったんです』と萌ちゃん。

 写真が徐々にアップされ、上下白ジャージの女が映し出された。長く伸ばした髪は、金というよりも白に近い。画面のなかのバスガイドをしている十八才の彼女より、さらにのっぺりした顔の、まだ少女と言っていいほどあどけない顔をした彼女が、「何見てんだよ」とでも言うように、こちらに睨みを利かせていた。そのせいか実物の彼女とは、異質の人間に見えた。

 話によると、彼女の家は母子家庭とのこと。彼女がまだ中学生だった頃、父親が亡くなり、次第に家計が苦しくなっていったそうだ。彼女は志望していた進学校をあきらめ、手に職をと地元の工業高校の情報科へと進んだ。

 そんな苦労人なんて知らなかった。と同時に、だからか、と合点がいった。あんなに積極的に仕事を取りにきたところ、目の肥えた客が楽しめるようにとめずらしいプランをいくつも練ってきたところ、ガイドとしてこうやって実際に場を盛りあげているところなど、はたちそこそこでこんなにできるもんじゃない。こういう貧乏からくる必死さが、彼女をここまで押しあげてきたんだと思った。

 割と裕福な家庭で育った僕にもつらいことはたくさんあった。けれど萌ちゃんにはそれ以上の、僕が想像もできないような苦しみが、きっといくつもあったに違いない。

 今度ふたりで会った時、精一杯話を聞いてあげよう。そういうことで少しでも彼女の心の闇を埋めることができるのなら――。

 感心の目で彼女のことを見た。色眼鏡を通してというわけではないが、やはりはたちの女の子には見えなかった。風格がありすぎる。はたち当時の僕ならば、これほど自然に職業的笑顔をつくれはしないだろう。

「へぇプログラムできるんだぁ。じゃあ、うちにおいでよ」黒木さんが茶茶を入れた。

「ちょっとかじった程度ですから何もできませんよ」萌ちゃんが申し訳なさそうに手を横に振った。

 国枝が口に手を添えて、「もぇ〜」と山羊の鳴きまねをしてふざけると、隣の植田もまねして、「もぇ〜」とやり、顔を見合わせて笑った。

 だが彼女は、その高校を中退した。驚いたリポーターがその理由を訊ねる。

『いろいろありまして……』そう答えたきり、彼女は話そうとしなかった。

 男絡み……か。僕のなかで苺ミルクを狙う裸の野蛮人たちの像が、寓話仕立てに膨らんでいった。

 気がつくと、皆が画面を食い入るように見つめていた。

 いいねぇ。僕は最後尾からその光景を眺め、ほくそ笑んだ。やはりこのビデオを流してよかった。

『で、なんでバスガイドに?』

 その質問に彼女の顔が引き締まった。『父の日記があとになって見つかったんです』

『お父さんの日記?』

『ええ、父のパソコンにあったんです。ただのテキストファイルですが、何日分も』

『へぇ〜、パソコンにねぇ。で、なんて書いてあったの?』

『娘の私と旅行がしたいって、それもバスで』

『へぇ〜、なんでバスなんだろうねぇ』

『運転しなくていいし、乗り換えもなくて、お酒も飲めていいって』

『それで、バスガイドに?』

『ええ。で、他の日記にはこうあったんです。萌、お父さんは、お前と一緒にいろんな所に行っておけばよかったと今になって後悔してる。ごめんな、仕事ばっかりで、って。それが最後の日記でした』

『そう……』リポーターの言葉が詰まった。

『そしてその時、分かったんです。私は父に愛されていたんだと……。父が亡くなってから、私はずっと自分のことばかり考えていました。なんで自分だけこんなに不幸なの? どうしたらこの暗闇から抜け出せるの? そんなことをいつも考えていました。でも、その日記を読んで、やっと希望が持てたんです。バスガイドになって、いろんな所にお父さんを連れていってあげるっていう、夢が持てたんです。だから高校を辞めました』

 マイクを向けながらリポーターが泣き崩れた。その空気に呑まれ、車内からも洟をすする音が聞こえてきた。

「すばらしい田中さん。いい話だ、感動したっ」感動ものに弱い所長が手をたたいた。

 つられるように皆の拍手が重なっていく。

「ありがとうございます」萌ちゃんが頭をさげた。

 映像が、先ほどの野菜詰め放題会場に戻る。

『じゃあ、晴れてガイドとなった今では、お父さんも一緒に?』

『ええ』肯いた萌ちゃんは、首にかけていたネックレスを引きあげ、胸元から小さなペンダントを取り出した。『ここに父がいます』

「これもこういう段取りで、ってお願いされて仕方なく……」実物の萌ちゃんが苦笑いしてコメントを挟んだ。

『おお、ロケットペンダント? 今どき珍しい』

 大袈裟なリアクションをするリポーターに、彼女がペンダントの蓋を開けて見せる。

 なかの写真がクローズアップされていく。ピントが合い、ぼやけていた顔写真がくっきりと輪郭を映しだしてきた。眼鏡をかけたちょっと太めの、ホームセンターでエプロンをかけて働いていそうな、人のよさそうなおじさんが、照れ臭そうに写っていた。

『優しそうなお父さんじゃない』

 その言葉に画面のなかの萌ちゃんが感極まったのか、口を手で押さえた。

 へぇ、こんなオッサンからこんな美人な娘が生まれるんだ。そう思いつつも、どこか見たことのあるようなその中年男に、僕は惹きつけられていった。

「シンザキさん……」そんな声が洩れてきた。

 そうだ。これは真崎さんだ。その名がすんなりと腑に落ちてきた。

 え? いきなり電球がともったように、その顔が記憶のなかにはまった。

 車内がざわめいていた。

 すると萌ちゃんが立ちあがり、マイクを口に当てた。その顔は、画面のなかで涙を流す彼女とは正反対に、力強くまっすぐに僕たちのほうを見据えていた。

「その通り。私は、五年前、この会社に殺された真崎幸太郎の娘、真崎萌です」

 彼女の言葉は、僕を現実の世界からいっきに引き離していった。


 あの夜の光景が唐突に甦ってきた。この会社の人間であれば、忘れることのできない通夜の光景だ。それらは断片的でしかなかったが、そのなかに参列者を迎える真崎さんの奥さんと娘の姿があった。頭をさげ続ける奥さんの横で、セーラー服を着たひとり娘が魂を抜かれたように、ぼうっと佇んでいた。表情も変えず、どこか遠くにあるものをじっと見つめていた。その姿に誰も声をかけられず、目を伏せながら前を通り過ぎるしかなかった。聞けば、まだ中学二年生だという。もう顔は思い出せないが、きれいで賢そうな子だったことだけは憶えている。

「可愛い子だったな……」帰り道、誰かがそうつぶやいた。

「ああ……」それしか言えなかった。映画やドラマに出てくるような悲劇のヒロインをひとり、うちの会社からつくり出してしまった。そんな物悲しさがあった。

 あの時の子が萌ちゃん? どうしてもその姿に今の彼女が重ならない。うそだろう?


「真崎って、さっき出た名前の人です?」

 場はずれな植田の声とともに、まわりの喧騒が耳によみがえってきた。植田は隣の国枝が肯くのを見たあと、確かめるように所長のほうを向いた。腕組みしたまま、じっと前を見据えるその横顔を、僕は怖くて直視できなかった。

「當間お前、知ってたのか?」ぎろりと目玉が向いた。

「いえ、まったくの初耳です」頭と手を交互に振った。まわりの空気がやけに薄く感じられ、息苦しくなった。何を言い出すんだ、萌ちゃん。「どっきり」にも程ってものがあるじゃないか。

「五年前、この会社に勤めていた父は、会社近くの駅のホームから飛び降りて、自らの命を絶ちました。皆さん、もちろんご存知ですよね?」

 誰も応えなかった。植田がちらちらとまわりの様子を覗っている。

「ほんとうに真崎くんのお嬢さんなのか?」所長が口を開いた。

 萌ちゃんは正面をしかと見つめ、「はい」と応えた。

「そうですか……。大きくなられましたね。お父さんの一周忌以来ですか……。お母様はお元気ですか?」

「いえ。一昨年の年末、亡くなりました」

 気まずい空気につつまれた。

「それは知りませんでした。ご冥福をお祈りします」

 萌ちゃんは所長をずっと見据えていた。

「で、その真崎くんのお嬢さんがなぜうちのガイドに? 聞いたところでは、うちに飛び込み営業をかけてきたそうじゃないか。いったい、どういうつもりなんだい?」だんだん語気が強まっていった。

 どう出るんだ? と皆の視線が萌ちゃんに集中する。

 彼女は、すうと大きく胸で息を吸い込むと、マイクを口に持っていった。「このバスを、ジャックします!」

 へ?

 あまりの突拍子のなさに、まわりの空気が外に抜け出ていくようだった。まるで手をあげて運動会の開会宣言をする小学生のようだ。だが萌ちゃんの表情に変化はなかった。

 何言ってんの? あの人。鼻で笑う声が聞こえてくる。

 萌ちゃん。これが爆弾企画というやつなのか? ちょっと、ついていけない。ついていけないぞー。僕はひとり、天を仰いだ。

「おい當間。どっきりでも、これはちと洒落にならんぞ?」

 黒木さんに睨まれた僕は、「知りません、こんなこと」とまた手を振った。

 萌ちゃんは自分が真崎さんの娘だと言っている。これは冗談なのか、そうでないのか。彼女がいったい何をしたいのか、まったく訳が分からない。

「今回のツアーでは、バスは宿に向かいません。向かうのは大きな岬です。そこから見る海はまさに絶景、と言いたいところですが、残念ながらそのまわりには松の木が茂っていて、まったく海を望むことができません。海を見るためには、脇の小道を歩いてくだっていくしかありませんが、到着する頃には真っ暗ですし、足を滑らせてしまったら大変です。ですからこのまま、バスに乗ったまま、その松林を抜けていこうと思います。運悪くバスが急斜面を転げ落ちてしまい、途中で頭を打ってしまう方が何人かいらっしゃるかもしれませんが、どうぞご心配なく。最後には、バスもろとも目的の海面まで辿り着くことができます。もちろん、誰ひとり抜けることなく」萌ちゃんの顔には、微塵の動揺も見えなかった。

 この人、何を言い出すんだ? 車内が騒然となった。

「じゃあ、何かい? あんたも死ぬつもりなのかい?」所長の大きな目玉が、前にいる萌ちゃんをしかと捉えた。

「はい、そのつもりです」彼女はきっぱりと答えた。

 鬼軍曹に堂々と逆らう者を見たことがないからかもしれない。免疫のない僕たち社員は、彼女のその凜とした態度に戸惑いながらも、半ば尊敬のまなざしを向けていた。

「冷たいでしょうね? 冬の海は」彼女は僕たちの反応を楽しんでいるようだった。乗客の顔を目でひとつひとつ追いながら、口角をさげることはなかった。

「タイタニックみたいでいいじゃないですか。あのラストシーンは感動しましたよね。あんなロマンス、なかなかあるもんじゃありません。さあ、今のうちです、皆さん。夜までにお相手を、このなかから探してみてください。ぜいたくは言ってられませんよ?」

「おい、ガイド。調子に乗るんじゃないぞっ」黒木さんが立ちあがった。

 だから何? と萌ちゃんが鋭い目で見返す。「これはこれは、A級戦犯の黒木さんじゃないですか。ちょうどよかった。ご存知ない方たちのためにも、あなたが父に行った嫌がらせの数々を、これから紹介していくことにいたしましょう」

「な、何を?」虚を突かれた黒木さんは声をうわずらせた。

 萌ちゃんはクリアファイルからA4用紙を取り出し、読みはじめた。その内容は、僕のあいまいだった記憶を甦らせるには、充分過ぎるほど具体的なものだった。


「ったく、いい加減にしてくれよな」

 ある日、当時まだ開発部の係長だった黒木さんが帰ってくるなり、大声で机をたたいた。そこへ、同じく帰ってきたばかりの主任の真崎さんが机に鞄を置いたあと、「すみませんでした」と黒木さんのところへ駆け寄っていった。

「ああいうことをする人とは、もう一緒に仕事したくありません」

 吠える黒木さんに頭をさげ続ける真崎さん。話によると真崎さんは、黒木さんが上司として同行した客先で、難しい納期を約束してしまいそうになった黒木さんを制止し、「そんな納期では絶対に間に合わないから延期させて欲しい」と断りもせず勝手に客に頭をさげてしまった、ということだった。客の前で部下に否定された恰好となってしまった黒木さんは、「あとで調整すればいいことなのに、あいつはオレの面子を潰しやがった。絶対に許さねぇ」と真崎さんが帰ったあともずっと繰り返していた。

 僕たちは、はじめに挙がっていた納期を聞いて、「そんなの確かに無理だ。真崎さんの言ってることのほうが正しい」と蔭で囁き合った。それと同時に皺寄せを喰らう僕たち部下を守ってくれた真崎さんの想いに感謝した。真崎さんのことだ、きっと上司の黒木さんにも気を遣いながら、もっとやんわりと客に進言していたに違いない。それを黒木さんが自分の都合のいいように脚色している。そんなことは容易に想像できた。

 しかし当時まだ新人だった僕は、そのあと会社の上に対し、真崎さんを擁護する行動を何ひとつできないでいた。僕の心にもう少しだけ勇気があれば……。そう思ったのは、二度や三度のことではない。当時は毎日のようにそんな後悔に苛まれていた。

 そこからだった。真崎さんに対する黒木さんの嫌がらせが始まったのは――。

 まず、開発の為に購入した書籍の領収書を真崎さんだけ許可しなくなった。

「ほんとうに必要だったのか? 必要な箇所が一部分だけなら、立ち読みで済ませられただろうに」そんな難癖をつけ、頑として承印を押そうとしなかった。

 あきらめた真崎さんは自腹で購入したり、まわりに頼み込んで購入してもらうようになった。すんなり承認される僕たちは、真崎さんに申し訳なくて、彼が不在の時に判をもらいにいくよう意識した。

 黒木さんは真崎さんの仕事を執拗なまでにチェックしていった。そして些細なミスを見つけては、ここぞとばかりに呼びつけ、皆のいる前で吊るしあげた。所長のいる時などはさらに声を張りあげ、過去のミスまでほじくり返し、何度も叱咤していた。

 僕はといえば、真崎さんとは比べ物にならないほど多くのミスをしていたが、「お前はまだ若いから許せる。だが、あいつはもう主任だ。その責務を全うしていない」と黒木さんに背中をたたかれ、彼の正当性を披露する呑み会に連れて行かれては、頷きを強要させられてしまう始末だった。

「一からちゃんと、日本語を勉強し直せよ」議事録の一節にいちゃもんをつけた黒木さんが、そう言って真崎さんを諭していたことがあった。

 それを聞いた僕は、黒木さんが、「最近メールの誤字脱字が多いので気をつけるように」と社内通達していた掲示板のなかに、同じ送り仮名がふたつ続いているのを見つけたことを思い出した。いくらなんでも、この文面だけは死守するだろう。そう信じて何度も見返したが、やはりひと文字余分だった。単純な変換後の消し忘れだった。角が立つので敢えて指摘はしなかったが、あとになって同期の間で笑いのネタになっていた。

 ふんぞり返っている黒木さん。

 あの間違いは、いったい誰が指摘したのだろう。


「どうです? 皆さん。自分がこんなことされたら。あなただったら?」

 萌ちゃんがそばにいた入社三年目の加納さんにマイクを向けた。突然振られた彼女は、「あうっ」と素っ頓狂な声を発した。

「父はそんなに悪いことをしたんですか?」

 普段からクソのつくほど真面目な彼女は追い込まれ、真崎さんのことを知らないのに、「いえ」と応えてしまう。

「そうですよね。でも黒木さん一人だけだったら、まだよかったんです。それなら父も耐えられたのかもしれません。しかし次第に状況は変わっていきました。呑みの席で黒木さんからの一方的な話を聞いていたある方が、必死に耐えている父を一緒になって攻撃しはじめたのです」

 そう言って萌ちゃんは、A4用紙をめくった。


 それは、朝礼での出来事だった。

「今まで後ろにある経営方針を毎日のように皆で復唱してきましたが、ただ読むだけでは何の意味もありません。内容を常に意識して、実際に行動に移していかないと。よって、今日からどなたかに暗唱してもらうようにしたいと思います。やりはじめてもう一ヶ月が経ちましたから皆さん、当然覚えていますよね? ではトップバッター、黒木係長っ」所長の太い声が事務所に響き渡った。

「えっ、私ですか?」

 明らかに動揺している黒木さんを見て、まわりからくすくすと声が聞こえてきた。

 しかし一度咳払いした黒木さんは、「では」と姿勢を正すと、五つある経営方針をすんなりと空で応えてしまった。

 まさかあんなに長いもの、全部は言えないだろう。そう高を括っていた僕たちは驚きのあまり、「すごい」と感嘆の声をあげた。

「さすがですね、朝からやる気がみなぎっています」所長が笑っていた。けれどそこには異質なものが混じっていた。なんだか取り繕っているような無気味な笑みだった。

「では続いて、真崎主任っ」

 前にいる真崎さんの肩がびくんと動いた。

 聴覚を失ったかのように事務所内がぴたりと静まり返っていた。空気の揺れさえも感じられない。いっしょに触覚も奪われたみたいだった。ここでそれはないだろう。皆がそう思ったはずだ。

「えー、【私たちは、お客様から最も支持される企業を目指し、常にサービス向上に努めてまいります】」

 目の前で真崎さんの後頭部がせわしなく揺れていた。

「あー、えー、【私たちは、取引先様から最も】……、【信頼される企業を目指し】……、【常に】……」

 必死に思い出そうと苦しんでいる様子が後ろからでも見て取れた。両方の耳がみるみると赤みを帯びていく。

「あっ、【社会との調和に努めてまいります】っ。それと……、【私たちは、社員の幸福を】……、【最も大切にする企業を目指し】……」

 そこで真崎さんの動きがぴたりと止まった。

「【社員の幸福を最も大切にする企業を目指し】……」

 長い沈黙があった。誰もが息を殺していた。

「【目指し】……」

 いたたまれなくなって顔をあげると、前でニヤついている黒木さんの姿が目に入った。不謹慎だな。そう思った。そしてそのあとに直感した。まさか、謀った?

「すみません、言えません……」当然のごとく真崎さんは言えなかった。後ろを振り返り、壁にある残りの経営方針を読みあげる姿を、とてもじゃないが見ていられなかった。

「なんなんだ君はっ。あんなに毎日、皆で読んでいたのに、いったい今まで何をしていたんだ。ったく、弛んでるんじゃないのか。少しは黒木くんのことを見習いなさいっ」所長はそう言うと、机をばんとたたいた。

 真崎さんの頭が落ちるように僕の視界から消えていった。

「あー、気分が悪くなった。ちゃんと教育しておけよ、黒木っ」そう言った所長は興奮を抑えられないのか、そのまま事務所を出ていってしまった。

 どんよりとした淀んだ空気が、収拾つかないほど充満していた。

「さあ、仕事、仕事」黒木さんが手をたたいてそれを収拾した。

 皆が着席していくなか、真崎さんは下を向いたままその場にしばらく立ちつくしていた。手の先が震えていた。がっくりと肩を落とした男の後ろ姿がそこにあった。

 隣に座る僕は声をかけられなかった。まわりの人たちが手を動かしながらも、ちらちらと彼を垣間見ていた。

 トイレにでも行くのだろう。ようやく動き出した真崎さんの背中を、僕は同情の目で見送った。すれ違い際に見えた顔からさらに生気がなくなっていた。視線は僕の顔を素通りして、その向こうの壁を見ているみたいだった。

 姿が見えなくなったところで、偶然、隣の島の先輩と目が合った。眉を寄せて頷くその先輩の表情を見て、「一度レッテルを貼られたら、おしまいだぞ」そんな社会人としての常識を諭されたような気がした。

 まわりを見ると、そんなレッテルを貼られた先輩たちが各島の隅っこのほうに座っていた。自己主張しすぎた人、無口で何を考えているか分からない人。両極端で分かりやすかった。真崎さんのそれとは違うが、出世の道を断たれ、覇気がなくなっているという意味では、皆同じだった。

 あんな人たちのようには絶対になりたくない。世のなかに、白黒はっきりさせないグレー色があるということに気づきはじめていた僕は、その先輩たちがなんだか事務机にへばりついている亡霊のように見えた。


 翌日の朝礼で所長は、こともあろうに僕を指名してきた。緊張したが、すんなり応えることができた。それもできる限り大きな声ではっきりと。

「すばらしい。昨日は言い過ぎました。でも、私は経営方針の存在する意義を皆さんに、いつも意識しておいてもらいたかったんです。よく言えました、當間くん」そう言って所長は手をたたいた。ぱらぱらと渇いた拍手が続いた。

 違うよ、所長。きのうの夜、必死で覚えたんだ。僕だけじゃない、きっと、ここにいるみんなが、だ。

 目の前の真崎さんが、肩を落としながらも一緒に手をたたいていた。

 それからも黒木さんの嫌がらせは続いた。いや、所長というこれ以上ない後ろ盾を得て、水を得た魚のようにその残忍さはさらにエスカレートしていった。歯止めが効かなくなり、陶酔するように彼はその権力を行使していった。

 もしかしたら、戦時中の軍人もこのような感覚だったのかもしれない。捕虜に拷問を加えることが、まるで正義であるかのように。勝てば官軍、ということなのだろうか。

 その結果、真崎さんは日常業務に支障をきたすようになってしまった。残業が多くなり、実際に些細なミスを繰り返すようになっていった。約束の期限を守らなくなったばかりか、こちらが話している時も、虚空を見あげたりするようになった。以前の真崎さんでは、絶対にあり得ないことだった。

「おいおい大丈夫かよ、當間。この暗い雰囲気」課長に昇進したばかりの黒木さんが、ズボンのポケットに両手を突っ込みながら近づいてきて、隣に真崎さんがいるにも関わらず、笑いながら僕の肩をたたいた。「所長が言ってたぜぇ。最近、生活残業してるやつがいるってよ。ミスばっかり起こせば、そりゃあ残業するわなぁ。いいなぁ、オレなんか固定給だから、これ以上増えないっていうのによぉ。今月はそいつの給料、オレを越すかもしれないんだぜぇ?」

 その残業代が実働の半分にも満たない申請であることを知っていた僕は、批難したいのか自慢したいのか、どちらなのかよく分からないその言動に、愛想笑いで応えるしかなかった。そしてしばらく経ってから、あれは人を批難することで自分をより優位に見せようとする自慢だったんだと気づいた。

 それでも真崎さんは耐えていた。黒木さんから、本来は課長業務である課の要員調整や予算組みまで任され、休日も返上して対応していた。

 しかし慣れというものは恐ろしいもので、次第に真崎さんのミスの影響を被りはじめたまわりの人たちも、事のはじまりが黒木さんからの嫌がらせだったということも忘れ、真崎さんに苛立ちを感じはじめるようになっていった。

 笑顔のなくなった真崎さんはさらに孤立していった。いつのまにかひとり立ちしていた僕もなんだか声をかけられなくなってしまい、いつのまにか当たり障りのない会話しかしない間柄へと変わっていってしまった。

 そしてとうとう、真崎さんは自らの命を絶ってしまった。最寄り駅のホームから線路に飛び降りたのだ。黒木課長から急な点検依頼が入り、事業所から電車で客先へ向かおうとするところだった。あいにく社用車が出払っており、重い工具箱とノートパソコンをひとりで抱えていた。

 会社の人が死んだ――。それも僕が一番お世話になった恩人だ。その日常からかけ離れた感覚を、僕はどう処理すればいいか分からず、ただ呆然としているしかなかった。

 真崎さんが亡くなったあと、しばらくして奥さんが事務所にやってきた。入ってきた彼女を見て、皆が息を呑んだ。

 通夜の時とは打って変わって、別人のようになっていた。痩せてこけて頬骨の突き出たその顔からは、すっかり生気がなくなっており、乾いた髪がそこかしこで跳ねあがっていた。「ここが主人の……。ずっとあの人がここに、座っていたんですね……」そう言うと、奥さんは椅子の背を撫ではじめた。まるで手のひらで夫のぬくもりを感じ取っているかのように。そして席に座ると、今度は机の上を両手で撫ではじめた。今にも頬ずりまでしそうな勢いだった。

 とても見ていられず、視線を外した。はじめは好奇の目を注いでいた連中も下を向かざるをえなかった。

 すると洟をすする小柄な彼女に、付き添いの男が言葉を詰まらせながら言った。「真崎くんはここで毎日……ほんとうに毎日、ここで真面目に業務に取り組んでくれていました。ほんとうに、ほんとうに、残念でなりません」

 うそだろう? 取り繕うようなその口調に我慢できず、僕は顔をあげた。

 気づいた所長がその目玉を剥いた。

 それは僕を気圧するには充分だった。血管の浮き出た眼球のなかで、淀んだ瞳が僕を今にも飲み込もうとしていた。僕をがんじがらめにする投網にも思えた。

 あの時、最後に生きた真崎さんを見たあの時の、彼に対する所長の言葉を、はっきりと憶えていた。

「お前はガキか? 車がなければ、電車で行くしかないだろうが。電車で行くんだ、電車で。電車賃は、そのがっぽり稼いだ残業代で先に立て替えておけやっ」


「以上ですが権藤さん、内容にお間違いはないでしょうか?」読み終えた萌ちゃんが、まっすぐに前を見つめた。

 怖くて誰もその先を見れなかった。

 何をやってるんだ萌ちゃん。黒木さんはともかく、所長にまで。これが爆弾企画というのなら冗談じゃない。仮に冗談だったとしても、もう引き返せない、深いしこりが残る。このあと、笑って旅行を続けることなんてできやしない。ああもう、この旅行はおしまいだ。いや、この僕が、おしまいなのかもしれない。

「一方的に言いたいことばかり言いやがって。人の言動を勝手に脚色するなっ」どすの利いた声が突き返した。

「そうなんですか? 父の日記にはこう書かれていたんですが。間違っていたのなら訂正します。どこでしょう? おっしゃってください。でも、日記の先頭に書かれていた日付とファイルの更新日は、どれもいっしょでしたよ? 父はその日にあったことをそのまま書き残していたようですが。所長さんの記憶と父の日記、真実に近いものはいったいどっちなんでしょう。私の父には、日記を脚色してまで書く傾向があったんでしょうか?」

 重苦しい空気が流れたあと、隣から舌打ちが聞こえた。

「はー、くだらん。うちにパワハラがあったかどうかは知らん。しかし仮にあったとする。そしてあんたの父親はそれに耐え切れず、自らの命を絶った。それはすべて会社のせいか? オレたち会社の人間がすべて悪いとでも言うのか? あ?」

「そうは言ってません。ただ罪を認め、父に謝ってもらいたいんです」

「罪だと? けっ、笑わせるなっ、小娘が」

 真っ赤になった所長は、どかと背もたれに身体を預けると、悔しげに歯を鳴らした。

 それを見た萌ちゃんはマイクに向かい、「はあ」と大袈裟なため息をついた。「では皆さんのなかで、父の命日をご存知の方はいらっしゃいますか?」萌ちゃんが手をあげるよう促してきた。

 思い出せなかった。

「あの日は寒かったですね?」と萌ちゃんが付け加えた。

 そうだ。確か春先だった気がする。通夜の時、肌寒かった覚えがある。あんなにショッキングな出来事だったのに、一周忌を過ぎたあとは気にもかけなくなっていた。そんな薄情な自分に、今さらながら気づいた。

「いないようですね? まあ、仕方のないことです。皆さんにずっと父の事を気にかけていろ、なんてとても言えません。父が亡くなったのは六月二日です。どうか心の片隅にでも、しまっておいてください」

 ぜんぜん違っていた。どうやらカマをかけられたらしい。ひとり苦笑いしながら目を瞑ると、あの情に厚い真崎さんの顔が浮かんできた。

「當間くん、もっと知恵を絞ってみて? 限界なんて日によって変わるもんさ」

 彼の技術に対するその信念は一貫していた。

「當間くん、ここはとにかくやるしかない。失敗したら責任はすべてオレがかぶるさ」

「當間くん、もう少しだ。大丈夫、きっとできるさ。ここまでやってきた君なら」

「當間くん、お疲れさん。終わったら、きんきんに冷えたビールでも呑みにいこう」

 尊敬できる人だった。今でもその声が耳に残っている。温かくて、ほんとうに優しい人。ただ正義感が強過ぎて、組織というものに不器用だっただけだ。

「さっきから聞いてれば、随分と一方的じゃないか。こう言っちゃなんだが、あんたの父親が弱かっただけじゃないのか。簡単に死を選んで。苦しければ、逃げればよかったんだ。仕事をほっぽりだして逃げることだってできたんだ。君や奥さんを残して死を選ぶなんて、絶対にやっちゃいけないことだ」所長が喰ってかかった。

 確かにそうだ。苦しければ逃げればよかったんだ。面子を保つ必要なんてない。学生時代の友人と違い、会社の連中は誰も助けてはくれない。競争なんだから、ここは――。

 しかめ面をしていた萌ちゃんが、ひとつ深呼吸をした。「その通りです。自らの命を絶つなど、絶対にしてはならないことです」

「なら、それを棚にあげてオレたちを一方的に責めるのは、ちとおかしいんじゃないのか?」

「私は皆さんに罪を認めてもらい、二度と同じような過ちを繰り返して欲しくないだけです。聞けば、まだパワハラが横行しているそうじゃないですか」異論は挟ませない、とでもいうような口ぶりだった。

 まさかあいつのことか? 真っ先に徳丸の、あの野暮ったい顔が浮かんできた。

「どうか、父の死を無駄にしないでください。お願いします」萌ちゃんが丁寧に頭をさげた。

「運転手もグルなのか?」所長が話を逸らした。

「ええ、承知の上です。うちの会社の方で、この計画を持ちかけたところ、こころよく引き受けてくれました」

 そういえば、そうだ。今まで気づかないでいた。運転手が仲間でなければ、とっくにどこかのサービスエリアで彼女は引き摺りおろされていたはずだ。

 ということは、まだどっきりなのか? 僕はそうであることを願った。

「犯罪だぞ、これは。ふたりとも分かってやってるのか?」

 その指摘に萌ちゃんが口元を弛ませた。「当然です。ですから、皆さんとともに海へ向かうのです。決してやけになっているわけではありません。これは計画通りです。有難いことに、運転手の方も私と一緒ならと、心中を快く受け入れてくれました」

 心中だと? しかも、それを受け入れた? ということは萌ちゃんの……?

 急に胸苦しくなった。それもそうだ、彼女くらいのレベルなら、まわりの男が放っておくはずがない。

 乗降中に垣間見た運転手の顔を必死に思い浮かべた。のっぺりとした、これといって特徴のない、冴えない男だった。そこに彼女が向かっていく。そしてくちびるを突きだし、目を瞑る。

 そんな……。僕は慌ててそのばかげた妄想を振りはらった。

「もう我慢できんっ」黒木さんが立ちあがり、前に向かっていった。

「とうとう実力行使できましたか。それではこちらも」

 バスが大きく左に振れ、よろけた黒木さんが近くの背もたれをつかんだ。

 路肩を走行しはじめたバスはさらに左へと寄っていった。

「おいっ、何やってるんだ」

 叫び声がそこかしこからあがった。左側の窓いっぱいに白い防音壁が迫ってきた。

 ぶつかるっ。

 どん、と左から強い衝撃があったかと思うと、バスが右へ跳ねた。テーブルの上の酒缶が倒れ、乾き物を載せた紙皿とともにすべり落ちていった。

 パニックになった。

 がががが。再びバスがガードレールに車体を擦らせながら走った。

 悲鳴がいくつも響いた。

 死ぬっ。僕は両手で頭を抱えうずくまった。こんなことで人生が終わるのか――。

「お願いだ、やめてくれ!」

 太い声がしたと同時に、揺れがぴたりとおさまった。

 生きている――。

 恐る恐る顔をあげた。窓ガラスがゆっくりと防音壁から離れていくのが見えた。隣でテーブルの袖をつかんでいた所長が肩で息をしていた。噴きでた汗が安堵のため息とともに、すっと蒸発していった。

「次は本気でいきますからね? 高速の事故じゃ、相当死傷者が出るでしょうね。前の座席に頭を強打する人、吹っ飛ばされて車外に放り出される人、後ろから衝突してきたトラックに押し潰される人。まあ、幾人かは生き残るでしょうが、当然、無傷では済まないでしょう」

「なんだ? これは」黒木さんが天井を指差した。

 テレビ画面に、車内の様子が映し出されていた。手を振ると、画面のなかの僕が手を振り返した。

「皆さんの様子を朝からずっと撮影しています。妙な動きがあったら、ガイド席ですぐに分かりますから、変なことは考えないでくださいね?」

 前方にあるドライブレコーダーらしき黒い機器が丸いレンズを座席のほうへ向けていた。彼女の本気度合いが、張り詰めた空気に乗って伝わってきた。

「私を制止しようとすれば、今のように私の同志である運転手が対応します。それを承知の上で向かってきてくださいね? 私たちが死を覚悟しているということを、くれぐれもお忘れなく」

 いったい、どんなやつなんだ。惚れた女のために、ここまでできるなんて――。僕は運転手の顔をもう一度見てみたいと思ったが、行動に移せるはずもなかった。

「今から一切の会話と席の移動を禁止します。見つけたら、これです」

 そう言って萌ちゃんは、手に持った細長く光るものをひらひらさせた。

「どういう意味だ? まさかそれで刺すとでもいうのか?」

「ええ」萌ちゃんが果物ナイフをちらつかせた。

「けっ、そんなこと、できっこないだろう」黒木さんが鼻で笑った。

「冗談でこんなバスジャックなんてできませんよ。どうせ皆さん、今晩死ぬんです、それが少し早まるだけのことです。黒木さん、やってみます? A級戦犯のあなたを直接、この手で刺し殺せるなんて、私は大歓迎、ウェルカムですよ」萌ちゃんが無気味な笑みを口の端に浮かべた。「さあ、前へ。さあっ」彼女が指を曲げて煽る。

「ちっ、やってられねぇぜ」黒木さんは捨て台詞を吐きながら席に戻ってきた。

「あれぇ、あきらめたんですかぁ?」

 腕を組んだ黒木さんは目を瞑り、さっそく地蔵と化した。やはり口だけだ。宴会席に普段会社で感じるあの冷めた空気が漂った。

「はい、あなたっ。今、動いたぁ」萌ちゃんが前方にいる誰かを指差した。

「え? じゃないです。あなた、はい、立って」

 顎とナイフの先で指図され、三列目にいる美咲がおずおずと立ちあがった。

「後ろ向いて」

 美咲は動かない。

「後ろを向く!」

 びくんと肩を揺らした美咲は、おずおずと後ろを向いた。

 偶然、僕と目が合った。いや、彼女の故意だったのかもしれない。

 僕はとっさに視線を外した。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。すぐさま、まずいと思い、視線を戻したが、彼女はすでに下を向いてしまっていた。

 その横に萌ちゃんが並んだ。「これから彼女を刺します」

 え? と美咲が口を開けた。

 すかさず萌ちゃんがナイフを振りあげた。

「やめてっ」女の金切り声があがった。

 ざくり。

 一瞬だった。刃が背もたれに突き刺さっていた。

「ひゃっ」と美咲が遅れて声をあげた。

 構わず萌ちゃんはナイフを引き寄せていった。ずりずりと音がして、なかのスポンジが内臓のように露になった。彼女はそれを千切り取り、見せしめるように宙に放り投げた。黄色いスポンジが音もなく舞った。萌ちゃんはナイフを抜き取ると、ぐるりと車内を目で牽制した。

「まじかよ……」国枝が声を洩らした。

 萌ちゃんは横向きのガイド席に戻り、そのつり目で僕たちを監視しはじめた。

 うそだろう? 萌ちゃん。


 外と連絡を取ろうにも、手元にスマホがなかった。

 まんまと萌ちゃんの術中にはまっていた。僕たちは押し黙り、異様な緊張感のまま中央高速を下り方面へと進んでいった。

 この場を打開する方法は? ずっと考えていたが、僕がヒーローになる名案はまったく浮かんでこなかった。

 しばらくすると、国枝が植田をつつき、何やら耳打ちしだした。頷いた植田が足下のザックから手帳を取り出した。国枝はそれを奪うと何やら書きはじめ、その破り取った紙をペンといっしょに回してきた。【あの女をおさえてきます。今ならいけそうなんで】走り書きした文字がのたうっていた。

 僕はさりげなく首を伸ばした。ガイド席に座る萌ちゃんは、のんきにも棒状のチョコレート菓子を食べていた。考えごとでもしているのか、宙を見あげたまま、まったくこちらのことなど気にしていない。チャンスといえば、チャンスだ。

 所長へメモを渡すと、同じように前を確認したあと、その紙に何やら書きはじめた。【普通に行ったら、バレるぞ?】

 メモを読んだ国枝が、【はっていけば、なんとかなるかと】とすぐに返してきた。所長が国枝に向かって頷き、ガッツポーズをつくった。勇者を称えるような笑みだった。

 それを見た僕は、「勇者国枝」に嫉妬し、一拍おいてから同じように笑みを送った。

 そっと席を立った国枝は通路に四つん這いになると、ほふく前進で進みはじめた。急に現れた地を這う大男を見て声をあげられないよう、僕たちはあらかじめ両側から前の座席へとメモを回していった。

 もし彼が萌ちゃんを拘束し、彼女を盾に運転手を脅すことができれば、きっとこの異様なイベントは収束するだろう。だがそれでは、国枝がヒーローになってしまう。そんなもの見たくない。そう思った。じゃあ、見つかって刺されるか? 見たくないわけでもなかった。僕は国枝の大きな尻を見守りながら、半分失敗することも期待していた。

 国枝は萌ちゃんにあと二メートルというところまで迫っていった。

 もうちょっとだ。僕の手にも力が入る。

 その時だ。横の座席から通路に、にょきと黒いものが飛び出てきた。かと思うと、それは四つん這いになった国枝の背中にごつんと乗っかった。

「え、何? 何?」驚いて黒い頭をあげたのは、徳丸だった。「どうしたんですか? 国さん。そんな這いつくばっちゃって」

 まわりが静かなせいか、普段より彼の声が通った。

 あちゃあ。せっかくの作戦もこれで水の泡となってしまった。

 血相を変えた萌ちゃんが、すかさず飛び出してきて国枝の前に立ちはだかった。「何をこそこそとっ」顔をあげた国枝に向かい、彼女が容赦なくナイフを振りかざした。

「やめろ!」誰かが飛び出てきて、彼女の前に立ちはだかった。

 時が止まったように思えた。するとすぐに女の金切り声があがった。

「ばじかよ……」

 床でたじろぐ国枝の前に、胸を押さえた徳丸が立っていた。ずれ落ちたメガネの下で口をあけ、そんな、とでも言うような失意を浮かべていた。そのうしろで返り血を浴びた萌ちゃんが呆然と固まっていた。

 ほんとうに刺した。悲鳴がいくつもあがった。

 がたがたと痙攣する徳丸の白いシャツに、真っ赤な血が広がっていくのが遠くからでも見て取れた。

 萌ちゃんは前によろけていく徳丸の肩を無理やり引きよせた。そしてナイフを抜き取ると、その身体を元いた座席へと乱暴に払いのけた。

「とんだ邪魔が入ってしまいましたね。さあ次は、あなた」

 彼女は赤くなった刃先を向け、国枝に迫っていった。本気だ。

「ひぇ、ひぇっ」床に尻を擦りながら、大きな背中が必死にあとずさりしていく。

「ふっ、意気地なし。さっきの彼のほうが、よっぽど勇気がある」萌ちゃんは踵を返し、戻ってマイクを取った。「静かにっ。どなたか、犠牲になった勇気ある彼の手当てをしてくれませんか? このままでは彼が死んでしまいます」

 誰も動かなかった。

「冷たい。ほんと、この会社の人たちって冷たいですね? 人が死にそうって時に誰も助けようともしない。父が失望したのもよく分かります」

「早く救急車を呼べ、救急車を。ほんとに死ぬぞ」黒木さんが指を差しながら叫んだ。

「黒木さん、この期に及んでまだ人に指図するんですか。自分で呼べばいいじゃないですか。さすが丸投げで有名な課長さんですね。人の命まで人に丸投げして名声を得ようとするとは」

「なっ」そう言ったきり、黒木さんは黙ってしまった。

「私がやるよ」手をあげた女性がひとり、立ちあがった。

 純子さんだった。彼女はずかずかと前に進んでいった。そして席に横たわる徳丸をじっと見つめると、萌ちゃんに顔を向けた。あんたすごいことしでかしちゃったね、とでも言いたげな批難めいた目つきだった。

 そんなことなど気にも留めず、血しぶきをつけた顔の萌ちゃんは救急箱を突きつけると、お願いしますと頭をさげた。純子さんは若干戸惑うような素振りを見せたが、すぐに補助席を広げ、手当てをはじめた。

「ありがとうございます。優しい方もいたんですね、この会社にも」

「早く病院につれていかないと、ほんとうに死ぬぞっ」

「それならそれで結構。早かれ遅かれ、全員今日死ぬんです。勘違いしないでくださいよ?」そう言った萌ちゃんはタオルを取り、顔についた血を拭いはじめた。

 ほんのりとだが、工場にいるような鉄臭さが漂ってきた。おそらく血の臭いだ。

 人が刺された――。取り返しのつかないことをしてくれた。夢か現実か。葛藤して頭がぐらぐらする。もう終わりだ。華やいでいた僕の未来がいっきに幕をおろしていくようだった。


 ひっそりとした車内に、スポーツカーの排気音がけたたましく響いた。このバスが乗っ取られていることなど知らず、次々と車が僕たちを追い越していく。

 死ぬなよ、徳丸――。僕ははじめて彼のことを心配していた。

 今日の昼ごはん、蕎麦食べ放題の会場で僕は彼とテーブルをともにしていた。もちろん退職前の最後の記念に、というわけではない。最後の嫌がらせを、というのなら合致している。

 後輩ら数人と結託し、徳丸の器に蕎麦の御代わりを次々と盛っていった。「無理です、無理です」と苦笑いする彼に、僕たちは容赦なかった。そして二十センチ程の高さまで盛ったところで、「よそった分は残すなよ」と告げて去っていった。

 ひとり残された彼は、仕方なくその山盛りの蕎麦を啜っていた。僕たちは窓の外からそれを見て笑っていた。気づいた徳丸が眉を寄せ、「勘弁してください」と涙目のサインを送ってきたので、僕は、「食べろ」と顎をしゃくった。徳丸が、「えー」とその仕打ちを半分おいしいとでもいうような虐められっ子特有の困惑顔を返してきたので、僕たちはそれに満足し、「じゃあな」と手を振ってその場をあとにした。

 日向で缶コーヒーを飲みながら皆とのたわいもない会話を楽しんだあと、出発時刻が近づき、急いで用を足し、バスに向かった。

 まさかもういないだろう。通りかかった昼食会場の窓を何気なく覗いた。その目に、動くものが映り、驚いて足が止まった。

 先ほどと同じ席に同じメガネの男が座っていた。うなだれながらも箸をあげ、蕎麦を食べていた。他に客はひとりもいない。まわりでは迷惑そうな顔をした店員が、彼のことをちらちら見ながら箸や調味料を片づけていた。そんななか、男はひとりで蕎麦を啜っていた。

 とても見ていられず、歩きだした。急いだところでどうしようもないのに、歩道の乾いたタイルの上で、僕の靴がどんどん速くなっていった。

 そのあとどうなったのかは分からない。出発時刻に十分ほど遅れてきた徳丸は、皆に平謝りしていた。

「最後の最後まで、どうしようもねえなぁ」そう吐き捨てた黒木さんの横で、所長はふんとあきれたように鼻を鳴らしただけだった。

 僕はというと、彼がただ余計なことを口走らないよう、睨みを利かせることだけにやっきになっていた。弾む動悸が尋常じゃないほど胸を揺らしていた。それを誰かに聞かれはしないかと怖いくらいだった。

 すまない、徳丸――。彼がここで死んでしまったら、胸のあたりに漂うこのモヤモヤが、消えないで一生ここに残り続けるように思えてならなかった。


「ああ、言い忘れてました」

 突然、萌ちゃんがマイクを持って立ちあがった。「本日、缶のお酒かジュースを飲まれた方、手をあげてみてください」と言って手をあげた。それも今まで何のいざこざもなかったかのように、親しげに。

「誰もいないんですかぁ?」小馬鹿にしたような鼻にかかった声。「よかったぁ、飲んでなくって。実はすべての缶の飲み口にこっそり、HIV入りの血液を塗り込んでましたんで」

 ぷっ。植田が飲んでいたお茶を思いきり噴きだした。飛び散ったしぶきを浴びた宴会席の数人が、「おいっ」と言って立ちあがった。

「ほんとうは私も、どこかの聖職者みたいにパック牛乳にHIVを注入して、皆さんにお配りしたかったんですけど、社員旅行に牛乳ではねぇ。そんなものもらっても、皆さん困っちゃいますよね? 先ほど、え? って顔されたそこの女性の方、ほんとうに大丈夫ですか? 隠してませんよね? ほんとは飲んだって方、いらっしゃいましたら、ちゃんと手をあげてくださいね。すぐに感染を防ぐお薬を出しますから。諸事情で三つしかありませんので、お早めに」

「はいっ」と声が聞こえたと思ったら、前の席から細い腕があがっていた。

 美咲だった。それにつられるように、はいはいと連続して手があがっていった。

 気軽にHIVを治せる飲み薬があるという現実を今まで知らなかった僕は、先を越されたとばかりに湧き起こってきた焦りと葛藤しはじめた。

「ばかやろうっ。そんなもの、あるわけねえだろうっ」

 所長の怒号に、伸びていた腕がびっくりした貝のように、さささと座席に引っ込んでいった。

「さすがは所長、一瞬にして場を鎮められましたね。父を死に追いやったと批難されながらも尚そうやって大声をあげていられる。なかなかできるもんじゃありませんよ。戦国時代、声の通る人は重宝されたと聞きます。広い戦場で大軍の指揮を執るのに指示が聞こえないんじゃお話にならないですからね? 権藤さん、どうやら生まれてくる時代をお間違えになられたようで」萌ちゃんが慇懃に微笑んだ。怒らせんとばかりに挑発してくる。

「なんだとっ」所長が立ちあがった。

 踊らされている――。そう思って見あげると、額には、まんまと青筋がたっていた。

 とんっ。座席の背にナイフを突き立て、萌ちゃんは無気味な笑みを浮かべた。刃にはまだ黒ずんだ血がついている。

 それを見た所長はしばらく彼女を睨みつけたあと、何も言わずに腰をおろした。

 行かないのか? とまわりが覗い見た。尻込みした男の顔を見てしまった。

 怒りが治まらない所長は、がちがちと音をたてて歯噛みしはじめた。そして皆の視線に応えるかのように、「いちいち相手にしてられるかっ」と捨て台詞を吐いた。

「あー驚いた。倍返しだ! なんて言われるのかと思っちゃいました。まあ、どうせ皆さん一緒に死ぬんですから、それまでは仲よくやりましょうよ。それともこの面子でバトルロワイヤルでもします? そのほうが楽しそう。でもそうなったら、きっと権藤さん、権力のなくなったお年寄りのあなたは真っ先に刈られるでしょうねぇ」

 その荒い息遣いから苛立っていることは明確だったが、所長は何も言わなかった。代わりに死んだザリガニのような口臭が漂ってきた。

 再び、しんとなった。バスは僕たちを乗せ、中央高速を北へと進んでいった。


 どのくらい時間が経ったのだろう。

 眩しいくらいだった陽の光がいつのまにか弱まっていた。前方のデジタル時計が16時20分を指していた。山の稜線に夕陽が見え隠れする。ピンク色に照らされた空とは対照的に蔭をつくった山が黒く色を変えている。その黒が徐々に迫ってくる。車内は不穏な空気とともに闇へと包まれていった。

 萌ちゃんは照明をつけるつもりなどないらしく、じっとガイド席に座り、時折、僕たちの様子を覗っていた。こちらが変な考えを起こさなければ、何も危害を加えてくることはなさそうだ。

 徳丸はどうなったのだろうか。ふと心配になった。まさか死んではいないだろう。純子さんが看てくれている。何かあったら、騒ぎだしているはずだ。

 ビール缶やつまみの散乱した宴会席が、祭りのあとのような哀愁を醸し出していた。

 闇と静けさ。それらを伴い、バスは行く末の見えぬまま走り続けている。だんだんと寒気が増してきた。

 次は僕たちの番だ。


「残念ながら、この旅も、おしまいのようです」

 突如マイクから萌ちゃんの声がした。

 どういうこと? 車内がざわついた。続けて、ぱっと照明がともされ、その突然の眩しさに皆が上に手をかざした。

「あれ? パトカーが横に並んでる」植田が窓の外を指差した。

 と同時に天井が赤く光ったかと思うと、ぐるぐると回転しはじめた。次いで横からサイレンがけたたましく鳴り響いた。皆立ちあがり、右の窓際に群がっていった。

 赤色灯を光らせたパトカーが追越車線を並走していた。

 その現実に僕は声を失った。

《ナンバー***、横の観光バス、次のサービスエリアへ入ってください》

「なんで分かったんだ? バスジャックされてるって」

「通報されたんだ、きっと。さっき危ない運転してたから」

 パトカーは減速し、僕たちの後ろにまわった。

「ほらみろ、バスジャックなんて成功するはずないんだ。あんたらももう終わりだ」黒木さんが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 萌ちゃんがゆっくりと顔をあげ、深々とため息をついた。吐いた息がマイクを通して聞こえてきた。「仕方ありません。次のサービスエリアで皆さんを解放します」悔しさが滲み出ていた。彼女は下くちびるを噛むと、途方に暮れたように虚空を見あげた。

 泣いてるのか。傷ついた表情をもう隠そうとはしていなかった。

 僕は思わず立ちあがっていた。彼女を、父親の真崎さんを守れなかった罪悪感で胸がいっぱいになっていた。驚いて口を開けた萌ちゃんと目が合った。まわりから強い視線を感じたが、どうでもよかった。彼女が僕の言葉を待っている。

 だが喉元まできていた彼女の名を、どうしても口にすることができなかった。くちびるを噛んで、なんとか彼女を励ますことのできるような都合のよい言葉を探したが、まったく思いつかなかった。何を言っても薄っぺらいものになってしまうような気がした。恰好悪いことに、処理不能に陥っていた。

 すると彼女のほうが僕の心を察してくれたのか、ゆっくりと肯いてくれた。ありがとう、もういいですから。そう言ってくれているような気がした。

 ごめん――。そんな卑怯な言葉しか浮かんでこなかった。

「あれぇ? どうしたんだ、オレ。なんで立ってんだ?」席に座った僕は、まわりからの視線に耐えるため、「おかしいなぁ」と何度も首を傾げてみせた。心にぽとりと落ちてできた染みが、じわじわと広がっていくようだった。僕はそれを洗い流すため、手前にあった気のぬけたビールを口のなかへいっきに注ぎ込んだ。

「あれ、テレビ局じゃね? あ、こっち見てる。えっ? 上にヘリコプターが……」

 植田の言葉に、皆が窓の外を向いた。

 いつのまにかキャンピングカーほどの大きなバンが僕たちの横を走っていた。車体の後方に【長野放送】とロゴが入っている。後ろの窓には大きな機材を担いだ男がこちらを向いて座っていた。

 なんだ? 目を凝らすと、男の構えるレンズがしかと僕を捉えているのに気づいた。

 まずいっ。慌ててカーテンをしめた。「閉めろっ、撮られてるぞ」

 僕の呼びかけに皆がカーテンを引いた。

「なんか大ごとになってない? もしかしてニュースになってる?」

「えー、わたし映りたくないわぁ。化粧もちゃんとしてないし、絶対にヤダぁ」

 女性陣から半分うれしさの混じったような嘆き声が聞こえてきた。

 がばんっ。横から大きな音がして、車内が一瞬にして静まり返った。

 空缶をテーブルにたたきつけた所長の腕がぶるぶると震えていた。「落ち着け。落ち着くんだ。オレたちは何も悪いことなんかしてないじゃないか。してないんだ。だから堂々としていればいいんだ、堂々と。真崎が死んだのはうちの会社のせいじゃない。いいか、みんな、あの娘の逆恨みを真に受けるなよ。勘違いするな、オレたちは被害者なんだぞ、被害者。だから堂々としていろ、いいなっ」

 すぐに萌ちゃんを確認した。案の定、何か言いたげに所長のことを見つめていた。

「そうだぞ、みんな。所長のいう通りだ。外に出ても堂々としていろ、いいな」

 そう言った黒木さんを見て、キツネみたいだなと思った。自分の意思ではなく、ただ追随しているだけのように見えた。絵本に出てくる、虎の威を借るずる賢いキツネ。

 ウインカーがカチカチと音をたて、バスが左へと寄っていった。窓の外にサービスエリアの案内板が見えた。

 萌ちゃんが中央に出てきて、かしこまった様子で姿勢を正した。「この度は大変ご迷惑をおかけしまして、ほんとうに申し訳ございませんでした。皆さんが楽しみにしていたせっかくのご旅行を台なしにしてしまいました。心からお詫び申しあげます」

「今さら何を言ってるんだ。ちゃんと、弁償しろよな」黒木さんが言った。

「それについては残念ながら保証しかねます。私には皆さん全員の旅費を賠償するほどの経済力はありません。父の労災もおりず、母子家庭で日々の生活もぎりぎりだったのですから。是非とも、そちらに残っているはずの父の労災金で補填してくださいませ」

「ちっ、小娘がっ」所長が吐き捨てた。

 パトカーに促され、バスは休憩施設から離れた大型車両用エリアに停車した。

「これからちゃんと裁きを受け、罪を償ってくるつもりです。でも私に悔いはありません。こうして父の無念を、やっと晴らすことができたのですから」彼女はツアー最終日の挨拶でもし終えたかのように晴れ晴れとした表情を見せると、深々と頭をさげた。

 これでよかったのか? 萌ちゃん――。彼女のことが、なんだか不憫に思えてきた。

 プシュー。空気の抜ける音がして前方のドアが開くと、萌ちゃんが出ていき、続いて運転席の男が立ちあがった。背が高くてひょろ長くて、人というよりも萌ちゃんの影法師のように見えた。

 男はふっと僕たちを横目で見ると、何やら歌いながら中央に出てきた。「ウィー、アー、ザ、チャンピオン。ウィー、アー、ザ、チャンピオンっ」男が僕たちに向かい、拳を振りあげてきた。小さな目が異様に見開いていた。

「ノー、タイム、フォー、ルーザスっ」その曲がクイーンのものだと分かった時には、彼は熱唱し、フレディ・マーキュリーばりに拳を振っていた。

「コーズ。ウィー、アー、ザ、チャンピオン……」僕たちを目で一周した。

「オブ、ザ、ワールド」

 歌い終えた男はにやりと歯を見せ、何事もなかったかのように、するするとバスを降りていった。

 何だったんだ? いったい――。その滑稽さに呆気に取られた僕たちは、車内にぽつんと取り残されていた。

 すると先頭で誰かが立ちあがった。

「徳丸?」

 国枝がすかさず立ちあがった。その視線の先に刺されたはずの徳丸が、それも平然とした顔で立っていた。なぜかしら、血色がいい。

「大丈夫なのか」嬉々に満ちた声があがり、晴れやかな空気が車内を包み込んだ。

 補助席に座る純子さんが振り返った。「こいつ、実は刺されてなかったのよ。あのガイドに協力させられてたみたい。こんな血糊まで渡されちゃってさ」と、たくさんの血のついた黄色いビニール袋を見せびらかした。

「だまして、すみません」徳丸が真っ赤な胸をさすりながらぺこりと頭をさげた。

 よりによって、なんで徳丸なんだ? と嫉妬にも似た感情が湧き出てきた。

「な、なんなんだお前は。こんなことして、ただで済むと思ってんのかっ」黒木さんが唾を飛ばした。

 それを聞いた徳丸の顔から一瞬にして笑みが消えた。そしてメガネの奥から今まで見せたこともない険ある眼光を向けてきた。「ただで済まなくても結構です。どうせ今月で会社を辞める身です。でも最後の給料を振り込まない、なんて嫌がらせはやめてくださいね。それは労働者に対する犯罪になりますから」

「何をっ」

 腰をあげた黒木さんを、冷めた目で見ながら徳丸が続ける。「ついでに黒木課長、なぜ私がこの会社を辞めるのか、ほんとうのところはご存知ですか?」

「お、おう、それは、やりたいことがあるって……。ああ確か、IT関連の仕事をしたいって言ってたじゃないか」

「ほんとうにそう思ってるんですか?」

 ぎこちなく頷いた黒木さんを見て、徳丸がぷっと吹きだした。「そうなんだ黒木さん。それはあなた、上司として管理能力が足りな過ぎです。私はこの会社に、この職場に、これ以上いるのが苦しくて辞めるんです。あなたを筆頭に、この職場の方たちの差別にもう耐えられないんです。自信をなくし、死ぬことまで考えていた私に、ガイドの田中萌さんが教えてくれました。昔、この会社で同じように悩み、実際に死んでいった人がいると。その人物は自分の父親であると――」

 自分たちの心当たりをひた隠しするように、皆、押し黙っていた。

「彼女は言いました。死んだら悔しいじゃない。その覚悟があるんなら、なんだってできる。だからプライドを捨てて辞表を出してみろ。きっと、あなたを待っている世界があると――」

 その言葉が胸に突き刺さり、背中を抜けていった。

「彼女に勇気をもらったお蔭で私はこうして今、生きています」徳丸は穏やかにそう言って締めくくった。

 言われた黒木さんが気まずそうに口の端を歪めていた。

 徳丸の後ろで純子さんがそのやりとりを見ている。

 そういえば、彼女もうちの会社ではある意味、徳丸に近い存在だ。新人が入社一番の呑み会で知らされる彼女についての噂や、日常の所長からのセクハラまがいの言葉も意に介さず、一匹狼を貫いているが、ほんとうのところはどう思っているか定かでない。そう考えると、あのふたりが萌ちゃんに協力したのも理解できなくもなかった。

 華麗なる復讐――。そんなばっちりなタイトルが、頭に浮かんできた。

 ひょっとしたら、萌ちゃんの作戦は成功したのかもしれない。出ていったふたりの満足げな顔を思い出し、そう思った。

 突然、先頭に黒い影が飛び込んできた。真っ黒な人間が透明なプラスチック板をこちらに向けて構えた。

 機動隊――? そう思った時には、すでに後ろに同じ恰好をした隊員がふたり、警棒を持って連なっていた。

 先頭の男が盾を通して車内を見渡したあと、「大丈夫ですか? 犯人はもういませんね?」と強い口調で確認してきたので、皆で肯くと、彼はヘルメットのバイザーをあげ、「異常なしっ」と叫んだ。

 そのひと言で、このバラエティー番組のような「なんちゃってバスジャック事件」はあっけなく終了してしまった。これでは、「巻き込まれて大変だったねぇ」と哀れんでくる母親に、いつものように、「別にぃ」と素っ気なく応えてしまいそうだ。

 警察の誘導のもと、前の人から順にバスを降りていった。緊張が解けたせいか、聞こえてくる会話に笑い声が混じっている。前から冷たい空気が入ってきて、ひんやりしたが、新鮮で気持ちよかった。ダウンコートを手に取り、腕を通した。

「當間さん、いいですよ。先に降りてください。僕があと、確認しときますから」

 律儀に進言してきた植田を見て、言われなくても降りるし、と腰をあげかけたが、すぐさま自分の立場を思い出し、こういうところで手を抜いちゃいけないと、「いいよ、幹事なんだからオレがやるよ」と爽やかに手で制し、その好意を断った。早くトイレに行きたかったが、まわりの目もあるのでここは仕方がなかった。案の定、植田が、「さすがですね、當間さん」というような敬服顔をして去っていった。いいやつだ。今度また奢ってやるからな、とその背中に無言の声をかけた。

「當間、ごくろうさんな。こんなことになったが気にするな。お前のせいじゃない」所長が僕の肩をぽんとたたき、お先に、と手をあげて出ていった。続いた黒木さんたちも僕に慰労の言葉をかけていった。

「ありがとうございます」頭をさげた僕は、面倒くさいなと思いつつも、忘れ物がないか確認していった。飲みかけのペットボトルがいくつも残っていたが、そんなものは無視していった。座席裏の網のなかにあるポケットティッシュや封の切られた飴玉袋ももちろん無視していくと、イヤホンコードに巻かれた青いウォークマンにぶち当たった。

 見覚えがあった。位置的にも美咲のものだった。

 ったく。伸ばしかけたところで、ふと手が止まった。

 あの時、美咲が刺されそうになったあの時、僕は彼女を守ろうとしなかった。ただ、じっと成り行きを見ていただけだった。もちろんそのあと、彼女が刺されないでほっとはしたが、ほんとうに刺されていたら、どう感じていたかどうか分からない。あの時、彼女は僕に助けを求めてきた。助けて、とすがるような目で訴えてきていた。けれど僕はそこから逃げ、目を逸らしてしまった。

 なぜ助けにいかなかったのか? 萌ちゃんが怖かったからか? いや、ちがう。どうなるか見てみたかったのだ。彼女がどうなるのかを……。僕のことが大好きな彼女がどうなっていくのかを。彼女の流す血を求めている自分が、僅かながらもいたように思えた。

 自分のなかに隠し持っている残忍さが恐ろしくなった。涙目になった彼女を見て、ダサいなぁ、とさえ思っていたくらいだ。助けよう、だなんて、微塵も思わなかったのだ。

 すまない、美咲――。萌ちゃんがいなくなった今、僕にはこの美咲しか残っていないのだ。僕は大きく息を吐いた。

 もっと優しくしてやろう。そう誓い、ウォークマンをコートのポケットに入れた。


 ステップをくだりはじめたところで、外の騒々しさに足が止まった。

 ちょうど運転手の影法師が高い背をかがめ、パトカーに乗せれられているところだった。その後ろには、男たちに背後を固められた萌ちゃんの姿があった。絶え間なく焚かれるフラッシュが彼女を包み、隠れることを許さない。

 こんな大勢の人間に注目を浴びているというのに、彼女は動揺することなく凜と前を見据えていた。事を終えた開放感からなのか。その表情はすがすがしいほど晴れやかだった。堂々とし過ぎていて、なんだかスクリーンのなかにいる女優みたいに見えた。

 彼女は僕に気づくと、にこりと歯を見せた。それは僕の知っているなかの最高の笑みだった。

 萌ちゃん――。逡巡する僕の心が自然と手を伸ばしていった。彼女がパトカーへと押し込まれていく。何もできない自分。彼女が僕のもとから去っていく。もう二度と会えないのだろうか。いや、きっと会える。……どこで? 怖気づくと同時に胸が苦しくなった。ようやく出会えた運命の人。そう信じていたのに――。

 寂寥感に包まれながら、離れていく赤いテールランプをずっと見つめていた。彼女が僕の知らないところへと運ばれていく。彼女の最後の顔が目に焼きついていた。僕を見て笑ってくれていた。その笑顔に寂しさを見たと思うのは、深読みしすぎだろうか。

 さよなら、萌ちゃん――。そう思いつつも、いつのまにか心は安堵しはじめていた。仕方ない。出木杉くんはいつも損な役回りなのだから。

 どうしようもないことだって世の中にはある。世界は理不尽であふれている。


「おおっ、あったあった。よかったぁ」

 トランクルームから皆の荷物を取り出していた国枝が、大きな発砲スチロールの箱を覗き興奮していた。禁欲から解放されんとばかりに、皆が歓声をあげ群がっていった。インターネットってすごいな、って思う。

「えっ、やだっ、私たちのことがニュースになってる」

 美咲のまわりを女たちが取り囲んだ。それを聞いた僕も急いでスマホを受け取り、画面をタップした。僕たちのことが事件というかたちになって、ヤフーニュースのトップ見出しに踊っていた。

【速報―乗客無事解放、中央高速バスジャック】

「皆さん、もう少しの辛抱です。点呼しますので、そちらへ移動願います」警察の誘導で僕たちは、使い道のなくなった旅行バッグを抱え、歩道脇の一角へとつれていかれた。

 それにしてもすごい報道陣の数だ。警戒線の向こうに、分厚いダウンコートを着た連中が横一線に並び、巨大なレンズを僕たちに向けている。テレビカメラの前で中継をしているリポーターが、煌煌と焚かれた照明の下でせわしなく口を動かしている。気づいた大勢の一般客が足を止め、まるで見せ物小屋の奇人でも見るかのように、僕たちのことを同情混じりに見つめている。あっちの世界が恐ろしいほど平和そうに見える。

 集団の奥に所長と黒木さんが並んでいるのが目に入った。僕は所長の横に小さな空間を見つけ、急いでその場所を確保しにいった。「お疲れ様で〜す。早くトイレ行きたいっすね。ほんと、洩れそうっすよ」

 スマホをさわっていた所長が、「悪いな。オレたちはこっそりそこで済ませたぞ」と笑い返してきたことで、僕はそこに仲間入りすることができた。

「ずるいなぁ、もう」と下半身をくねらせ、可愛らしく振舞う僕に、「オレが秘孔を突いてやる」と指を立てた黒木さんが膀胱を突いてきた。「ひでぶぅ」僕たちの悪ふざけを横目に、所長も、くくくと笑いながらスマホを眺めていた。

「ほんと、早くしろよな。こんなとこでいなくなるやつなんて、いねえんだからよ」そうぼやく黒木さんに、「そうっすよねぇ」と身体をもじもじさせながら相槌をうった。

 ようやく警察の確認が終わり、彼らの手配した迎えのバスが来るまで自由時間となった。体調不良を訴える数名の処置が必要とのことで、ひとまず全員で病院へ行くらしい。そのなかに美咲が含まれていることを知り、僕はその軟弱さに無性に腹立たしさを覚えた。先ほど誓った思いやる気持ちなど、とうに消え去っていた。

「マスコミに注意してください」

 警官の言葉に警戒線のほうを向いた。すでにテープは解かれ、先ほどまで横に並んでいた記者たちが歩道に群がっていた。

 萌ちゃんたち加害者がいなくなった今、次の標的は僕たち被害者なのかもしれない。面倒なことになった。そう思いつつも、取材を受けるならトイレで用を足して鏡を見てからだと、お偉いさんふたりに、「いきましょう?」と誘いをかけた。

 歩き出したところで、動かない所長に気づいた。「所長、どうしたんすか?」

 スマホの青白い光に浮かんだ所長の表情は、なぜかしら曇っていた。「まずいな、社長からメールが入ってた。すぐに連絡よこせだとよ」所長は眉間に皺を寄せた。

「何がまずいんですか?」

 訊ねた黒木さんの横で、僕は月一回は営業所にやってくる社長の丸顔を思い浮かべていた。うちの社長は来るたびに、アルバイトを含めた所内全員に声をかけるような人で、すれ違うと必ず、「お疲れさん」と頭をさげてくる。好き嫌いの激しい横にいるこのふたりとは違い、謙虚で物ごとを客観的に見ることのできる人だ。

「何件も入ってるんだ……」所長がため息交じりの声を洩らした。

「全員無事か確認しようとしてるんじゃないですか? 心配してるんですよ、社長も」

「見てみろ」黒木さんの言葉を遮り、所長が画面を向けた。

 そこには、【早く連絡ください】の吹きだしが何件も縦に連なり、最後のほうには【!】の感嘆符つきばかりになっていた。確かに所長の言う通り、この催促の多さからして、あの穏やかな社長らしくない苛立ちのようなものが感じ取れる。

「だ、大丈夫ですよ、所長。私たちは被害者なんですから」

 苦笑いする黒木さんをよそに、所長は画面をタップすると、背筋を伸ばし、緊張した面持ちでスマホを耳に当てた。すぐさま社長が出たらしく、「権藤です。このたびはお騒がせして申し訳ございません」と頭をさげた。「ほんと、大変でした。今回は謂れのない理由でとんだ被害を被りまして、私は社員を守るため、必死になっ……」そう言ったところで、動きがぴたりと止った。スマホを耳に当てたまま、まったく動かない。その顔がみるみると青ざめていく。

 ただ事ではないその様子に、黒木さんが横でやきもきしはじめた。所長は、はいはいと何度も頭をさげるばかりでそれ以上、意見することはなかった。

 まずい。まずいぞ、これは――。危険を察知した脳が処世術という料率表をもとに、実行すべき最善の未来を弾きはじめた。

「は、はい。明日、はい、伺います。それでは失礼します」深く頭をさげて電話を切った所長は、ふう、とまわりに聞こえるくらいの息を吐いたあと、「くそぅ」と吐き捨て、歯を鳴らした。その歯が、やけに黄ばんで見えた。

「な、何かあったんです?」

「っ、あの小娘にやられた。あの女、このバスジャックのことを事前にネットで予告してたらしい」

「なんですって? でも、我々は被害者で、何も悪いことなんか」

「そこに父親の亡くなった経緯や、その後のうちの対応なんかが全部載ってるらしい。今回の事件でそれが話題になって、うちが労災補償を一切しなかったことに世間の批難が集まってるそうだ。しかしそれ以上になぁ……まずいんだ」

「まずい?」僕たちは同時に首を傾げた。

「バスのなかがずっと撮影されてたじゃないか。それが動画としてネットに流れてるそうなんだ。それも音声つきでな」

 慌ててバスのほうを振り返った。車体の最後尾に、観光バスにそぐわない極度に太い無機質なアンテナが、まっすぐ天に向かって伸びていた。

 同時に見た黒木さんの顔が青ざめていた。

 僕はすかさず、ビデオテープを巻き戻すように、今日一日の車内での自分の行動を振り返ってみた。男性社員のほとんどは皆、朝から呑んだくれ、社長を含めた旅行に来ていない社員たちの悪口を言っては爆笑していた。でも、その悪口に嫌気が差していた僕は一切肯定などせず、苦笑いでその場をしのいでいた。……はずだ。だから映像には、僕の愛想笑いが映っているだけで、悪口を言っている姿など映ってはいない。最悪なのは、やりたい放題をしていたこの人たちだ。

「明日、本社へ来いとさ。今日、社長自ら中山事業所に出向いて、休日出勤してた連中に色々と話を聞いたんだと。パワハラが常態化してるみたいだな? これじゃ犯罪だぞ? って言われたよ。それに、私はどうも社内行事が苦手らしいですね? とも……。終わった……。もうオレのサラリーマン人生は、おしまいだ」

 気まずい空気にいたたまれれなくなった僕は、こっそりとその場を離れていった。これ以上留まれば、そこにあるねっとりとした空気に取り込まれてしまいそうだった。

 あのふたりは終わりだ。見限ったほうがいい。気づくのが遅かったくらいだ。まどろっこしいのは、もう終わりにしよう。僕にはまだ未来があるんだ。同類にされ、人生を棒に振るなんて真っ平だ。

 外灯の下を抜けるたび、足もとに自分の影ができた。ひどい徒労感に襲われていた。はじめは濃かった影が休憩施設に向かうごとに薄まっていく。見えているものにどこか現実味がない。

 途中で足が止まった。前方にいくつもの人だかりができていた。カメラを構えた報道陣がストロボを何度も炊いている。手前で取材を受けている植田が取り巻く記者たちに対し、何度も頭を上下させている。その横の集団には国枝が、またその奥には……。

 うちの社員が何人もつかまっていた。そこに笑顔はなく、困惑している様子が離れた場所からでも見て取れた。僕は尻込みしつつも、今にも破裂しそうな膀胱のせいで前に進むしかなかった。仕方ない。片手で顔を覆いながら、隠れるように進んでいった。

 萌ちゃんの計画は見事に成功していた。父親の勤めていた会社の実態を世間にさらし、社会的制裁を加える。それこそが真の目的だったのだ。

 一方的じゃないか。萌ちゃんに言ってやりたい文句が次々と湧きでてきたが、真崎さんのことを想うと、やはり比べものにならない、とすぐに弾けていった。

「あの、ちょっといいですか? 和栄テクノの方ですよね? 今回の件でお話を」

 下を向いたまま、「すみません、トイレに行きたいもので」と小走りでそれを振り切ろうとした。

 そんな僕の後ろを記者の批難めいた声が執拗に追いかけてきた。「真崎さんが亡くなったあとも、パワハラは続いてたんですか? あなたも何かきついこと言われたことあります? それとも言ったりとか」

 試しているのか? したくもない大のほうへ入り、急いで鍵をかけた。

「なんで今回犯人の女のバス会社にしたんです? いつもと違う会社だったんですよね? 彼女、可愛いですもんね。もしかして、お偉いさんが枕営業を受けたとか?」

 無視し続けた。

 しばらくすると軽い舌打ちが聞こえ、「和栄テクノさん、トイレは公共の場所だよ? ダメだよ? 長居してちゃあ」と嫌味のようなものを言われた。

 あの小娘にやられた――。所長の悔しげな顔が甦ってくる。

 用を足した僕は便座に座り直し、スマホを開いた。【バスジャック】で検索して、萌ちゃんのサイトを見つけるまでに、たいして時間はかからなかったが、かなりアクセスが集中しているのか、いっこうに画面は開いてくれなかった。あきらめて他のサイトを見て回ることにした。案の定、5ちゃんねるなどの掲示板には、今回の事件に対する書き込みが相当数あがっていた。

【うちの会社も似たようなもん。すぐにキレるやつばかり。どこの会社もおんなじ】

【あれがほんとなら、訴えればよかったのに。裁判したら絶対に勝てたと思うけど】

【抵抗もせず、すぐに捕まっちゃって、こいつら、結局何がしたかったわけ?】

 萌ちゃんたちを批難する声もあったが、ほとんどがうちの会社を批難するコメントばかりだった。

 不都合な方向へ向かっている――。いや、僕には関係ないことだ。今まで卒なくやってきたのだ。感情的になって大声をあげたり、人を批判したことなんて一度もない。そんなことしたら必ず敵をつくってしまい、いずれは手痛いしっぺ返しを喰らう。どんな些細なことでも、人の心に一度貼りついてしまった負の印象は、なかなか打ち消すことはできない。潜在意識という心の辞書のなかに組み込まれたそれは、僕という人間を評価するたびに、「そういえば、そんなことあったね」と簡単に引き出され、「そういえば、あの人そういうところあるよね?」と勝手に悪いほうへと変換されてしまう。

 だから細心の注意を払い、ここまでやってきたのだ。だから何もない。不徳なんて僕には、なんにもないのだ――。事態を客観視しようとしながらも、切れっ端の鋭い言葉の数々に僕の指は震えていた。

【幹事のやつ、上司にゴマすってばかり】【ああいう裏表あるやつ、いるよね?】

 勝手なことばかり言いやがって――。腹が立った僕は、怒りをぶつけるように扉を開けた。先ほど追いかけてきた記者が誰かを取材しているところで、こちらに背中を向けていた。危ない、危ない。忍び足でその場からそっと離れていった。

 途中、暗い駐車場のほうへ走る人がいた。危ないなぁ、と思いながらよく見ると、それは黒木さんだった。その後ろをふたりの記者が追いかけていた。走ってきた車に轢かれそうになった黒木さんはつまづいて転んでしまい、あっけなく記者たちに捕まってしまった。恰好悪かった。

 建物の窪んだ一画で純子さんが煙を宙に吐いていた。目の合った彼女は、なあに坊や? とでも言うような目で刻まれたほうれい線をあげた。ぬり直した紅が真っ赤だった。

「大変なことになってますね。純子さんは大丈夫でした?」

「ふっ、あんなやつら、相手にしなきゃいいのよ。相手にするから面倒なのよ」彼女はそう切り捨てた。

「さっき所長が電話したら、社長がすんごい怒ってたみたい。所長、もう青くなっちゃってさぁ。オレのサラリーマン人生が終った、なんて嘆いてた」

 それを聞いた純子さんは、ぷっと吹きだし、相当うけたのか咳き込みながら笑った。「そ、そうなの? それ、見たかったぁ。うん、ほんと見たかった」

「ええ、ほんと。あんな弱気な所長、はじめて見ましたよ」

 すると彼女はすっと笑みを消した。「社長の息子さぁ、昔、学校で虐めにあってたらしいのよ。自殺未遂までしたんだって。今は立派な社会人らしいけど。だからじゃない? だから許せなかったんじゃない?」少しばかり熱気を帯びた純子さんは、そこまでとばかりにいったん口をつぐみ、煙草をくわえ直すと、強く息を吐いた。真っ白な煙が舞いあがり、低い夜空に薄まっていった。

「純子さんはなんで黙ってたんですか? 徳丸が刺されてないって分かったのに。もしかして、今回の萌ちゃんの計画のこと、何か知ってました?」

「知ってるわけないじゃないっ」純子さんが急に声を荒げ、挑戦的な目を向けてきた。

 その迫力に圧された。ほんとうに知らなかったのだろうか? 反応が怪しかった。

「何かあるなとは薄々感じてたけどね。でも彼女があんなことをしでかしても、邪魔はできなかった。真崎さんの件は、私のせいでもあるしね……」彼女は灰皿の網目に煙草を押しつけた。煙は強いニコチン臭を放ったあと、少したゆたってから消えていった。

 その寂しげな口調に、それ以上は訊けなかった。黒木さんが当時あれだけ真崎さんを目の仇にしたのは、純子さんとの不倫をばらした張本人だと思い込んでいたからだ。ただ日曜の昼間、横浜の東急ハンズの階段で、ふたりとばったり会ってしまった。ただそれだけだったのに。

「あ、當間くん、幹事お疲れさん。こんなことになっちゃったけど、私の会社人生で今日が一番楽しかったわよ」そう言って彼女は、少女のような愛くるしい笑みを見せた。

 いい人といっては語弊があるにせよ、純子さんにはどことなく信頼できる部分があった。会社ではアウトサイダーの位置に属しているが、それ故に物事の本質をいつも客観的に見ているような気がする。ちょっとした管理職でも任せてみたら、もしかしたら大化けするのかもしれない。まあ、それを本人が望むとは、到底思えないが。

「前々から感じてたことなんですけど」と僕は言った。「純子さんはいつ頃からこの会社のこと、分かってたんですか?」

「会社での自分の未来が見えた頃からよ」

 純子さんはすでに悟っていた。いくら頑張っても自分の前に、かぼちゃの馬車が迎えに来ないってことを。「ぬくぬくした人間の家で愛情を注がれ天寿をまっとうする動物もいれば、寒々した納屋のなかで突然命を断たれ、そいつらのエサにされる動物もいるのよ。意味分かる?」

 極端だなとは思いつつも、彼女の言いたいことはなんとなく分かった。けれど、どうすればこのあと自分がうまくやっていけるのか、そこから答えを導き出すことはできなかった。「なんとなく……」

 さっきまで建物で見えなかった白くてまん丸い月が、空に浮かんでいた。バスのなかでのことが、遠い昔の出来事のように思えてきた。


 できるだけ報道陣から離れようとその場をあとにした。途中、記者が追いかけてきていないかと何度も振り返ったが、杞憂でしかなかった。

 トイレ前で白髪の男が数人の記者からマイクを向けられているのが遠目に映った。所長だった。背の高い記者たちに囲まれ応対するその姿を見て、なぜかしら僕は昔テレビで見た、人間に捕まった宇宙人の写真を思い出していた。トレンチコートを着た大男ふたりに両腕をつかまれ、観念したように銀色の肢体をあらわにしたその姿は、子供ながらにとても滑稽なものに見えた。必死に口を動かし続ける所長の姿がその宇宙人と重なり、なんだかうそ臭く、ちっぽけに見えた。「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と、いつかの記者会見で泣き腫らしていたどこかの社長とは大違いだった。僕たちのことを擁護してくれているようには、とてもじゃないが思えなかった。

 前方に国枝や植田など、若い連中が集まっていた。

 あそこなら安心だ。向かっていく途中、僕に気づいた植田が目を逸らしたように見えたが、構わず向かっていった。「お前らもこっちに逃げてきたのか?」

 返事がなかった。国枝も植田もうつむいたまま、なぜか顔をあげようとしなかった。

 どうしたんだ? 何やら雲行きが怪しい雰囲気だった。反応を求め、他のやつにも声をかけたが、皆同じように僕のことを避けた。ふて腐れたように僕を見ようともしない年下の彼らに、収まりきらない憤りを感じた。「なんだよ、お前ら、その態度はっ」先輩の一瞥をくれてやった。

 反応がなかった。

 なめられている――。いっきに高まった感情が、いとも簡単に僕の上限を超えた。「なぁっ」

 気まずそうに皆が顔を見合わせた。国枝が植田に目配せしている。指示された植田が不服そうな顔を僕に向けてきた。「……見てないんですか? あのガイドのサイト……」

「おお、繋がりにくくてなぁ」彼の目尻が少しあがっていたのが気にはなったが、反応があったことにひとまず安堵した僕は、ここは冷静にと穏やかな口調へと戻した。

 植田は大きくため息をつくと、仕方なさそうにスマホを操作しはじめた。その間、残りの後輩たちはぴくりとも動かなかった。その、なぜか僕を疎外しようとする沈黙が、嫌というほど身体に突き刺さってきた。

「繋がりました、どうぞ。……見損ないました」

 え? 一瞬、言われた意味が分からなかった。顔をあげた僕を植田はもはや見ていなかった。意味が分かったあとでも、それが自分に向けられたものだとは思えなかった。代わりに彼のスマホが僕に向かって動画を再生しはじめていた。縦書きの墨字が画面いっぱいに浮かんできた。

【あたりめ 五百円】その横には、【もずく酢 四百円】

 どうやら、どこかの居酒屋のようだ。まわりの笑い声が雑音のようにざわざわと入ってくる。するとそこに、聞き慣れない男の声がはっきりと聞こえてきた。

『所長、あの人、ぜんぜんダメっすよ。やっとく、って言っても、ずっとやってくれないし、期限切っても、全然守ってくれないし』

 声の主が誰だか分からないでいるところに、所長の声がした。

『まあまあ、そう興奮するな。確かに真崎はミスが多すぎる。管理能力もないしな』

『ほんっと、そんなんで上司でいていいの? って感じです。ほんと迷惑してまして。いい大学出ても駄目な人はダメなんですよ。ほんっと、なんとかしてくださいよ、所長』

 ぞわりとして、身体が硬くなった。

『今度の人事異動でオレがなんとかしてやる。だからそれまでは、気の利くお前があいつのことをフォローしてやってくれ。それだけお前には期待してるんだからな』

『約束してくださいよ、所長。お客さんの為にも、あの人は、い・ら・な・い』

 どっと笑いが起き、そこで映像が途切れた。続けて下からテロップが流れはじめる。

【会社近くの居酒屋でこれを録画した父はその翌日、自らの命を絶ちました……】

【一番信頼していた部下に、蔭でここまで言われていたと知った父……】

【その心境はいったい、どんなものだったのでしょうか……】

 時が止まっていた。

「今の声、當間さんですよね?」

 植田の声にがつんと頭をたたかれ、現実に呼び戻された。咎めるような口調。その余韻がずしりと肩に重くのしかかってきた。

 ゆっくりと顔をあげた。植田の後ろで、いくつもの突き刺すような眼が僕のことを見つめていた。僕と僕以外。目の前にあるその境界線が、めきめきと際立っていく。

 できる男、當間。その冠ががたがたと崩れ落ちていく。簡単な積み木みたいだった。

 てめえら、そんな目で見るな!

 口に出してないはずなのに、後輩たちの表情が強ばった。

 そんなはずは……。正視できず、顔を背けた。

 沈黙が続く。

 いたたまれず、歩き出した。妙に身体がふわふわしていて、頭のなかが白みがかっていて、なんだか自分が亡霊になったみたいだった。けれど足はちゃんとあった。

 視線の先に、見覚えある女の姿があった。目を細めた。

 マイクに向かい、美咲が何やら訴えていた。しきりに僕のほうを指差しながら――。


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