逃がした魚
久しぶりに帰った故郷で、少年時代に戻るかのように実家近くの海で釣りをしていた時の話だ。
何度目かのキャスティングで釣竿がしなり、見事大きなシロギスを釣りあげた。一目で20センチを超えているのが分かる位で、もしかしたら30センチを超えてしまうかもしれないシロギスに思わず歓声を上げる。手早く針を外し、水の入ったバケツの中に放り込む。見た事の無い大物に胸が踊り、食べる前に写真を必ず撮ろう。周りに見せびらかそうとウキウキしていたら、バケツの中からシロギスが息を切らしながら話しかけてきたのだ。
「もし、釣り人さん。私の息が途絶える前に一つ質問に答えては頂けませんか? 私の愛したメスが先日釣り上げられてしまったのです。もう会えぬと分かっていながら、酷く彼女が恋しいのです。だから私は、せめて彼女と同じ腹の中に入り、この身を少しでも彼女に近づけ死んでいきたいのです。釣り人さん、どうかこの哀れな魚の為にお答えください。貴方は彼女を釣り上げたお方ですか?」
海水か涙か分からないが、バケツの中で私を見上げるシロギスの瞳が潤んでいるように見えた。私はシロギスに答える。
「私は今日久しぶりにこの場所で釣りに来たんだ。だから、君の彼女を釣ったのは私じゃないよ」
シロギスは水の中で泣き声をあげた。
「ううぅ、シロ子ぉ……同じ腹に入りたいという願いはこの広い海では叶わなかったよ……シロ子ぉ!! 愛してる! たとえ天ぷらになったとしても愛してるからね! うわぁぁぁぁん!!」
泣き叫ぶシロギスをとても可哀想に思った。この子を食べていいのは私ではない。そう思った瞬間、私は彼を海に帰してやることにした。
「大丈夫、君は海にお帰り。どんな形でも、また彼女に会えるといいね」
私の言葉にシロギスはパッと顔をあげた。私はシロギスに微笑みかけるとバケツを手に取り、海に向けてバケツを傾けた瞬間だった。
さっきまでしおらしかったシロギスが大きく身を動かし、勢いよくバケツから飛び出して海へ帰っていってしまった。礼の一言も無く、一瞬だけ見えたが、口元がニヤリとほくそ笑んでいたのだ。
騙された。そう気づいてももう遅く、ただ逃がした魚の大きさに悔しさだけが残ってしまったのだった。