一騎の命乞い
《三月二十日のビデオ通話》
「今晩は。三月二十日、私はパキスタンの部族地域、ラーンディーコタールに再び戻って来ました」
蛍に笑顔を向ける一騎。
「私がパキスタンの部族地域に入ってそろそろ二週間、状況はあまり良くなく、部族地域からの退去を検討しております。ジャーナリストへの規制が急に強くなりました。ここ数日まともな取材が出来ておりません。実は外国人が部族地域に無許可で潜伏していると言う情報があります。そのため北西辺境州の部族は外国人やジャーナリストへの警戒を強めています」
「無許可で潜伏している外国人の目的は何なのでしょうか?」
「今の所は情報は入って来ていません。ジャーナリストの取材活動なのか、諜報員の諜報活動なのか。いずれにせよ、地元の人々と信頼関係がないと得られない情報もありますし、部族の感情を害するような取材に対しては私は反対です。
部族地域退去を決めた今、一介の外国人ジャーナリストに取材を許してくれた部族の方々に対する感謝の気持ちしかございません。状況が許すならば、再びこの地を訪れて取材を続けたいと思っています。ですのでパキスタンが自爆テロや空爆のない、平和な日常を取り戻すように願うばかりでございます。平和を取り戻すために何が必要かと申しますと、逆説的になりますが、この平和ではない状況を皆様に知っていただく事こそ平和への第一歩だと思います。
次は場所をイスラマバードに移し、パキスタンに逃げてきたアフガン難民を取材したいと思います。ただイスラマバードの取材には多少の人員の補給を要するかも知れません。その時はJNP通信に人員派遣を要請致しますが大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。要請には必ず応えます。先にイスラマバードに行って取材を始めて下さい」
一騎は蛍の答えに満足し、
「ありがとうございます。蛍さんお休みなさい。パキスタン北西辺境州、部族地域のラーンディーコタールより、長谷川一騎でした」
一騎は蛍に、そしてこのレポートを見ることになる多くの視聴者に向けて手を大きく振った。ここでビデオ通話は切れた。
「このビデオ通話で長谷川氏は部族民の感情を害する取材に対して異を唱えている。
なお長谷川氏はパキスタン渡航に先立ち、両親から引き継いだカトリックへの信仰を捨て、ムスリムへ改宗している。記者が改宗の理由を尋ねたところ、
『取材対象から信頼を得るため』
と言う返答を得た。かつてここまで取材対象と向き合うジャーナリストはいただろうか。記者は寡聞にして知らない。長谷川氏は長年のカトリック信仰の証である聖母マリアのメダイを外し、パキスタンに渡航した。
《三月二十一日未明のビデオ通話》
画面は酷く暗かった。一騎は囁くような声で、「根津さん聞こえますか?三月二十一日、深夜零時。アフガン国境手前ラーンディーコタールです。状況は非常に良くありません。今夜部族会議が開かれ、地域内のジャーナリストは全員スパイとして粛清すると決定されたそうです。もうすぐ私も拘束されるかも知れません」
階下でガラスの割れる音が聞こえる。一騎は画面の前で強く目を閉じ、
「もう駄目かも知れない」
と絶望の表情を見せて呟いた。
部屋のドアが蹴破られた。二人の重装備の兵士が入って来る。兵士達は既にライフルを構えて一騎に向けていた。一騎は立ち上がって画面に背中を向け、両手を挙げて叫んだ。
「私はただのジャーナリストだ。私の荷物もカメラもフィルムも全てチェックしてくれ。あなた達のスペシャルシークレットは何も撮っていないぞ」
そう一騎は英語で己の潔白を主張する。それでも兵士達は銃を下さなかった。
「ドントショット!ノーノーノー!ナヒーン!ナヒーン!(NO)」
一騎の命乞いは既に絶叫だ。
立て続けに銃声が響いて、次の瞬間には画面から全てが消えた。
「このビデオ通話は留守番電話として録画されていた。長谷川氏が恐怖と絶望の中でビデオ通話をかけて来たと言うのに、記者は愚かにもそれに気づかず応答出来なかったのだ。
長谷川氏の必死の命乞いをご覧になって視聴者の皆さんは無様だと思うだろうか。記者はそうは思わない。この命乞いこそ長谷川氏が最後に伝えたかった事ではなかったのだろうか。
長谷川氏の取材先はいつも危険が付きまとう。放射能汚染地域、紛争地域、法律の通じない部族地域。命が軽んじられる場所だからこそ命の尊さを伝えられるのだ。自分の命が大切なように、相手の命も大切である。人の命には何物にも換え難い価値がある。それが長谷川一騎氏の信条だった。
長谷川氏の死はあまりに早く、残酷だった。記者も同僚達も未だ彼の死を乗り越えられずにいる。
なお長谷川氏の遺体はご遺族を始め、JNP通信代表の剣崎二郎氏、在日ムスリムの皆様のご尽力でムスリム専用の墓地に埋葬することが出来た。
元JNP通信 N.HOTARU/根津蛍」




